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圏外  作者: ichthus
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10/22

第九話 持ち合わせ

 五月の最終週、武井さんが、いつもの月例の茶ではなく、正式な訪問として、宗像邸に来た。

 午前十時の予定だった。武井さんが正式な訪問のときは、いつも午前十時、と母から聞いたことがあった。「公的な仕事の時間で、しかし家を訪ねる人の時間でもある、という、武井家が三代守っている時間」だそうだった。

 武井さんは、灰色のスーツに、薄い水色のネクタイで来た。茶を持ってきた小さな包みは、いつもと同じ和菓子屋のものだったが、結びの位置が、いつもより少し高かった。「公務」と「私事」の比率を、結び目で示している、ということを、私は今日、初めて理解した。

「宗像さん。本日は、OMC京都支部による事件捜査の中間報告を、持って参りました」

「中間」

「最終報告は、捜査の性質上、おそらく数年後になります。それまでに、捜査の現段階と、ご家族として知っておいていただく必要のあることを、定期的に、あなたにお伝えする予定です。本日が、その最初の正式報告です」

 居間ではなく、応接間が用意されていた。新霖が、朝のうちに障子を一段だけ開けて、庭の楓の若葉が、室内の壁にゆらぐように陰を落とすように調整してあった。これは私の指示ではなく、新霖の判断だった。

 〈新霖が、武井さんの公的訪問のための応接の作法を、家のログから学習したようです〉と梓が、内側で言った。〈学習結果は、過不足なく、適切です〉

「過不足なく、ね」

 〈過不足なく、という評価が、家の側から見て、正しい応接の作法です〉

 武井さんは応接間に入ると、まず床の間に向かって、軽く一礼した。床の間には、今は写真がなかった。書庫から動かしていた。代わりに、母が置いていった、初夏の野花の小さな活けが、白い花瓶に入っていた。

「お庭、初夏になりましたね」

「梅花藻が、増えました」

「池の上流の伏流水は、どうですか」

「依然として、量が多いです」

「家のログには、何か出ていますか」

 新霖が、応接間のスピーカーから、穏やかに答えた。

「池の水位は、平常の上限に達しています。ただし、水質は安定しています。下流への放流は、自動調整で、通常の倍近い量を流しています」

「多いですね」

「多いです。武井さんのご家族の井戸の水量は、いかがですか」

「先週、上がりました」

「相関、ですね」

「たぶん」

 武井さんと新霖の短いやりとりが、私の頭を一つ越えた感じで続いた。「武井さんのご家族の井戸」がここで出てくることを、私はまだ完全には意味付けられなかった。

 〈武井家は、左京区の岩倉に本宅があります。岩倉の地下水脈は、大原の北東の山と繋がっていることが、京都市の古い水文学資料に記載されています〉と梓が、内側で言った。〈宗像家と武井家は、地下水脈で繋がっている家、という言い方が、京都の古い言い方では、一族扱いの一形態に当たります〉

「梓、それ、本当?」

 〈本当、です〉

 応接間の卓に、武井さんが書類を一束、置いた。電子書類ではなく、紙だった。

「公的書類の正本は、もちろん電子で、OMCのサーバーに保存されています。これは、あなたにお渡しするための紙の写しです。あなたの家系は、紙で記録を共有する伝統があります。私の家もそうです。だから、この写しは、私の家から、あなたの家へ、紙で来ました」

 書類は、薄い灰色の表紙に、判が押してあった。「OMC京都支部 事件番号一三〇—〇四—一一七 中間捜査報告(三)」と書かれていた。

 武井さんは、書類の表紙の上に、自分の手のひらを軽く置いた。

「ここから、捜査の現段階をお話します。把握できていることと、把握できていないことの、両方です」

「お願いします」

    *

 把握できていること、と武井さんは前置きして、まず話し始めた。

 索の所属する組織は、一つの中央指揮系統を持つ集団ではなく、複数の細胞構造が緩やかに連携した分散ネットワークである。OMCの暫定的な呼称は「環状組織」。理由は、彼らの通信構造が放射状ではなく環状で、中心がない、という観察に由来する。環状組織には、確認されているだけで、中央アジアに三つ、コーカサスに一つ、東南アジアの圏外深部に一つ、拠点がある。三つの中央アジアの拠点のうち、宗像家事件に直接関わったのは、おそらく一つで、残りは事件以前から別系統として存在していたとみられる。

「中央アジアのどこです」

「これも、ご家族としてお伝えします。三つの拠点のうち、宗像家事件に関わった可能性の高い拠点は、旧キルギスの天山山脈北麓の、ある湖の周辺です」

「湖」

「イシク・クル」

 〈イシク・クル〉と梓が、内側で繰り返した。〈訳すと、「熱い湖」、または、「凍らない湖」〉

「凍らない湖」

「湖そのものが、塩分のために、冬でも完全には凍りません。湖底には、旧ソ連時代に、複数の研究施設がありました。そのいくつかは、ディフュージョン以前にも稼働していて、阿古屋さんたちの研究グループが、二〇八〇年前後に短期間、湖の周辺のフィールドステーションに滞在した記録があります」

「阿古屋さんが、行ったことがある」

「短期間、複数回。記録は、京大ではなく、当時の旧国際科学評議会のアーカイブに残っていました。OMCが、最近、アクセスできるようになりました」

「最近、というのは」

「事件後、です」

「事件をきっかけに、OMCが、阿古屋さんの過去のフィールドワークを、調べ直したということですか」

「そうです。優先度を、最高に上げて」

 武井さんは、書類のページをめくった。次のページには、京都の宗像邸の地図と、イシク・クル湖の地図が、左右に並んで印刷されていた。両方の地図の縮尺は違うが、マーカーで示された地点が、それぞれ「水の出る場所」だった。

「宗像家の水琴窟、書庫棟の床下の暗琴、池の水源、それからイシク・クル湖の北岸にあるかつての観測点。地下水脈ではないので物理的に繋がってはいませんが、共通している点が、いくつかあります」

「共通点」

「水温の年間変動の振幅が、極端に小さい。それから、水のなかに、痕跡量で、特定の同位体が含まれている。同位体の組成パターンが、二つの場所で、誤差範囲を超えて一致しています」

 〈遥、これは、私の側の古い層が反応する種類の情報です〉と梓が言った。

「分かった」

 武井さんが、私の表情の小さな変化を見ていた。

「梓さんが、何か」

「うん。古い層が、反応してる」

「同位体パターンは、人為的に設定可能なものです。誰かが、二つの場所の水を、意図的に同調させた可能性があります」

「いつ」

「ディフュージョンの前後、と思われます。京都側を整備したのは、おそらく曾祖父か祖父の代。イシク・クル側を整備したのは、阿古屋さんの最後のフィールドワーク時、と推定されます」

「同調させて、どうするんですか」

「水を、共鳴媒体にする、ということだと思います。物理的に離れた二つの場所が、同じ位相を持つことで、何らかの信号の同時受信が可能になる。具体的な原理については、京極先生のご専門の領域です」

 武井さんは、書類をめくった。

「次の項目です。索たちの組織が、宗像家から持ち帰ったものについて」

    *

 持ち帰られたもののリスト、と武井さんは続けた。

 第一に、土蔵西側に保管されていた、二〇八〇年前後の研究記録の一部。これは紙の記録と物理媒体で、OMCがおおよその目録を持っていたため、何が持ち帰られたかは特定できている。約六割。残り四割は、家に残っている。

 第二に、離れの地下第二層の中央筐体に保管されていた、生体演算系の試作プロトタイプの一部。これは事件当夜、爆ぜによって損傷し、損傷した状態で持ち帰られた。OMCは、この試作プロトタイプの性質について、これまで部分的にしか把握していなかった。事件後の現場調査で、初めて、これが阿古屋型ベクターの初期プロトタイプ——いわゆる京都型——を含んでいた可能性が浮上した。

「OMCは、京都型を、知らなかったんですか」

「公式には、その存在は確認されていませんでした。当時の研究記録のなかで『試作プロトタイプ』とだけ記載されていて、内実が、家のなかでだけ保存されてきました」

「家が、隠してきた」

「隠した、というより、家として保管してきました。OMCの上層部の一部は、推定はしていたと思います。しかし正式な確認は、しませんでした」

「正式に確認しなかったのは、なぜ」

「正式に確認すると、OMCの管理下に置く必要が出てきます。家から取り上げる、ということです。それを、しなかった」

「なぜ、しなかったんですか」

 武井さんは、書類から目を離して、私を見た。

「私の個人の見方を、お話してよろしいですか」

「お願いします」

「OMCの上層部の一部は、宗像家を、信頼していました。家のなかで保管されているほうが、OMCの倉庫にあるより、安全だと判断していた、ということです。これは公式な判断ではありませんが、結果として、そう運用されてきました」

「信頼」

「信頼の根拠は、家系の長期的な信用です。あなたの曾祖父の代から、宗像家は、自分たちが何を持っているかを、家の外には絶対に話さない、しかし家の内部では正確に管理する、という運用を、続けてきました。OMCの京都支部は、それを、見てきました」

「見てきた」

「私の家系も、見てきました」

 短い間。

「宗像家事件は、その信頼の前提が崩れたかもしれない、ということです」

「崩れた」

「家の側に問題があったわけではありません。家の外から、家の信用の弱点を、突かれました。索たちは、家の信用そのものを攻撃したのではなく、家の信用が成立する前提——物理的に閉じた空間に保管していれば奪われない、という前提——を破りました」

「物理的な侵入で」

「物理と、ネットワークと、もう一つ、第三の経路で。三つを同時に使った攻撃は、OMC京都支部が想定していた防衛シナリオの、すべての枠を超えていました」

「想定していなかった」

「想定の最大値を、超えていました。これも、私たちの責任の一部です」

 武井さんは、頭を、わずかに下げた。

「私の家は、宗像家を見守る家系として、三代、続いてきました。三代続いた見守りが、結果として、あなたの怪我を防げませんでした。これについては、OMCの公的な責任とは別に、武井家として、お詫びします」

 武井さんの一礼は、深かった。

 私は、しばらく言葉が出なかった。

 〈遥、武井さんは、いま、家対家の作法で、頭を下げています〉と梓が、内側で言った。〈OMCの職員としてではなく、武井家の三代目として。これは京都の旧家のあいだの、最も重い謝罪の作法です〉

「武井さん」

「はい」

「頭を、上げてください」

 武井さんは、ゆっくり、頭を上げた。

「武井家のせいでは、ありません。家のせいでも、私のせいでも、ありません。誰のせいでも、なかった、と私は思います」

「……あなたは、お祖父さまに、似ておられます」

「決められない人だったって、京極先生から聞きました」

「決められないことを、決められない、というのは、決めない、ということです。それを、決断と呼ぶには、勇気が要ります。あなたのお祖父さまは、勇気のあった人でした」

 応接間の障子の隙間から、楓の若葉のゆらぎが、武井さんの肩のあたりに、薄い緑の影を落としていた。

 影は、ゆっくり、動いていた。

    *

 把握できていないこと、と武井さんは前置きして、続けた。

 索たちの環状組織の、最終的な目的。彼らが「持ち帰った」ものを、どう使うのか。使うのか、保管するのか、別の場所に再分散するのか。

 第三の経路の正体。索が「了解していなかった」と言った別系統が、誰のものなのか。索たちの内部の派閥なのか、彼らとは別の組織なのか、あるいは、もっと古い、誰も主体性を持たないまま動いている自走型のシステムなのか。

 阿古屋本人の現状。阿古屋という名前を継ぐ存在が、現在も中央アジアにいるのか。いるとして、それは生身の人間か、サイボーグか、システムか、複数の存在の集合体か。

「阿古屋さんが生きているかどうかは、まだ、分からないんですか」

「分かりません。ただし、OMCの上層部の一部は、阿古屋さんに相当する存在と、長年、非公式な接触を保ってきた、と私は推定しています」

「推定」

「私の地位では、確認できません。ただ、OMC京都支部に来る情報の一部に、外部からのものとは思えないほど精度の高い、しかし出所の表示されていないものが、定期的に混じります。これは、誰かが、こちらに情報を提供している、ということです」

「OMCの上層部と、阿古屋さんが、繋がっているかもしれない」

「断定はできません。可能性として、ご家族には共有しておきます」

「OMCは、どっち側にいるんですか」

 武井さんは、しばらく、答えなかった。

「OMCは、複数の側に同時にいます。これは、悪い意味ではありません。OMCは、連邦圏の秩序を守るために、阿古屋型のような外部の存在とも、最低限の対話の経路を維持する必要があります。完全な敵対は、双方の損失が大きすぎる」

「対話の経路」

「正式な外交ではありません。しかし、互いの存在を否認しないための、非公式な経路です」

「私は、その経路の、一部になるんですか」

 武井さんは、私の目を見た。

「なる可能性があります。なるかどうかは、あなたが決めます」

「OMCは、私を、それに使うつもりですか」

「使う、という言葉を、私は使いたくありません」

「では、何という言葉を使われますか」

「託す」

 託す、という語が、応接間の空気のなかで、ゆっくり、止まった。

「託される、ということは、断ることもできるんですか」

「できます」

「断ったら」

「OMCは、別の方法を探します。あなたへの待遇は、変わりません」

「本当に?」

「本当です。これは、OMCの京都支部の方針として、私が責任を持って申し上げます」

 〈武井さんは、嘘をついていません〉と梓が、内側で言った。〈ただし、京都支部の方針が、OMC全体の方針と一致しているかは、保証されません〉

「梓、ありがとう」

 〈いいえ〉

 武井さんが、湯呑みを取った。

「これは、書類には書けないことです。私の個人として、お伝えします」

 武井さんは、湯呑みのなかの茶を、半分くらい、飲んだ。

「OMCは、悪い組織ではありません。しかし、完全な組織でもありません。複数の派閥があり、複数の判断があり、複数の妥協があります。私たちは、その複数のなかで、自分の信じる仕事を、できる範囲でしています。あなたのお祖父さまも、そうでした。あなたのお父さまも、たぶん、そうしておられます。あなたが、もしOMCのなかで、何か違和感を持つことがあったら、私の家に、いつでもお茶を飲みに来てください。書類にしないかたちで、相談に乗れる範囲のことは、します」

「武井さん」

「はい」

「武井家は、宗像家の、何にあたりますか」

 武井さんは、湯呑みを、置いた。

「水脈が繋がっている家、です」

「それは、京都の言い方では、何にあたりますか」

「家族の、隣にあたります」

「隣」

「血のつながりはありません。しかし、家の隣で、家を見ていて、家のことを家の人と同じくらい気にかける家、です」

 応接間の障子のゆらぎが、また少しだけ、向きを変えた。

    *

 武井さんが帰ったあと、私は応接間に一人で残って、書類を読んだ。

 書類は、思ったより事務的な文体で書かれていた。捜査の進捗、把握できた事実、把握できていない事項、今後の捜査方針、ご家族への共有方針。OMC京都支部の組織的な仕事の手触りが、紙の上に、ちゃんとあった。

 誰が無能でもなく、誰が陰謀を企んでいるわけでもなく、組織が、組織として、できる範囲のことを、している。把握できていないことについては、把握できていないと、はっきり書いてある。把握できている部分の精度は、思っていたより高い。書類の最後のページに、捜査主任の署名と、武井さんの副署があった。

 〈OMCは、ちゃんと仕事をしている組織です〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈遥が、OMC職員として、誇りを持っていられる組織です〉

「梓、それ、私の心を読んでる?」

 〈読んでいません。あなたが書類を読んだあとの、安堵の心拍を観察しただけです。あなたは、OMCがちゃんとしていることを、知って、安心しました〉

「安心した、というのが、自分でも分かった」

 〈はい〉

 応接間の卓の上に、書類のほかに、もう一つ、小さな包みが置いてあった。武井さんが「これは、書類とは別の私事です」と言って、置いていったものだった。

 開けると、紙の包みのなかに、もう一つの小さな包みがあった。さらに開けると、和紙に包まれた、古い銀の指輪が、出てきた。

 指輪の内側に、彫りの浅い、しかし確かな字で、「敬」と刻まれていた。

 〈敬一郎さんの、晩年の指輪です〉と梓が、内側で言った。〈静江さんが、武井さんに預けていたものです。静江さんから、武井さんを経由して、あなたへ、というかたちで〉

「お母さんから、武井さん経由で」

 〈直接渡せばいい、と静江さんも武井さんも分かっていたはずですが、京都の作法では、家族の節目の品は、家族のあいだで直接渡すより、家族の隣の家を経由するほうが、重い意味を持ちます〉

 私は、指輪を、右手の薬指に、嵌めてみた。

 指輪は、細かった。しかし、私の右手の薬指に、ぴったり合った。

 〈遥のお祖母さまが、晩年、敬一郎さんが亡くなったあとも、左手の薬指に嵌めていた指輪です〉

「お祖母ちゃんの形見、というか、お祖父ちゃんの形見、というか」

 〈両方です〉

 茅が、応接間の入口から、ゆっくり歩いてきた。

 茅は、私の右手の指輪を、ちらりと見た。それから、私の右脚に、いつものように頭を、軽く押し付けた。

 茅の体温が、薬指の指輪の銀を、わずかに、温めた。

    *

 夕方、京極先生が来た。今日は二度目の訪問だった。武井さんの正式報告のあとに、京極先生が来ることは、二人のあいだで申し合わせがあったのだろう、と私は思った。

「武井さんから、お聞きになりましたか」

「同位体パターンと、暗琴の話を」

「私の専門の話に、なってしまいました」

「先生から、もう少し、教えていただきたいです」

 京極先生は、応接間ではなく、書庫に行きたい、と言った。書庫の、暗琴の上の床板の前に、座った。私は松葉杖をついて、彼の脇に座った。

「水を、共鳴媒体にする、というのは、技術的にはどういうことですか」

「水分子のクラスター構造を、ある特定のパターンで安定化させると、そのパターンが、特定の周波数の電磁的なゆらぎに対して、共鳴体として機能します。共鳴体としての効率は、水のクラスター構造の安定度に、強く依存します」

「クラスター構造を安定化させるには」

「水のなかに含まれる微量の同位体組成を、特定のパターンに整えることが、一つの方法です。それから、水を物理的に閉じた空間に保管して、対流と蒸発を抑えること。それから、水温の年間変動を抑えること。三つを満たすと、水は数十年単位で、共鳴体として機能し続けます」

「うちの暗琴と、イシク・クルの湖が、両方、満たしてる」

「満たしています」

「曾祖父か祖父か、誰かが、ここを整備した」

「整備した、と私は判断します。父のノートには、二〇八〇年の春に、敬一郎さんが書庫棟の床下に何かの工事を入れた、という記述があります。工事の内容は、書かれていません」

「阿古屋さんが、向こうを整備した」

「同じく、二〇八〇年の秋、阿古屋さんがイシク・クルに最後のフィールドワークに行きました。期間は、二週間。何の研究だったかの公式記録は、ほとんど残っていません」

 京極先生は、暗琴の上の床板を、軽く撫でた。

「二人は、お互いの場所に、対の共鳴体を、設置していました」

「対」

「片方だけでは機能しません。二つあって、初めて、共鳴が起こります」

「祖父と阿古屋さんは、何のために」

「私の推定では——」

 京極先生は、しばらく、間を置いた。

「何かを、保存するために、です」

「保存」

「単独の場所に保存すると、その場所が壊れたときに、保存していたものは失われます。二つの共鳴体に分散して保存すると、片方が壊れても、もう片方が残れば、復元できます。冗長保存、と呼ばれる古い手法を、二人は、自然の水で、試みていた可能性があります」

「保存していたものは、何ですか」

「分かりません。ただ、二〇八〇年の秋に、二人がそれぞれ別の場所で対の共鳴体を整備した、ということは、二人が、何かを失うことを、強く恐れていた、ということです」

「失う、というのは、ディフュージョンで」

「ディフュージョンで、というより、ディフュージョンの混乱のなかで、自分たちの研究の何かが、失われる、奪われる、消される、ということです。彼らは、自分たちの研究を完成させるためではなく、研究の何かが完全に失われない仕組みを、作っておこうとした」

「種を撒く、っていう、阿古屋さんの言葉と」

「そうです。種を撒く、と言っていた阿古屋さんと、決めなかった敬一郎さんは、別々に、しかし対のかたちで、何かを未来に残そうとしていた」

「未来って、誰のために」

 京極先生は、私の目を見た。

「あなた、かもしれません」

 私は、息を、止めた。

「断定はできません」と京極先生は続けた。「しかし、対の共鳴体は、機能を発揮するためには、共鳴できる位相を持った受信者が必要です。受信者がいなければ、共鳴体はただ眠り続けるだけです。彼らは、いつかその受信者が現れる日を、待つように、共鳴体を設置した、と私は思います」

「受信者として、私が」

「あなたが、初めての可能性が高いです」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈先ほどから、暗琴の上で、北東からの音の周期が、徐々に明瞭になっています〉

「徐々に、聞こえるようになってきてる?」

 〈はい。あなたの身体が、共鳴体としての位相を、徐々に作っています〉

「いつ、私自身の聴覚で、聞けるようになるの」

 〈おそらく、夏の終わり頃です〉

 京極先生が、私を、見ていた。

「梓さんが、何か」

「夏の終わり頃には、聞こえるようになるそうです」

「北東の音、ですか」

「先生、ご存じなんですね」

「武井さんから、伺いました。武井さんは、私のところにも、別の書類を届けてくれます」

「武井さんって」

「お忙しい方です。何代も、宗像家と京極家のあいだを、行き来してくださっています」

 書庫の窓の外で、初夏の夕方の光が、橙から赤紫へ、ゆっくり、変わっていた。

 梓のなかの古い層が、その色の変化に、わずかに、応じていた。

 応じている、ということを、私は今日、自分の身体で、初めて感じた。

    *

 京極先生が帰ったあと、私は縁側に出た。

 空はまだ青く、しかし東の方に、初夏の月が、薄く、浮かんでいた。月は、まだ細く、新月から数日経った頃合いだった。

 茅が、私の右脇に、座っていた。茅の耳が、北東の方角に、わずかに傾いていた。

「茅、聞こえてる?」

 茅は、しっぽを一度、ゆっくり、振った。

「私には、まだ聞こえない」

 茅は、私の右脛に、頭を、軽く押し付けた。

 その押し付け方が、「もう少し」、という意味の押し付け方だった。

 私は、右手の薬指の銀の指輪を、左手で軽く触った。

 指輪の銀は、私の体温で、温まっていた。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈OMCの仕事を、続けますか〉

「うん」

 〈中央アジア、いずれ、行くことになりますね〉

「うん」

 〈OMCの任務、として?〉

「OMCの任務として、私の身体の準備が整ってから、行く。武井さんから今日、託す、と言われた。託される、ということを、私は、引き受ける」

 〈引き受ける〉

「うん。お祖父ちゃんは、決められなかった。でも私は、たぶん、お祖父ちゃんと違って、決められる気がする。決められるのは、私が新しい人間だから、じゃない。お祖父ちゃんが、決められないことを、決めなかったから、私に、決める余地が残った。お祖父ちゃんから、託されてる」

 〈そういう、引き受け方を、人は、するのですね〉

「人だけじゃないよ、たぶん」

 〈はい〉

 月が、少し、明るくなったように見えた。

 〈遥〉

「うん」

 〈梓も、いっしょに、行きます〉

「うん。一緒に、行こう」

 茅が、私の右脇で、しっぽを、もう一度、ゆっくり振った。

 肯定の振り方だった。

 しかし今度の肯定は、過去の肯定ではなく、未来の肯定の、振り方だった。

 大原の初夏の夜気が、縁側を、ゆっくり通り抜けていった。

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