第10話「遠ざかる過去の幻影」
馬の荒い息遣いが、辺境の街の入り口に響き渡った。
数日間の強行軍を経てたどり着いたレオンの姿は、王都を出たときよりもさらに凄惨なものとなっていた。
高級な外套は泥と砂埃にまみれて本来の色を失い、頬には疲労による深い影が落ちている。
背後に続く三人の部下たちも、手綱を握るのがやっとという様子で鞍に身を預けていた。
レオンは血走った目で、街の風景を見渡す。
彼の記憶にある辺境は、貧しく活気のない寂れた場所だった。
しかし、目の前に広がる光景は彼の予想を大きく裏切っている。
街道沿いには荷馬車が規則正しく列を作り、積み込まれた特産品を商人が活発に取引している。
行き交う人々の顔は明るく、荷降ろしを手伝う若い冒険者たちの声が響き渡っていた。
道は平らに均され、不快な泥濘はどこにも見当たらない。
「これが、あの男のいる街だというのか」
レオンは苛立たしげに舌打ちをし、馬から飛び降りた。
繋ぎ柱に手綱を乱暴に縛り付けると、人だかりを強引にかき分けて街の中心へと歩き出す。
目指すのは、この街で唯一のギルドだ。
彼が歩みを進めるたびに、周囲の人々がそのただならぬ雰囲気を察して道を空ける。
風雨にさらされながらも、どこか誇り高く掲げられたギルドの看板が見えてきた。
レオンは立ち止まることなく、その重い木扉を蹴り開けた。
蝶番が悲鳴を上げ、扉が壁に激突して大きな音を立てる。
ギルドの中にいた者たちの視線が、一斉に入り口へと向けられた。
室内に満ちていたのは、澄んだ空気と、ほのかなお茶の香りだった。
床の隅々まで磨き上げられ、壁際には整然と書類の束が並んだ棚が配置されている。
奥の大きな机では、数人の冒険者たちが笑顔で討伐の成果を報告し合っていた。
そして、カウンターの最も奥。
木漏れ日が差し込む特等席に、見慣れた背中があった。
アルドは手元のインク瓶にゆっくりとペン先を沈め、羊皮紙へ向かっているところだった。
扉の音に驚く様子もなく、一つの単語を書き終えてから、静かに顔を上げる。
その視線が、入り口に立つレオンを捉えた。
「アルド。探したぞ」
レオンの声は、長旅の渇きでひどくかすれていた。
彼は泥に汚れたブーツで床を踏み鳴らし、カウンターへと歩み寄る。
ギルド内の空気が一瞬にして凍りつき、冒険者たちが警戒の色を浮かべて武器へ手を伸ばしかけた。
「……レオン。遠路はるばる、どういったご用件でしょうか」
アルドの声には、驚きも、怯えも、怒りすらも含まれていなかった。
ただ、予定外の来客に対応する事務員としての、淡々とした響きだけがある。
その反応が、レオンの神経を逆撫でした。
「用件だと。とぼけるな。お前が仕事を放り出したせいで、王都のクランはめちゃくちゃだ。今すぐ荷物をまとめろ。僕の直属として戻ることを許してやる。これまでの無礼も水に流そう」
レオンはカウンターに両手をつき、身を乗り出して言い放った。
恩着せがましいその言葉に、横で聞いていたセリアが息をのみ、不安げにアルドの横顔を見つめる。
しかし、アルドは手にしたペンを丁寧に布で拭き、木箱の定位置へと戻した。
その動作のあまりの落ち着きぶりに、レオンの額に青筋が浮かぶ。
「お断りします。私はすでに、このギルドと正式な雇用契約を結んでいます」
「ふざけるな。こんな辺境の薄汚い小屋で、小銭を数えるのがお前の望みか。僕の隣にいれば、再び王都の中心で栄華を極めることができるんだぞ」
「栄華、ですか」
アルドは静かに立ち上がり、レオンの目を真っ直ぐに見据えた。
「私にとっての栄華とは、積み上げられた金貨の高さではありません。誰かが安全に働き、温かい食事をとり、明日への希望を持てるように土台を整えること。その静かな循環の中にこそ、私の求めるものがあります」
「御託を並べるな。お前はただの裏方だ。僕という剣がなければ、何の価値もない道具に過ぎない」
レオンが腰の剣の柄に手をかけた瞬間だった。
執務室の奥から、空気を震わせるような重い足音が響いた。
大柄な影が、アルドとレオンの間に滑り込む。
「そこまでにしておけよ、王都の坊ちゃん」
ガイルだった。
彼は背中の大剣を抜くことはせず、ただ腕を組んでレオンを見下ろしている。
しかし、その全身から放たれる歴戦の剣士としての威圧感は、レオンの動きを止めるのに十分だった。
ガイルの背後では、リュカが杖の先端に微かな熱を帯びさせ、静かに詠唱の準備を整えている。
周囲の冒険者たちも、武器に手をかけたまま一歩前に踏み出した。
「なんだ、こいつらは。ただの辺境の雑魚どもが、僕に逆らう気か」
「雑魚かどうか、その自慢の剣を抜いて確かめてみるか。だが、うちの副マスターに指一本でも触れてみろ。生きてこの街を出られると思うなよ」
ガイルの声は低く、そして確かな殺意を含んでいた。
レオンの後ろに控えていた三人の部下たちが、たまらず後ずさりをし、扉の方へ逃げ腰になる。
レオンは歯を食いしばり、目の前のガイルと、その奥で静かに立つアルドを交互に睨みつけた。
かつて自分が無能だと切り捨てた男が、今はこれほどまでに強固な信頼の壁に守られている。
その事実は、レオンの誇りをへし折る決定的な一撃だった。
アルドはガイルの肩にそっと手を置き、彼をなだめるように一歩前へ出た。
「レオン。あなたの組織は、あなたの手で導くべきものです。私にできることは、もう何もありません」
アルドの瞳には、かつての主に対する哀れみすら浮かんでいなかった。
そこにあるのは、過去の亡霊を容赦なく切り捨てるような、氷のように澄んだ拒絶の意志だけだ。
「帰ってください。ここは、私の居場所です」
その言葉は、鋭い刃よりも深くレオンの胸を貫いた。
レオンは震える手を剣の柄から離し、よろめくように数歩後ずさる。
何も言い返すことができず、ただ血の気の引いた顔でアルドを凝視する。
やがて彼は背を向けて立ち去り、逃げるようにギルドの扉を飛び出していった。
三人の部下たちが慌ててその後を追う。
重い木扉が静かに閉ざされ、遠ざかる馬の蹄の音が微かに聞こえてきた。
ギルドの中に、再び穏やかな静寂が戻る。
アルドは小さく息を吐き出し、乱れた襟元を整えると、再び自分の席へと腰を下ろした。
「アルドさん……」
「お騒がせしました、セリアさん。さあ、午後の業務を再開しましょう。今日中に隣街への発送伝票を仕上げなければなりませんから」
アルドが新しい羊皮紙を引き寄せる音を聞き、ガイルは肩をすくめて笑い声を上げた。
窓から差し込む光が、インクの染みた彼の指先を温かく照らしていた。




