忍び寄る軍事貴族と、孤独な胃痛
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
すべての重圧から解放され、静かな工房で一人平和を噛み締めていた藤太。しかし、運命は彼に安息を許しませんでした。
兄の予言通りに現れた「最悪の客」。最強の盾(父)と矛(兄)が不在の中、技術者・藤太の孤独な戦いが始まります!
俺が心の底からの安堵の溜め息をつき、「胃が痛くならないで済む」と独り言をこぼしてから、わずか数刻のことだった。
喧騒が去り、元の静寂を取り戻した工房で、俺は胡座をかき、愛用の鑿の刃先に椿油を薄く引きながら、次なる「第三の型」の積層構造について思いを巡らせていた。
その時である。
母屋の方から、タタタタタッ! という、ただならぬ切羽詰まった足音が聞こえてきた。
「藤太! 藤太や!!」
普段はどんな窮地に立たされても、からりとした明るさを失わないあの母さんが、文字通り血相を変えて工房へ飛び込んできたのだ。
いつもは綺麗に結い上げられている髪が微かにほつれ、その手は細かく震え、着物の裾が土間の埃で汚れるのも全く構わない様子だった。
「どうしたんだ、母さん!? 何かあったのか!?」
俺が弾かれたように立ち上がると、母さんは息を切らしながら、裏返りそうな声で叫んだ。
「表に……表に、とんでもないお貴族様が来てるんだよ! それも、藤原様のお使いなんかじゃない、『平家』を名乗るお武家のお公家様だよ! 私が庭先で洗い物をしてたら、いきなり大勢で入ってきて……『揺れない牛車を作っているのはここか』って!」
――平家。
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身の血がサッと音を立てて逆流し、手から鑿がカランと音を立てて床に落ちた。
朝廷で古くから栄華を極め、血筋と政治力で権力を握る藤原氏とはまた違う。
西国での討伐や海賊平定、そして独自の交易によって、圧倒的な「武力」と「莫大な財力」でのし上がってきた新興の軍事貴族、それが平家だ。
和歌や蹴鞠を嗜む藤原様のような雅な公家とは根本的に異なる。彼らは、常に血の匂いと死線をくぐり抜けてきた、武骨で荒々しい実力行使の権力を纏った恐るべき存在なのだ。
そして何より最悪なのは。
この工房の長であり、精神的支柱である父・源次郎と、口が達者で交渉の要である兄・惣太郎の二人は、今まさに藤原様の屋敷へ献上品の納品に向かっており、完全に不在だということだ。
つまり、今この家で「工房の男衆」として、そのお歴々の前に出られるのは、一介の技術者に過ぎない俺、藤太しかいないのである。
(……嘘だろう。嘘だと言ってくれ)
つい先ほど、「お歴々の前に出て寿命と胃をすり減らす役目は兄上たちに任せる」と高らかに宣言し、一人で喜んでいたばかりではないか。
あの時の平和な安堵感は一瞬にして吹き飛び、俺の胃の腑が、ギリギリと鋭利な錐で内側から激しく揉みくちゃにされるような、先ほど以上の恐ろしい激痛を訴え始めた。
しかし、ここで俺が怖気づいて待たせれば、それだけで「武家の名代を冷遇した」という不敬にあたり、最悪の場合、問答無用で工房ごと焼き討ちにされかねない。相手は、気に食わなければ物理的に首を刎ねる武力の持ち主なのだ。
「……すぐに行きます!」
俺は慌てて床に落ちた道具を拾って投げ置き、作業着にこびりついた木屑や革の粉を必死にバンバンと払い落としながら、震える足に鞭打って母屋の表へと駆け出した。
◆
庭先の白砂の向こうには、数人の屈強な従者を従えた、一人の大柄な男が仁王立ちしていた。
身につけているのは高級な絹の狩衣だが、藤原様のそれとは着こなしが全く違った。
その下からのぞく肩や胸の体躯は、まるで巨大な岩のようにがっしりと隆起しており、衣の優雅さを内側から物理的に押し破りそうなほどの威圧感を放っている。そして何より、その腰には、実戦で何度も血を吸ってきたであろう、反りの深い立派な太刀が佩かれていた。
背後に控える従者たちも、ただの使い走りではない。鋭い眼光で周囲を睥睨し、いつでも腰の刀を抜ける体勢をとっている。
藤原様の放つ「冷たく、真綿で首を絞められるような政治的威圧感」とは全く違う。
一歩間違え、一言でも逆鱗に触れれば、文字通りその場で物理的に命を奪われそうな、むせ返るような武弁の恐ろしい殺気が、白砂の庭全体にビリビリと漂っていた。
俺は、昨晩兄上に幾度も叩き込まれた公家の作法を頭の中で必死にフラッシュバックさせながら、庭の隅の冷たい土の上に直接両膝をつき、額をこすりつけるようにして深く平伏した。
ザッ、ザッ……。
重い足音が近づいてくる。
「……おお、そちがこの工房の者か」
頭上から、地面を揺らすような、腹の底に響く野太い声が降ってきた。
「巷で、妙な噂を聞いてな。左大臣家の藤原の殿が、我が国にはない『まったく揺れぬ不思議な牛車』を手に入れたと。しかも、本日はさらに凄まじいものを、献上品として内裏へ運び込んだというではないか」
男の言葉には、あからさまな不快感と、強烈な対抗心が滲み出ていた。
「……面白くない。実に、面白くない話だ。朝廷の武を担う我が平家が、公家の乗る車よりも劣った箱で大路を揺られているなど、我らが棟梁の威信に関わる。ゆえに、我が平家にも、その『揺れぬ車』とやらを所望したい。……作れるか?」
平家の貴族は、単刀直入に、そして一切の反論を許さない絶対的な凄みをもって、俺の頭上へそう言い放ったのだ。
(……早すぎる!)
俺は土に額を擦りつけたまま、心の中で絶叫した。
兄の惣太郎が昨晩、顔を青ざめさせて懸念していた「他家からの注文と嫉妬」。それが、献上品を納めたその日のうちに、よりにもよって最も荒々しく対応の難しい相手から、父と兄の不在時に舞い込んでしまったのだ。
冷や汗が滝のように背中を伝い、俺が平伏する白砂が、ポタポタと落ちる汗でじわりと黒く滲んでいく。
この武骨で、今にも刀を抜きそうな貴族に対し。
俺はあの昨晩考えたばかりの「第三の型(量産型)」の構想と、母さんが提案した「藤原様を代理店(窓口)にする」という、極めて高度で危険な綱渡りの交渉を、百戦錬磨の商人の兄の助けを一切借りず、技術者の俺ただ一人でこなさなければならないのだ。
もし「藤原様の命令で作れません」と正直に断れば、平家の顔に泥を塗り、その場で叩き斬られるかもしれない。
もし「はい、作ります」と安請け合いしてしまえば、藤原様の逆鱗に触れ、一族全員が処刑される。
胃が内側からちぎれそうなほどの極限の緊張と恐怖の中。
俺は土に額をこすりつけたまま、震える拳を強く握り締め、腹の底に溜まった空気をすべて吐き出し、そして、言葉を紡ぐためにゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「お偉いさんの前に出なくていい」と油断していた藤太に、まさかの平家からのダイレクトアタック!
藤原氏(公家)と平家(武家)という、平安末期のドロドロの権力闘争の真ん中に、車大工の青年が一人で放り込まれてしまいました。
最強の交渉役である兄・惣太郎が不在の中、口下手な技術者の藤太は、自らが考案した「第三の型」と「独占卸売システム」のプレゼンを、この恐ろしい武士相手に成功させることができるのでしょうか!?




