第七話 空を
それからルーナメリィとリディルは、こっそりと娼館に忍び込んだ。エルヴィーラの楽を聴いて舞を見、館主に見つかる前に逃げ出した。エルヴィーラには二度と帰ってくるんじゃないよ、と怒られたけれど、笑っていたからきっと良かったのだ。その後、道端で劇を見た。
観終わった頃にはお腹が空いて、リディルとルーナメリィは道端の屋台で饅頭なるものを買って食べた。饅頭はとても熱くて、ルーナメリィは口の中を火傷した。
この頃にはもう日が落ちていた。赤から青に色を変えた空を見上げてリディルは呟く。
「ねぇ、ウツィア。僕に夢があるかって聞いたじゃない。ウツィアには夢はあるの?」
「わたしの夢は、もう叶ったの。だから、夢を叶えてくれた人の夢を叶えようと思ってる」
「夢、叶ったの? どんな夢だったの?」
「外に出ること」
「……外?」
「うん。わたしは生まれてからずっと、外に出してもらえなかったの」
リディルは目を見開く。何不自由なく暮らしてきたお嬢様。そんなふうに思っていた。
「そうだったんだ。じゃあ、今こうして喋っていられるのは、その人のおかげなんだね」
「そう――リディルは、アルカディアって知ってる?」
「アルカディア? 聞いたことないや。人の名前? 地名?」
「たぶん、場所。その人がね、探してたんだって。そこに行きたかったけど、諦めたから、代わりに探してくれって」
「へえ……じゃあ、今はそれがウツィアのやることなんだ」
暫しリディルは沈黙した。
「馬鹿だなぁって笑って聞いてほしいんだけど。僕、空を見たいんだ」
ルーナメリィは意味を図りかねて首を傾げた。上を見れば、空が広がっている。壁に区切られた作り物だけど、あれもまた空のはずだ。
「知ってる? 島の外には、ずっと空が広がっているんだって。昔、エルヴィーラの客が見せてくれた画集でそれを見たんだーー美しかった。息を呑むほどに」
娼館で生まれた者は、外に出ることは叶わない。娼婦ならば身請けという手もあるが、男は一生馬車馬の如く働かされるだけ。
だからこそ焦がれた。果てしなく広がる空を。
「空を見ること。それが、リディルの夢?」
馬鹿でしょ、とリディルは笑う。
「叶わない夢なんて、ただのがらくたと同じなのに」
「がらくたじゃない。夢は、がらくたじゃないよ」
思いの外強い口調だった。緋色の瞳は何かを堪えるような色を湛えている。
「リディルは空を見たいの? それとも、空を翔びたいの?」
問われて、リディルは些か考えるふうに顎に手をあてる。
「空を飛べたら、気持ち良いだろうなぁ。他所の島には、旧時代の遺跡があるんだって。そういうものも見てみたい」
「リディルは、島主さまのところに行ったらお金持ちだよ。なんでもできるよ。それを分かっていても、空を翔びたい? この島にある、全てを捨てでも」
些か面食らった様子でリディルは翠緑の瞳を瞬いた。その脳裏に、これまでの出来事が去来する。娼館で育てられたこと、踊り子として初めて踊った時のこと、街の人との交流。娼婦の子と嘲笑われることも多かったけれど、温かな思い出だって沢山ある。繋がれた縁も、大切なものだ。
――それでも、と思ってしまうのが、居た堪れなくなるほどに。
僅かな沈黙の後、ひどく静かな声が降る。
「――叶うならば」
ルーナメリィは束の間眼を閉じる。数日前に願った己の声が、鮮明に脳裏に蘇った。
「リディル。待ち合わせの場所ってどこ?」
「え。あぁ、広場だよ。ほら、僕が曲芸した」
「じゃあ、待ってて」
「え? ウツィア!?」
追い縋る声を無視して、ルーナメリィは駆けた。街を抜け、ひたすら壁に向かって走る。大門ではなくただの壁に行き当たったが、装飾が立派なところを目指すうちに辿り着いた。こんなに長い距離を走ったのは久しぶりで、息が上がっていた。
「はぁっ……はあっ……」
門前に佇む監査官が、荒い息を吐くルーナメリィに視線を向けた。その深緑の服を見て、喉が引き攣る。手足が震えたが、膝に当てていた手を外し、まっすぐに立った。
「アルデバラン殿。どうされた?」
「あ、の、あの」
「落ち着かれよ」
息を整えて、監査官を見上げる。その無機質な瞳に怯んで、視線を逸らした。
それでも、言うべき台詞は分かっている。
「わたしの、ウツィア・アルデバランとリディル……シュ、シュトロ、フィアの、出島審査を!」
シュトロフィアの名に、監査官の眉がぴくりと動いたのを横目に捉えた。
「あと、天獣を......大鳥を、島内に入れさせてください!」
***
突然走り出したウツィアは、夕暮れの歓楽街の人混みに紛れてしまった。慌てて追いかけたけれど、緋色の髪はどこにも見当たらない。探すこと暫く、待つこと暫く、ウツィアの姿はどこにもない。
空に並んだ三つの月は、左のものが完全に欠けてようとしていた。もう既に、刻限を過ぎている。
――なんで、こんな必死なんだろう。
リディルはそんなことを思う。ただ行き交っただけ、一晩宿を貸しただけ、街を一緒に歩いただけ。目を輝かせる無垢さが眩しかったからか。初めて夢を笑われなかったからか。はたまた別のなにかか。何が自分を動かしているのか、リディル本人にもとんと見当がつかない。
ウツィア、と名を呼ばおうとした時、後ろから手首を掴まれた。振り返ると、見知らぬ男が立っている。
「お坊ちゃま、そろそろ行きませんと。位人さまがお怒りです」
先程威張り散らかしていた位人の下男らしい。頬を張られたのか、手元のランプで照らされた顔は赤く腫れていた。
「坊ちゃま、どうか」
強く手を引かれ、蹈鞴を踏む。未練がましく振り返って確認した人波の中にも、緋色は見えない。
「遅れて、すまない」
呟くように言うと、下男は笑い、こちらです、と言って踵を返した。リディルは振り返らずに下男についていく。
「おお、おぼっちゃま! すっかり待ちくたびれてしまいましたよ!」
広場には豪華な四頭立ての馬車と位人、それを取り巻く大勢の見物人がいた。リディルが近づくと、囁き声が耳に入る。娼館上がり、本当に島主さまの子供なのか、売女の息子。悪意に満ちた囁きには慣れている。
――慣れと、大丈夫は、違うよ。
不意に耳に蘇った声があって、リディルは苦笑する。こういう、些細な言葉が嬉しかったのかもしれない。
「ぼっちゃま、そろそろ急ぎませんと、閉門に間に合いませんよ。ささ、お早くお乗りください」
「ああ」
リディルが馬車に近づくと、下男が素早い身のこなしで台を置いた。
「どうぞ、おぼっちゃま」
恭しく頭を下げた下男の手は荒れていた。リディルは己の手に視線を落とす。娼館の雑用を一手に担っていたから、リディルの手も、同じくらい荒れている。
――無理は、するんじゃないよ。
呟きに近い小ささで告げられた、エルヴィーラの声を思い出す。リディルを案じてくれた、姉のように育ててくれた娼婦たち。
彼女たちとも――もう、二度と会うことはないのだろう。
――今更何を悲しんでいる。
リディルは顔を上げた。
もう、決めたことだ。これしか、道はない。
台の一段目に足をかけた瞬間、微かな声が聞こえた。リディルは反射的に振り向いて群衆を見回した。けれど群がる人の中に声の主は見当たらない。
「おぼっちゃま?」
位人の苛立つ声が聞こえたが、リディルは尚も視線を巡らせる。やはり聞こえる。リディルの名を呼ぶ声だ。段々と近づいている。けれど何となく、響き方が可笑しい気がする。これはまるで、高所から呼ばれているような――
「リディル!」
空に視線を転じ、リディルは目を見開いた。二つ目の月が欠け始めた空に、白が見えた。
「ウツィア!?」
白の上に翻るのは先程まで探していた緋色だ。白と緋色はどんどんと近づいてきて、リディルは思わず笑ってしまった。
「......嘘つきって、君のほうがとんだ詐欺師じゃないか」
あれなあに、と子供が無邪気に問う。きれい、と女が呟く。なんだありゃ、と大の男が酒瓶片手に顎を落とす。
誰もが空を見上げていた。位人ですら、視線が釘付けにされている。
星が輝く夜空を背にして、白い大鳥は羽ばたく。跨る少女の緋色の髪が風に靡いた。
「空を、見に行こう!」
ウツィアは真顔で手を差し伸べている。
リディルは一瞬、息を詰めた。走馬灯のように、色々な思い出が頭を駆け巡った。振り向いた群衆の中、見知った顔が僅かに覗く。どこか呆れたような、それでいて嬉しそうな瞳に出会い、顔が歪んだ。
――あぁ。
リディルは、台を力強く蹴る。馬車の上に手を掛けて、勢いで飛び乗った。
「坊ちゃま! おやめを、降りてください! 誰か、誰かお止めせんか!」
数秒の沈黙の後、位人が悲鳴じみた声を上げた。誰か登れ、お前が行けよ、と下男たちがもめている声も聞こえた。
リディルは振り返った。大鳥が羽ばたき、風が巻き起こる。髪の毛がふわりと浮き上がり、ともすれば体ごと攫われそうになるのを、踏ん張って堪えた。
「――さようなら」
大鳥が馬車に最も近づいた時、リディルは馬車の天井を蹴った。ウツィアの真後ろ目掛けて伸ばした手が羽根を掴む。大鳥が不機嫌そうに嘶き、体を揺らした。
「リディっ、」
「.....っせ!」
ぶちぶち、と何本かの羽毛を引き抜きながら体を上に持ち上げる。息を整えて前を見ると、ウツィアは手をこちらに向けたまま、目を丸くしていた。
「......わたしの手の行き場がない」
「気にするところ、そこ?」
開口一番の声に、リディルは思わず笑ってしまった。既に大鳥は向きを変え、大門の方に向かっている。一度降りるためなのか、あまり高さはない。それでも人々の驚いた顔は、あまり見えない。頬に当たる風が心地よかった。
「リディル。門を越えたら、もう戻れないよ」
「何を今更」
リディルは軽く笑った。
「空を、見せてくれるんだろう」
ウツィアは破顔する。
大門は、もうすぐそこだ。




