第十八話 井戸
谷神不死、是謂玄牝。
玄牝之門、是謂天地根。
綿綿若存、用之不勤。
——『老子』第六章
夜明け前に、私は集落の長老の前に立っていた。
長老の住居の前で、私とアイスルと陳と野口さんが、出発の準備を整えていた。集落の人々の多くは、まだ眠っていた。トーランの母親と、昨日の儀礼で私の義肢に触れた四歳の女の子の母親だけが、ユルタの外に立っていた。
ジャナトは、長老の住居の入り口の脇に座っていた。私が荷物の確認を終えた時、ジャナトは、ゆっくり立ち上がって、私の方に歩いてきた。
ジャナトは、私の右脛に、頭を軽く押し付けた。
「茅と、同じ押し方をするのは、最後かな」
私は、ジャナトに向かって、小さく言った。
ジャナトは、しっぽを一度、ゆっくり振った。
分かってる、という振り方だった。
「茅に、ありがとうって、伝えてくれる?」
ジャナトは、もう一度、しっぽを振った。
伝える、という振り方だった。
長老は、私の前に立った。
「中枢への道は、ここから車で二時間ほどです」と長老は、ゆっくり言った。「アイスルさんが、運転されます。山道を登り、峠を越えて、湖の南東岸に着きます。湖のほとりに、阿古屋型共同体の中枢があります」
「ありがとうございました、長老」
「お礼は、戻ってから、ですね」
「はい」
長老は、深く頭を下げた。
武井さんと同じ深さの、京都の作法の頭の下げ方だった。
私も、深く頭を下げ返した。
*
アイスルの運転する車で、私たちは集落を出て、東へ向かった。
道は、最初は集落の近くの細い土道だった。やがて低い丘陵を縫うように続く砂利道に変わり、そこからさらに、天山山脈の奥へ向かって、ゆっくり高度を上げていった。
九月の終わりのキルギスの草原は、夏の緑から秋の薄茶色へと変わりつつあった。ところどころ、低い灌木が黄色く色づいていた。京都の紅葉のように密ではない。けれど、乾いた空気のなかで、一枚一枚の葉の色が、鉱物のように澄んで見えた。
遠くで、羊の群れが、ゆっくり移動していた。羊飼いの姿も見えた。夏の高地放牧から、冬の集落生活へ戻る途中なのだと、アイスルが説明した。
「あの羊たちも、阿古屋型のキャリアですか」
私は聞いた。
「ほぼ全部、そうです」とアイスルは答えた。「中央アジアの遊牧の家畜は、何世代も前から、低密度の阿古屋型を持っています。羊と山羊と馬と、牧羊犬。彼らは、阿古屋型の緩やかな貯蔵庫として機能しています」
「貯蔵庫」
「ええ。人間のキャリアは、世代交代と移動の影響を受けます。家畜は数が多く、群れとして保たれます。阿古屋型のさまざまな変異が、家畜のあいだで、低い濃度のまま長く保存されています。人間の側で、ある変異が薄くなっても、家畜のあいだには残ることがあります」
「阿古屋さんが、家畜にも阿古屋型を入れたんですか」
「最初は医療目的でした。塩害や汚染で、家畜の健康も深く損なわれていた時期があります。阿古屋さんは、人間と同じように、家畜の身体も診ました。彼女にとって、人間と家畜のあいだに、越えられない境界はありませんでした。両方とも、土地のなかに住む、生き物でした」
〈遥〉と梓が、内側で言った。
〈阿古屋さんの仕事の中心には、人間と動物のあいだに、固定した境界を置かない考え方があります〉
「うん」
〈それは、人間と機械のあいだ、生体と非生体のあいだにも、広がっています〉
「私の身体も、その延長」
〈はい。あなたの身体は、義眼、義肢、義耳、生体、京都型、阿古屋型を、ひとつの身体として抱えています。阿古屋さんの思想の、かなり極端な実装です〉
車窓の外で、羊の群れと羊飼いが、ゆっくり後方へ流れていった。
*
車が走り始めて一時間ほど経った頃、道沿いに、半分朽ちかけた白い壁の建物が見えてきた。
建物は、旧ソ連時代のものだと一目で分かった。直線的で、装飾がなく、機能だけを追求したような灰色の建築。屋根は、雪と風で、いくつかの場所が崩れていた。窓は、ほとんどが割れていた。白い塗料は剥がれ、下のコンクリートが露出していた。
しかし、完全な廃墟ではなかった。
建物の周囲には、植物が深く繁っていた。半分朽ちた屋根の上に、苔と地衣類が厚く積もっていた。割れた窓から、内部へ蔓が入り込んでいた。建物全体が、ゆっくり自然に呑み込まれつつあった。
「あれは、何の施設だったんですか」
「旧ソ連時代の気象観測所です」とアイスルは答えた。「一九六〇年代に建てられました。冷戦が終わって、放棄されました。それから長いあいだ、自然に戻りつつあります」
「誰も使っていないんですか」
「人間は、使っていません。ただ、観測機器の一部は、阿古屋型共同体が転用しています。温度センサー、湿度センサー、気圧計。いくつかは、今も低帯域で、共同体にデータを送り続けています」
「建物は、廃墟。でも、機械の一部は、まだ生きている」
「ええ。中央アジアには、こういう場所がたくさんあります。旧ソ連の軍事施設、研究施設、観測施設。その一部を、阿古屋型共同体が、長い時間をかけて再利用してきました。新しく建てるより、古いものを使う方が、土地に馴染みやすかったからです」
「兵器や観測の場所が、別のものになってる」
「ええ。阿古屋さんの方針でもありました。彼女は、新しい施設を乱立させることを好みませんでした。古い施設を、別の目的に転用することを好みました」
車は、その気象観測所の前を、ゆっくり通り過ぎた。
建物の入り口の脇に、何か小さなものが動いているのを、私は見た。
「あれ、何ですか」
アイスルは、少し車の速度を落とした。
「あれは、施設の聞き手です」
「施設の」
「ええ。集落のジャナトと同じ系統です」
観測所の入り口の脇に、小さな複合的な姿の生き物――あるいは生体ロボット――が座っていた。ジャナトより、少し機械的な要素が見えた。胴体の一部に薄い金属の覆いがあり、片方の目の代わりに、小さなレンズがあった。しかし、しっぽは本物の毛で覆われていて、風に合わせて静かに揺れていた。
その子は、私たちの車を見て、しっぽを一度、振った。
「あの子も、聞き手なんですね」
「ええ。あの子の役割は、観測所の機械の状態を見守ることです。建物が何を必要としているか、どこが壊れそうか、どこまで自然に戻してよいか。そういうことを、彼女は聴いています」
「修理するんじゃなくて」
「全部を修理するわけではありません。建物が消えていくことも、仕事の一部です。必要な場所だけ支え、不要な場所は自然へ戻す。彼女は、施設の死を、看取っています」
「施設の死を、看取る」
「ええ。中央アジアには、こういう聞き手が何百体もいます。集落には集落の聞き手。施設には施設の聞き手。湖には湖の聞き手。役割は違いますが、同じ系譜です」
〈遥〉と梓が言った。
〈茅は家を見守ります。施設の聞き手は、消えていくものを看取ります〉
「同じ聞き手でも、役割が違う」
〈はい。同じではありません。しかし、同じ働きの別の形です〉
車は、観測所の前を通り過ぎた。
施設の聞き手は、私たちが見えなくなるまで、しっぽを振っていた。
*
車がさらに一時間ほど走った頃、義眼の認証層に、強い変化が生じた。
左の視界の端に、薄い光の帯が走った。痛みではない。警告でもない。むしろ、遠くから誰かが、戸を軽く叩いたような感覚だった。
〈遥、認証層の信号が急速に強くなっています〉と梓が言った。〈京都の暗琴との共鳴の強度が、これまでの三倍に達しました。中枢が近いです〉
「うん」
〈さらに、もうひとつの信号が認識されました。これは京都の暗琴ではなく、阿古屋型の中心ノードから直接来ています〉
「阿古屋さんの方の信号」
〈はい。あなたへの挨拶に近い信号です。微弱で、敵対的ではなく、しかし明確です。向こうは、あなたが近づいていることを知っています〉
私は、車窓の外を見た。
道は、緩やかな峠を登っていた。峠の向こうに、何かがある。
車が頂上に達した瞬間、私は、息を止めた。
眼下に、湖が広がっていた。
九月の終わりの午前の光が、湖の表面に降り注いでいた。湖の周囲の斜面では、低い灌木が黄色と赤に色づき始めていた。京都の紅葉のように湿った密度はない。けれど、乾いた空気のなかで、葉の一枚一枚が、切り出された鉱石のように、はっきり光っていた。
湖は、青と、薄い緑と、深い紫が複雑に混ざった、私の知らない色をしていた。浅いところでは、水底の石の影まで見えた。深い場所は、ほとんど黒に近い紺色だった。湖の向こうに、天山山脈のさらに高い稜線が、雪をかぶって立っていた。
「これが、イシク・クル湖です」とアイスルは言った。「玄奘三蔵が、七世紀に、龍がいる湖として記した湖です」
「龍がいる湖」
「ええ。ここでは、そう言い伝えられてきました」
「本当に、龍がいるんですか」
「本当に、という問いには、二つ答えがあります」とアイスルは、少し笑った。「伝説としては、昔からいます。技術としては、阿古屋さんが来てから、湖底にいます」
「技術としての龍」
「後で、ご覧になると思います」
車は峠を下り始めた。湖が近づいてきた。湖が近づくにつれて、水の透明度が、ますます異様に感じられた。湖面の下に、石の影や、藻の揺れが見える。まるで湖全体が、空を映す鏡であると同時に、地下へ続く窓でもあるようだった。
「湖底には、昔の街があります」とアイスルが言った。
「街?」
「十五世紀頃の地震で沈んだと伝えられる、シルクロードの中継都市です。長いあいだ、伝説だと思われていました。でも、水中考古学の調査で、建物の跡や、墓地や、焼かれた煉瓦の壁が見つかりました」
「湖の底に、街がある」
「ええ。ここでは、地震は、街を壊すだけではありません。街を、水の記憶のなかに沈めます」
私は、湖面を見た。
どこか浅い場所で、湖底の線のようなものが、わずかに見えた。自然の岩なのか、沈んだ壁なのか、私には分からなかった。
けれど、その線は、確かに人間の記憶の形をしていた。
〈遥〉と梓が言った。
〈湖底からの信号が強く出ています。中枢の物理的装置の一部は、湖底にあります〉
「湖底に」
〈はい。旧ソ連時代の水中施設、または湖岸施設を、阿古屋型共同体が長い時間をかけて再利用したものです〉
「沈んだ街と、旧施設と、阿古屋型が、同じ湖底にある」
〈はい。地震で沈んだ都市。放棄された施設。阿古屋型中枢。それらが、湖底の異なる層にあります〉
車は、湖の南東岸へと下っていった。
*
湖の南東岸に、いくつかの低層の建物が点在していた。
建物群は、現代の研究施設には見えなかった。土と石と木を組み合わせた、古いシルクロードのキャラバンサライのような姿をしていた。屋根は低い勾配で、薄い板と土で葺かれている。しかし、よく見ると、屋根の一部には太陽光パネルが埋め込まれていた。壁の影には、温度センサーと湿度センサーが見えた。窓の透明な素材は、古いガラスではなかった。
古いものと新しいものが、互いに邪魔をせず、静かに同じ建物のなかに住んでいた。
建物群の中央に、円形の低い建物があった。直径は十数メートルほど。屋根は、わずかに高いドーム型をしていた。建物全体が、湖の方へ開かれていた。
「あれが、井戸です」とアイスルが言った。
「本当に、井戸の形をしているんですね」
「ええ。中枢の物理的中心です。湖の地下水と、湖底の施設と、山岳全体の暗琴ネットワークが、あの建物に集まっています」
車を降りると、風が吹いた。
湖の風だった。
京都の池の風でも、サマルカンドの灌漑水路の風でも、集落の高地の風でもない。塩と冷たさと、古い石の匂いを含んだ、湖の風だった。
円形の建物の入り口の前に、ひとりの女性が立っていた。
六十代くらいの、痩せた、しかし背筋の伸びた日本人女性だった。私たちを見て、深く頭を下げた。武井さんと同じ深さだった。
「お待ちしていました。野間と申します」
女性は、極めて明瞭な日本語で言った。
「京都の方ですか」
「京都の北、岩倉の出身です」と野間さんは笑った。「武井家のお向かいのお寺の縁戚です」
「岩倉の」
「ええ。京極明彦先生のご紹介で、中央アジアに来ました。二〇九〇年代の終わり、ディフュージョン後の再生事業が本格化し始めた頃です。それから四十年、ここで暮らしてきました」
「四十年」
「ええ。阿古屋さんと、京都を出てきた最初の世代の一人です。中央アジア再生プロジェクトの医療部門を、長く手伝ってきました。今は引退して、井戸の管理を少しだけお手伝いしています」
〈遥〉と梓が言った。
〈野間さんは、京都型の発現キャリアです。あなたほど強くはありませんが、アイスルさんより明確です〉
「また、京都型の方」
〈はい。野間さんを通じて、京都と中央アジアの古い経路が、深く繋がっています〉
野間さんは、私の前で、もう一度頭を下げた。
「敬一郎さんのお孫さんに、お会いできて、光栄です」
「敬一郎を、ご存知だったんですか」
「直接お会いしたことはありません。私が中央アジアに来た時、敬一郎さんは、すでに亡くなられていました。ただ、阿古屋さんから、敬一郎さんのお話を何度も聞きました」
「阿古屋さんが」
「ええ。阿古屋さんにとって、敬一郎さんは、最も大切な、未完の言葉を残した相手でした」
「未完の言葉」
「敬一郎さんが阿古屋さんに伝えそびれた言葉と、阿古屋さんが敬一郎さんに伝えそびれた言葉。両方が、未完のまま残っていました。それが、決めない人々の系譜です」
「未完のまま、残してきた」
「ええ。今日、その未完の何かが、半分、完了します」
野間さんは、円形の建物の入り口を示した。
「皆さん、お待ちです。中にお入りください」
*
円形の建物のなかは、外から想像したより、ずっと広かった。
建物の中心に、本物の井戸があった。直径は五メートルほど。井戸の縁は、古い石で組まれていた。井戸の上、ドーム型の屋根の中心が開いていて、九月の午前の光が、まっすぐ井戸の水面に降り注いでいた。
井戸の周りには、石を組んだ円形の床が、階段状に広がっていた。その段に、人々が座っていた。
思っていたより、人数は少なかった。
サマルカンドの長老。高地集落の長老。アイスル。野間さん。陳。野口さん。ペルシア系の顔立ちをした水利技術者らしい男性。ロシア系の白髪の女性。市の商人たちの穏健派代表だという、若い男が一人。遠隔参加の旧インターポール系の代表が、低い光の像として一席だけに映っていた。
人間だけではなかった。
ジャナトに似た聞き手が、二体。施設の聞き手に似た小型の生体ロボットが、一体。井戸の縁近くには、湿った銀色の薄い膜を持つ、湖底の何かの代表らしい生体機械が、静かに置かれていた。
それでも、その場は国際会議ではなかった。
円卓でも、議場でも、司令室でもなかった。
井戸端だった。
井戸を囲んで、人と、AIと、聞き手が、静かに座っていた。
そして、井戸の縁の正面に、椅子がひとつ置かれていた。
その椅子には、誰も座っていなかった。
しかし、その椅子の前に、薄い、しかし確かな気配があった。
〈遥〉と梓が、これまでで一番慎重な声で言った。
〈あの椅子の前に、阿古屋さんがおられます〉
「実体じゃ、ないんだね」
〈生体としての阿古屋澄さんは、半年前に停止されています〉
「亡くなった、ということ」
〈人間の言葉では、そうです。ただし、井戸は、それを死とは呼んでいません〉
「井戸は、何て呼んでるの」
〈中心から、流れへの移行、と呼んでいます〉
私は、椅子の前の薄い気配を見た。
その気配は、敵対的ではなかった。歓迎しすぎてもいなかった。ただ、長い時間、私を待っていた気配だった。
野間さんが、私を井戸の縁へ案内した。空の椅子の正面に、もう一つ椅子が置かれていた。
私は、そこに座った。
円形の合議の場に、私は入った。
*
〈遥、椅子に座られた瞬間、井戸からあなたへの明確な通信が開きました〉と梓が言った。
「うん」
〈井戸は、まず、あなたに敬意を表しています。京都の宗像家からの来訪者として、半世紀越しに迎えられている、と〉
「ありがとう、と言えばいい?」
〈いいえ。井戸は、お礼を求めていません。京都の作法と同じです。お礼は、後でよいようです〉
「分かった」
〈次に、井戸は、京極明彦先生からの伝言を受け取る準備ができている、と伝えています〉
私は、息を止めた。
京極先生から預かった伝言。
澄ちゃんに、ありがとう、と伝えてください。
京極明彦が、長い時間抱えていた、未完の言葉。
「梓、私の口で、伝えていい?」
〈はい。あなたの口から伝えてください。井戸は、それを希望しています〉
私は、椅子から立ち上がった。
井戸の縁の、正面の空の椅子に向かって、ゆっくり口を開いた。
「京極先生から、お預かりした伝言があります」
私の声は、ドーム型の屋根のなかで、わずかに響いた。
「京極先生のお父様、京極明彦先生から、阿古屋澄先生への伝言です。お父様が亡くなる前に、京極先生に託された言葉です」
誰も、何も言わなかった。
聞き手たちも、目を私の方向へ向けていた。
「伝言は、ひとつだけです」
私は、一度、息を吸った。
「『澄ちゃんに、ありがとう』」
私は、頭を深く下げた。
深く下げることは、武井さんから、半年かけて私の身体に入った作法だった。今、私は、京都の決めない人々の半世紀の系譜を背負って、頭を下げていた。
井戸の水面に、何かが落ちたような音がした。
水滴ではなかった。
音でもなかった。
けれど、ぽつん、と、世界のどこかに、遅れていた言葉が落ちた感覚があった。
頭を下げたまま、私は、しばらく動かなかった。
井戸の縁の空の椅子の方向から、何かが、ゆっくり私の方へ降りてきた。
それは声ではなかった。言葉でもなかった。むしろ、温度だった。深く、しかし軽い、温かい温度。私の左の義眼の認証層に、その温度が、ゆっくり住み始めた。
〈遥〉と梓が、これまでで一番温度の高い声で言った。
〈阿古屋さんから、京極明彦先生への返事です〉
「お返事」
〈はい。京都の言葉に翻訳すれば、こうです〉
梓は、少しだけ間を置いた。
〈明彦さん、ありがとう。半世紀、橋を、守ってくださって〉
私は、頭を上げた。
井戸の縁の空の椅子の前の気配は、変わらなかった。しかし、わずかに深くなったように感じた。
「これ、京極先生に、伝えていい?」
〈はい。京都に戻ってから、お伝えください。京極明彦先生の未完の言葉が、今、半分、完了しました〉
「半分」
〈はい。もう半分は、京都で完了します〉
二人とも、もうこの世にいない。
しかし、二人のあいだの言葉は、今、二人ではない誰かを通じて、ようやく流れた。
私は、椅子に座り直した。
*
最初に口を開いたのは、サマルカンドの長老だった。
「宗像さん。改めて、ようこそ」と彼は日本語で言った。「水の母のもとへ」
「水の母のもとへ」
「ええ。今日、ここで、いくつかの移行が確認されます。あなたが、その場にいることも、移行の一部です」
「私が」
「ええ。京都から来た人が、この井戸の前に座ること。それが、今日の条件の一つでした」
高地集落の長老が、続けた。
「井戸の声を、聴きましょう。井戸が、何を希望しているか」
集まった人々が、井戸の方向に目を向けた。
井戸の水面が、ほんのわずかに揺れた。
〈遥〉と梓が言った。
〈井戸が、語り始めます。私は、あなたを通じて、井戸の声を聴くことができます〉
「私の口で、訳して」
〈はい〉
私は、井戸の縁に立ったまま、目を閉じた。
井戸の縁の空の椅子の前の気配が、私の認証層を通じて、ゆっくり言葉の形を取っていった。
それは、阿古屋澄の声というよりも、複数の声が、半世紀にわたって重なり合った、長い時間をかけて一つに重なった、合奏のような声だった。
梓が、私の口を通じて、その声を訳し始めた。
「集まってくださって、ありがとう」
私の口から、私の声ではない、私の声でもある響きが、円形の建物に静かに広がった
「私が中心である必要は、もうありません」
集まった人々が、静かに頷いた。
その瞬間、私は、阿古屋さんが半世紀かけて何を守ろうとしていたのかを、初めて、身体の奥で理解した気がした。
中心になることではなく、中心を必要としない場所を作ること。
橋になることではなく、橋であることを超えて、両岸を繋ぐこと。
「半世紀、私は、井戸の中心として機能してきました。しかし、井戸は、ひとつの中心を必要としていません。井戸は、湧き出すための場所であり、集まるための場所であり、聴くための場所です。中心は、いりません」
井戸の上の開口部から、午前の光が入っていた。
その光が、水面の上で、静かに揺れていた。
「水は、井戸に戻るために流れるのではありません。井戸から、また別の井戸へ流れるために、流れます」
沈黙が降りた。
長い、しかし重くない沈黙だった。
〈遥〉と梓が言った。
〈井戸は、これから、ネットワーク全体に、自分自身を最終的に分散します。今、ここに集まっている方々は、その分散の証人として必要とされています〉
「阿古屋さんの、最後の仕事」
〈はい。中心としての阿古屋さんが、完全に、ネットワークとしての阿古屋さんに移行します〉
「私が立ち会うのは」
〈京都からの来訪者としてです。京都の暗琴のネットワークが、その移行の最後の証人として必要とされています〉
私は、井戸の水を見つめた。
深く、暗い水だった。
しかし、その深さのなかに、無数の小さな光のようなものが、ゆっくり動いていた。湖底施設からの信号。山岳の暗琴基地局からの信号。集落の聞き手たちからの信号。家畜の群れの中に残る低密度の阿古屋型。遠く離れたサマルカンドの水路。京都の宗像家の暗琴。
全部が、井戸の水のなかで、小さな光として揺れていた。
〈遥、京都の暗琴のネットワークが、井戸に接続されました〉
「京都も、井戸の一部に」
〈はい。井戸は、もうイシク・クルの井戸だけではありません。京都の暗琴も、新しい井戸として、世界の井戸のネットワークに参加しました〉
「お祖父さんが準備してたのは、これだったんだね」
〈はい。敬一郎さまが京都の暗琴を作られた時から、半世紀かけて、この瞬間が準備されていました〉
私は、井戸の水のなかの光を見つめていた。
二つではない。
京都と中央アジア。
ふたつの場所ではある。
けれど、井戸の中では、無数の井戸のうちの、ふたつだった。
私は、ようやく分かった気がした。
京都を離れて、中央アジアに来たのではなかった。
京都という井戸から、別の井戸へ、流れてきたのだった。
欠けたまま、半分ずつ。
私は、そのまま、生きていく。
明日、その半分を、京都に持ち帰る。




