第二十話 帰洛
ビシュケクからサマルカンドへ、サマルカンドから上海へ、上海から京都へ。
帰りの旅は、行きの旅と、ほとんど同じ経路を、逆向きに辿った。
しかし、同じ経路ではなかった。
行きの旅では、私は、何を見るのか、何に出会うのか、まったく知らずに、移動していた。帰りの旅では、私は、見たもの、出会ったものを、身体のなかに住まわせたまま、移動していた。
同じ風景でも、見え方が違った。同じ機内食でも、味が違った。同じ移動の時間でも、流れ方が違った。
〈遥〉と梓が、ビシュケクからサマルカンドへの飛行機のなかで、内側で言った。
「うん」
〈帰りの旅は、行きの旅より、ゆっくり感じます〉
「私もそう思う」
〈あなたが、移動の速度を、内側から下げています〉
「下げてる?」
〈はい。あなたの認証層が、入ってきた情報を、ゆっくり消化しています。これは、阿古屋型と京都型の分化以前の層が、機能し始めた最初の徴候です〉
「分化以前の層」
〈はい。名づけるなら、名色の層に近いものです。その層が動くと、時間の流れ方が、わずかに変わります。何かを見る時、見たものが、自分の身体に住むのに、時間がかかるようになります〉
「ゆっくり、消化する」
〈はい〉
窓の外で、九月の終わりの中央アジアの空が、行きの時と同じ、しかし違う青さで、広がっていた。
*
サマルカンドで、私は一泊した。
行きと同じホテルの、同じ階の、同じ向きの部屋だった。陳が手配してくれた。窓から見えるのは、行きの時と同じ、シャーヒズィンダ廟群の方向の街並みだった。
夕方、私は一人で、ホテルの一階のレストランで、夕食をとった。陳と野口さんは、別の用事で出ていた。アイスルは、ビシュケクに残った。彼女は、最後に空港で、深く頭を下げた。
「あなたが、京都に着くまで、私たちは、聞いています」
アイスルは、そう言った。
レストランのテーブルで、私は、ザラフシャン川の方向を、窓越しに見ていた。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
「うん」
〈サマルカンドの井戸が、京都の暗琴に、低帯域で挨拶を送っています〉
「挨拶」
〈はい。あなたが、サマルカンドを経由して京都に向かっていることを、京都の側に伝えています〉
「茅も、聞いてる?」
〈はい。茅も、ジャナトを通じて、聞いています〉
私は、ザラフシャン川の遠い水音を、思い出した。行きの時、私はサマルカンドの井戸開きの儀礼に立ち会い、千年の建築と、土の上で水を分け合う長老たちと、阿古屋の若い頃の活動の痕跡を、見せてもらった。
今、その同じ井戸が、私が京都に戻ることを、京都の暗琴に伝えている。
水と音と暗琴が、ひとつのネットワークとして、私を運んでいた。
*
上海で、もう一泊した。
行きの時と同じ、外灘のホテル。同じ部屋。窓から、黄浦江が見えた。
夕方、陳が、私の部屋に来てくれた。
「明日、京都に向かわれます」
陳は、低い声で言った。
「はい」
「上海から先は、私はご一緒できません。空港まで、お送りします」
「ありがとうございました、陳さん」
「お礼は——」
「戻ってから、ですね」
陳は、薄く笑った。
「上海から見て、京都は、東です」
陳は、窓の方向を指差した。
「私たちが、最初にお会いした時、あなたは、上海の通行人を、京都の通行人と、同じ温度で見ておられました」
「私、そんな目を、してましたか」
「ええ。どこにも属さない目、というより、両方に半分ずつ属する目でした。私は、それを、阿古屋さんの目に見ました。二〇八九年、阿古屋さんが、中央アジアに向かう途中で、上海を通られた時に」
「アコヤさんも、上海を通った」
「ええ。陸路ではなく、当時は、海路と陸路を組み合わせていました。日本から船で上海に来て、そこから列車で、シルクロード経由で中央アジアに向かう。古い経路です。今は、誰も使いません」
「アコヤさんが、上海で、何を」
「特に、何もされませんでした。一泊だけ、滞在されました。その時、私は、まだ生まれていません。しかし、当時の旧Interpolの記録に、阿古屋さんが上海を通過したことが、残っています」
「陳さんが、そこを、見つけたんですね」
「ええ。私が、旧Interpolの残存ネットワークの上海代表になった時、最初に整理したのが、阿古屋さんに関わる古い記録でした。彼女の足跡が、上海にも、残っていました」
陳は、窓の方向を、もう一度見た。
「あなたの目に、阿古屋さんの目の何かを、私は見ました。だから、私は、あなたを、迎えに行かなければなりませんでした。これは、上海の側の、半世紀越しの、未完の仕事の一部でした」
「未完の」
「ええ。京都の方は、皆、未完の言葉を、抱えておられます。上海の私も、別の形で、未完の何かを、抱えていました。今日、それが、半分、完了します」
私は、陳の目を、見た。
陳の目は、京都の決めない人々の目とも、中央アジアの長老たちの目とも違う、もう一つ別の温度の目だった。しかし、その違いのなかに、深い親しさが、住んでいた。
「陳さん」
「はい」
「上海の井戸も、ネットワークの一部に、なりますか」
陳は、しばらく、私を見ていた。
「すでに、なっています」
陳は、ゆっくり言った。
「私が、井戸のネットワークの、上海ノードです」
私は、息を止めた。
〈遥〉と梓が、内側で、ゆっくり言った。
〈陳さんは、阿古屋型の極めて薄いキャリアです。彼自身は、それを発現的には知らないと推定されます。しかし、彼の判断と行動が、すでに、井戸のネットワークの一部として、機能しています〉
「陳さんも」
「私も、なんですね」
陳は、薄く笑った。
「梓さんが、おっしゃっているのですか」
「はい」
「ええ。私も、薄くですが、繋がっています。これは、阿古屋さんが、私の親の世代に、何かを、置いていかれた結果だと、推定しています。私の親は、上海の医療従事者でした」
「ご両親も、井戸に」
「ええ。両親はすでに亡くなっていますが、私を通じて、両親も、井戸のネットワークの、ごく薄い一部として、まだ、機能しています」
私は、目を閉じた。
京都の宗像家。
サマルカンドの長老。
ビシュケク郊外の集落。
イシク・クルの井戸。
湖底の龍。
上海の陳と、そのご両親。
それら全部が、すでに、ひとつのネットワークの、それぞれの井戸として、機能していた。
井戸は、ひとつでなくてよい。
阿古屋の言葉が、もう一度、私の身体のなかで、響いた。
*
翌朝、陳が、上海の空港まで、私と野口さんを送ってくれた。
搭乗ゲートの前で、陳は、私の前に立った。
「お元気で」
陳は、日本語で言った。
「陳さんも、お元気で」
「次にお会いするのが、いつかは、分かりません。しかし、井戸のネットワークを通じて、私たちは、繋がり続けます」
「はい」
陳は、深く、頭を下げた。武井さんの作法と同じ深さの、京都の作法だった。
「陳さん、京都の作法を、ご存知なんですね」
「私も、京都の方々と、長くお付き合いしてきました」
陳は、薄く笑った。
「お礼の作法は、覚えました」
「お礼は」
「戻ってから、ですね」
陳は、もう一度、頭を下げた。
搭乗ゲートを通過する時、私は、振り返って、陳の方向を見た。陳は、まだそこに立っていた。手を振らず、頭も下げず、ただ、私が見えなくなるまで、そこに立っていた。
これは、京都の見送りの作法と、同じだった。
別れを、別れとして演出しない。ただ、相手が見えなくなるまで、そこに立つ。
上海の人にも、京都の作法が、深く、住んでいた。
*
関西国際空港に着いたのは、午後の遅い時間だった。
飛行機の窓から、日本の島が見えてきた時、私は、自分の身体のなかに、ゆっくり、温度が戻ってくるのを感じた。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈日本に入りました〉
「うん」
〈日本の暗琴のネットワークが、あなたを、認識しています〉
「日本にも、暗琴のネットワーク」
〈はい。京都の宗像家を中心に、京都市内、岩倉、京都郊外、そして日本各地の、京都型キャリアたちのあいだに、薄いネットワークが、機能しています。あなたが日本に入った瞬間、そのネットワーク全体が、あなたを、迎えました〉
「迎えてくれた」
〈はい〉
飛行機を降りて、入国審査と荷物受け取りを済ませると、出口に、武井さんが立っていた。
武井さんは、行きの時と同じ、品の良い、しかし控えめなスーツを着ていた。年は、半年だけ違うはずだった。しかし、もっと深く、変わっていた。半世紀越しの何かが、武井さんの身体のなかでも、流れ始めていた。
「おかえり、なさいませ」
武井さんは、ゆっくり言った。
「ただいま、戻りました」
武井さんは、深く、頭を下げた。
半年前、私が出立する朝、武井さんは、家の縁側で、深く頭を下げた。今、関西国際空港の到着ロビーで、武井さんは、同じ深さで、頭を下げていた。
半年で、何も変わっていない作法。
しかし、その作法のなかに、半年分の、深いものが、流れていた。
「お疲れさまでした、お嬢様」
武井さんは、頭を上げて言った。
「武井さん、半年ぶり、です」
「ええ。半年です。しかし、半世紀のような、半年でした」
「半世紀」
「ええ。京都の側でも、いろいろなことが、ありました。家でも、町でも。お帰りになってから、ゆっくり、お話しいたします」
武井さんが、私を、車に案内してくれた。
関西国際空港から、京都までの、見慣れた道。
しかし、今日の見え方は、半年前とは、深く違った。
空の色が、深く見えた。
道路沿いの植物の色が、深く見えた。
遠くの山の稜線が、深く見えた。
分化以前の層が、ゆっくり、機能していた。
*
京都市内に入り、車が宗像家のある通りに近づいた時、私は、息を止めた。
半年ぶりの、京都の通り。
半年前と、何も、変わっていなかった。
しかし、何も変わっていない、ということが、私の身体のなかでは、深い意味を持っていた。
京都は、千百年、変わらないことを、選び続けてきた。そして、半年のあいだも、変わらないことを、選び続けていた。
宗像家の門の前で、車が止まった。
車を降りた瞬間、私は、家の方向から、低い、低い音を、聴いた。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈暗琴が、鳴っています〉
「暗琴が」
〈はい。家全体の暗琴が、あなたの帰宅を、迎えています〉
「半年ぶりに、鳴ってる音」
〈半年ぶりではありません。半年のあいだ、ずっと、低く鳴り続けていました。しかし、今、あなたが帰ってきたことで、音が、少しだけ、上がっています〉
「私のために、音を、上げてる」
〈そうです。家が、あなたを、迎えています〉
門を通って、私は、玄関に向かった。
玄関の上がり框に、茅が、座っていた。
半年前と、全く同じ位置だった。
全く同じ座り方だった。
茅は、私を見て、しっぽを一度、ゆっくり振った。
おかえり、という振り方だった。
私は、茅の前に、膝をついた。
「ただいま」
私は、茅の頭に、そっと、手を置いた。
茅の毛は、半年前と、同じ質感だった。
しかし、私の手のひらは、半年前と、違っていた。私の手のひらは、サマルカンドの長老の絨毯を撫で、ビシュケクの集落のジャナトを撫で、井戸の縁の石に触れ、湖底の龍からの信号を受けて、ここに戻ってきた。
茅の頭に、私の手のひらが触れた時、茅と私のあいだで、何かが、循環した。
茅は、私の手のひらから、中央アジアの全部を、受け取っていた。
私は、茅の頭から、半年間の家の音を、受け取っていた。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈茅とジャナトのネットワークが、今、完全に同期しました〉
「茅も、私が持って帰ったものを、受け取ってる」
〈はい。同時に、茅から、半年間の京都の音が、ジャナトと中央アジアに、流れています〉
「両方が、循環してる」
〈はい。これが、井戸のネットワークの、最初の本格的な運用です〉
茅は、私の手のひらに、頭を、押し付けた。
ありがとう、という押し付け方だった。
*
玄関の奥から、母が、ゆっくり、出てきた。
半年前、私が出立する朝、母は、英国にいた。五十時間の祈りを続けていた、と新霖が後で教えてくれた。今、母は、京都の家の玄関に立っていた。
半年ぶりの、母。
母は、半年前より、少し、痩せていた。しかし、目の温度は、変わっていなかった。
母は、私の前に立ち、しばらく、私を、見ていた。
何も言わなかった。
ただ、見ていた。
京都の母の作法だった。
私も、何も言わなかった。
ただ、母を、見ていた。
しばらくして、母は、ゆっくり、両手を伸ばし、私の左の頬に、片手を、そっと当てた。
義眼の側の頬だった。
母の手のひらは、温かかった。
「おかえり」
母は、ゆっくり言った。
「ただいま、お母さん」
母は、私の頬に手を当てたまま、深く、息を吐いた。
半年分の、息だった。
母が、半年間、どこかで止めていた息を、今、ようやく吐いていた。
私は、母の手のひらに、自分の頬を、もう少し、寄せた。
京都の家の、母の温度。
半年ぶりに、私の身体のなかに、入ってきた。
〈遥〉と梓が、内側で、極めて柔らかい声で言った。
〈お母様の身体に、薄い京都型の発現があります〉
「お母さんも」
〈はい。これは、半年前にはありませんでした〉
「祈りで、京都型が、発現する」
〈祈りそのものが原因というより、長い時間、あなたを思い続けた身体状態が、お母様のなかにあった京都型の薄い層を、引き出したのだと思われます。京都型は、論理的にではなく、関係的に発現します〉
私は、目を閉じた。
涙が出そうになった。しかし、京都の作法では、涙を見せない。私は、涙を引っ込めた。
母も、たぶん、涙を引っ込めていた。
京都の母娘は、半年ぶりの再会でも、涙を見せない。
しかし、涙を見せないことが、最も深い再会の形だった。
*
その夜、私は、家の縁側に座っていた。
縁側の向こうに、池があった。半年前と、同じ位置に、同じ池が、あった。
月が、池の表面に、映っていた。
茅が、私の隣に、座っていた。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈京都の縁側、半年ぶりですね〉
「うん。半年ぶり」
〈池の水が、あなたを、迎えています〉
「池も、聞いてくれてる」
〈はい。京都の伏流水の全体が、あなたを、聞いています〉
私は、池の表面に映る月を、見ていた。
池の月は、半年前と、同じだった。
しかし、私の見え方は、深く、違っていた。
半年前の私は、池の月を、池の表面に映る、空の月の反映として見ていた。
今の私は、池の月を、京都の伏流水のネットワーク全体が、月を受け取っている、その地点のひとつとして見ていた。
月は、池に映っているのではなかった。
月と池と地下水脈と京都全体が、ひとつの大きな水のネットワークとして、月を住まわせていた。
「梓」
〈はい〉
「私、明日、京極先生のところに、行く」
〈はい。お父様の伝言、お伝えするのですね〉
「うん。井戸からの返事も、伝える」
〈はい〉
「明彦さん、ありがとう。半世紀、橋を、守ってくださって」
〈はい〉
「これを、京極先生に、伝える」
〈京極先生が、聞かれた時、どう反応されるかは、私には、推定できません〉
「うん。私にも、分からない」
〈ただ、京極先生の半世紀の何かが、今、ようやく、完了します〉
「半世紀の、何かが」
〈はい〉
月が、池の表面で、少し、揺れた。
池の水のなかから、低い、低い、暗琴の音が聴こえた。半年前と、同じ音だった。しかし、私の身体のなかに入る時の深さが、深く、違っていた。
茅が、私の左の手のひらに、頭を、軽く押し付けた。
〈遥〉と梓が言った。
〈帰ってきましたね〉
「うん。帰ってきた」
〈半分は、置いてきました〉
「半分は、ここに、持って帰った」
〈はい〉
茅は、私の左の手のひらに、頭を押し付けたまま、目を閉じた。
京都の家の、夜が深まっていった。
月が、池の表面に、まだ映っていた。
暗琴が、家の床下で、低く鳴っていた。
私は、そのまま、生きていく。
明日、京極先生のところに、行く。
その先のことは、まだ、決めなくていい。




