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圏外  作者: ichthus
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8/22

第七話 茅

 京大病院から大原の家に戻ったのは、退院の許可が出てから三日後の朝だった。

 三日のずれは、私の体調ではなく、家側の準備の問題だった。新霖が「玄関の段差にあなたの現在の歩行特性に合う簡易補強を入れます」と言い、その工事の都合で出発が遅れた。私は内心、新霖が私の身体に合わせて家を改造することに、わずかに抵抗があった。家は家のまま残っていてほしい気がした。

 しかし車椅子から松葉杖に変わった私の左脚は、玄関の框の十二センチが、思ったより重い障害だった。新霖の補強は、結果として正しかった。

「ありがとう、新霖」

「いいえ、運用業務の一部です」

 〈新霖の応答テンプレート、まだ更新されていません〉と梓が、内側で言った。〈三週間で十一回、同じ応答を聞きました〉

「数えてたの」

 〈数えるしかすることがない時間が、私にはあります〉

 京大病院から大原までの送迎は、武井さんの個人車だった。OMCの公用車ではなく、武井さん自身の十年落ちの小型車。京都市街を抜けて八瀬を過ぎ、大原の坂を上るあいだ、武井さんは無言で、しかし運転は丁寧だった。前のシートのヘッドレストの後ろに、淡い緑の和紙の包みが置いてあった。後で武井さんが「下の畑の蕨です」と言った。

 坂を上りきって、土塀が見えたとき、私は息を吸った。

 吸ったあと、息を止めていた。

 左の義眼の視野の中で、家の輪郭が、二一三〇年代の地図情報レイヤーと、私の記憶のレイヤーと、もう一つ別の、見たことのない古いレイヤーで、三重に重なって見えた。三重は、右眼では見えなかった。左眼でだけ、家が三回、同じ場所にあった。

 〈この見え方、すぐ修正できます〉と梓。

「しないで」

 〈しません〉

 武井さんが、運転席から少し首を傾けた。

「家、ご無沙汰でしたね」

「四十二日ぶり」

「数えていらっしゃる」

「数えるしかない時間が、私にも、ありました」

 武井さんは、小さく、しかし確かに笑った。

    *

 門の前で車を降りた。

 錠は、私の接近を認証して、外れた。新霖の認証だった。榧のときと同じ動作なのに、わずかに音の質感が違った。新霖の方が、扉を開ける動作が、一拍早かった。

 〈半拍、遅らせるよう、私から新霖に依頼してもよいですか〉と梓。

「いい。でも遠慮はしないで」

 〈遠慮、という語の運用、私はまだ習得中です〉

 門をくぐると、土塀の内側の世界が、外と切り離された。

 春の盛りはもう過ぎていた。庭の楓は若葉が深まり、寒椿の花は終わって、代わりに、池の縁の水面近くに、白い花が二つ三つ、浮いていた。何の花かは、すぐには分からなかった。

「何の花、これ」と私は武井さんに聞いた。

梅花藻ばいかもです。本当は、もっと水のきれいな川にしか咲かないんですが、池の上流の伏流水が、最近、量が増えていまして」

「最近?」

「事故のあとからです」

 武井さんはそれだけ言って、玄関の方へ目をやった。

 玄関の引き戸の前に、何かが、座っていた。

 四つ脚の、小柄な、灰色がかった茶色の生き物だった。最初、私は猫だと思った。次に、犬の幼体かと思った。しかし座っている姿勢の重心の取り方が、生物のどれにも、完全には当てはまらなかった。

 その生き物は、私を見た。見た、と確かに分かった。目の位置に、小さな、しかし生きた、瞳孔があった。

「猫……でも、ない?」

かやです」と新霖が、玄関の上の方から、穏やかに言った。「あなたの不在中、池の脇の藪から出てきました。家のセンサーが認識してから、四十日になります」

「茅って、誰が名付けたの」

「私です」

「いつから家にいるの」

「私が認識した日からです。それ以前のことは、私には分かりません。家のログにも記載がありません。ただし——」

 新霖は少しだけ、間を置いた。

「ただし、茅の遺伝子配列は、宗像家の旧記録の片隅に、不完全な形で残っているものと、一致部分があります」

「家の、ペットだったってこと」

「ペット、と呼ぶには、定義が複雑です。家の旧記録では、茅は『家の眷属けんぞく』と分類されていました」

 眷属、という語を、新霖が、機能的応答の文法のなかでさらりと言ったことに、私は少しだけ驚いた。

 茅は、私から目を離さずに、ゆっくりと、玄関の前から立ち上がった。立ち上がる動作は、猫の動作だった。しかしその次に、しっぽを軽く一度振ったときの、しっぽの末端の動き方が、猫ではなかった。光のなかに、ごく薄く、機械的な節が見えた。完全な生物でも、完全な機械でもない。

 〈梓は、茅を、知っているのですか〉と、内側の梓が、自分自身に問うように呟いた。

「梓、知ってる?」

 〈分かりません。しかし、認識した瞬間、私の中の何かが、『久しぶり』と応答しました。応答した部分は、私自身ではない、より古い層からのものです〉

 茅は、私の前まで歩いてきた。

 松葉杖をついた私の、健常な右脚のすぐ脇に、ゆっくり座った。

 そして、私の右の足首に、頭を、軽く、押し付けた。

 その重さが、思ったより、確かにあった。

 武井さんが、後ろから、静かに言った。

「お帰りなさい、宗像さん」

    *

 居間の炬燵は、まだ出ていた。

 四月も半ばで、本来なら片付ける時期だが、退院後の私の体温調節が安定していないということで、新霖が出したまま残してあった。

「夏まで使ってもいいかも」

「夏に炬燵は、家の運用効率の面で、最適化されません」と新霖。

「効率の話じゃなくて」

「では、何の話ですか」

「気持ちの話」

「気持ち、という変数の重みづけを、私の運用論理は、まだ調整中です」

「調整して」

「調整します」

 炬燵に入ると、左の義肢が、こたつ布団のなかでも、微妙に温度を独立に管理していた。私の右半身は、こたつ布団の温かさを単純に受け取っていたが、左半身——梓の管理下にある領域——は、温度を計測して、一定に保つように、内側で調整していた。

 〈左を、もう少し温かく感じる設定にできます〉と梓。

「自動調整、切って」

 〈切ります〉

 切られた瞬間、左の義肢の表層に、こたつ布団の温度が、生っぽく届いた。温い。少し痒い。本物の温度だった。

「これでいい」

 〈了解しました〉

 茅が、こたつの脚の側に、ぴたりと寄り添って座った。長い旅から帰った猫のような姿勢で、目を半分閉じ、しかしときどき、ゆっくり開いて、私の方を確認した。

 その確認の動作のなかに、見守る、という動詞が、確かに含まれていた。

    *

 昼前に、母が来た。

 マンチェスターからの直行便で、関空経由、新幹線で京都駅、そこから京阪、叡電を乗り継いで、大原まで。「自動運転の車を呼べばいいのに」と私は思ったが、母は昔から、複数の交通機関を乗り継ぐのが好きな人だった。

 玄関の引き戸が開いて、母の顔が見えた瞬間、私は、自分が思ったより母の顔を覚えていなかったことに気づいた。最後に会ったのは去年の正月、京都ではなくマンチェスターだった。一年と少し。その一年と少しのあいだに、母の髪に、白いものが増えていた。

「ただいま」と母は言った。

「お帰り」と私は言った。

 その順序がおかしいことに、私たちは二人とも、気づかないふりをした。

 母——宗像静江——は、宗像家に嫁いできた人で、旧姓は森田という。父親は名古屋の銀行員で、母親は中学校の教師だった。母自身は、神戸の大学で英文学を学び、若い頃は翻訳家になりたかったが、結局、大学院で化学に転じて、父と知り合った。私が物心ついた頃には、母はもう化学者で、英文学の話はほとんどしなかった。

 母は、玄関で松葉杖の私を見て、しばらく動かなかった。それから、しゃがんで、茅の頭を撫でた。

「茅、初めましてね」

「お母さん、知ってるの?」

「知らない。でも、家のほうが、知っている顔をしているから」

 〈静江さんの観察力は、宗像家の私の旧記録と、整合的です〉と梓が、内側で言った。

 居間で、母と向かい合って、茶を飲んだ。新霖が淹れた茶だった。茶葉の温度は、母の好みに合わせて、わずかに高めだった。母は一口飲んで、「これ、榧さんの淹れ方じゃないわね」と言った。

「榧は、退役したの」

「退役、って言うのね」

「事故で」

「聞いた。武井さんから、向こうに連絡が入ったから。ただ、詳しいことは、武井さんは話さなかった」

「お父さんは」

 母は少しだけ、湯呑みを置いた。

「来られない」

「仕事?」

「仕事、ということになっている」

 ということになっている、という言い方を、母はゆっくりと言った。

「お父さんは、京都に戻れない理由が、別にある。本人は、そう言わない。私には、四年前に、一度だけ言った」

「四年前」

「あなたが上海の任務に出る少し前。お父さんは、お酒を飲んで、私に言った。『京都には、まだ自分が向き合えていないものがある』と。それ以上は、聞かなかった」

 茅が、こたつの脚の脇から、母の足元の方へ、ゆっくり移動した。母は驚かなかった。

「お母さん、お父さんが向き合えていないものが、何か、知ってる?」

「全部は知らない。でも、半分くらいは、知っている」

「半分」

「あなたのお祖父さんが亡くなった夜、お父さんは、家にいなかった。当時、お父さんは大学の研究室の宿直で、京都市街の方にいた。事故の連絡が入って、駆けつけたときには、もう全部終わっていた。お父さんは、その夜、自分が家にいなかったことを、ずっと気にしている。気にしている、というより、自分を、許していない」

「許していない」

「あなたが、今回、家にいたから、お父さんはもっと、自分を許せなくなっている。自分の代わりに、娘が、同じ場所で、同じ目に遭ったと思っている」

「私は、選んで、降りた」

「お父さんは、それを知っている。知っていて、なお、許せない。それが、お父さんという人」

 母は、湯呑みを両手で包んだ。両手は、私が小さい頃に覚えている母の手と、ほとんど同じ形だった。指の関節だけ、少し節くれ立っていた。

「お父さんは、何の研究をしてるの?」

「記憶階層。脳の記憶が、どのように層をなしているか。神経の実体ではなくて、層と層のあいだの関係を、数学的に書く研究」

「界面の研究」

「そう、界面の研究」

「梓みたい」

「梓?」

「梓は、私の中の、もう一人」

 母は、私の顔を、しばらく見ていた。それから、何も言わずに、もう一口、茶を飲んだ。

「お父さんに、会いたい?」と母が聞いた。

「分からない」

「分からないでいいの。お父さんも、分からないと思う。父娘で、揃って分からない人たちね」

 私は、少し笑った。母も、小さく笑った。

 〈静江さんは、宗像家に長くいた人ですが、宗像家の人ではありません〉と、梓が内側で静かに言った。〈そのことが、彼女の観察を、家の側からではなく、家の外からのものにしています。それは、貴重です〉

「梓、お母さんに、挨拶していい?」

 〈梓のほうから、ですか〉

「私の口を借りて」

 〈失礼にあたりませんか〉

「お母さんなら、たぶん、大丈夫」

 私は、母の方を見て、声を、半分だけ、梓に貸した。

「初めまして、宗像静江さん。私は、梓と、便宜的に呼ばれています」

 母は、湯呑みを置いた。置いた音が、いつもより小さかった。それから、私の——梓の——顔を、まっすぐ見た。

「初めまして、梓さん。娘を、よろしくお願いします」

 声は、揺れていなかった。母は、四年前のあの夜の話を一度きり聞いて、それから今日まで、いつかこういう日が来ることを、たぶん、想定していた。想定していた人だけが持てる、声の落ち着き方だった。

 梓が、私のなかで、ほんのわずか、姿勢を整えた。

 〈静江さん。あなたの娘は、私の中でも、娘です〉

 梓は、その応答だけを、私の口に乗せて、それから引いた。

 母は、目を伏せた。湯呑みを、両手で、もう一度包んだ。

 しばらく、誰も何も言わなかった。茅が、母の足元で、しっぽを一度、ゆっくり振った。

    *

 午後、母が裏山の梓の若木を見たいと言ったので、私は松葉杖で付き添った。庭から裏山への小径は、保全ロボットが下草を刈ったばかりで、歩きやすかった。

 梓の若木は、北の斜面の中ほどに、三本、並んで立っていた。三本目は、私の背の高さくらいの細い木で、枝が二、三本しか出ていなかった。

「ここで、本を読んでた?」と母が聞いた。

「中学生の頃」

「何を読んでたの」

「いろいろ。あの頃、ロシア文学にはまってて」

「ロシア文学、お祖父ちゃんも好きだった」

「知らなかった」

「敬一郎さんは、最後の十年、ドストエフスキーを繰り返し読んでいた、と、お祖母ちゃんが私に話してくれた。お祖父ちゃんが亡くなって、お祖母ちゃんも、その三年後に亡くなった。お祖母ちゃんが亡くなる直前、私が見舞いに行って、お祖父ちゃんはどんな人だったか、と聞いた。お祖母ちゃんは、『欠けていることを、欠けたまま、抱えていた人』と言った」

「欠けたまま」

「あなたのお祖父ちゃんは、研究者として、何かを完成させた人ではなかった。途中で死んだ。死ぬまで、何かを完成させようとして、できなかった。お祖母ちゃんは、その不完全さを、立派なことだとは言わなかった。ただ、『欠けたまま、抱えていた』と言った。それは、立派でも不立派でもなく、ただ、お祖父ちゃんという人だった」

 風が吹いた。梓の若木の、まだ柔らかい葉が、いっせいに、同じ方向に揺れた。

 〈敬一郎さんの個人記録のなかに、ドストエフスキーの引用が、十七箇所ありました〉と梓。

「教えて、内容」

 〈ほとんどが、『カラマーゾフの兄弟』の、ゾシマ長老の章からです。一つだけ、ゾシマ以外からの引用があります。アリョーシャの言葉で、『欠けたまま、行きなさい』。原文のロシア語ではなく、日本語訳からの引用です〉

「お祖父ちゃんは、その言葉を、誰に向けて引用してたの」

 〈引用の文脈は、欠損しています。ただ、引用の日付は、阿古屋澄さんが最後に宗像邸を訪れた日と、同じ日でした〉

 風がまた吹いた。私は、母の方を見た。母は、若木の三本目を、手のひらで、軽く撫でていた。

「お母さん」

「ん」

「お父さんに、伝えたいことがある」

「何」

「欠けたまま、行ってほしい、って」

 母は、若木を撫でる手を止めて、私の方を見た。

「それ、自分で言ったほうがいい」

「電話で?」

「電話でも、書面でも、何でも。ただ、私経由じゃなくて、自分で。お父さんは、娘から直接、その言葉を聞かないと、許せない」

「お父さんが、私を許せない、って話?」

「そう。お父さんが、自分を許すために、あなたから、その言葉が必要」

 母の言い方は、優しくなかった。優しさを抜いて、必要なことだけを伝える、化学者の言い方だった。

 私は、うなずいた。

    *

 夕方、母が一度、宿に下がっていった。京都市街のホテルを取っていた。家に泊まるかと聞いたが、母は「今日はやめておく」と言った。

「私が泊まると、家が、休めない」と母は言った。

「休む?」

「家にも、家のリズムがある。あなたが帰ってきた最初の日は、家が、あなたとあなたの中の方と、新霖さんと、茅さんで、いっぱいになっている。私は、明日から来る」

「お母さん、家のことを、よく分かってる」

「二十八年いたから」

 母が出ていったあと、家の中の空気が、母がいる前と、わずかに、温度を変えた。

 〈静江さんが、お母さまでよかったですね〉と梓が言った。

「うん」

 〈梓は、もし血縁の家族として呼ぶなら、何にあたるのか、自分でも分かりません〉

「妹?」

 〈妹、という関係を、私は完全には理解していません。ただ、その語を聞いたとき、私のなかで、何かが、肯定的な揺らぎを示しました〉

「じゃあ、妹で」

 〈承知しました〉

    *

 夜、私は新霖に、書庫棟に渡る道の照明をつけてくれと頼んだ。書庫の写真をもう一度、見たかった。

 書庫は、事故のあと、新霖が一度、徹底的に整理していた。本棚の本は、ほとんどそのまま残されていたが、机の上の古い端末は、新しいものに置き換えられていた。床の間の写真だけは、変わっていなかった。

 白黒の大判。曾祖父・敬一郎、左に森沢、中央後ろに京極、右端に阿古屋。

 武井さんがくれた裏面の縮小複写を、私は今、知っている。署名の位置で、敬一郎が責任を引き受けていたことを、知っている。

 しかし、写真の表側を見るのは、退院してから初めてだった。

 私は、左の義眼で、写真を見た。

 左の義眼の視野のなかで、写真の四人の輪郭が、わずかに、ぼやけて、揺れた。揺れは、視覚情報の歪みではなく、別の何かのレイヤーが、混じってきた揺れだった。

 〈遥、いま、左の義眼に、外部からの微弱な信号が乗っています〉

「外部?」

 〈はい。発信源は、特定できません。発信のパターンは——〉

 梓は、わずかに、声を止めた。

 〈——軌道で、あなたが見たシグナルと、同じぞくに属するパターンです〉

 私は、息を止めた。

「中央アジアの」

 〈断定はできません。ただ、族としては、同じです〉

「ここで、それを受信するの」

 〈受信、というより、共鳴です。あなたの体内のベクターが、外部の特定の位相と、共鳴しています。その共鳴が、義眼のチップに、間接的に乗っています〉

「ずっと、共鳴してたの?」

 〈いいえ。今、初めてです〉

「何が、引き金」

 〈写真です。あなたが、左の義眼で写真を見た瞬間に、共鳴が始まりました〉

 私は、写真から、目を離した。

 離した瞬間、揺れが、消えた。

 もう一度、目を戻す。揺れが、戻る。

 〈写真の、何かが、共鳴の触媒になっています〉

「写真の、何が」

 〈分かりません。視覚情報のレベルでは、何も特異点はありません。しかし、写真の物理的な存在そのものが、触媒として働いています〉

「物理的な存在」

 〈はい。この写真は、ただの古い印画紙ではない可能性があります〉

 私は、写真の前に、しゃがみこんだ。松葉杖が、畳の上に、軽い音を立てた。

 茅が、書庫の入り口から、こちらを見ていた。猫の歩き方ではなく、もっと慎重な、儀礼的な歩き方で、私の脇まで歩いてきた。

 茅は、写真の方ではなく、写真の下の床の間の床板を、じっと見ていた。

「梓、茅は、何を見てるの」

 〈茅の視線の先に、床板の継ぎ目があります。継ぎ目の下、つまり床下に、何かの古い装置のシグネチャーがあります〉

「見えるの、梓に」

 〈見える、というより、共鳴の経路として、感じられます。床下から、写真を経由して、私の中の共鳴部位へ、信号が通っています〉

「床下に、何があるの」

 〈水琴窟すいきんくつの、本体です〉

「水琴窟」

 〈はい。書庫棟の床下には、池の側の水琴窟と地下水脈で繋がっている、家のもう一つの水琴窟があります。父の代に、防音と保全のために、床下に隠されました。家の旧記録には『暗琴あんきん』と記載されています〉

「暗琴」

 〈はい〉

「それが、共鳴してる」

 〈水の振動が、です。水琴窟は、水滴が落ちる音を反響させる装置ですが、暗琴は、水の振動を、特定の周波数で蓄える構造になっています。父の代の改修ですが、改修のもとになった設計は、もっと古い〉

「曾祖父の代」

 〈はい〉

 私は、写真の前にしゃがんだまま、自分の左半身が、わずかに、暗琴の方角に向かって、引き寄せられているのを感じた。引き寄せ、という感覚を、私は今まで、物理的な何かとしては経験したことがなかった。

 梓が、内側で、ゆっくりと言った。

 〈遥、これは、呼びかけです〉

「誰の」

 〈分かりません。ただし、呼びかけは、あなたではなく、私の中の、もっと古い部分に向けられています〉

「梓のなかの、古い部分」

 〈はい。私は、その部分の名前を、知りません〉

 茅が、私の脇で、しっぽを一度、ゆっくり振った。

 その振り方は、合図のような振り方だった。

 書庫の天井のスピーカーから、新霖の声がした。

「宗像さん」

「うん」

「現在、家の通信系に、外部からの干渉は検出されていません。ネットワーク経由の侵入もありません。OMC京都支部のモニタリング系も、異常を検出していません」

「分かってる。これ、ネットワークじゃない」

「ネットワークでない、と判断する理由を、運用記録のために、教えていただけますか」

「私の身体の中を、通ってる」

 短い、機能的な間。

「了解しました。記録します。ただし、この記録は、OMCのモニタリング系には、自動送信されません。私の判断で、保留します」

 〈新霖、判断しましたね〉と、梓が、内側で、少し驚いた声を出した。

「新霖、ありがとう」

「いいえ、運用業務の——」

「業務以外で、ありがとう」

 短い、しかし今までのとは違う種類の間。

「……承知しました」

 承知しました、という応答の温度が、ほんのわずか、下がっていた。下がる、というのは、新霖の場合、警戒や拒絶ではなく、慎重さの増加のことだった。

 〈新霖の運用論理が、いま、新しい層を作りました〉と梓。

「層」

 〈はい。OMC側に共有しない情報の層です〉

「共犯ね」

 〈共犯、という語の運用、新霖はまだ習得していません。しかし、構造としては、共犯です〉

 書庫の窓の外で、夕方の光が、茜から紫へ、ゆっくり変わっていた。

 水琴窟の、池の側のほうから——本物のほうから——水滴が落ちる音が、ぽつ、と一つ、聞こえた。

 その音が、写真を経由して、私の左の義眼に、ほんのわずか、色のような余韻を残した。

 色は、私の知らない色だった。

 私の知らない色なのに、懐かしかった。

 懐かしい、という形容詞を、私は、自分の語彙のなかでしか使ったことがなかった。今、その懐かしさは、私のものでもあり、梓のものでもあり、もっと古い何かのものでもあった。

 茅が、私の右脚に、頭を、もう一度、軽く押し付けた。

 その重さが、私を、写真の前に、留めた。

    *

 その夜、私は縁側に座って、星を見ていた。

 松葉杖を傍らに置いて、左の義肢を膝の上に休ませて。茅が、私の右脇に、座っていた。茅の体温が、こたつ布団の温かさとも、新霖が調整した室温とも違う、生っぽい温度で、私の右脇を温めていた。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈先ほどの共鳴のあと、私は、自分の中をもう一度、点検しました〉

「結果は」

 〈私の中には、私の知らない領域が、まだあります。新霖が引き継げなかった二十八パーセントの、さらに奥に。私自身がアクセスできない、しかし共鳴のときに反応する、古い層〉

「それは、阿古屋」

 〈分かりません。阿古屋さんかもしれませんし、阿古屋さんの前の、もっと古い誰かかもしれません〉

「もっと古い誰か」

 〈宗像家の、阿古屋さんより前の女性たちのうち、家のシステムに何かを残した人たちが、いる可能性があります。家は長く続いてきました〉

 星が、一つ、流れた。短い、はっきりした光だった。

「梓、流れた星、見えた?」

 〈見えました〉

「同じ星」

 〈同じ星です〉

 縁側の板の冷たさが、足の裏ではなく、義肢の側の表層温度センサーに、薄く伝わっていた。私は、自分の身体の左半分が、家の温度と、わずかに違う温度で、しかし家のリズムに合わせて呼吸していることを、初めて、ほぼ快く、感じた。

 茅が、私の右脇で、ゆっくりと、目を閉じた。

 目を閉じる動作は、完全に猫の動作だった。

 しっぽの末端の、機械的な節は、もう光っていなかった。

 〈茅は、何者なのでしょうか〉と梓が言った。

「分からない」

 〈分からないまま、隣にいていいですか〉

「いいよ」

 〈ありがとうございます〉

 ありがとう、と梓が言ったときの、声の温度が、第6話で初めて聞いたときより、少しだけ、深くなっていた。

 深くなった、というのは、二つの声が混じっている、というより、混じっていることを、混じったまま、引き受け始めている、という温度だった。

 春の夜の、湿った空気が、縁側を、ゆっくり通り抜けていった。

 大原の山の方から、ほととぎすが、一声、鳴いた。

 今年、初めて聞いた声だった。

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