脱獄する少し前のこと
「百八番。看守長がお呼びだ」
「はぁ?」
玄房は振り上げていたツルハシをおろして、訝しんだ顔で看守に振り向いた。
急に? なぜ? 大してヘマしてないってのに?
下手に問い質すべきではない。もう痛いのはコリゴリだ。玄房は「はいよ」とツルハシを壁に立てかけ、先導する看守に続いた。
穴を出て、広い空間の中心まで行く。そこには頼りない梯子が一つだけ設けられ、その梯子は天井の小さな穴まで伸びている。その前まで行くと、看守は顎で梯子を指した。
天井へ続く梯子に、玄房は重い息を吐いて足をかけた。
ぎしり、ぎしり、と梯子は悲痛な悲鳴を上げ、悶えるように左右に揺れる。いっそのこと千切れてくれればいいものを、存外にも丈夫な所為で恐怖を煽られるばかりだ。
サイアク。
穴に入ってから、そう時間はかからなかった。
梯子を上がりきると、小さな四角い空間に出た。
看守長室。執務用の机と椅子、そして書物が並べられた棚が壁にずらりと並べられている。部屋は壁に掛けられた松明で照らされ、左右に設けられた通路は通気口も兼ねているのか、扉は空けられ、壁に突き立つ風車がカラカラと回っている。
部屋には玄房を抜いて四人の看守がいた。看守の背後の閉まった扉に一人。左右の通路に一人ずつ。
そして、目の前の机に看守長が一人。
ひげを蓄えたヘドロのような男──言い過ぎた。どれだけ清潔感が無かろうと、人様の容姿を悪く言うべきではない。
あらためて──ひげを伸ばした糞のような糞は、胡乱な目を玄房へ向けて、言った。
「それ以上、傷を増やすなよ」
……?
玄房といえば、土の床に座り込んで、大きく肩を上下させ、純粋に困惑していた。
「上流である貴方様が、一村民である俺に何用で?」
息も切れ切れに言うと、看守長は忌々し気に目を細めた。
「汚れた罪人風情であっても減らず口は健在か。軽薄さは口だけでなく手足にまで及んでいるようだな。ほれ、あの時は味わえなかったのだろう? 今なら選別としてくれてやってもよい」
看守長はほくそ笑んで、果物の一つを机の上で転がした。玄房は赤い果物に一瞥をくれ、看守長をにらみ、ただ何も答えない。くすくすと看守たちの笑いが聞こえてくる。
「ふふふっ……今日はめでたい日だ。お前にとっても、私にとっても記念すべき日になる」
「どういう意味だ?」
「言っておくが、今からお前が会う御方はとても高貴な御人だ。くれぐれも無礼が無いように」
看守長は背後の看守に連行を命じ、追及する間もなく玄房は奥の部屋に連行された。乱暴に背中を押されて入った部屋は、
「風呂?」
そう。水がパンパンに入った大きな桶が部屋の中央に置かれていた。底の浅い桶は人一人なら余裕をもって入れそうな大きさで、大振りの布が一枚だけ縁にかかっている。
桶以外には部屋の半分ほどを仕切る布の壁と、妙に明るい松明が一つ置いてある。その二つは桶を挟む形で設けられていた。
看守は玄房の背中を押して、「体を洗え」とだけ言った。
「処刑か。恩赦か。どちらにしろ楽しくはなさそうだ」
渋々、腰に巻いていた布をほどいて、身体を洗った。久方ぶりに浴びた水の冷たさに驚き、固まった垢を落としていく快感に、どうしても頬が緩んでしまう。ただ身体を洗うだけの作業に満足感を覚えていた。
これを滑稽と笑う者もいるだろう。玄房自身も同じ気持ちだ。
自分で自分の惨めさに可笑しくなってくる。
そうして、張り付いた垢を落とし終えるや、いつ間にやら持ち込まれていた寝台(車輪が付いたもの)に寝かされ、手足に枷がかけられた。
看守は一通り枷や寝台の雑に点検をして、満足気に頷くと寝台を押して、布の壁を越えた。鉄の枷も結構腐食しているが、貧相な身体の囚人を縛るのには十分だと考えたらしい。ずいぶんとお粗末なものだ。
「ん?」
そこで玄房は人の気配に気づいて、振り返った。
壁の先に、一人の僧侶がたたずんでいた。
年齢は四十前半だろうか。深い青の袈裟に身を包んだ丸刈りの男は、玄房を見るや柔らかく微笑んだ。僧侶は皆同じ笑みを携える。慈悲深く、聡明で、慎ましい笑顔は人を安心させ、彼らの言葉は清廉な重みと共に、迷える人々に確かな道標を与えてくれる。
純潔。正義。
その言葉を体現する気高き者なのだ。
「やあやあ、久しぶりだね。私のことは覚えているかい?」
そう言われて漸く、玄房は僧侶の名を思い出した。
「頼範さん?」
「覚えていてくれたのか! いやあ、そうかそうか!」
頼範はバッと嬉し気に両手を広げて玄房を抱きしめた。
「どうして頼範さんが、ここに?」
隠し切れない期待が声を震わせた。自分の胸が高鳴るのを感じていた。
頼範は玄房が住んでいた漁村の寺を管理していた人で、遊び場としてよく寺の庭を提供してくれた。弟妹共々お世話になった良い住職さんだ。転んで怪我をすれば薬草を貼ってくれたし、遊んでいる最中に雨が降ってきたら、寺の中で昼寝をさせてくれた。
また聖書者らしい笑顔を携え、頼範は縛り付けられた玄房の額に手を置く。
「選ばれたのがキミだと聞いたとき、耳が遠くなったのかと危惧した。いやあ、そうかそうか。うれしいなあ」
その手は玄房の黒髪をかき上げ、そのまま手足の枷に触れた。
「俺は何に選ばれたんですか?」と純粋な疑問をぶつけると、頼範は目を見開いて「聞かされていないのか。怠慢はよくないよ。うん。よくない」と布越しに看守を見た。
ランタンのお陰で人影が布に大きく浮かび上がっている。その影は謝罪と共に深く頭を下げた。
「それはそれとして、君には僕から説明しよう。まずは、きみの肉体に不備が無いか診てみようか」
「はぁ、不備ですか」と玄房は言葉を繰り返した。
不備? 妙な言い方をするな。
玄房の反応を気にも留めず、頼範は乾燥しきった手で診察を始めた。
「ふむふむ。やせてはいるが筋肉は引き締まっている。貧相な食事と過酷な労働の所為なのは明白だね。肌表面の傷は多いが、傷跡が少ないのは模範的な証拠かな。壊死している部分も無いし、病気と思わしき箇所もない……ありゃりゃ、背中の傷は酷いな。これは鞭で打たれたね。痛かったろうに……母親譲りの黒髪は長い上に荒れているが、白髪は無い。茶色の瞳は問題なく見えているようで何より」
つらつらと流れるように診断され、そのほとんどが耳から流れていく。とりあえず
「細身の健康体」であることは理解できた。
「あの」と玄房が唐突に口を開く。
「ん? なにかな?」
「なんで今更、こんな身体の診察なんてするんです? 何か別の、健康な身体が必要な仕事をさせられる、とかですか?」
頼範は否と首を振った。
「いいや、これから先もきみは此処で罪の清算を行ってもらうよ」
ミシっと心のどこかが軋む音がした。
驚きとも悲しみともとれる表情を見て、頼範は申し訳なさそうに玄房の頬に触れる。
「そうかそうか。怖いよね。辛いよね──」
その表情は優し気で、清々しいほどの聖性を掲げていた。
ちくしょう。
なんだよ、ちくしょう。
「でも、きみの魂は汚れただろう」
玄房は頭を持ち上げて叫んだ。
「たった一度だけ、盗みを働いただけじゃないか!」
「一度なものか。罪を清算できずに転生してきた。その結果、きみは罪を犯してしまった。すべてがきみの怠慢が招いた事じゃないか」
玄房は唖然と寝台に後頭部を落とした。
「気を取り直して、説明させてもらうよ」
あっけらかんと頼範は言った。事も無げに玄房の失意を無視して。
「五年に一度、僧侶は罪人の罪を喰らい、僧侶自身の魂で罪を浄化する〝祓魔飲〟を行うんだけれど、実際のところ祓魔飲の内容を知る人は限られる。そりゃあ、僧侶以外に罪人の悪性を見せるわけにもいかないしね」
「意味がわからない。なんなんだよ、あんた」
「僕は只の僧侶さ。きみたち罪人と共に歩み、共に罪を償う清き隣人だよ」
やはり頼範は暖かな笑みを罪人に向けるのだった。
細い指が右目に添えられた。
少しばかりの眩しさに目を細める。
瞬間、火の如き激痛が玄房の思考を焦がした。
「────あああああああああああああああああっ!」
視界が半分消失する。眼球が、眼窩が、瞼が焼ける。
いや、眼球だけは無事だった。頼範の手に血濡れの瞳が握られていた。
彼らの宗教には、罪人の体の一部を僧侶が食すことで、その罪人の罪を軽くできる。実際は〝気の持ちよう〟程度の効果しかないし、そもそも罪なんて形の無いものを背負っているかどうかすら、誰にも分らないのだ。
だが、僧侶ほど敬虔な信徒にとっては、家族の命よりも重い〝理〟である。
頼範は舌で瞳を掬って、飲み込んだ。
「これで、きみのつみはわたしとともにある」
ガシャンガシャンと寝台が大きく弾むほどの激痛で、僧侶の慈悲深い言葉に答える余裕など有る筈もなく、玄房は泣き叫んだ。のたうち回ることもできず、とうとう寝台は横転した。
看守の一人が心配して頼範に声をかけるが、
「問題ない。彼は自らの罪の重みをかみしめているだけだ」
恍惚と頷いていた。
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなぁ!
──ふざけるな!
刹那、鉄を砕く音が轟いた。
「へ?」
頼範は破壊音に気づいた時には、もう血濡れた拳が眼前に迫っていた。
ミシリと顔面の骨が軋み、肉が潰れる音と共に頼範の顔が後ろに吹き飛び、続けざまに放たれた裏拳が頼範の喉仏に炸裂した。「こっ」と奇妙な音が零れ、首の骨を折る感触が手に伝わる。
「はぁ……はぁ……」
玄房は大きく息を切って、赤い泡を吹く屍を見下ろしていた。なぜか痛みは消え、燃えるような熱が脳を満たし、一種の快感さえ覚えている。足元に転がっていた短刀を手に取った。
「僧侶様、やはり何かお手伝いを」
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」
「何を──」
玄房は幕ごと看守に飛びつき、勢い任せに押し倒すや、布越しに短刀を突き立て、息の根が止まるまで突き刺した。看守の奥側に灯りがあり、こちらからなら看守の一挙手一投足が見え、相手からはまるで状況が掴めない状態であったのが幸いした。
後先考える暇など無い。
玄房は部屋の入口に一瞥をくれ、看守の刀を奪って、その扉を蹴破った。
椅子に座った看守長と欠伸をする看守がいた。さっきよりも一人少ないのは、何か別の仕事で部屋を出ているのだろう。
「貴様、どういうつもりだ!」と看守長が騒ぐ間隙に、玄房は肉薄して首を斬りつけた。「おのれぇ!」と憤慨する看守の一太刀を横っ飛びに避けるが、左手の指を数本持ってかれてしまう──その程度で、今の玄房は止められない。
勢いを一瞬で殺し、全身を使った突きを看守の胸に放った。
「がっ!」
それは玄房の悲鳴だった。腐っても訓練を受けた兵士である。看守は左胸を貫かれようとも、片手で刀を振り、玄房の左鎖骨を切り裂いてみせた。
看守は胸の刀を握りしめたまま、壁に手をついてずるずると滑り落ちる。
「はぁ……はぁ、違う……俺は、こんなこと」
バッと刀から手を放して後ずさった。その顔は死人のように青白く冷めている。得体の知れぬ、否、知っていて見て見ぬふりをしている現実から逃げるように、全身が冷ややかに震えていた。
「逃げられるものか……貴様は、その命尽きるまで……骨の髄まで、奴隷なのさ」
看守は苦悶と憤怒に顔を歪め、灼熱の息を伴う罵声を残し、死んだ。
◆
どれだけ、歩いたのだろう。
湿った石煉瓦の通路は暗く、壁に突き立つ松明無しでは歩くのも儘ならない。
細く長く低く、それでいて迷宮紛いの地下通路。地面を蹴る度に足枷が皮に食い込んで、青黒い痣となり、ついには肌を裂いて出血する。
ここまで人の手が入ってない地面など、天然の剣山に等しい。壁にぶつかり、地面でひっかき、つまづいて、傷つく。
そうして幾つもの角を曲がって、一度呼吸を整えようと膝を着いた。その時だった。
光を目にした。
壁の一部から細い光が伸びており、それは反対側の壁を照らしていた。
「ぐっ!」
その光に指を突き入れた。
衝撃で壁の一部がぼろりと削れた。石煉瓦の引っ掛かりに指をかけて引き抜く。少しだけ穴が広がった。ながい、ながい年月で脆くなっているのだろう。
そこから先は無我夢中だった。
最初は指でひっかき、手で掴めるようになってからは殴りつけるように崩していった。
そして、目の前に青空が広がった。
玄房の胸にあった黒い感情は跡形もなく吹き飛び、ただただ世界の広大さに圧倒される。
こんなにも、世界は広かったのかと。
果ての見えない青空に大小様々の島々が浮いていた。緑の島がいくつもいくつも。太陽は真上辺りで輝き、白い雲が島の周りを漂っている。
上も横も果ては見えず──下も先が無い。
くらい、くらい、くらい世界があり、地面のようなものは全く見えないのだ。
『奈落』が遥か下で広がっていた。
落ちたら最後、永遠に落ち続ける──と謂われている。噂の真偽はわかってはいない。戻ってきた者などいないからだ。
玄房は穴から顔を出して、壁の裏側を覗いてみる。上下左右に岩肌があり、壁を伝える程度には凹凸がある。
その瞬間、僧侶の顔が脳裏に過った。
喉を潰された苦悶の表情、首から血を流す看守長の呆け顔、怨恨を残して死んだ看守。
震える手を止めようと指を組んで、砂を混ぜた泥水のような粗い感触に違和感を憶え、両手を見る。
黒ずんだ手が赤黒く染まっていた。パリパリと剥がれる赤黒いそれは、炭から零れる灰のように宙を舞う。
血だ。
あの人たちの、血。
「──っ」
途端に立っていられなくなった。胃の中にナメクジをいっぱいに詰め込まれたかのような、そんな不快感に襲われ、ボタボタと混じり物の無い胃液を吐く。
喉が焼け、指先の感覚が無くなる。
「そこを動くな!」
怒声を浴びて、玄房の強制的に意識が戻る。
見ると、甲冑を着た大柄の看守が、刀の切っ先を玄房へ向けていた。
そのあとも、ぞろぞろと看守たちが姿を現し、じりじりと近づいてくる。
まずい状況だ。
今から壁を伝い始めても逃げ切れるとは思えない。しかし、このまま通路を進んでも行き止まりがあれば終了だ。
「罪人の身でありながら、さらに重い罪を重ねるとはな。どこまでも愚かだ」
玄房は一歩後ずさりながらも、怪訝ににらみつけた。
「おいおい、目ん玉くり抜かれるのを我慢しろってか? 冗談だろ?」
さらに、ゆったりと玄房は踵を引く。その瞬間、男たちは地面を蹴った。
だが、刀が玄房に届くよりも速く、玄房の右足を何かが貫き、焼けるような激痛が右足に走った。玄房は呻きながら壁に寄りかかり、穴から身を乗り出す。その最中に弓を構える男の姿を見た。
ずるりと玄房の体が崩れ落ち、そのまま穴の外に放り出された。
先頭にいた男の手が玄房に伸びるも、あっけなく空を切る。
もう手遅れだ。
冷たい大気を裂いて落ちていく。ぐんぐんと穴から遠のいていく。果てのない奈落へ。
指先から感覚が失せ始める。風に殴られている所為か、致命傷を受けた所為か。自分の体から命の気配が消えていくのを感じる。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
もう少しだったのに。俺は自由に。
目を開けておくのも辛くなってきた。致命的な眠気が意識をかどわかす。駄目だ。駄目だ。駄目だ…………でも、今更抗って何になる。奈落に落ちた以上、助かる道なんて。
そこで、玄房の意識はくらいくらい終わりに包まれてしまった。
『みつけたかわいいわたしのいとしいこ』




