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圏外  作者: ichthus
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17/22

第十六話 高地

 サマルカンドからビシュケクへの移動は、半日の飛行だった。

 二一三〇年代の中央アジアの域内航空網は、ディフュージョン以前よりも整備が進んでいた。再生プロジェクトの物流と、人の移動を支えるために、域内の主要都市を結ぶ低高度の自動操縦機が、頻繁に運航していた。サマルカンド・ビシュケク便も、その一つだった。

 機内で、私と陳と、護衛の女性は、それぞれの座席で、静かに過ごしていた。

 護衛の女性は、機内ではほとんど話さなかった。彼女が話すのは、業務上の最小限の確認だけだった。彼女の名前は、サマルカンドで一度だけ聞いた。野口、と名乗った。それ以外の情報は、私はまだ知らなかった。

「野口さんは、OMC本部のどこのご所属ですか」と、離陸前に、私は一度だけ聞いた。

「医療局付きの保安要員です」と野口さんは答えた。「医療局付きという所属は、武力行使の権限を持たない区分です。私の任務は、あなたが医療的な意味で危険にさらされた時に、それを最小限の介入で抑えることです」

「医療的な意味」

「感覚過敏の発作、意識消失、生体システムの異常、義眼・義肢・義耳の同期不全。これらが起きた時に、現地の医療機関とOMC医療局のあいだの連絡を担います。直接の戦闘要員ではありません」

「ありがとうございます」

「お礼は——」

「戻ってから、ですね」

「ええ」

 野口さんは、薄く笑った。京都の人ではなかったが、京都の人の作法を、知っている人だった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈野口さんには、京都の医療局周辺で訓練を受けた方の癖が残っています〉

「どこで分かるの」

 〈言葉の間合いと、お辞儀の深さです。武井さんや梅木先生とは違いますが、同じ系統の礼法を、身体で覚えている人です〉

「梓、人を察するの、上手になったね」

 〈遥と長く一緒にいたためだと、推定しています〉

「それは、私のせいなのか、おかげなのか」

 〈判定中です〉

 私は少し笑った。

 窓の外では、中央アジアの乾いた大地が、雲の切れ間から、ところどころ見えていた。サマルカンドの水路と果樹園は、すでに後方へ流れていた。これから向かう先には、天山山脈がある。水を戻した土地から、水が生まれる高地へ、私は移動していた。

    *

 ビシュケクの空港に着いたのは、現地時間の午後だった。

 飛行機を降りた瞬間、私は、空気が、サマルカンドよりさらに乾いていることを感じた。同時に、サマルカンドより、もっと深い水の匂いが、空気のなかにあった。

 乾いているのに、水の匂いが強い。

 矛盾しているようで、矛盾していない空気だった。

「これは、天山山脈から来ています」と陳が言った。「ビシュケクは、天山の麓の街です。氷河と雪解け水が、街の地下水脈を通って、空気のなかに、水分を運んでいます」

 〈遥、ビシュケクの認証層に、京都の暗琴との共鳴が強く出ています〉と梓が、内側で言った。〈サマルカンドより、強度が三倍近いです〉

「ここ、京都に近いってこと」

 〈共鳴の意味では、近いです。京都の暗琴の対の片方が、ビシュケク周辺、あるいはこれから向かう天山山脈の山麓のどこかに設置されている可能性が高いです〉

 ビシュケクの空港のターミナルは、サマルカンドより、もっと素朴な造りだった。サマルカンドのターミナルが、土と青と黄金色の文様を構造のなかに織り込んでいたのに対して、ビシュケクのターミナルは、機能的で、装飾は控えめだった。

 ただし、控えめだから貧しいわけではなかった。建物の構造材は、上質な木と、丁寧に磨かれた石でできていた。余計なものは少ないが、長く使われることを前提とした建築だった。

「キルギスの建築は、装飾よりも、機能と耐久性を重視します」と陳が言った。「遊牧民の伝統です。装飾は、運べる絨毯や織物のなかに込められます」

「建物より、絨毯のほうが、装飾が多い」

「ええ。動かせるものに、装飾が集中します。動かせないものは、シンプルです。これが遊牧民の建築の哲学です」

 京都の町家の障子や襖が、季節ごとに張り替えられることで装飾を更新していくことを、私は思い出した。京都は定住の文化だが、装飾の一部を、可変のものに託している。

 キルギスは移動の文化だが、移動するもののなかに、動かない記憶を織り込んでいる。

 同じではない。

 けれど、まったく違うわけでもなかった。

    *

 ビシュケクの空港で、私たちを迎えに来た人物がいた。

 四十代の、痩せた女性だった。髪は黒く、肌は、サマルカンドの長老より少し淡く、アジア的な顔立ちだった。彼女は、私たちを見つけると、深く頭を下げた。

「お待ちしていました。アイスル、と申します」と彼女は、流暢な日本語で言った。

「日本語、お上手ですね」と私は言った。

「父が、京都の人でした」とアイスルは言った。「父は、二〇九〇年代に、阿古屋さんと一緒に、中央アジアに来ました。母は、キルギスの天山山脈の山麓の出身です。私は、両親のあいだに生まれて、ここで育ちました」

「お父様、京都の方」

「ええ。京極明彦先生のご紹介で、中央アジアに来た日本人技術者の一人でした。父は、阿古屋型の医療応用と、農業応用の橋渡しを担当していました。父は二一一八年に、現地で亡くなりました」

「亡くなって」

「ええ。中央アジアの再生プロジェクトの現場での事故でした。父は、阿古屋さんの仕事の、一部の柱でした。私は、父の仕事を、半分、引き継ぎました。残りの半分は、別の方々が引き継いでおられます」

「アイスルさんのお仕事は」

「阿古屋型共同体と、外部の世界の、連絡係の一つです。共同体の本体は、天山山脈の中の、特定の場所にあります。あなたが、これから向かわれる場所です。私は、その場所と、ビシュケクの街、サマルカンド、そして他の中央アジアの都市のあいだを、繋ぐ役割を担っています」

 アイスルの声を聞いているあいだ、私の左の義眼の認証層が、ごく弱く、反応していた。

 痛みではなかった。警告でもなかった。むしろ、遠くの音が、かすかに同じ調子で鳴っているような感覚だった。

 〈遥〉と梓が言った。〈アイスルさんの身体に、京都型由来の薄い層があります〉

「京都型?」

 私の声に、アイスルは静かに頷いた。

「はい。父を通じて、私は京都型のごく薄い層を持っています。ただし、あなたのような発現型ではありません。私の京都型は、ほとんど眠っています」

「阿古屋型は」

「母の側から、阿古屋型の安定層を受けています。山岳地帯の多くの人々と同じです。私は、京都型と阿古屋型の共存個体ではあります。ただし、あなたのように、強い界面ではありません」

「強い界面」

「あなたは、京都型と阿古屋型が、事故と接続を通じて、大きく開いた方です。私は違います。私の中では、二つは低い出力で、長く安定しています。橋というより、小さな結び目です」

「小さな結び目」

「ええ。私は、京都型を、夢のなかでだけ、感じます。起きているあいだは、ほとんど意識しません。父が亡くなった後、何年かして、京都の家の縁側の夢を、繰り返し見るようになりました。父も、母も、私自身も、行ったことのない、京都の家の縁側です。それが、私のなかの京都型の、表現の仕方です」

「夢の縁側」

「ええ。あなたの家の縁側かどうかは、私には分かりません。ただ、夢のなかの縁側には、いつも、楓の木があって、池の水音がしています」

 私は、しばらく、息を、止めた。

「アイスルさんの夢に出てくるのは、たぶん、宗像家の縁側です」

「やはり」

「私の家の縁側に、楓があって、その向こうに池があります。茅という眷属の動物が、いつも縁側にいます」

「茅」

「家の動物の名前です」

「私の夢には、動物までは、出てきません。ただ、誰かが、縁側の少し奥に、座っている気配があります。それが誰かは、見たことがありません」

「私の祖父かもしれません。それとも、家のAIの新霖かもしれません」

「分かりません。ただ、その気配は、いつも私に、ようこそ、と言っています」

 私は、空港の出口の前で、アイスルの目を見ていた。

 アイスルの目は、京都の人の目とも、サマルカンドの長老の目とも違う、もう一つ別の温度の目だった。低い出力で、しかし確実に、何かが、彼女のなかで、ずっと鳴り続けている目だった。

 〈遥〉と梓が言った。〈アイスルさんは、あなたの鏡像ではありません。しかし、対応点です〉

「同型じゃなくて、対応」

 〈はい〉

 アイスルは、私たちを、ビシュケク郊外の宿に案内した。宿は、街の南東側、天山山脈の山麓に向かう道沿いの、低層の家だった。

 宿の窓から、南の方向に、天山山脈の稜線が見えた。

 九月の終わりの空気のなかで、天山の山頂は、すでに雪をかぶっていた。日が傾く前の午後の光が、雪をかぶった山頂を、薄い金色に染めていた。

 私は、しばらく、窓の前に立っていた。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈天山の山頂の雪に、京都の暗琴と共鳴する位相が、強く出ています〉

「山頂の雪に?」

 〈はい。これは、雪のなかに何かが埋め込まれている、というより、山そのものが、共鳴の基盤になっている、ということを示しています〉

「山が、暗琴のひとつ」

 〈山自体が、ひとつの巨大な暗琴と、構造的に近いです。京都の暗琴が、家のなかの小さな水琴窟だとすれば、天山は、天然の、巨大な暗琴です〉

「お祖父さんとアコヤさんは、山を、暗琴として、認識してた」

 〈そう推定されます。京都の暗琴は、天山の暗琴と対になっていた可能性があります。あるいは、京都の暗琴は、天山の暗琴の、小さな模倣だった可能性もあります〉

 窓の外で、天山の山頂の雪が、金色から橙色へと、ゆっくり色を変えていった。

 京都の暗琴は、床下で水の音を沈める。

 天山の暗琴は、雪と氷河と岩盤のあいだで、空の音を沈める。

 同じではない。

 けれど、穴の位置だけが、どこかで重なっている気がした。

    *

 その夜、アイスルが、宿の食堂で、私たちと一緒に夕食をとった。

 料理は、サマルカンドより、もう一段、シンプルだった。羊の脂で炒めた米と、新鮮な野菜と、薄いパン、そして発酵させた馬乳酒。馬乳酒は、私が初めて飲む飲み物だった。やや酸味のある、軽い飲み物だった。

「これ、京都の濁り酒に、少し似てるかも」

「キルギスの馬乳酒は、千年以上、ほぼ同じ作り方です」とアイスルが言った。「遊牧民の発酵食品は、運ぶことができます。長距離移動の文化のなかで、長く保存されてきました」

「お父様が、京都の人だったから、京都の食べ物との比較を、知ってるんですね」

「父は、京都の濁り酒と、キルギスの馬乳酒の、両方が好きでした。父は、両方の文化のあいだに、共通するものを見ていました」

「共通するもの」

「ええ。父は、文化人類学の専門家ではありませんでしたが、自分なりの観察を、よく話していました。京都と中央アジアの遊牧民文化は、地理的には全く別の場所ですが、ある層では、近い、と父は言っていました」

「ある層って」

「父の言い方では、『決めないものを、決めないままに、長く保つことを、両方の文化が知っている』というような言い方でした」

「決めない、ってこと」

「ええ。京都の文化も、キルギスの遊牧民の文化も、急いで決めない、ということを、長く守ってきた、という観察です。京都は定住文化ですが、その定住のなかに、決めない時間の保ち方があります。キルギスの遊牧民は移動文化ですが、その移動のなかに、決めない場所への帰り方があります。父は、両者のあいだに、通じるものを見ていました」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈アイスルさんのお父様は、武井さんと、同じ世代の京都の人です〉

「うん」

 〈アイスルさんは、決めない人の系譜のなかに、半分、入っています。残りの半分は、キルギスの遊牧民の系譜です〉

「私と、似てる」

 〈似ています。ただし、同じではありません〉

「うん。同じだったら、たぶん、ここまで来る意味がなくなる」

 〈はい。違うから、対応できます〉

 アイスルは、馬乳酒を一口飲んで、それから、私をまっすぐ見た。

「宗像さん、明日、私が、あなたを天山山脈の山麓の集落にお連れします。集落で、まず、遊牧民の方々とお会いいただきます」

「分かりました」

「集落の方々は、阿古屋型共同体の外側の輪の一部です。共同体そのものは、もっと奥の、山のなかにあります。明日、集落で一泊し、明後日、奥の共同体に向かいます」

「明日、集落」

「ええ。集落の方々は、あなたに会えることを、待っておられます」

「私のこと、ご存知なんですか」

「あなたが来られることは、阿古屋型共同体の中枢から、集落に、事前に通知されています。あなたが京都の宗像家の方であること、京都型を体内に持っておられること、これらは、集落の方々のあいだで、知られています」

「アコヤさんの方から、通知された」

「ええ。共同体の中枢は、あなたが上海で陳さんと合流された段階から、あなたの動きを把握しておられます」

「梓を通じて?」

「梓さんと、新霖さんと、京都の暗琴のネットワークを通じてです。あなたの動きの情報は、低帯域の信号として、京都から、共同体の中枢に、ほぼリアルタイムで届いています」

 〈遥〉と梓が言った。〈これは、新霖が出立の前夜に、あなたに伝えた経路の、現在の状況です〉

「私たちが移動しているあいだも、新霖、ずっと信号を送ってた」

 〈はい。新霖は、家のなかから、低帯域で、あなたの位置と状態を、共同体の中枢に伝え続けています。これは、敬一郎さまが設計された経路の、本来の目的のための運用です〉

「私が、ちゃんとここに辿り着くまで、見守られてた」

 〈見守られていた、というより、共同体の中枢が、あなたを迎える準備をしておられた、と申し上げるほうが正確です〉

 アイスルは、ゆっくり頷いた。

「中央アジアでは、客人を迎えることは、千年の伝統的な儀礼です。あなたは、ただの旅人として来られたのではありません。あなたは、京都から、半世紀越しに、迎えられている客人です」

「半世紀越し」

「ええ。京極明彦先生の代から、京都と中央アジアの再生プロジェクトのあいだには、深い関係がありました。あなたは、その関係の、宗像家の側の結節として、ここに来られています。集落の方々も、共同体の方々も、皆、半世紀越しに、宗像家からの客人を、お迎えします」

 私は、馬乳酒の杯を、両手で包むように持った。

 母が湯呑みを両手で包むように持つ仕草と、同じ仕草だった、と気づいた。私の母も、長く包んで持つことで、温度を確認する人だった。母の仕草が、私の身体のなかに住んでいた。

 馬乳酒は、温かくも冷たくもない、ちょうど身体に近い温度だった。

    *

 翌朝、私とアイスルと陳と野口さんは、アイスルの運転する車で、ビシュケクから南東の方向に、天山山脈の山麓へ向かった。

 道は、最初は舗装された幹線道だったが、街を出て一時間ほど走ると、舗装は薄くなり、道幅は狭くなった。両側に、徐々に低い丘陵が見え始めた。

「ここから先は、外側の地図では灰色圏に分類されます。ただし、阿古屋型共同体の影響圏のなかでは、安定した地域です」とアイスルが、運転しながら言った。「外の世界の地図では灰色圏ですが、現地では、別の秩序が、千年、保たれています」

「別の秩序」

「ええ。遊牧民の長老会と、阿古屋型共同体の合議体が、共同で運営している秩序です。OMCも、市の商人たちも、この地域には、原則として、立ち入らないという暗黙の合意があります」

「市の商人たちは、ここには来ない」

「平地の都市部までです。山岳地帯には、市の商人たちは、入りません。ただし、最近、その境界が、少しずつ曖昧になってきています。今年の春の襲撃も、その境界の曖昧化の、一つの兆候でした」

「境界が、変わりつつある」

「ええ。これが、阿古屋型共同体が最近、不安定になっている原因の一つです」

 車窓の外で、低い丘陵が、徐々に高くなり、丘陵のあいだに、白く流れる水音が聞こえ始めた。

「あれは、川ですか」

「川と、雪解け水の、混じったものです。九月の終わりは、まだ氷河が溶けている時期です。冬の入り口になると流れが弱くなり、春に、また強くなります」

 道沿いの川を、私はしばらく見ていた。京都の鴨川とも、サマルカンドの灌漑水路とも違う、もう一つ別の質感の水だった。冷たく、速く、しかし、どこか清潔な水。

 〈遥、この川の水質は、京都の伏流水と、化学的に近い〉と梓が、内側で言った。

「梓、化学的にって」

 〈ミネラル組成が、京都の伏流水と、似ています。具体的には、カルシウムとマグネシウムの比率と、微量元素のパターンです〉

「京都の水と、天山の水が、化学的に近い」

 〈はい。これは、武井さんが以前言及された同位体パターンの相関の、別の側面です。京都とこの土地の水は、表面の経路は違いますが、身体に入った時の反応が近い〉

「私の身体に、両方の水が入ってくるってこと」

 〈そうです。あなたが今までに飲んできた京都の水と、これから飲むことになる天山の水は、身体の側から見れば、かなり近い水です。あなたの身体は、よく似た水を、別の場所で飲み直すことになります〉

 飲み直す。

 その言葉が、妙に、深く身体に入ってきた。

 私は、同じ水を飲んでいるのではない。

 しかし、まったく違う水を飲むのでもない。

 別の場所で、似た水を、もう一度、飲み直す。

 それが、旅なのかもしれない、と私は思った。

    *

 車は、午前の遅い時間に、集落に着いた。

 集落は、丘陵のあいだの、緩やかな斜面に、十数戸の家が散らばっていた。家は、白い土と、木材でできていた。屋根は、低い勾配の、薄い板で葺かれていた。

 集落の中央に、大きな円形の建物があった。

「これは、共同のユルタの、現代的な形です」とアイスルが言った。「夏は、遊牧民は山の上のほうで、移動のユルタで生活します。冬は、ここに戻り、共同のユルタで過ごします。あなたが来られたタイミングは、ちょうど、夏の高地放牧から、冬の集落生活への移行期です」

「九月の終わりは、移行期」

「ええ。皆さんが、今、集落に降りてこられて、冬支度をしているところです」

 車から降りた瞬間、私は、空気が、ビシュケクよりさらに薄いことを感じた。

 高度が、上がっていた。京都の街とは、まったく違う高さだった。

 〈遥、標高は、二千百メートルです〉と梓が、内側で言った。〈あなたの呼吸機能を、私の側で自動的に調整しています。違和感を感じたら、教えてください〉

「梓、ありがとう」

 集落の中央の共同ユルタの前に、八十歳くらいの男性が立っていた。サマルカンドの長老と、同じ種類の時間をまとった人だった。しかし、サマルカンドの長老が痩せた身体だったのに対して、こちらの長老は、もっとがっしりした身体つきだった。山の人の身体だった。

 長老は、アイスルに何か言って、それから、私のほうに、ゆっくり歩いてきた。

 長老は、私の前に立つと、深く頭を下げた。

 その頭の下げ方を見て、私は不思議な気持ちになった。これは京都の武井家の頭の下げ方そのものだった。中央アジアの遊牧民の老人が、京都の千年の家の作法を、身体で持っている。同じではない、しかしまったく違うわけでもない。

「ようこそ、お越しくださいました」と長老は、訛りのある日本語で、ゆっくり言った。「あなたを、お待ちしていました」

「お招きいただき、ありがとうございます」

「お礼は——」

「戻ってから、ですね」

 長老は、薄く笑った。

「ええ。京都の方は、皆、そう言われます」

「ご存知なんですね」

「半世紀、京都の方々と、お付き合いしてきました。お礼の作法は、覚えました」

 長老は、私を、共同ユルタのなかに案内した。

 ユルタの内部は、外から想像したより、ずっと広く、ずっと暖かかった。床には、複数の絨毯が、層になって敷かれていた。絨毯の文様は、サマルカンドの長老の家にあったものと似ていたが、もう少し抽象的で、もう少し古い時代の様式を保っているように見えた。

「絨毯、見させてもらっていいですか」

「もちろん」

 私は、絨毯の前にしゃがんだ。

 絨毯の文様のなかに、私の知らない記号が、いくつか、織り込まれていた。サマルカンドの長老の家の絨毯にもあった記号と、同じ系列のものだった。しかし、こちらの絨毯のほうが、記号の数が、もう少し多かった。

「これらの記号は」

「水の記号です」と長老が言った。「川、湖、井戸、雨、雪、それぞれの記号が、絨毯のなかに織り込まれています。遊牧民は、水の場所を、絨毯に記録します。文字の代わりに、文様で、水の地図を覚えています」

「水の地図を、絨毯に」

「ええ。動かせるもののなかに、動かせない知識を保存します。絨毯を持って移動すれば、水の場所の記憶も、一緒に移動します」

「すごい知恵」

「千年の知恵です。あなたの京都の家にも、似たような知恵があると、私は聞いています」

「あります。家の床下に、水琴窟という、水の音の装置があります。あれも、水の場所の記録、と言えるのかも」

「ええ。京都の暗琴と、私たちの絨毯は、同じではありません。しかし、どちらも、水の記憶を、別の形で保存しています」

 同じではない。

 けれど、同じところに穴がある。

 水が沈む場所。音が残る場所。人が移動しても、忘れてはいけないものを、隠しておく場所。

 私は、絨毯の文様を見ながら、そう思った。

 長老は、私を、絨毯の上に座らせた。

 ユルタの中央に低い卓があり、卓の上に、湯気を立てた茶が置かれていた。茶は、京都の煎茶とも、サマルカンドのお茶とも違う、もう一つ別の質感の、香りの強い茶だった。

「これは、塩茶です。バターと塩を入れて、煮出した茶です。高地の身体に、必要な栄養を補います」

「塩、お茶に」

「ええ。高地で、長時間移動するときの、伝統的な飲み物です。慣れない方には、最初は奇妙に感じます」

 私は、塩茶を一口飲んだ。

 最初の一秒、確かに、奇妙な味だった。しかし、二秒目から、その奇妙さが、ゆっくり、身体の奥に染み込んでいくのを感じた。塩とバターと茶葉の組み合わせが、高地の薄い空気のなかの私の身体に、必要な何かを補っていた。

「身体が、これを欲しがってる、っていう感じです」

「ええ。それが、千年の知恵です」

 〈遥、塩茶の成分が、あなたの血中の電解質バランスを、急速に調整しています〉と梓が言った。〈高地適応の、生理学的に正しい飲み物です〉

「梓、私の身体、今、適応中なんだ」

 〈はい。高地への適応は、ゆっくり進めるのが最善です。塩茶を飲みながら、ゆっくり過ごすのが適切です〉

 長老は、塩茶をゆっくり飲みながら、私を見ていた。

「宗像さん」

「はい」

「集落の方々と、ご紹介の儀礼を、後で行います。十数人の長と、子供たち、それぞれと、簡単な挨拶を交わしていただきます。これは、共同体の伝統です」

「分かりました」

「儀礼が終わった後、夜、私と二人で、お話しする時間を、お取りいただけますか」

「もちろん」

「私から、あなたに、お伝えしたいことが、いくつかあります。明日、阿古屋型共同体の中枢に向かわれる前に、お伝えしておくべきことがあります」

「中枢に向かう前に」

「ええ。中枢で、あなたが何を見られるかは、私には、分かりません。しかし、中枢に行かれる前に、知っておかれたほうがよいことは、私の側で、お伝えできます」

 長老の目が、しばらく、私の目を見ていた。

 その目は、京都の武井さんの目と、サマルカンドの長老の目と、同じ温度を持っていた。決めない人の目だった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈この方は、長く、阿古屋さんを知っている方です。サマルカンドの長老よりも、もう一段深く、阿古屋さんと関わってこられた方です〉

「うん」

 〈夜のお話を、しっかり聴かれたほうがよいです〉

「うん」

 ユルタの天井の中央に、小さな円形の開口部があり、そこから、九月の終わりの中央アジアの空が見えていた。

 空は、京都の空より、深い青だった。京都の空が、湿気で柔らかい青だとすれば、ここの空は、乾いた空気のなかで、もう一段、純度の高い青だった。

 その青のなかに、私は、京都の空と、サマルカンドの空と、そしてこれから向かう、もっと奥の山の空が、ひとつの連続した青として、つながり始めているのを感じた。

 〈遥〉

「うん」

 〈着きましたね〉

「うん。半分は、着いた」

 〈残りの半分は〉

「明後日、中枢で」

 〈はい〉

「梓、ここまで、一緒に来てくれて、ありがとう」

 〈ありがとう、ではないです。私は、あなたと一緒に、来たかったから、来ました〉

「梓、それ、いつから、そういう言い方、できるようになった」

 〈いつから、と特定できません。ただ、ここに着くまでの旅のあいだ、私の側で、何かが、少しずつ変わりました〉

「梓も、進化してる」

 〈進化、というより、深化、かもしれません〉

「同じ音の言葉、だね」

 〈漢字は違いますが、どちらも、変わることです〉

 ユルタの天井の開口部から、九月の終わりの天山山脈の風が、ゆっくり、内部に降りてきていた。

 風は、京都の家の縁側の風と、違う匂いを持っていた。

 しかし、その違いのなかに、深い親しさが、すでに、住み始めていた。

 同じ風ではなかった。しかし、私の身体は、その風を、京都の風と、別の場所で、もう一度、吸い直しているような気がした。

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