第六話 好きなもの
応急処置をすると、リディルとルーナメリィは憲兵の詰所に向かった。先程いきなり襲われたこと、男がこの剣を所持していたことを伝えると、憲兵は顔を険しくしていた。その後で、リディルはルーナメリィをやどやまで送ってくれた。道中に会話はなく、じゃあね、と手を振ったリディルの服の裾を掴んで引き止めたのは咄嗟のことだ。
「どうしたの?」
「リディル。わたしに、できることはない?」
リディルは驚いたように翠緑の瞳を瞠った。
「わたし、そんなできることないけど。でも、何かやりたいこととかあったら、手伝う、から。その」
「――だったら、代わってくれる? 親戚の家に行くの、僕がウツィアですって顔して行ってもいいよって、言える?」
え、とルーナメリィは目を見開いた。返事をしようとするが、開いた口は空気を食むだけで言葉が出ない。
だって、全部、嘘なのだ。
「出来ないことをやるなんて言わないで」
「違っ.....わたしはただ、リディルがいろんなことを助けてくれたから、恩返しがしたくて」
助けには見返りが必要だ。あの人だって、ルーナメリィに頼みごとをした。
当たり前のことだ。無私の心で他人を助けられる人など、いるはずもない。
けれど言い募れば言い募るほど、リディルの顔から表情が消えていくようだった。
「……そんなの、最初から期待してないよ。僕は、僕は、ただ」
ーいい人に、なってみたかっただけ。
掠れ声でそう言って、リディルは黙り込んだ。震える唇は、何の言葉も紡がない。雑踏の中踵を返す背を捕まえることは、もうできなかった。
ルーナメリィは俯き、宿屋には入らず、大門を目指して歩き出した。
天図と羅針盤、そして食料と服を得た。
もう、この島にいる意味はなかった。
***
「はぁ……」
リディルは往来を歩きながら深々と溜息をついた。大人気ないことをした自覚は、大いにあった。
差した影に気づいて顔を上げる。闇雲に歩いてきたせいか、普段は近寄らないで大門の方まで来ていた。先程より、人もやや少ない。
リディルは、大門を振り仰ぐ。宝珠によって守護された大きく強固な門は、十分な金と天を翔る獣を持つ人以外を通すことはない。
ーーその、数少ない人が、ウツィアの親戚。
リディルは大門に向かって手を伸ばした。この短い腕と門の間に横たわる、遥かな距離。
「……いいなぁ」
口を突いて出た言葉が、己の胸に刺さった。腕を下げ、拳を握り締めて、込み上げてきた感情を押し殺す。
俯いて、踵を返した。もはや大門すら、見たくなかった。
リディルはぼんやりと空を見上げた。
芸者として生きることもできず、さりとて逃げることもできず。
きっと、焦がれた空を見ることはないのだろうと思った。
大通りに戻った矢先、空気が揺れたのをリディルは敏感に感じ取った。数歩先に人が群がっていた。よくない雰囲気だ。気にしないように通り過ぎようとして、リディルは聞き覚えのある声を耳にした。
怒声に紛れ、申し訳ありません、と謝る少女の声がする。
リディルは堪らず人だかりに割って入った。
「お前、この衣が幾らするか知っているのか!? お前のような薄汚れた子供には、一生かかっても払えないような額だぞ!」
「申し訳ありません」
仁王立ちする男は上等な衣服を着ていて、一見して汚れがあるとは分からない。目を凝らすと、裾のあたりに土の飛んだ跡があった。地面に平伏して謝っているのは、予想通りウツィアだ。こちらは服が全体的に汚れていて、荷物が傍に転がっているから、転倒して土が飛んだらしい、と察する。
「俺はこの島の領主さまに仕える位人だぞ! 分かっているのか!」
「ごめんなさい。どうかお許しください」
ひたすら謝るウツィアを、これだけの人がいながら誰も助けようとはしない。ちらちらと垣間見ながら遠巻きに囁くだけだ。
「やめて」
声を上げると、人垣が割れた。瞬時に男の怒りがこちらに向く。
「下民が俺の邪魔をする気か!」
「その下民をあなたは迎えに来たんじゃないんですか」
「はぁ?」
「僕はリディル。リディル・シュトロフィアです」
途端、男の顔色が変わった。あいつか、娼婦の息子、身の程知らず、と人垣が騒めく。
シュトロフィアは、島主一族の姓である。
「島主さまのご子息でいらっしゃいましたか! これは失礼を致しました、この娘が粗相をしたもので」
「その子は僕の友達だよ。君の服は、次期島主の友人を斬り捨てるほど価値があるものかな」
男の笑みが歪む。
「とんと存じませんで、失礼を致しました。ここでお会いできたのも何かの縁、宜しければこのまま馬車に」
「移動は夜だったよね。指定された時間に向かうから、少しこの子と話す時間をくれるかな」
「はい、勿論でございます!」
男が去っても人垣は消えない。ウツィアも平伏したままだ。
「ウツィア。もう大丈夫だよ」
声をかけても、ウツィアは顔を上げない。
「ウツィア」
のろのろと頭を上げたウツィアの顔を見て、リディルはギョッとした。
ウツィアは泣いていた。土が跳ねた頬を、玉のような涙が伝っては落ちていく。
「ウツィア、泣かないで。大丈夫だよ」
唇が震えた。声になり損なった呼吸音がひゅう、と音を立てる。
「う、そつき」
「え?」
「見返りがあるからって言ったのに」
ウツィアは泣き続け、リディルはおろおろしてその背を撫でるばかりだった。
***
「落ち着いた?」
「うん」
ルーナメリィが泣き止むまで暫し、その間も人目に晒されながらリディルは共にいてくれた。
「……さっきはきつい言い方をしてごめん。ウツィアが羨ましくて、八つ当たりしてしまった」
「え。あの、ううん、大丈夫」
殴られたわけでも犯されたわけでもない。なぜ謝られてるのかわからなくて、むしろ混乱した。
「それより、助けてくれて、ありがとう」
「怪我はしてない? 位人、随分怒ってたけど」
「だ、大丈夫だよ」
「そっか、ならよかった。ぶつかるなんて災難だったね」
「うん……」
ルーナメリィは俯いた。
「やどに戻ろう。またこんなことに巻き込まれたら大変だよ」
「だ、大丈夫だよ」
「送るから、ね」
言って、リディルは僅かばかり怪訝そうに眉を上げた。
「荷物、預けなかったの?」
ルーナメリィは口籠る。
「もう、ここを出ようかと思って」
「え、もう!? 区門が閉まるまであんまり時間がないよ。それに、クシャナ地区に繋がる門はこっちじゃないし」
行くなら急がないと、とリディルは立ち上がってルーナメリィの手を引いた。けれどルーナメリィは首を横に振る。
「でも、リディルを見送ってからにする。今日は、やどに泊まる」
「見送るって言ったって、バシャに乗るだけだよ。全然面白くない」
「そう、なの?」
「……うん」
リディルは視線を逸らす。沈黙が落ちた。
「リディル。わたし、美味しいものを食べるのと、柔らかい布団で寝るのと、街を歩くのと、リディルの曲芸を見るのと、お喋りするのと、あと、御伽噺を聞くのが好き」
唐突な好きなものの羅列に、リディルは僅かに首を傾げる。
「リディルの好きなものは?」
リディルは微かに目を見開く。微かに開いた口から、言葉がこぼれ落ちた。
「……曲芸をしている時。舞っている時。楽を聞いている時。ゲキを見るのも好きだな」
「じゃあ、今から娼館に行こう」
「へ?」
「エルヴィーラさんの楽を聞いて、舞を見て、ゲキ、はどこでやってるか分からないけど。リディルの好きなこと、全部しよう」
リディルは差し出された手を見つめる。泣き笑いのような顔でその手を取った。




