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圏外  作者: ichthus
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22/22

エピローグ 暗琴

 翌朝、京都は、よく晴れていた。


 秋の空は高かった。大原の山の稜線は、昨日よりも少しだけ、輪郭が硬く見えた。空気のなかに、夏の湿り気はもう残っていなかった。庭の木々の葉の先が、少しずつ色づき始めていた。


 私は、武井さんの車で、京極先生の研究室へ向かった。


 茅は、玄関まで見送りに来た。上がり框に座り、しっぽを一度だけ、ゆっくり振った。


 行っておいで、という振り方だった。


 帰ってくることを、最初から知っている者の振り方だった。


    *


 京極先生は、研究室で待っていた。


 半年前、私が中央アジアに出発する前、京極先生は、私に一つの伝言を託した。


 澄ちゃんに、ありがとう、と伝えてください。


 その言葉は、京極先生の言葉ではなかった。京極先生のお父様、京極明彦先生の言葉だった。


 半世紀、言えなかった言葉。

 半世紀、届かなかった言葉。

 半世紀、京都のどこかで、低く鳴り続けていた言葉。


 私は、その返事を、持って帰ってきた。


 研究室の窓から、京都の街が見えた。遠くに比叡山の稜線が見えた。研究室の机の上には、古い紙の資料と、新しい透明端末が、同じように積まれていた。京極先生らしい部屋だった。


「お帰りなさい、宗像さん」


 京極先生は、静かに言った。


「ただいま、戻りました」


「中央アジアは、どうでしたか」


「広かったです」


「広かった」


「はい。京都とは、全然違いました。でも、全然違うのに、どこか、同じでした」


 京極先生は、少し笑った。


「それは、いい旅でしたね」


「はい」


 私は、椅子に座った。


 京極先生は、私の前に座った。


 少しのあいだ、二人とも、何も言わなかった。


 京都では、本当に大切なことを話す前に、少し黙る。


 沈黙は、空白ではない。

 言葉が置かれる場所を、整えるための時間だった。


「京極先生」


「はい」


「阿古屋澄先生に、お父様の伝言を、お伝えしました」


 京極先生の表情は、変わらなかった。


 しかし、まぶたの奥だけが、少しだけ動いた。


「そうですか」


「はい」


「父は、何と」


「伝言は、そのままお伝えしました。『澄ちゃんに、ありがとう』と」


 京極先生は、目を閉じた。


 長い時間ではなかった。

 しかし、その一瞬に、半世紀が入っていた。


「阿古屋先生から、お返事を、お預かりしました」


 京極先生は、目を開けた。


「聞かせてください」


 私は、姿勢を正した。


 武井さんに教わった深さで、心の中だけで、頭を下げた。


「明彦さん、ありがとう。半世紀、橋を、守ってくださって」


 京極先生は、何も言わなかった。


 研究室の外で、遠く、車の音がした。どこかの廊下で、人の話し声がした。窓の外の光が、机の上の透明端末に反射していた。


 京極先生は、目を閉じたまま、静かに息を吐いた。


 それは、昨日、母が玄関で吐いた息と、少し似ていた。


 長い時間、どこかで止めていた息を、ようやく吐く音だった。


「父は」


 京極先生は、ゆっくり言った。


「間に合ったのですね」


「はい」


「澄さんも」


「はい」


「そうですか」


 京極先生は、もう一度、目を閉じた。


「半世紀は、長いですね」


「はい」


「しかし、橋というものは、長く待つためにあるのかもしれません」


「長く、待つために」


「ええ。渡る人がいない時間も、橋は橋です。水の上に立ち続ける。それだけで、橋は仕事をしています」


 私は、京極先生を見た。


 京極先生の目は、父親の言葉を受け取った目ではなかった。

 阿古屋澄の返事を受け取った目でもなかった。


 橋の上に立っていた人が、ようやく、向こう岸にも人がいたことを知った目だった。


「宗像さん」


「はい」


「ありがとうございました」


「お礼は」


 私は、途中で止めた。


 戻ってから。


 そう言いそうになった。


 しかし、私は、もう戻ってきていた。


 ここは、京都だった。


 京極先生は、私の言いかけた言葉を受け取って、少しだけ笑った。


「ええ。今、言ってもよい頃でしょう」


「はい」


 私は、深く頭を下げた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


    *


 研究室を出る時、京極先生は、私を廊下まで見送ってくれた。


 廊下の窓から、京都の街の一部が見えた。瓦屋根と、電線と、遠くの山と、白い雲。半年前と同じ京都だった。


 しかし、私の中では、イシク・クル湖の水が、まだ静かに揺れていた。


「宗像さん」


「はい」


「これから、どうされますか」


 私は、少し考えた。


 中央アジアで、長老たちは決めなかった。

 井戸は、中心を手放した。

 阿古屋は、水になった。

 京極先生は、半世紀の言葉を受け取った。


 私は、まだ、何も決めていなかった。


 それでよいのだと思った。


「しばらく、家で過ごします」


「それがよいと思います」


「茅も、待っています」


「茅さんも、いろいろ聞いておられたでしょうから」


「はい」


 京極先生は、少しだけ頭を下げた。


「宗像家の暗琴が、どう変わるか、私にも、少しだけ教えてください」


「はい」


「全部ではなくていいです。全部は、きっと、聞けませんから」


「はい。少しだけ、お伝えします」


 私は、研究室を出た。


    *


 その日の夕方、私は宗像家に戻った。


 茅は、また玄関の上がり框に座っていた。


 何も言わず、私を見た。


 帰ってきたな、という顔だった。


 私は、靴を脱ぎ、家に上がった。


 縁側へ向かった。


 池の表面に、夕方の空が映っていた。昨日の月ではなく、今日は夕焼けだった。赤と橙と紫と、まだ残っている青が、池の表面で混ざっていた。


 私は、縁側に座った。


 茅が、隣に座った。


 しばらく、何も起こらなかった。


 何も起こらないことが、今は、とても大切だった。


 〈遥〉と梓が、内側で言った。


 〈京極先生への伝言、完了しました〉


「うん」


 〈阿古屋さんと、京極明彦先生の未完の言葉が、今、完了しました〉


「完了したんだね」


 〈はい。ただし、終わったのではありません〉


「流れが、変わっただけ」


 〈はい〉


 私は、池を見た。


 池の水面は、静かだった。


 しかし、その静けさの下で、伏流水は流れていた。京都の下を通り、石を撫で、根を湿らせ、暗琴を鳴らし、家を支え、目に見えないまま、町の下を流れていた。


 〈遥〉


「うん」


 〈京都の井戸が、応答しました〉


「井戸が」


 〈はい。宗像家の暗琴が、井戸のネットワークに、正式に接続されました〉


「これで、京都も」


 〈はい。京都も、井戸のひとつです〉


 その時、床下から、低い音が鳴った。


 半年前に初めて聞いた時の音と、同じだった。


 しかし、完全には同じではなかった。


 その音には、ほんの少しだけ、遠い湖の深さが混じっていた。

 ほんの少しだけ、サマルカンドの灌漑の乾いた土の匂いが混じっていた。

 ほんの少しだけ、天山の雪解け水の冷たさが混じっていた。

 ほんの少しだけ、イシク・クルの塩が混じっていた。


 茅が、私の左の手のひらに、頭を押し付けた。


 ありがとう、ではなかった。

 おかえり、でもなかった。


 もう始まっている、という押し付け方だった。


 私は、左の手のひらで、茅の頭を撫でた。


 義肢の指先に、茅の毛の感触が伝わった。

 義眼の奥に、夕方の光が入った。

 義耳の奥に、暗琴の低い音が入った。

 胸の奥に、まだ名前のない層が、ゆっくり開いた。


 私は、欠けていた。


 欠けたまま、ここにいた。


 半分は、中央アジアに置いてきた。

 半分は、京都に持ち帰った。


 しかし、半分ずつであることは、失われていることではなかった。


 半分ずつであるから、流れることができた。


 池の表面で、夕方の空が、少し揺れた。


 圏外は、遠くにある場所ではなかった。


 私の左側で、静かに、水の音を立てていた。


 その夜、京都の暗琴は、少しだけ、塩を含んだ音で鳴った。

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