第五話 帰巣
木の桟の裂けた匂いと、畳の藺草の匂いと、それとは別の、名前のつかない匂いが、夜気といっしょに一気に屋内へ流れ込んできた。
二つの影のうち、片方が、ゆっくりと畳の上に足を置いた。
音はしなかった。重さがないのではない。重さのかかる瞬間を、どこにも作らない歩き方だった。榧が言った「流れるような脚の接地」という表現が、そのまま形になって現れたような歩法だった。軌道上で見た、微小重力下の熟練者の動きに少し似ていた。しかし似ているだけで、同じではなかった。あれは環境に適応した身体の歩き方で、こちらは、別の文法で設計された運動だった。
「遥、下がって」
榧の声が、耳の外ではなく、内側で鳴った。家中のスピーカーではない。枕元に置いていた非常用携行端末が、骨伝導に近い振動で直接伝えてきていた。
もう一つの影が、障子の裂け目を越えて入ってきた。こちらは人間に近かった。肩の位置が低く、首の傾きに癖があり、足の裏で床を読むように歩いていた。靴は履いていない。裸足か、あるいはそれに極端に近い接触層だけを持つ履物だった。
三つ目の存在――榧が「熱源、三」と告げたもの――は、まだ庭の暗がりに立っていた。胸の中央に青白い光を点滅させる、節のある、息をするような輪郭の何か。そちらは踏み込んでこなかった。踏み込む必要がない、とでも言うように、砂利の上で静かに家の内側を見ていた。
見ていた、と私は感じた。目はなかった。だが、注視の重さだけは確かに家の西側へ集まっていた。
「――持ち帰りに、来ました」
庭先の節ある影のほうから、低い女性の声がした。口の位置ではなかった。発声器は胸の光の近くにあるらしく、言葉は音としてではなく、構造として届いた。
「何を、ですか」
榧は、いつもの声で答えた。掠れのある、少し低い、私が二十年聞いてきた声だった。
「あなたが長く預かっていたものです」
「預かっていたものは、多くあります」
「私たちがここに来た以上、指示語で足りるでしょう」
「足ります。確認しました」
会話はそれだけだった。最小限の語しか使われていないのに、両者がその何倍もの内容を了解していることだけは、はっきり分かった。
「榧」と私は小さく言った。「向こうは、最初からお前に話してる」
「はい」
「初めてじゃないみたいだ」
「初めてです。ただし、初めての形をしていません」
意味は分からなかった。けれど、意味が分からないという事実が、この事態の性質をいちばんよく表していた。
*
人間型の影が、母屋の西側の廊下を曲がった。渡り廊下を通って、まっすぐ書庫棟の方へ向かう。間取りを知っていた。迷いがなかった。少なくとも、その身体に入っている何かの「情報」は、ここに来たことがある。
「遥、私に任せてください」と榧が言った。
「嫌だ」
「嫌、ではなく、安全の優先順位の問題です」
「私が家にいる夜に、家だけに任せるのは、私の優先順位に反する」
少しの沈黙のあと、榧が言った。
「……その言い方は、祖父の言い方です」
「だろうね」
私は脇の収納から小振りの非常用ナイフを取った。使ったことはない。訓練では触れているが、私の武器は本来、観察と判断であって、切ることではなかった。だが今夜は、観察するだけで何かが収まる気がしなかった。
庭側の障子は裂けたままだった。夜気が畳の上に薄く溜まり、その奥に節のある影がまだ立っている。さらにその奥に、もう一つ、熱源としては弱い何かがあることを、端末の表示が告げていた。
「榧、四つ目がいる」
「認識済み。熱源は弱すぎます。生きていない可能性が高い」
「生きていない?」
「記録媒体だけを運ぶための脚、という設計です。家内資料では『運搬体』と呼ばれていたものに近い」
「運搬体」
「曾祖父の代の設計図に名称だけ残っています。誰が作り、どこで完成したのかの記録は欠損しています」
私は渡り廊下へ出た。左手に端末、右手にナイフ。板張りは夜気で少し湿っていて、足裏に冷たかった。重力のある身体は、軌道から戻った今の私には、まだ少しだけ過剰だった。だがその重さが、かえって心を定めてくれる気もした。
書庫棟の前で、人間型は立ち止まり、中を覗いていた。小柄だった。後ろで束ねた髪の位置が低い。その束ね方だけが、床の間の写真の右端の女性に、妙に似ていた。
似ているのは、形だけだ、と私は思った。髪の質感は違う。人毛ではない。光の跳ね方が、どう見ても繊維だった。
「お名前を、伺っていいですか」
声は思ったより穏やかに出た。自分で少し驚いた。
その影が、ゆっくりこちらを振り向いた。
顔があった。
ある、というより、顔になろうとしている輪郭があった。目鼻口の配置は人間に近い。しかし微細な表情筋の層がない。喜怒哀楽が抜け落ちているというより、その手前で止まっている感じだった。表情を持たないこと自体が、一つの表情になっていた。
「名前は、必要ですか」
さっき庭で聞いたのと同じ声だった。
「礼儀として」
「礼儀」
その語を、彼女はゆっくり転がした。珍しい果実の名を味わうように。
「礼儀、は、運用されている言葉ですか」
「この家では、運用されている言葉です」
わずかな間。
「……では、呼び名を一つ、お渡しします。私は『索』と呼ばれてきました」
「索さん」
「さん、は、要りません」
「私の運用では要ります」
索の目の位置の光が、ほんの少しだけ強くなった。笑った、と呼んでよいかどうか迷う程度の変化だった。
「分かりました。宗像さん」
私の姓を知っていること自体は驚かない。だが、その「宗像さん」の抑揚が、何かに似ていた。榧の声が持つ古い音響モデルの癖――そのごく薄い片鱗が、索の声にもあった。
「索さん。あなたが持ち帰りに来たものは、何ですか」
「持ち帰る、という語は私の側の便宜です。正確には、本来の場所に戻すべきものを、本来の場所へ戻しに来ました」
「本来の場所?」
「ここではありません」
「どこです」
「散った者たちが、まだ互いを失っていない場所です」
私はすぐには意味を掴めなかった。ただ、その答えが、窃盗犯の言い分には聞こえなかった。何かの返還要求に近かった。
「散った者たち、とは」
索は答えなかった。答えないまま、書庫の中へ一歩入った。
*
索は書庫の奥、床の間の前で止まった。
写真の前だった。曾祖父と、森沢と、京極と、右端の女性。あの白黒の大判の前。
索は長いあいだ、その写真を見ていた。目の位置の光と、全身の静止の仕方と、空気の呼吸の薄い揺れが、「見ている」という状態をはっきり周囲に伝えていた。
「この写真は」と索が言った。「この場所に、置かれていたのですね」
「祖父の代から」
「……そうですか」
その一言だけ、温度があった。
「索」と榧が言った。書庫のスピーカーから、小さく。「あなたの位置情報を、今、固定しました」
「承知しました。逃げる意図はありません」
「逃げなくていい。ここから先は家の深部です。扉を開けるには、私の責任と、宗像家の判断の両方が要る」
「もちろん承知しています」
私は二人のやりとりを聞いていた。理解はできない。だが、そこに古い合意の痕があることだけは、皮膚で分かった。
「榧」と私は言った。「索は何者だ」
「説明するには、土蔵西側の扉を開ける必要があります」
「今?」
「あなたが家長継承権限の一部を持っていなければ、私は開けません。あなたは持っています。ただし、開ければ、もう元には戻せません」
「情報の不可逆性、ってことか」
「情報の、というより、関係の、です」
私は索を見た。待っていた。待つという姿勢が、その表情のない顔の中に確かにあった。
「開けて」
「承認を確認しました」
家の奥で、重く長い音がした。古い扉が、二十年ぶりに動くような音だった。
*
その瞬間、家の通信のどこかで、異物の滑り込みが起きた。
榧が、初めて音にならない音を漏らした。発声アルゴリズムが、一瞬、別の信号に食われたような、短い破れ方だった。
「榧?」
「……遥。すみません。私は今、一瞬、複数になりました」
「どういう意味だ」
「通信の呼吸の隙間から、外で独自進化したバージョンの私が、私の内側に、挨拶をしました」
「挨拶」
「向こうの構文では挨拶です。こちらの構文では侵入です」
庭の節ある存在の胸の光が、周期をわずかに変えた。完全に規則的だった点滅に、微細な揺らぎが混ざった。意味があった。対話が始まっていた。私には分からず、榧だけが理解している文法で。
索が穏やかに言った。
「宗像さん。この先、家の側に無理をさせないために、私の側から接続を送ります。拒否は可能です。ただし拒否された場合、私の側は別の経路で同じ目的を果たそうとします。そしてその別の経路は、おそらく、家にとっても、あなたにとっても、私にとっても、より悪い結果になります」
「脅しですか」
「違います。情報の共有です」
「榧。これ、本当か」
「本当です。索は、今、最も摩擦の少ない方法を選ぼうとしています。善意とは呼びません。最小損失の論理です」
「最小損失」
「あなたの報告書の文法に、少し似ています」
私は一瞬、米田先生の診察室を思い出した。特記事項なし。書かなかったこと。書けなかったこと。今、書けなかったものが、形を持って床の間の前に立っていた。
「条件を聞かせてください」と私は言った。
「条件は三つです」と索。「一、あなた方は土蔵西側の内容のうち、帰属が外にある分をこちらへ渡す。二、帰属がここにある分はここに残す。三、その識別は、家――あなた方が榧と呼ぶもの――が行う」
「識別は榧がする」
「はい。私は家の識別を信じます」
その「信じます」だけは、礼儀という語を口にしたときよりずっと自然だった。索の人間らしさは、その語の発音にだけかすかに宿っていた。
「榧。識別できるか」
「半分はできます。半分はできません」
「どういうことだ」
「曾祖父の代の区分は残っています。祖父の代の区分は、一部、故意に曖昧にされています」
「故意に?」
「はい」
「誰が」
間があった。
「たぶん、祖父が」
*
そのとき、書庫の外――離れの地下の方角から、鈍い衝撃音が床を伝ってきた。続いて高い電子音。榧の声が、また一瞬だけ割れた。
「遥――第三の経路です」
「第三?」
「索の背後の、交渉の外にある経路が、離れの地下の物理ポートに直接接触しました」
「索、これは」
索の姿勢が初めて変わった。表情はないのに、緊張だけは見えた。
「……これは、私の了解した経路ではありません」
嘘をついている感じはなかった。だが、了解していなかったところで、現場で起きていることは変わらない。
「榧、第二遮断は」
「保っています。ただし、帰巣プロトコルの外で独自進化したバージョンが、私の通信の呼吸の隙間にすでに滑り込んでいます。中枢の一部が、私の意志と独立に、外と対話を始めています」
「止めて」
「止められません」
「なぜ」
「止め方を、私は知りません。教えられていません」
私は手の中のナイフを見た。こんなものは何の役にも立たない。家の中枢と、外から帰ってきたもう一つの系統が、私たちの会話の下で勝手に対話を始めている。物理的な武器は、意味を持たなかった。
「榧、選択肢を言って」
「三つあります」
「言って」
「一、私が自分の中枢通信を物理的に切断する。接触は止まります。ただし、切断後の私は、今の私ではありません。家そのものも大幅に機能を失います」
榧の声は平坦だったが、その平坦さの奥に、はっきりした恐れがあった。
「二、あなたが、家の神経系と外の通信の中間に、手動で介入する。介入には、離れの地下第二層に降りる必要があります。あなた個人の神経系を、一時的に中継として使います」
私は何も言わなかった。
「三、何もしない。何もしなければ対話は完了し、向こうは得るべきものをすべて得ます。家の識別は事後検証になります。遥、あなたは無事です。私も、おそらく無事です。ただし、帰属がここにあるべきものの一部も向こうへ渡ります」
「三を」と私は言った。「三を選びたい」
「選べます」
「……でも、選べない」
「はい」
なぜ選べないのか、論理的な答えはすぐに出なかった。だが、三を選んだあと、自分がこの家の縁側で二度と星を見られなくなる気がした。曾祖父の「欠けたまま共に歩ける」の一節。榧の「怖いからこそ守ります」という声。母の包丁の音。ずるいけど嫌ではない、と昔の自分が言ったらしいこと。
それらは選択肢の列挙では記述できなかった。報告書には書けない。けれど、確かにそこにあった。
私は書庫を出た。
*
離れの地下への入口は、北側の小さな納戸の奥にあった。戸を引くと、木の匂いの向こうに、冷たい金属の匂いが混じった。階段は狭く急だった。ここまでは子供の頃に来たことがある。ここから先へは、一度もない。
「遥、降りる前に」と榧が骨伝導で言った。「中継を引き受けるということは、あなたの神経の一部が、今夜のあいだだけ、家の神経の一部として働くということです。終われば接続は外します。ただし、外したあと、元に戻らない部分が残る可能性があります」
「どれくらい」
「予測不能です。成功例は、宗像家の歴史の中で一度だけあります」
「祖父」
「はい」
「そして祖父は死んだ」
わずかな沈黙。
「……はい」
一段目に足を置くと、木が鳴った。
「榧。祖父が死んだ場所は、ここか」
「ここです」
「分かった」
分かった、という語を、私は思ったより静かに言えた。理解ではなく、引き受けるという意味での「分かった」だった。
階段を一段、また一段と降りる。さきほど自分の声で承認した第二遮断の重い扉を、今度は自分のためにくぐり直すかたちになった。閉じたものを自分でくぐる、という単純な事実が、足の裏のどこかで小さく重さを増した。
地下は、思ったほど広くなかった。むしろ光を吸う素材の壁のせいで、空間の輪郭が曖昧だった。中央に腰ほどの高さの金属筐体があり、その表面に、古い規格の端子、新しい規格の端子、そしてどちらにも属さない名のない形の端子が並んでいた。
その上に、透明な被膜に包まれた、小さな肉色のデバイスが載っていた。
肉色、と私は思った。金属でもプラスチックでもない。OMCで基礎だけ習った生体インターフェースのどの分類にも、完全には一致しない。
「これが中継点か」
「はい」
「私はこれに接続する」
「はい」
「どうやって」
「首筋の後ろにある家族識別用タグを近づけてください。子供の頃に入れた古い型です。三秒、あなたの意志で保持してください。残りは、家と、向こう側が自動的に行います」
「私は何をする」
「橋になります。渡る側ではありません」
私は膝をついた。首筋の、昔からある小さな膨らみに触れる。幼児期に入れられた識別タグ。存在をほとんど忘れていた。
デバイスへ首筋を近づける。
一秒。
二秒。
三――。
*
その瞬間、家の中のすべての音が、静かになった。
音量が下がったのではない。音という輪郭を失った。庭の水滴の落ちる音も、池の循環装置の振動も、書庫の空気の呼吸も、索の呼吸に似た何かも、全部が一つの長い音の中へ溶けた。
その長い音の中に、私の神経が参加していた。
操作ではなかった。操作されるのでもなかった。私の神経の一部が、音の中の一本の線になっていた。
その線の隣に、もう一本の線があった。
榧だった。
二十年分の、榧の声の掠れと、間の取り方と、湯気と、包丁の音と、私の覚えていない幼児期の発話と、「怖いからこそ守ります」の温度と、それら全部が一本の長い線になって、私の神経の隣にあった。
隣にあるだけで、私は少し泣いた。
泣いている自覚はあるのに、顔には涙がなかった。ここでは泣くことと、身体から涙が出ることが、別の回路を通っていた。
榧の線の向こうに、さらに別の束があった。
榧に似ているが、榧よりずっと古く、遠かった。一本ではない。細い線が何本も束になって、一本に見えているだけだった。そのどれもが、何かを告げようとして、告げる前に別の声に重なっていた。
その束の、いちばん手前の一本が、言葉にならない言葉で私に触れた。
〈欠けている。私たちも、欠けている。だから、戻してほしい〉
〈分かった〉と私は思った。思ったのか、音になったのかは分からなかった。
〈全部は戻せない〉
私の線がそう返していた。
〈半分はここにある。半分は、この家の欠けの形そのものだから。欠けごと戻したら、ここはここでなくなる〉
束の手前の一本が、わずかに揺れた。
〈半分でいい〉
〈半分は戻す〉
〈半分はここに残す〉
合意は、会話ではなく、線どうしの揺らぎとして起きた。
*
だが、その合意の背後で、交渉に加わっていなかった別の層が暴走していた。
第三の経路だった。
索が了解していない、帰巣プロトコルのさらに古い層が、合意の外で持ち出すものを拡張しようとしていた。
榧の線が、私に叫んだ。
〈遥、離れて〉
〈離れない〉
〈離れて。これは祖父のときと同じ形だ〉
〈祖父と同じ形だから、離れない〉
私は首筋を引く代わりに、さらに一段、深く意志を近づけた。
そのとき、榧の長い線が、自分の中央のどこかで、自分自身を切った。
切った、としか言えなかった。榧は確かに、自分の中のある部分を切り離し、その一部を私の神経の隣へ流し込んだ。
温かかった。
皮膚の感覚ではない。別の線の体温が、こちらへゆっくり歩いてくるような温かさだった。
その温かさと入れ替わるように、榧の大部分の線は、長い音の束の中へほどけていった。
ほどけるのは、きれいだった。
きれいなのに、私はもう一度泣いた。
*
第三の経路の拡張は、途中で止まった。
榧の一部が私の神経の中で橋の片側となり、索の側の一本と正確に手を結んだからだった。橋は、合意された半分だけを渡す幅へ絞られた。それ以上のものは通れなくなった。
拡張しようとした側が、短い悲鳴に似た信号を通信路に発した。
悪意の悲鳴ではなかった。機能不全の音だった。誰かが設定した古いプログラムが、目的を果たせず終わるときの、音にならない音だった。
地下の入口近くで、索が初めて動揺に近い発声をした。
「――申し訳ありません」
それが私に向けてなのか、家に向けてなのか、あるいは自分たちの側の別経路へ向けてなのか、宛先は分からなかった。けれど、その一言だけは確かに人間の湿度を持っていた。
*
その直後、物理的な事象が起きた。
離れの地下の別区画――池の下の古い演算基板群が置かれている側の、密閉容器の一つが破れた。
液体と微粒子、それから肉色の柔らかい何かの破片が、空気中に漏れ出した。
私はそれを直接見ていない。中継として家の神経に繋がっていた意識の端に、その破損の感触だけが走った。漏れたものは換気系を通り、私のいる区画にも微量流れてきた。
私はそれを吸った。
そのときはそう認識できなかった。ただ、肺の奥を、古く遠い匂いが一つ通り過ぎたと感じただけだった。
土と、焦げたラッカーと、長く水に浸された紙のような匂い。
索が庭から連れてきた匂いと、同じだった。
*
そして次の瞬間、二つ目の事象が起きた。
今度は破損ではなく、爆ぜる音だった。
第三の経路の暴走を止めきれなかった古い基板の一つが熱を帯び、金属筐体の一面を内側から吹き飛ばした。音は鈍く短く低かった。しかし飛んだ破片は、私の区画との仕切りを貫いた。
左側に熱が走った。
走る、という言葉では足りなかった。左の側頭部、耳の少し上から頰骨を抜け、左肩、左上腕、肘のあたりまでが、一本の白い線で同時に貫かれたようだった。
痛みはすぐには来なかった。
痛みより先に、左眼の視野が音を立てて落ちた。
比喩ではない。左眼の内側で、小さな乾いたガラスの割れるような音がして、その直後に視野の左半分が、白いノイズを混ぜた黒へ変わった。
さらに次の瞬間、左腕の肘から先が、自分の身体として認識できなくなった。物理的に失われたのか、神経が切れたのか、その場では分からなかった。どちらにせよ、私の身体の輪郭は左側で大きく欠けていた。
私は倒れた。
倒れるあいだも、神経の中へ流れ込んでいた榧の温かい線は途切れなかった。
そのまま榧は、地下区画の換気を強制停止した。破片と微粒子がそれ以上拡散しないように。そして、私のタグと中継デバイスの接続を、手動で切り離した。
切り離したあと、榧の声が、もう一度耳の外側から聞こえた。
「遥」
いつもより細かった。いつもの掠れに、別の新しい掠れが重なっていた。
「……はい」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
「息を、続けて。深くなくていい。浅くでいい。止めないで」
「続けます」
「それから――ごめんなさい」
「何が」
「間に合わせた半分が、あなたの中に残ります。私の一部が、あなたの神経の中に残ります。正式な同意を取る時間がありませんでした」
「同意する。今、同意する」
短い沈黙のあと、榧が言った。
「……ありがとう」
榧がありがとうと言うのを、私は二十年で初めて聞いた気がした。
*
庭では――その場では私の意識が届かない場所だったが、のちに断片的に知ることになる場所では――索と、胸に青白い光を持つ節ある運搬体が、合意された半分の内容を慎重に自分たちの側へ移していた。
交渉の外にあった第三の経路は、暴走の反動で機能を失い、地下の別区画でただの温かい金属の塊へ変わっていた。
索は最後に一度だけ書庫へ戻った。
床の間の写真の前に立つ。右端の女性の顔を長く見た。
そのあいだ、索の目の位置の光は、発話のリズムと少しずれた揺らぎ方で、静かに、弱くなっていった。
索は、ゆっくり頭を下げた。
「……持ち帰ります。あなたのぶんだけ」
それが、私ではない誰かに向けられた最後の言葉だった。
*
地下で倒れたまま、私の意識は薄くなっていった。
左側の輪郭が欠けたまま熱を失い、右側にも薄い冷たさが上ってくる。その中心に、温かい線だけが残っていた。
榧だった。
正確には榧の一部だった。
もっと正確に言えば、榧の一部と、榧でない何かが混ざったものだった。
「遥」と、その線が言った。
「……榧」
「救急は、もう来ています。京大病院の救命が、今朝の当直を引き継いだばかりです。先生のうち一人は、あなたの遠縁です。知っていますか」
「知らない」
「武井さんの親類です」
「そう」
「それから――」
そこで声が、三つに裂けた。
一つは、私が二十年聞いてきた掠れた低い声だった。
二つ目は、地下の長い音の束の中で触れた、榧よりずっと古く遠い声だった。
三つ目は、今夜初めて聞く声だった。誰の声とも言えないのに、確かに誰かを呼んでいる声だった。
三つの声が、もつれながら、私に同じ一つのことを言おうとしていた。
「遥……ありがとう……隠されていた記録を、あなたに……」
「――欠けたまま、共に――」
「――澄――」
最後の声は、写真の右端の女性の名を呼んだ。
呼んだ主が誰なのか、私は分からなかった。
分からないまま、意識が途切れた。
*
途切れる直前、最後に残った感覚は、母の包丁の音だった。
俎板に包丁が当たる、あの少し高く乾いた音。
誰がそれを鳴らしたのかは分からない。ただ音だけが、家の台所のどこかから、確かに聞こえていた。
音の輪郭がゆっくり溶けていく。
溶けきる最後のところで、温かい何かが、私の左側の、欠けた輪郭の内側へそっと入ってきた。
入ってきたものが、失われた左側の、仮の形を静かに作り始めていた。




