エピローグ 暗琴
翌朝、京都は、よく晴れていた。
秋の空は高かった。大原の山の稜線は、昨日よりも少しだけ、輪郭が硬く見えた。空気のなかに、夏の湿り気はもう残っていなかった。庭の木々の葉の先が、少しずつ色づき始めていた。
私は、武井さんの車で、京極先生の研究室へ向かった。
茅は、玄関まで見送りに来た。上がり框に座り、しっぽを一度だけ、ゆっくり振った。
行っておいで、という振り方だった。
帰ってくることを、最初から知っている者の振り方だった。
*
京極先生は、研究室で待っていた。
半年前、私が中央アジアに出発する前、京極先生は、私に一つの伝言を託した。
澄ちゃんに、ありがとう、と伝えてください。
その言葉は、京極先生の言葉ではなかった。京極先生のお父様、京極明彦先生の言葉だった。
半世紀、言えなかった言葉。
半世紀、届かなかった言葉。
半世紀、京都のどこかで、低く鳴り続けていた言葉。
私は、その返事を、持って帰ってきた。
研究室の窓から、京都の街が見えた。遠くに比叡山の稜線が見えた。研究室の机の上には、古い紙の資料と、新しい透明端末が、同じように積まれていた。京極先生らしい部屋だった。
「お帰りなさい、宗像さん」
京極先生は、静かに言った。
「ただいま、戻りました」
「中央アジアは、どうでしたか」
「広かったです」
「広かった」
「はい。京都とは、全然違いました。でも、全然違うのに、どこか、同じでした」
京極先生は、少し笑った。
「それは、いい旅でしたね」
「はい」
私は、椅子に座った。
京極先生は、私の前に座った。
少しのあいだ、二人とも、何も言わなかった。
京都では、本当に大切なことを話す前に、少し黙る。
沈黙は、空白ではない。
言葉が置かれる場所を、整えるための時間だった。
「京極先生」
「はい」
「阿古屋澄先生に、お父様の伝言を、お伝えしました」
京極先生の表情は、変わらなかった。
しかし、まぶたの奥だけが、少しだけ動いた。
「そうですか」
「はい」
「父は、何と」
「伝言は、そのままお伝えしました。『澄ちゃんに、ありがとう』と」
京極先生は、目を閉じた。
長い時間ではなかった。
しかし、その一瞬に、半世紀が入っていた。
「阿古屋先生から、お返事を、お預かりしました」
京極先生は、目を開けた。
「聞かせてください」
私は、姿勢を正した。
武井さんに教わった深さで、心の中だけで、頭を下げた。
「明彦さん、ありがとう。半世紀、橋を、守ってくださって」
京極先生は、何も言わなかった。
研究室の外で、遠く、車の音がした。どこかの廊下で、人の話し声がした。窓の外の光が、机の上の透明端末に反射していた。
京極先生は、目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
それは、昨日、母が玄関で吐いた息と、少し似ていた。
長い時間、どこかで止めていた息を、ようやく吐く音だった。
「父は」
京極先生は、ゆっくり言った。
「間に合ったのですね」
「はい」
「澄さんも」
「はい」
「そうですか」
京極先生は、もう一度、目を閉じた。
「半世紀は、長いですね」
「はい」
「しかし、橋というものは、長く待つためにあるのかもしれません」
「長く、待つために」
「ええ。渡る人がいない時間も、橋は橋です。水の上に立ち続ける。それだけで、橋は仕事をしています」
私は、京極先生を見た。
京極先生の目は、父親の言葉を受け取った目ではなかった。
阿古屋澄の返事を受け取った目でもなかった。
橋の上に立っていた人が、ようやく、向こう岸にも人がいたことを知った目だった。
「宗像さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「お礼は」
私は、途中で止めた。
戻ってから。
そう言いそうになった。
しかし、私は、もう戻ってきていた。
ここは、京都だった。
京極先生は、私の言いかけた言葉を受け取って、少しだけ笑った。
「ええ。今、言ってもよい頃でしょう」
「はい」
私は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
*
研究室を出る時、京極先生は、私を廊下まで見送ってくれた。
廊下の窓から、京都の街の一部が見えた。瓦屋根と、電線と、遠くの山と、白い雲。半年前と同じ京都だった。
しかし、私の中では、イシク・クル湖の水が、まだ静かに揺れていた。
「宗像さん」
「はい」
「これから、どうされますか」
私は、少し考えた。
中央アジアで、長老たちは決めなかった。
井戸は、中心を手放した。
阿古屋は、水になった。
京極先生は、半世紀の言葉を受け取った。
私は、まだ、何も決めていなかった。
それでよいのだと思った。
「しばらく、家で過ごします」
「それがよいと思います」
「茅も、待っています」
「茅さんも、いろいろ聞いておられたでしょうから」
「はい」
京極先生は、少しだけ頭を下げた。
「宗像家の暗琴が、どう変わるか、私にも、少しだけ教えてください」
「はい」
「全部ではなくていいです。全部は、きっと、聞けませんから」
「はい。少しだけ、お伝えします」
私は、研究室を出た。
*
その日の夕方、私は宗像家に戻った。
茅は、また玄関の上がり框に座っていた。
何も言わず、私を見た。
帰ってきたな、という顔だった。
私は、靴を脱ぎ、家に上がった。
縁側へ向かった。
池の表面に、夕方の空が映っていた。昨日の月ではなく、今日は夕焼けだった。赤と橙と紫と、まだ残っている青が、池の表面で混ざっていた。
私は、縁側に座った。
茅が、隣に座った。
しばらく、何も起こらなかった。
何も起こらないことが、今は、とても大切だった。
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈京極先生への伝言、完了しました〉
「うん」
〈阿古屋さんと、京極明彦先生の未完の言葉が、今、完了しました〉
「完了したんだね」
〈はい。ただし、終わったのではありません〉
「流れが、変わっただけ」
〈はい〉
私は、池を見た。
池の水面は、静かだった。
しかし、その静けさの下で、伏流水は流れていた。京都の下を通り、石を撫で、根を湿らせ、暗琴を鳴らし、家を支え、目に見えないまま、町の下を流れていた。
〈遥〉
「うん」
〈京都の井戸が、応答しました〉
「井戸が」
〈はい。宗像家の暗琴が、井戸のネットワークに、正式に接続されました〉
「これで、京都も」
〈はい。京都も、井戸のひとつです〉
その時、床下から、低い音が鳴った。
半年前に初めて聞いた時の音と、同じだった。
しかし、完全には同じではなかった。
その音には、ほんの少しだけ、遠い湖の深さが混じっていた。
ほんの少しだけ、サマルカンドの灌漑の乾いた土の匂いが混じっていた。
ほんの少しだけ、天山の雪解け水の冷たさが混じっていた。
ほんの少しだけ、イシク・クルの塩が混じっていた。
茅が、私の左の手のひらに、頭を押し付けた。
ありがとう、ではなかった。
おかえり、でもなかった。
もう始まっている、という押し付け方だった。
私は、左の手のひらで、茅の頭を撫でた。
義肢の指先に、茅の毛の感触が伝わった。
義眼の奥に、夕方の光が入った。
義耳の奥に、暗琴の低い音が入った。
胸の奥に、まだ名前のない層が、ゆっくり開いた。
私は、欠けていた。
欠けたまま、ここにいた。
半分は、中央アジアに置いてきた。
半分は、京都に持ち帰った。
しかし、半分ずつであることは、失われていることではなかった。
半分ずつであるから、流れることができた。
池の表面で、夕方の空が、少し揺れた。
圏外は、遠くにある場所ではなかった。
私の左側で、静かに、水の音を立てていた。
その夜、京都の暗琴は、少しだけ、塩を含んだ音で鳴った。




