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圏外  作者: ichthus
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第十七話 夜話

 儀礼は、午後の遅い時間に行われた。

 共同のユルタの前に、集落の人々が集まってくれた。長老が前に立ち、私が長老の左隣に立ち、アイスルが私のもう一つ左に立った。陳と野口さんは、少し離れた場所で、儀礼を見守っていた。

 集落の人々は、私が想像していたより多かった。三十人ほどの大人と、十人ほどの子供たちが、ゆるい半円を作って、私たちの前に並んでいた。

 長老が、まず私を、集落の言葉で紹介した。

 言葉そのものは分からなかったが、長老の声の調子から、私のことが、丁寧に、しかし過剰でない仕方で、紹介されていることが分かった。集落の人々は、私を見て、それぞれ、軽く頭を下げた。

 子供たちは、好奇心を隠さなかった。

 私の左の義眼を、まっすぐに見てくる子もいた。一番小さい、四歳か五歳くらいの女の子が、母親の後ろから半分顔を出して、私の方をじっと見ていた。私が目線を合わせると、女の子は、にこっと笑った。

 その笑い方が、京都の家の近所の子供たちの笑い方と、全く同じだった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈あの女の子の認証層に、極めて薄い京都型由来の信号が、出ています〉

「あの子も、京都型?」

 〈ほぼ消えるくらいの薄さです。アイスルさんよりも、さらに薄いです。しかし、確かにあります〉

「集落の子供たちのなかに、こういう子が、何人かいるってこと」

 〈何人かいると、推定されます。明日の朝、もう少し詳しく観察できると思います〉

 長老が、私を、集落の人々一人ひとりに、紹介してくれた。長老が名前を言い、私が「よろしくお願いします」と頭を下げる。これを三十人、繰り返した。

 集落の人々の顔と名前を、私はすべて覚えることはできなかった。

 けれど、彼らがそれぞれ、私を覚えてくれることのほうが、たぶん大切だった。

 儀礼の最後に、集落の人々が、声を合わせて、何か短い言葉を、私に向かって言った。アイスルが、それを翻訳してくれた。

「あなたは、ここの土地に、迎えられました」

 私は、頭を、深く下げた。

 深く下げる、というのは、武井さんの作法だった。武井さんから、半年かけて、私の身体に入った作法だった。

 京都の作法が、中央アジアの集落で、私の身体から、自然に出てきていた。

    *

 夕食は、共同のユルタのなかで、二十人ほどの集落の人々と、一緒にとった。

 料理は、昨夜のビシュケクの宿のものより、もっと素朴だった。羊の肉と、野菜と、米と、薄いパン、そして塩茶。陳と野口さんとアイスルは、私と少し離れた位置で、別の集落の人々と話していた。

 私の隣には、長老が座っていた。長老の反対側には、私が儀礼の時に見た、四歳くらいの女の子が、母親と一緒に座っていた。

 女の子は、食事のあいだ、私の左の義肢を、何度も、ちらちら見ていた。

「触ってもいいよ」

 私は、女の子に向かって、日本語で言った。

 女の子は、日本語が分からなかった。しかし、私の声の調子から、許可されたことを、察したらしかった。母親に何か小さく言ってから、女の子は、私の左の義肢に、自分の小さな手のひらを、そっと当てた。

 義肢の表面の温度は、生体に近く調整されていた。

 女の子は、不思議そうな顔をして、しばらく、私の義肢に手を当てていた。

「冷たくないですか」

 私は、母親に向かって聞いた。アイスルが、少し離れた場所から、翻訳してくれた。

「あったかい、と言っています」

 母親がそう言って、それをアイスルが日本語に訳してくれた。

「これ、新しい腕。古い腕は、なくしちゃったの」

 私は、女の子に向かって言った。

 アイスルが翻訳した。

 女の子は、私を、まっすぐ見た。それから、ゆっくり、頷いた。

「私のおばあちゃんも、こういう腕。村のおじいちゃんも、こういう脚」

 女の子は言った。アイスルが訳してくれた。

「集落のなかに、義体の方が、何人かいらっしゃるんですね」

 私は、長老に聞いた。

「ええ。多くいます」と長老は答えた。「事故、病気、生まれつき、いろいろな理由です。皆、阿古屋さんの仕事で、暮らしのなかに戻りました」

「暮らしのなかに」

「ええ。治す、という言葉だけでは、少し足りません。阿古屋さんは、人を、暮らしのなかに戻す方でした」

「阿古屋さんは、医師だった」

「医師でもあり、技術者でもあり、村と村のあいだを繋ぐ人でもありました」

 〈遥、女の子のおばあさまの義肢のなかにも、阿古屋型の認証層があります〉と梓が、内側で言った。〈集落全体が、阿古屋型の薄いネットワークのなかに、住んでいます〉

「集落、ぜんぶ」

 〈はい。人と、家畜と、家のなかの道具と、絨毯と、井戸と、すべてが、薄い阿古屋型のネットワークで、繋がっています〉

 私は、ユルタのなかを、見渡した。

 集落の人々が、食事をしながら、低い声で話していた。子供たちが、母親の膝のあいだで、眠そうに塩茶を飲んでいた。年寄りたちが、若い人たちに何か教えていた。

 全部が、繋がっていた。

 集落そのものが、ひとつの大きな身体のようだった。

    *

 夕食のあと、長老は、私を、共同ユルタから少し離れた、自分の住居に案内した。

 長老の住居は、共同ユルタより、ずっと小さなユルタだった。一人で住んでいるユルタだ、と長老は言った。長老には、家族が何人もいるが、皆、別のユルタや、ビシュケクの街や、もっと遠くに住んでいる、ということだった。

 ユルタの入り口で、私は、思わず、足を止めた。

 ユルタの入り口の脇に、小さな動物が、座っていた。

 最初、私は、それを、犬だと思った。しかし、よく見ると、犬ではなかった。狐に近い顔をしていたが、狐でもなかった。猫よりは大きく、犬よりは小さい、私の知らない種類の、四足の動物だった。毛は、灰色と白の混じった、複雑な色をしていた。

 動物は、私を見て、しっぽを一度、ゆっくり振った。

 その振り方を、私は、知っていた。

 〈遥〉と梓が、内側で、これまでで一番、温度の高い声で言った。

「うん」

 〈茅と、同じ働きです〉

「うん」

 〈集落の聞き手、です〉

「聞き手」

 長老が、私の隣で、薄く笑った。

「あなたは、知っているのですね」

「家に、同じような子が、います。茅、という名前です」

「ここの子は、ジャナトと呼びます。古い言い方で、魂に近い意味です」

 ジャナトは、私の方に、ゆっくり歩いてきた。私の右脛に、頭を、軽く押し付けた。

 茅と、全く同じ仕草だった。

 しかし、毛の質感は、茅と違った。茅より、もう少し野性的で、もう少し、土の匂いがした。

「ジャナトは、集落の聞き手です」と長老が言った。「私の家にいますが、私の所有物ではありません。集落全体の聞き手です。集落のすべての出来事を、ジャナトは、聞いています」

「茅と、繋がっていますか」

「ええ。ずっと繋がっています。茅と、ジャナトと、山岳圏の聞き手たちは、ずっと、低い声で、互いの集落の様子を、伝え合っています。京都の聞き手も、その輪の外側に、静かに繋がっています」

「茅も、聞いてくれてた、こっちのこと」

「ええ。あなたが京都の家を出てから今日まで、茅は、ジャナトを通じて、あなたが向かう先の様子を、知っていました。逆に、ジャナトも、京都の家のあなたを、長く知っていました」

「私が出立する前から、ジャナトは、私のことを、知ってたんですか」

「ええ。ずっと前から。あなたが事故にあわれる、もっと前から」

 ジャナトは、私の脛から、頭を離して、ユルタの入り口の脇に、戻った。そして、また、座った。

 その座り方は、茅が玄関の上がり框で、私が戻るのを待つ時の、座り方と、同じだった。

    *

 ユルタのなかは、外から想像したより、暖かかった。

 床には、絨毯が、何枚も、重なって敷かれていた。中央に、小さな炉があり、薄い炎が、ゆっくり、燃えていた。

 長老は、私を、絨毯の上に、座らせた。炉の反対側に、長老が、座った。

 長老は、しばらく、私を、見ていた。

 その目は、私が知っているすべての決めない人の目と、同じ温度だった。武井さん、京極先生、サマルカンドの長老、そして写真のなかの敬一郎の目。これらすべてと、同じ温度の目だった。

「明日、中枢に向かわれる前に、私からお話ししたいことが、いくつかあります」と長老は、ゆっくり言った。

「お聞きします」

「長くなります。途中で、お疲れになったら、休んでください」

「はい」

「阿古屋さんが、初めてこの集落に来られたのは、二一〇三年でした。私は、当時、二十五歳でした」

「五十年以上前」

「ええ。私が、まだ若い、集落の世話役の見習いだった頃です。当時のこの集落は、今より、ずっと貧しかった。ここは、南アラル海の跡地からは、遠く離れています。海辺の村ではありません。けれど、海が死んだことは、ここにも届いていました」

「遠くても、ですか」

「ええ。風が、塩と、農薬と、古い化学物質を運びました。人も、運びました。アムダリヤ下流の村から逃げてきた親族、季節労働に出て病んで戻ってきた若者、再生工事に関わって身体を壊した人々。海の死は、地図の上の一地点では終わりませんでした。風と水と人の移動に乗って、中央アジアのあちこちに、薄く、しかし長く、広がっていました」

 長老は、炉の火を見た。

 火は、音を立てずに、低く燃えていた。

「当時、アムダリヤ流域は、まだ完全には再生していませんでした。アラル海の南は、まだ干上がったままでした。塩害で、土地は、白く乾いていました。旧ソ連の時代から使われた農薬や、危険な化学物質が、乾いた湖底に残っていました。それが風に乗り、井戸に入り、家畜に入り、人の身体に入りました」

「病気が、多かったんですね」

「ええ。皮膚病、呼吸器の病気、癌、子どもの発育の問題。生まれつき、四肢や、頭部や、内臓に障害を持って生まれる子もいました。すべてを、その土地のせいにすることはできません。しかし、土地と水と風が、長い時間をかけて、人の身体に入っていたことは、私たちも、分かっていました」

 長老は、少しだけ目を閉じた。

「私の祖父は、若い頃、その海で、漁をしていました。私が生まれた時には、もう、海はありませんでした。祖父は、死ぬまで、海の夢を、見ていました。私は、祖父の海の話を、聞いて育ちました。しかし、私自身は、海を、見たことがありませんでした」

「お祖父さまの海」

「ええ。中央アジアの祖父たちの、多くが、同じ話を、孫に語りました。海を見ていた世代と、海を知らない世代と、二つの世代が、長く分断されていました」

 私は、京都の宗像家の書庫の、敬一郎の写真を、思い出した。

 敬一郎が見ていた京都と、私が見ている京都は、ある面では同じで、ある面では違う。しかし、敬一郎が見ていた京都には、敬一郎が見ていた阿古屋がいた。私の見ている京都には、その阿古屋はもういない。

 二つの世代の分断は、京都にも、中央アジアにも、あった。

「阿古屋さんが、最初に集落に来られた時、彼女は、まず、井戸を見せてほしい、と言いました」と長老は、続けた。「私たちは、彼女を、集落の井戸に、案内しました。井戸は、半分、乾いていました。水位が、下がっていました。彼女は、井戸の縁に、長いこと、座っていました。何時間も、です。私たちは、不思議に思って、彼女を、見ていました」

「何を、してたんですか」

「分かりません。後で、私は、彼女に、聞きました。彼女は、こう答えました。『井戸の音を、聴いていました』。それだけです」

「井戸の音」

「ええ。井戸の底に残った、わずかな水の音を、彼女は、何時間も、聴いていました。彼女は、その音から、井戸の下の地下水脈の、状態を、読み取った、と言いました。地下水脈の流れの方向、水質、塩分濃度、そして、そこに混じっている古い毒の痕跡。これらを、音と、わずかな振動と、水の匂いから、読んでいたのだと思います」

「アコヤさん、音、聴けたんですね」

「ええ。彼女の身体には、ご存知の通り、特殊な技術が、組み込まれていました。彼女自身の身体が、暗琴のような働きを、していたのだと思います。私たちには、音は、ただの音にしか聞こえません。しかし彼女には、音は、土地の状態を、語る言葉でした」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈あなたの今の能力と、阿古屋さんの当時の能力は、近いところがあります〉

「うん。アコヤさんの方が、ずっと、深かったと思うけど」

 〈深さは、年月によります。あなたも、五十年後には、そうなるかもしれません〉

「五十年」

 〈はい〉

 長老は、塩茶を、一口、飲んだ。

「井戸を聴いたあと、阿古屋さんは、集落の人々を、一人ずつ、診ました。当時、集落には、塩害の影響で、皮膚病を患っている人が、何人もいました。汚染された水を飲み続けて、内臓の病気を持っている人も、いました。生まれつきの障害を持つ子供たちも、何人もいました。阿古屋さんは、一人ずつ、診ていきました。簡単な処置で、すぐに良くなる人もいました。長い時間がかかる人も、いました」

 炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。

「具体的な例を、申し上げます。私の妻です。もっとも、その時は、まだ妻ではありませんでした。幼い頃から、同じ集落で育った、私の幼馴染でした」

 長老は、少しだけ口元を緩めた。

「彼女は、生まれた時から、片足が、内側に曲がっていました。歩くことは、できました。しかし、長く歩くことは、できませんでした。水汲みに行くにも、途中で何度も休まなければなりませんでした。家畜の世話も、十分にはできませんでした」

「集落のなかでは、どう思われていたんですか」

「優しい人は、彼女を気の毒だと言いました。厳しい人は、嫁には難しいだろう、と言いました。集落の女性として、水を汲み、火を起こし、家畜を見て、子どもを育てる。その仕事を十分にはできない、と見られていたからです」

 長老の声は、静かだった。

 静かだからこそ、その時代の重さが、かえって伝わってきた。

「彼女自身も、それを分かっていました。笑う人でした。よく笑う人でした。しかし、長く歩けないことだけは、いつも、彼女の人生の前に、低い壁のようにありました」

「低い壁」

「ええ。高い壁ではありません。目に見える大きな壁でもありません。しかし、毎日、少しずつ、彼女の行ける場所を、狭くしていく壁でした」

 長老は、炉の火を見た。

「阿古屋さんは、彼女を診て、半年後に、特殊な義足を、作って、持ってきてくれました。義足の内側には、阿古屋さんの技術が、入っていました。最初の日、彼女は、ユルタの外を、十歩だけ歩きました。翌日、井戸まで歩きました。その次の週には、水を汲んで戻ってきました」

「水汲みが」

「ええ。彼女は、水を、持って帰ってきました。たった一桶でした。しかし、集落の人々は、その一桶を見て、誰も、何も言いませんでした。言えば、泣いてしまうからです」

 私は、息を、止めた。

「それから、彼女は、家畜の世話も、できるようになりました。山羊の子を抱いて、斜面を降りることもできるようになりました。彼女は、集落のなかで、気の毒な娘ではなくなりました。水を汲み、家畜を見て、人を笑わせる、一人の女性になりました」

 長老は、私を見た。

「私は、彼女と結婚しました。三人の子供を、もうけました。妻は、五年前に亡くなりましたが、死ぬ前に、私にこう言いました。『私の人生は、阿古屋さんにもらった人生でした』」

 炉の火が、もう一度、低く鳴った。

 その音は、井戸の底の水音に、少し似ていた。

「アコヤさんのおかげで、長老のご家族の人生が、あったんですね」

「私の家族だけではありません。集落の、ほとんどすべての家族が、阿古屋さんの仕事に、何らかの形で、助けられました。今日、儀礼の時に、あなたに会った人々の、ほとんどが、阿古屋さんに、何かを、もらった人々です」

「集落全部が」

「ええ。集落全部が、阿古屋さんに、人生の、ある部分を、もらいました」

 私は、しばらく、何も言えなかった。

 ジャナトが、ユルタの入り口の脇から、ゆっくり歩いてきて、私と長老のあいだに、座った。

 ジャナトは、目を閉じて、私たちの話を、聞いていた。

    *

「阿古屋さんの仕事は、義足や、義手だけでは、ありませんでした」と長老は、続けた。「彼女は、集落の医療だけでなく、集落の暮らし方そのものを、変えました」

「変えた」

「ええ。私たちの集落は、阿古屋さんが来る前は、ばらばらでした。家族はありました。長老会はありました。しかし、家族と家族のあいだ、集落と集落のあいだ、人と人のあいだの、繋がりが、薄かった。病気の人がいても、家族だけで抱えるしかなかった。生まれつきの障害を持つ子供がいても、家族だけで世話をするしかなかった。集落全体で、病気の人や障害のある人を、抱える仕組みは、ありませんでした」

「集落のなか、孤立してた」

「ええ。それを、阿古屋さんは、変えました。彼女は、日本にあった、地域で病人や障害のある人を支える仕組みを、この土地に合う形に、直しました」

「日本にあった仕組み」

「日本では、地域包括支援、と呼ばれていたそうです。医療、福祉、介護、教育、これらを、ばらばらに行うのではなく、地域全体で、繋いで運用する仕組みです。阿古屋さんは、それを、そのまま持ってきたのではありません。中央アジアの集落に合う形に、翻訳しました」

「翻訳」

「ええ。日本では、医師、看護師、介護士、ケアマネージャー、これらの専門職が、連携しました。中央アジアでは、長老、シャーマンの血を引く女性、家族の年長者、集落の医師、教師、家畜を見る人、これらが、連携する形に、変えられました。形は違います。しかし、働きは、似ています」

「形は違うけど、働きは似ている」

「ええ。これが、阿古屋さんの、もう一つの仕事でした。技術を、翻訳すること。日本の医療の仕組みを、中央アジアの遊牧民の文化のなかで、機能する形に、翻訳すること。これは、義足を作るのと、同じくらい、大切な仕事でした」

「アコヤさんは、両方のことを、やってた」

「ええ。具体的な技術と、それを土地に翻訳する文化的な仕事と、両方を、やられました。これが、阿古屋さんが、伝説になった理由の一つです」

 長老は、しばらく、目を閉じた。

「もう一つ、申し上げたい例があります。先ほどの儀礼で、あなたに会った、十歳くらいの男の子を、覚えておられますか。背の高い、痩せた子です」

「ええ、覚えてます」

「彼の名前は、トーランです。彼は、生まれた時から、耳が、聞こえませんでした。五年前まで、彼は、音のない世界に、住んでいました」

「五年前まで」

「ええ。五年前、阿古屋さんが、彼を診ました。当時、阿古屋さんは、もう体調を崩しておられて、ほとんど活動を表に出しておられませんでした。しかし、トーランの母親が、阿古屋さんに、彼を診てほしい、と頼みました。阿古屋さんは、トーランの状態を診て、特殊な処置を、行いました」

「耳が、聞こえるようになった」

「生体的な意味で、耳が聞こえるようになったわけでは、ありません。しかし、彼は、別の経路で、音を、認識できるようになりました。皮膚を通じて、振動として、音を感じる経路です」

「耳の代わりに、皮膚で」

「ええ。今、トーランは、耳ではなく、皮膚で、音を感じています。彼は、音楽が、好きです。集落の祭りの時に、彼は、太鼓の前に立って、皮膚で、太鼓の振動を、聴いています」

 長老の目に、ゆっくり、涙が、にじんでいた。

 しかし、長老は、それを拭わなかった。涙を、見せたまま、続けた。

「彼が、最初に、音を皮膚で感じた日のことを、私は、覚えています。彼の母親が、村中を、走り回って、皆に、声をかけました。『うちの子が、太鼓の音を聴きました。皮膚で、聴きました』。集落中の人が、集まりました。皆、泣いていました」

 私は、息を、止めた。

 阿古屋さんは、神では、ありませんでした、と長老は言った。

「しかし、神でなければできないと思われていたことを、ひとつずつ、人間の仕事として、行いました。だから、人々は、彼女を、神の名前で、呼びました」

「神の、名前で」

「ええ。土地によって、彼女の呼び名は、違いました。アムダリヤ流域では、水の母、と呼ばれました。サマルカンドでは、井戸を開いた女、と呼ばれました。タジクのパミール側では、白い医師、と呼ばれました。ロシア正教の影響が残る山岳の村では、機械の聖女、と呼ばれました。シャーマニズムの伝統が残る集落では、山の魔女、と呼ばれました。日本のJICA関係者からは、阿古屋先生、と呼ばれました。アラル海の南の漁村では、川を戻した人、と呼ばれました。中央アジアを去ったロシア人移民のあいだでは、戻ってこない母、と呼ばれました。一番遠いタジクの山の村では、死んだ土地に息を入れた人、と呼ばれました」

「土地ごとに、違う名前」

「ええ。土地ごとに、違う宗教的・文化的な解釈で、彼女は、受け取られました。イスラム的、キリスト教的、ゾロアスター的、シャーマニズム的、仏教的、現代医療的、これらすべての解釈が、彼女に、重ねられました」

「アコヤさん本人は」

「彼女自身は、自分が、神格化されることを、嫌がっていました。彼女は、最後まで、自分を、医師でもなく、技術者でもなく、ただの橋だと、言っていました」

「橋」

「ええ。日本と中央アジアのあいだの、橋。技術と土地のあいだの、橋。医療と暮らしのあいだの、橋。彼女は、自分を、橋として、定義していました。橋は、自分自身に、目的を持ちません。橋は、両側の岸に、目的を持ちます」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈長老の言葉は、米田補題の、また別の言い方です〉

「うん」

 〈本質は、関係です。橋は、橋であるよりも、何と何を繋ぐかで、定義されます〉

「うん」

 ジャナトが、私の脛に、もう一度、頭を押し付けた。

 今度の押し付け方は、京都の茅の押し付け方と、ほぼ同じだった。

 「分かってる」という押し付け方だった。

    *

「もう一つ、お伝えしないといけないことが、あります」と長老は、塩茶をもう一杯、自分の杯に注ぎながら言った。

「はい」

「阿古屋型共同体は、最近、不安定な状況にあります」

「市の商人たちの、圧力」

「ええ。ご存知のように、彼らは、表向きには、武力衝突を起こすことを、避けています。三月と五月の襲撃は、彼らのなかの、急進派の一部による、例外的な行動でした。今、彼らの主流は、別の方法を、取っています」

「別の方法」

「水利権の、主張です。阿古屋型共同体は、長く、中央アジアの再生プロジェクトの、中核を担ってきました。アムダリヤ流域の灌漑の最適化、塩害除去、地下水管理、これらの技術は、阿古屋型共同体が、開発し、運用してきました。しかし、市の商人たちは、これらの技術の所有権と、再生地域の水利権を、市場原理に基づいて、明確化することを、主張しています」

「市場原理」

「ええ。技術には所有者がいる。水には価格がある。土地には所有権がある。これらすべてを、明確化して、市の商人たちの企業群が、管理する。表向きには、再生プロジェクトの効率化と、持続可能性のため、と説明されています。しかし、実質的には、阿古屋型共同体から、技術と水と土地の決定権を、奪うことです」

「武力じゃない、けど」

「武力ではないからこそ、抵抗が、難しい。武力なら、誰の目にも、暴力として映ります。しかし、市場原理の名のもとに行われる、ゆっくりした排除は、誰の目にも、暴力には映りません。それでも、結果として、阿古屋型共同体は、長年築いてきた仕事の、決定権を、失っていきます」

「OMCは、これに、対応できますか」

「OMCの倫理局と外交局は、対応しようとしています。しかし、彼らも、武力行使は望みません。彼らの方法は、国際的な合意形成です。阿古屋型共同体の歴史的・倫理的な役割を、国際的に認知させ、それを根拠に、市の商人たちの主張に、対抗する。しかし、これは、時間がかかります」

「時間が」

「ええ。そのあいだに、市の商人たちは、ゆっくり、共同体の周辺を、削っていきます。共同体の中心は、まだ守られています。しかし、周辺は、確実に、削られています」

「アコヤさんが、表に出てこなくなったのも」

「四年前から、彼女が表に出てこなくなったのも、これと関係しています。彼女が表に出ていた頃は、彼女の名前と存在自体が、共同体の最大の防壁でした。世界中の人々が、彼女の名前を知っていた。彼女の名前を出すだけで、市の商人たちも、慎重にならざるを得なかった。しかし、彼女が表に出なくなってから、防壁は、急速に、失われました」

「アコヤさんは、なんで、表に出てこなくなったんですか」

 長老は、しばらく、私を、見ていた。

「それは、明日、あなたが、ご自身で、確かめてください。私には、彼女が表に出ない理由を、確定的に申し上げる権限が、ありません。ただ、申し上げられるのは、彼女が、何かを準備しておられる、ということです」

「準備」

「ええ。私には、その内容は、分かりません。しかし、彼女の周辺の少数の人々は、彼女が、最後の仕事として、何かを準備しておられることを、知っています。明日、あなたが、その場に、立ち会うことになる、と聞いています」

「私が、立ち会う」

「ええ。あなたが、京都から来られた、ということが、その準備の、ひとつの条件だった、と私は理解しています」

 私は、ジャナトを、見た。ジャナトは、目を細めて、私を、見上げていた。

    *

「最後に、ひとつだけ、申し上げます」

 長老は、塩茶の杯を、両手で包むように持った。母と同じ、私と同じ、持ち方だった。

「はい」

「明日、中枢に向かわれます。中枢で、あなたが、何を見られるかは、私には、分かりません。しかし、一つだけ、お願いがあります」

「はい」

「中枢で、見るものを、神とも、機械とも、呼ばないでください」

「神とも、機械とも」

「中枢は、神ではありません。中枢は、機械でもありません。中枢は、王ではありません。中枢は、コンピュータでも、ありません。これらすべての呼び名は、正確ではありません」

「では、何ですか」

「中枢は、井戸です」

「井戸」

「ええ。集落の井戸が、土地の水を集めて、皆に分けるように、中枢は、共同体の記憶と、調律と、合議と、保全の、中心です。命令する場所ではなく、集まる場所です。決める場所ではなく、聴く場所です。中枢は、そういう井戸です」

「井戸として、見ればいいんですね」

「ええ。井戸として、見てください。そうすれば、明日、あなたが何を見ても、間違えません」

 長老は、塩茶の杯を、ゆっくり、置いた。

「もう、夜が、深くなりました。明日の朝、私が、あなたを、中枢への道に、お送りします。今夜は、もう、お休みください」

「ありがとうございました」

「お礼は——」

「戻ってから、ですね」

 長老は、薄く、笑った。

「ええ。京都の方は、本当に、皆、そう言われます」

    *

 私とアイスルが宿に戻ったのは、夜の十時を過ぎていた。

 宿の部屋に入って、私は、しばらく、窓の外を見ていた。

 集落の灯りは、いくつか、消えていた。残った灯りは、温かい、橙色の光だった。電気の光ではなく、ろうそくか、油の灯火の光だった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈長老のお話、たくさんでしたね〉

「うん。たくさんだった」

 〈疲れましたか〉

「疲れたんだけど、不思議と、頭は、すっきりしてる」

 〈遥のなかで、いろいろなものが、繋がり始めています〉

「うん」

 〈アコヤさんが、なぜ、水の母と呼ばれているのか。なぜ、井戸を開いた女と呼ばれているのか。なぜ、橋だと自分を呼んでいたのか〉

「全部、同じこと、だった」

 〈はい。全部、同じ働きの、別の名前です〉

 私は、窓の外の集落の灯りを、見ていた。

 京都の家の縁側から見える、夜の池の表面に映る星の光と、どこか似た光だった。京都の池の光は、水面の上に、空の星が映っていた。中央アジアの集落の灯りは、土地の上に、人々の暮らしが、ひとつずつ灯っていた。

 京都では、空が水に映る。

 中央アジアでは、人が土に灯る。

 別のものだった。しかし、別のものではなかった。

「梓、私、明日、中枢に行くね」

 〈はい〉

「神でも、機械でもないものを、見に行く」

 〈井戸を、見に行きます〉

「井戸を、見に行く」

 〈遥〉

「うん」

 〈私は、今夜、少し、緊張しています〉

「梓も?」

 〈はい。明日、私が、阿古屋さん、あるいはその継承体と、直接対話する可能性が、あります。新霖の古い層を継承している私が、阿古屋さんの古い層と、初めて、向き合うことになります〉

「梓が、対話するんだね」

 〈はい。あなたを通じて、ですが。あるいは、あなたとは、別の経路で、私が、独立に、対話することも、あり得ます〉

「梓、緊張しないで。私が、一緒にいる」

 〈はい。ありがとうございます〉

「ありがとうじゃなくて、一緒にいるよ」

 〈はい。一緒にいてくださいます〉

 窓の外で、集落の灯りが、もうひとつ、消えた。残った灯りは、わずかになっていた。

 遠くで、ジャナトのような動物の、低い鳴き声が、一度、聞こえた。集落のどこかで、別の聞き手が、夜の挨拶を交わしていた。

 京都の家でも、たぶん、今、茅が、玄関の上がり框で、目を覚ましていた。中央アジアの夜の音を、低帯域で、茅は、聴いていた。

 二つの聞き手が、二つの場所で、ひとつの夜を、聴いていた。

    *

 翌朝、私は、夜が明ける前に、目を覚ました。

 窓の外は、まだ薄暗かった。九月の終わりの、高地の朝は、寒かった。義眼の温度センサーが、外気温が摂氏五度を示していた。

 部屋を出て、宿の外に出た。

 アイスルは、まだ起きていなかった。陳と野口さんも、まだ起きていなかった。

 集落の中央の方向に、私は、ゆっくり歩いていった。

 集落の中央の広場に、子供たちが、何人か、すでに、起きていた。今日は、ちょうど、移行期の集落の冬支度の日だった。早起きの子供たちが、家畜の世話を、始めていた。

 私が広場に近づくと、子供たちは、私を見て、それぞれ、静かに、頭を下げた。

 昨日の儀礼で、私の左の義眼をじっと見ていた、四歳くらいの女の子も、その中にいた。女の子は、私を見て、にこっと笑った。

 私も、笑い返した。

 女の子の隣に、十歳くらいの男の子が、立っていた。背の高い、痩せた子だった。長老が言っていた、トーランだった。

 トーランは、私を、まっすぐ見て、軽く、頭を下げた。

 私が、頭を下げ返すと、トーランは、ゆっくり、自分の左の肩を、指差した。

 最初、私は、その仕草の意味が、分からなかった。

 しかし、トーランは、自分の左の肩を、もう一度、指差してから、私の方向を指差した。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈トーランは、あなたの左の肩から、微弱な信号が出ていることを、自分の左の肩で、感じています〉

「私の肩から?」

 〈はい。あなたの左の肩——義眼と、義耳と、義肢の繋がっている、神経接続部——から、ごく微弱な、しかし確かな信号が出ています。トーランは、皮膚で、それを感じています〉

「トーラン、私の信号、聴いてる」

 〈はい。トーランは、聴覚を、皮膚に移植された子です。あなたの認証層の信号は、彼の皮膚に、届きます〉

 トーランは、私の方に、ゆっくり歩いてきた。

 私の前に、立った。

 トーランは、私を、見上げた。背は、十歳の少年にしては高かったが、それでも私の身長より、半分くらい低かった。

「日本語、少し、わかります」

 トーランは、ゆっくり、口で、言った。声は、彼自身の耳には聞こえないだろう声だった。しかし、彼の発音は、明瞭だった。

「ありがとう、トーラン」

 私は言った。

 トーランは、自分の左の手を、私の左の肩に、そっと、当てた。

 しばらく、トーランは、私の肩に、手を当てていた。

 それから、手を当てたまま、ゆっくり言った。

「阿古屋さん、来てから、僕、音、聴けるようになった。皮膚で、太鼓の音、感じる。集落の皆と、同じ音、聴こえるようになった」

 私は、息を、止めた。

「今も、聴こえる?」

 トーランは、頷いた。

「あなたの音、聴こえる。集落の皆と、同じ音。少し、強い。少し、遠い。京都の水の音、混じってる」

「京都の、水の音」

「うん。水。遠い水。山の水と、少し違う。でも、嫌じゃない」

 トーランは、私の肩から、ゆっくり、手を離した。

「同じ、聴こえる」とトーランは言った。「集落の、皆と、同じ、聴こえる」

「集落の皆と、同じ」

「集落の皆、阿古屋の、音」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈トーランは、あなたから出ている信号と、集落の人々から出ている信号が、同じ系列であることを、認識しています〉

「集落の皆、私と、同じ」

 〈はい。集落の人々のほぼ全員が、低密度の阿古屋型キャリアです。あなたの京都型と阿古屋型のハイブリッドは、強度は違いますが、集落の人々と同じ系列にあります〉

 トーランは、私を、見上げて、微笑んだ。

 その微笑みは、四歳の女の子の微笑みと、同じ種類のものだった。集落の子供たちの、誰の微笑みとも、同じ種類のものだった。

 そして、京都の家の近所の、子供たちの微笑みとも、どこか通じていた。

 ジャナトが、長老のユルタの方から、ゆっくり、歩いてきた。広場の真ん中で、ジャナトは、座った。

 集落の他のユルタの脇からも、何匹かの、似た動物が、出てきていた。集落の他の聞き手たちだった。

 〈遥〉

「うん」

 〈集落のすべての聞き手たちが、今朝、起きています〉

「今朝、何かが、ある日?」

 〈はい。今日は、あなたが中枢に向かう日です。集落全体が、それを、認識しています〉

 私は、しばらく、集落の中央の広場に、立っていた。

 子供たちは、それぞれの仕事に、戻り始めていた。トーランは、私に、もう一度、軽く頭を下げてから、家畜の方に、歩いていった。四歳の女の子は、母親の方に、走っていった。

 子供たちが、それぞれの仕事に戻る、その姿を、私は、見ていた。

 彼らは、すでに、阿古屋型の、薄いネットワークの一部だった。

 彼らは、私が中枢で見ることになるものの、もうひとつの、表現の形だった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈あなたが京都で経験したことは、ここでは、子供たちのなかに、すでに、芽として、撒かれています〉

「うん」

 〈撒かれた種は、これから、どう育つかは、まだ、決まっていません〉

「決めない、ね」

 〈はい。決めない、です〉

 集落の北東の方向、天山山脈のさらに奥の方向から、九月の終わりの朝の風が、ゆっくり、降りてきていた。

 その風は、京都の家の縁側の風とも、ビシュケクのユルタの風とも違う、もう一つ別の質感の風だった。しかし、その違いのなかに、深い親しさが、すでに、住み始めていた。

 今日、私は、中枢に向かう。

 神でも、機械でもないものを、見に行く。

 井戸を、見に行く。



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