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圏外  作者: ichthus
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第十九話 龍

 井戸の合議は、午後まで続いた。


 誰かが大きな声を出すことはなかった。誰かが決定権を持っているようにも見えなかった。長老が話し、野間さんが補い、アイスルが現地語と日本語のあいだをつなぎ、陳が必要なところだけ旧インターポール系の情報を差し出した。


 市の商人たちの穏健派代表は、ほとんど黙っていた。


 けれど、黙っていること自体が、そこにいる理由の一部のようだった。


 井戸端会議、という言葉を、私は思い出していた。


 京都でも、井戸端は水を汲む場所であり、人が集まる場所だった。中央アジアでも、オアシスの井戸の周りには、市が立ち、バザールが生まれ、旅人が泊まり、情報が交換された。


 井戸と市は、もともと敵ではない。


 水があるから、人が集まる。


 人が集まるから、物が動く。


 物が動くから、市が立つ。


 市があるから、旅が続く。


 ただし、市が井戸を所有しようとした時、土地は乾く。


 その言葉が、まだ言われる前から、この場の空気の中に、すでにあった。


    *


 井戸の声は、再び、私の口を通じて響いた。


「市の商人たちとの関係は、これから変わります」


 私の口から出る声は、私の声だった。しかし、奥に、阿古屋さんの声の層が重なっていた。私の喉を通るたびに、井戸の水が、私の身体の中を通っているような感覚があった。


「市は、井戸のまわりに立ちます。これは千年、繰り返されてきた自然な現象です。市が井戸を否定することはできません。井戸も、市を否定する必要はありません。両者は、ともに土地のなかにあります」


 市の商人たちの代表の若い男が、静かに目を伏せた。


「しかし、市が井戸を所有しようとした時、土地は乾きます」


 その言葉は、場全体に、静かに広がった。


「水は、価格を持つことがあります。しかし、価格だけで扱われる水は、やがて水ではなくなります。水利権は、必要です。しかし、水利権だけで守られる水は、やがて人を守れなくなります。市の商人たちのなかの、井戸を所有しようとする派閥に対して、私たちは抵抗しなければなりません。武力で、ではなく、合議で。所有という言葉ではなく、共同の管理という言葉で」


 サマルカンドの長老が頷いた。


 高地集落の長老も頷いた。


 市の商人たちの代表は、顔を上げた。


「共同の管理に、市は参加できますか」


 彼の声は、意外なほど若かった。


「参加できます」と、井戸の声は言った。「ただし、所有者としてではなく、利用者として。商人としてではなく、井戸の周りに立つ者として」


「市は、利益を必要とします」


「井戸は、それを否定しません」


「利益がなければ、流通は止まります」


「井戸は、それも知っています」


「では、何を禁じるのですか」


「井戸を、商品にすることです」


 若い男は、しばらく黙った。


「商品にしない水で、どうやって都市を維持するのですか」


「都市は、水で維持されます。水は、都市の所有物ではありません」


 井戸の声は、静かだった。


「市は、井戸のまわりに立ちます。井戸の上に立ってはいけません」


 その言葉のあと、誰もすぐには話さなかった。


 若い男は、井戸の水面を見ていた。


 やがて、彼は、深く頭を下げた。


「持ち帰ります。市の中にも、井戸の言葉を聞きたい者はいます」


「それで十分です」と、井戸は言った。「今日、すべてを決める必要はありません」


 決めない。


 その言葉は出なかった。


 けれど、場全体が、その言葉を知っていた。


    *


 次に、野間さんが口を開いた。


「宗像さんに、お渡しするものがあります」


「私に」


「はい。井戸からです」


 井戸の水面が、少しだけ深い色に変わった。


 〈遥〉と梓が、内側で言った。


 〈これから渡されるものは、京都型と阿古屋型の分化以前の層です〉


「分化以前の」


 〈はい。感覚になる前の層です。名前になる前の形。形になる前の名前。視覚、聴覚、触覚、意識に分かれる前の、もっと古い認証層です〉


「それを、私に入れる」


 〈はい。ただし、これは能力の追加ではありません。むしろ、責任の追加です〉


「責任」


 〈分かれてしまったものが、まだ分かれる前にどうつながっていたかを、感じ取るための層です〉


 井戸の声が、私の口を使わずに、直接、私の内側に届いた。


 言葉ではなかった。


 けれど、意味は分かった。


 あなたの身体は、すでに京都型と阿古屋型のあいだにあります。


 そこに、両者が分かれる前の層を加えます。


 それは、何かを支配するためではありません。


 何かを決めるためでもありません。


 分かれる前の場所に、しばらく立てるようにするためです。


「私が、そこに立って、何をすればいいんですか」


 私は、小さく聞いた。


 井戸の水面が、わずかに揺れた。


 何もしなくてよい。


 ただ、すぐに決めないこと。


 それだけでよい。


 私は、目を閉じた。


 その瞬間、身体の奥に、冷たくも温かくもないものが入ってきた。液体ではなかった。光でもなかった。音でもなかった。けれど、それは、音になる前の震え、光になる前の明るさ、触覚になる前の圧力のようなものだった。


 義眼の奥、義耳の奥、義肢の接続部、胸の奥、腹の奥。


 それぞれが、一瞬、まだ別々の感覚に分かれていない、ひとつの場として繋がった。


 古池に蛙が飛び込む前の静けさ。


 水の音が、水の音として聞こえる少し前の、世界の身じろぎ。


 私は、それを感じた。


 〈遥〉と梓が言った。


 〈移植が完了しました〉


「私、変わった?」


 〈はい。しかし、外側からはほとんど見えません。変わったのは、認証層のさらに下です。感覚が感覚として分化する前の、薄い場です〉


「名前は」


 〈名前は、まだありません〉


「名づけない方がいい?」


 〈今は、その方がよいです〉


 私は、目を開けた。


 井戸の水は、さっきと同じように暗かった。


 しかし、さっきより少しだけ、深く見えた。


    *


 合議の最後に、井戸は、もう一度、声を出した。


 今度は、私の口を通さなかった。


 その場にいた全員が、それぞれの言語で、あるいは言語でない仕方で、同じ内容を受け取っていた。


 私は、それを、あとから日本語に直した。


 私が中心である必要は、もうありません。


 井戸は、ひとつでなくてよいのです。


 京都にも、サマルカンドにも、天山にも、湖底にも、集落にも、人の身体にも、聞き手たちにも、すでに小さな井戸があります。


 私は、そこへ流れます。


 私を守ろうとしすぎないでください。


 私を失ったと思いすぎないでください。


 水は、形を変えて、流れます。


 井戸は、水を所有しません。


 水も、井戸に所有されません。


 しばらく、誰も動かなかった。


 それから、サマルカンドの長老が立ち上がり、井戸に向かって頭を下げた。


 高地集落の長老も、それに続いた。


 野間さんが頭を下げた。


 アイスルが頭を下げた。


 陳が、ゆっくり頭を下げた。


 市の商人たちの若い代表も、少し遅れて、頭を下げた。


 聞き手たちは、目を閉じた。


 湖底の代表らしい湿った銀色の生体機械は、薄い膜を震わせた。


 井戸の水面に、光が降りていた。


 その光は、午前の光ではなくなっていた。午後の光でもなかった。井戸の底から、どこか別の井戸へ向かって、光が流れているようだった。


    *


 建物の外に出た時、午後の光が湖に降りていた。


 湖の表面は、午前よりも少し濃い青になっていた。遠くの斜面の紅葉は、光を受けて、赤ではなく、銅のような色に見えた。湖の浅い場所では、水底の石が、まだ見えた。さらに遠く、沈んだ街の方角には、湖面の下に、まっすぐな線の影がうっすら残っていた。


「あれが、水没都市ですか」


 私は聞いた。


 野間さんが、私の横に立った。


「一部です。自然の岩も混じっています。水中考古学の調査で確認された場所は、もう少し北西寄りです。でも、この湖では、どこまでが自然で、どこからが人の記憶なのか、時々分からなくなります」


「地震で沈んだんですよね」


「そう伝えられています。この土地は、動いている大地です。日本のように海のプレートが沈み込む地震国ではありません。けれど、天山の山々は、今も押し上げられています。内陸の地震国です」


「日本と、違う地震国」


「ええ。日本は海から揺れます。ここは、大陸の骨が、内側からきしむように揺れます」


 私は、湖を見た。


 京都の地震の記憶。日本の海の地震。天山の内陸の地震。沈む街。残る湖。龍の伝説。


 違うものが、同じところで響いていた。


「龍は、どこにいるんですか」


 私が聞くと、野間さんは少し笑った。


「もう、近くに来ています」


 湖の表面下に、何か大きなものが、ゆっくり動いた。


 最初は、湖面の影かと思った。けれど、それは、影ではなかった。


 透明度の高い湖の水の下を、長い身体を持つものが、ゆっくり移動していた。


 魚ではない。船でもない。金属だけの機械でもない。


 長く、しなやかな胴体。節のように連なる複数の関節。ところどころに、生体膜のような柔らかい翼。頭部にあたる部分には、複数の小さなレンズが、静かに光っていた。


 その瞬間、私の左の義眼の奥に、ごく微弱な信号が届いた。


 それは言葉ではなかった。


 でも、意味は分かった。


 龍だった。


「あれは、正式には何ですか」


「阿古屋型湖底環境保全ユニットです」と野間さんは言った。「湖底の水質、藻類、沈んだ遺跡、旧施設、魚類、微生物群集を管理しています。塩分濃度と腐食環境が特殊なので、金属だけでは持ちません。生体素材と、セラミックと、有機膜を組み合わせています」


「正式名称、長いですね」


「ええ。だから、誰も呼びません。子どもたちは、龍と呼びます。私たちも、龍と呼んでいます」


 湖の下の龍は、ゆっくり身体を曲げた。


 その動きは、京都の池の鯉に少し似ていた。スケールはまったく違う。けれど、水に逆らわず、必要以上の力を使わず、流れの中を通る動きは、どこか通じていた。


 〈遥〉と梓が言った。


 〈龍から、あなたへの挨拶のような信号が出ています〉


「龍も、私を知ってる」


 〈はい。井戸のネットワーク全体が、あなたを知っています〉


 龍は、湖の浅い方へ近づいてきた。


 水面の下で、長い身体が、午後の光を受けて、金色に見えた。湖の底の石と、沈んだ都市の影と、龍の身体が、しばらく同じ水の層の中に重なっていた。


「井戸は、聴くための場所です」と野間さんが言った。「龍は、動かすための身体です」


「動かすための」


「ええ。水を動かす。毒を薄める。藻を整える。沈んだ遺跡を壊さずに、周囲の堆積物を移す。湖底の旧施設が壊れすぎないように支える。井戸だけでは、聴くことしかできません。龍だけでは、動くことしかできません。阿古屋さんは、両方を必要としました」


「聴く井戸と、動く龍」


「ええ。そして、どちらも、所有するものではありません」


 龍は、ゆっくり向きを変えた。


 私の義眼の奥に、ごく微弱な信号が届いた。


 それは言葉ではなかった。


 でも、意味は分かった。


 見ている。


 それだけだった。


 龍は、私を見ていた。


 私も、龍を見ていた。


 見ることは、何もしないことではない。


 かつて、私はそう思ったことがある。


 今も、そう思った。


    *


 夕方が近づく頃、私は湖のほとりに一人で立っていた。


 アイスルと陳と野口さんは、出発の準備について、野間さんと話していた。帰りの旅は、明日の朝から始まる。ビシュケクへ戻り、そこからサマルカンド、上海を経由して京都へ帰る。


 中央アジアで、私がここまで来た理由は、いったん、果たされた。


 けれど、終わったという感じは、しなかった。


 何かが、ここで閉じた。


 同時に、何かが、ここから始まった。


 〈遥〉と梓が言った。


 〈帰りの旅、明日からです〉


「うん」


 〈中央アジアでの目的は、これで果たされました〉


「終わったんだね」


 〈はい。ただし、井戸は、終わりを、流れの変化として扱っています〉


「半分は、ここに置いていく」


 〈はい〉


「半分は、京都に持って帰る」


 〈はい〉


「茅が、待ってる」


 〈はい。京都の家で、茅が、待っています〉


「梓も、一緒に帰ろう」


 〈はい。一緒に帰ります〉


 湖の下で、龍が、ゆっくり深い場所へ潜っていった。


 龍の姿は、水の奥へ消えていった。


 けれど、龍が消えても、湖は龍を住まわせ続けていた。


 私は、千四百年前の玄奘が見たかもしれない湖の前に立っていた。


 千四百年は、長い時間だ。


 京都の宗像家も、京都の街も、千百年、続いてきた。


 千四百年と、千百年。


 どちらも長い時間だが、湖の千万年の歴史から見れば、ほんの短い瞬間だった。


 しかし、その短い瞬間のなかに、人と、家と、水と、井戸と、龍と、聞き手と、沈んだ街と、まだ生まれていない子どもたちと、すべてが、ひとつの大きな流れとして繋がっていた。


 私は、明日、その流れの半分を、京都に持ち帰る。


 残りの半分は、ここに置いていく。


 置いていく、というのは、失うことではない。


 持って帰る、というのも、所有することではない。


 水は、井戸に戻るために流れるのではない。


 井戸から、また別の井戸へ流れるために、流れる。


 夕方の光が、湖の表面に、薄い金色を置いていた。


 その光の中に、京都の伏流水と、サマルカンドの灌漑の水と、天山の雪解け水と、イシク・クルの塩を含んだ湖水が、ひとつの循環として、静かに繋がっていた。


 水の母は、遠くにいるわけではなかった。


 井戸にも、湖にも、京都にも、集落にも、聞き手たちの目の奥にも、静かに流れ続けていた。


 そして私は、その流れのなかに、欠けたまま、半分ずつ、溶け込んでいくような気がした。

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