黒い森
エンテは驚きのあまりに、目をまん丸に見開いた。ついでに涎が垂れそうなほど口も大きく開けられている。
つい今しがたまで、大巫女の部屋にいたはずなのに、目の前には黒い森が広がっているからだ。
「こ、これって、テレポーテーション……とかっていうもの? あの時、倒れる金糸樹の下から子どもを助けた技でしょ」
「技……とも違うけど……。まぁ、そうだ」
「やっぱりすごい! 魔法具を拠点に用意しなくても、思ったとおりの場所に来ることができるなんて」
「移動距離には制限がある」
ユイカが皮肉気に唇の端をあげた。次いで、即座に顔を引き締めると、森と向かい合った。
森は禍々しくも昏黒に染まり、しん、として物音ひとつしない。通常ならば、どれほど静かでも、生き物の息遣いのようなものが感じられるものなのだが。
黒い霧は、今もじわじわと広がりつつあり、青く透きとおった空までもが昏黒に支配されそうだ。
「現在地は、テミス領にて巨体生物を拘束したポイントから真西に当たりマス。黒い霧はさらに拡大中。金糸の森の96%が侵食されている模様。テミス領ではエイヤ作の防護壁で堰止められていますガ、効果は限定的デス」
平坦なデイの声が、補足的な情報をつらつらと述べ立てている。続いて、ユイカの肩の上に乗ったまま、どこか慎重に思えるような、ぴーぴー、という音を発した。これはユイカいわく、AIが様々な情報を取り込み、分析中というお知らせ用の音だという話だ。エンテにはAIというものが、いまだに理解できないでいる。
「黒い霧の成分分析ですが、アルカロイドに酷似した成分が検出されまシタ。神経毒に似た成分も混在してマス」
「アルカロイド。麻薬成分か。しかも、かなり濃縮されたものなのかな」
「世界が異なるタメ、厳密には同じとは言えまセン。データ不足デス」
「とにかく、エンテに無理がないよう、一気に金糸樹までテレポートするしかなさそうだ」
ユイカとデイの会話を聞いていたエンテが顔をしかめた。
「ユイカこそ、無茶はしないで」
「わかっている」
「ユイカってば、そんな風にしか言わないから、かえって心配なの」
エンテが顔の横で、拳をぐっ、と握りしめた。ふいにユイカが、彼女の拳に自分のそれを、こち、と当てた。
「え、え、え、なに?」
「決意表明」
ぱあっ、と顔を輝かせたエンテが、握りしめた手をユイカの拳にぐりぐりと押しつけた。
「うん。やってやろうじゃない!」
ふんっ、とエンテが鼻から息を吹き出すと、ユイカが気が抜けたような顔で笑った。
すると、いきなりユイカの表情が変わった。エンテの肩に手をかけ、ぐいっ、と後方へ押しのける。
「どうしたの、ユイカ」
「あれを」
エンテが首をめぐらすと、森から出てくる影が見えた。
「木の影じゃないよね。あれは、生き物?」
エンテが目を凝らすと、黒い森から分離したような影が、はっきりと形を成してきた。
「あ、あれは、天馬!?」
背中に豪華な羽のある美しい馬は、今では昏黒の魔法に侵され、見るも無残な様相を呈している。とにかく真っ黒で、黒い靄が体のどこからともなく湧きおこり噴き出す禍々しい姿だ。
「天馬が、ひどい姿になってしまった。とても美しい幻獣なのに」
衝撃を受けたエンテが青ざめている。
「エンテ、天馬の心臓はどこにある?」
「え、確か前肢の上の方だったかと」
うろたえながらエンテが答えると、ユイカがうなずく。
「エンテ、ここから動くな」
ユイカの声が聞こえたかと思ったら、ふいにエンテの姿が傍らから消えた。
「ユイカ!?」
はっ、と気づけば、ユイカは天馬の目の前に移動していた。
天馬は突然現れたユイカに対処できない。もともと運動機能が異常をきたしているため、防御的な行動をとるのが遅れている。これは巨人に対抗する際に確認済みだ。
ユイカの手が伸ばされ、心臓よりも上の部分に当たる天馬の首に当てられた。
ユイカの全身に力が入ったのがわかった。
ぐっ、とユイカの力が一点に集中する。
真っ黒な靄に包まれた天馬の首がのけぞり、次いで全身が傾いた。どおおっ、と土煙をあげ、そのまま倒れこんだ。
「ユイカ!」
エンテの声に答えるように、ユイカが振り向いた。
「昏倒させた。しばらく目覚めないだろう」
「し、死んでないよね?」
「大丈夫。失神させただけだ。青銅の巨人よりは楽だった」
「そ、そう。でも、これでしばらく暴れないね」
「どうも、動けば動くほど、黒い靄に侵食されるのではないかと思われる。おとなしく寝かせておいた方がいいだろう」
感心している場合ではない。この天馬を眠らせることができても、森の中には他の幻獣がいるはずだ。しかも天馬の様子から鑑みるに、かなり苦しんでいるに違いない。
「ユイカ、早く金糸樹の所へ行こう」
エンテのはやる気持ちを落ち着かせるように、ユイカが肩に手を置いた。
「エンテ、若にもらった布があるだろう? 口を覆って」
「ユイカったら、おばあちゃんの口真似して、ロンバルト様のこと、若って呼ぶなんて」
「他に呼びようがない。やはり若君の方がいいか? それとも、ロンバルト様と呼ぶか?」
「ユイカに改まれると、ものすごく怖い気がする」
ぐっ、と息をつまらせたエンテは、『若』でいいです、と首を縮める。
ユイカは微笑むと、ふたたび黒い森に目を向けた。
「エンテ」
「なに?」
「自分はこの世界にとって異分子だ、とずっと思っていた。でも、もしかしたら、自分はここで生きていってもいいのだろうか」
少しばかり緊張した顔でまっすぐに森を見つめるユイカの横顔が、なぜかエンテにはまぶしく見えた。エンテはちぎれるのではないかと思えるほど、何度もぶんぶんと首を縦に振る。
「もちろん! もちろん、ユイカ。だってわたしがいるし、おばあちゃんもおかあさんもおとうさんもおにいちゃんも、それからロンバルト様だっているし、ユイカがこの世界で生きていくって決めてくれて、わたしはとってもうれしいし、大巫女様だって大神宮の長だってテミス領の領主様だって、駄目だとは言わないだろうし」
ひと息に言い切ったエンテの顔は、興奮のために赤らんでいる。ユイカも静かな笑みを浮かべた。
照れ隠しに空咳をしたエンテは、急いで懐からロンバルトのハンカチーフを取りだした。口元を隠し、後頭部でぎゅぎゅっと縛る。黒い霧に対してどれほどの効果があるのかわからないが、何もしないよりましだ。
微笑んだユイカは、ふたたびエンテと手をつないだ。
「このまま飛ぶ」
「よーしっ」
ふたりと一体の姿がかき消えた。




