第五話 襲撃
地図を売るお店までの道は、行きにも人が少ないと思ったけれど、帰りは人っ子一人見当たらなかった。いつもこんな風なのかと尋ねると、リディルも些か当惑した様子で首を横に振る。
「普段も確かに少ないけど、でも往来が途絶えるなんてこと、滅多にないはずなのに」
急ごうか、と早足になった途端だ。
嫌な気配がした。主人さまに打たれる前の、身の竦むような感覚だ。
「進んじゃダメ!」
リディルは驚いて足を止める。その目の前を、何かが過ぎていった。それはそのまま、向かいの家の壁に突き刺さる。
矢だ。
呆然とする間もなく、二本目が放たれる。一歩下がった直後、先程まで立っていたところを通り過ぎていく。切られたリディルの髪の毛がはらりと眼前に舞い降りてきて、すぅっと背筋が冷えた。
沈黙は数秒だった。
「走るよっ!」
言うや否や、リディルはルーナメリィを抱き上げるようにして走り出した。その背にも矢がかけられ、足元スレスレの地面に突き刺さる。
「りでぃ、」
「舌噛むよ、喋らないで!」
「ひ、人が」
リディルは振り向いて舌打ちする。
矢が尽きたのか、背後から人が駆けてきていた。顔を布で隠しているが、手には剣を持っている。距離は、段々と近くなっていた。しかしここは一本道、家々の間は狭く、潜り込める隙間は狭そうだ。
リディルは立ち止まると、ルーナメリィを地面に下ろした。
「さっきの店まで、戻れる?」
ルーナメリィは頷く。それを確認して、リディルは微かに笑った。
「元気でね」
棒を飲んだかのように、動けなくなった。背を向けたリディルに走れ! と叫ばれ、ルーナメリィは弾かれたように走り出す。
数歩駆け、振り返った。男は剣を振り回している。リディルは曲芸の時のように機敏に動いて躱しているけれど、全部避けられている訳じゃない。
その証拠に、赤いものが舞っている。
呼吸が浅くなった。耳の中に、悲鳴が木霊する。血溜まりに伏し、動かなくなった骸が、脳裏に鮮やかに蘇る。
――それがリディルに重なった瞬間、走り出していた。
足払いをかけられて、リディルが体勢を崩す。尻餅をついたリディルに向けて、覆面の男が剣を振り翳した。
「やめてぇえええっ!」
男が驚いた様子でこちらを向き、動きを止めた。ウツィアっ、と短くリディルが叫ぶ。止めようと伸ばされたリディルの手を掻い潜り、男の足に体当たりした。苛立たしげな舌打ちと共に真下に振り下ろされた剣を、転がって避ける――大丈夫だ、主人さまの剣より遅い。
「ウツィア! 戻ってって言ったのに!」
「やだ! リディル死んだらやだ!」
きもちわりぃ、と男が吐き捨て、苛立たしげに剣を構える。咄嗟にルーナメリィはリディルの前に立って手を広げた。
「どきな、お嬢ちゃん。おれはその坊主に用があるんだよ」
手も足も震えてるじゃねえか、と男は剣を片手にせせら笑う。とんとん、と肩を剣で叩いているのは、よほど余裕があるからか。
「娼婦の息子が身の程知らずも甚だしい、だとよ。いいか、お前はナァ、奥方様に憎まれたんだ」
分かったらそこをどきな、と男は剣を振り上げた。目を見開いたまま動けないでいると、急に体が後ろに引っ張られた。リディルに首根っこを掴まれたのだと、尻餅をついてから理解する。
ゆっくりと流れていく景色の中、光を弾いて輝く剣の銀がやけに鮮やかだった。
「――っ、リディルに近寄らないで!」
男はほんの一瞬、動きを止める。
けれど、それだけで十分だった。リディルは手首を真上から蹴り付けて剣を叩き落とした。それを拾い上げる。男は信じられないとばかりに目を見開いた。
「奥方様に伝えろ。僕はあんたの息子になる気もないし、なりたくもない、ってな」
男はリディルを睨み付け、クソが、と吐き捨てる。そのまま近くの家の塀を飛び越えていった。矢を回収することすらしなかった。
あぁあああ、と呻きながらリディルはわしゃわしゃと髪を混ぜる。白い服は所々切られ、血が滲んでいた。
「こっちはやりたくないって言ってんだから、文句あるなら旦那に言えよ……! 勝手に娼婦に手を出して産ませたのはそっちだろ........! なんでこんな目に」
荒い呼吸をしながらも苛立たしげに言ったリディルは、ルーナメリィに目を留めて目を三角にした。
「り、リディル! 怪我は、してない?」
「僕の台詞だよ! ウツィア、無茶しないで。下手したら僕ら、二人まとめて死んでたよ」
「……でも、何かしたかった」
ルーナメリィは俯いた。結局、大したことはできなかった。寧ろ、リディルの邪魔だったかもしれない。
「ごめんなさ」
「でも、ありがとう。おかげで助かったよ」
あー疲れた、とリディルはその場で寝転んだ。そのお腹や腕には、血が滲んでいる。このくらいでは死なないだろうと分かっていたが、それでも心配が勝った。
「リディル、リディル、帰ろう。早く帰って、手当てしなきゃ」
こんな状況なのに、リディルは笑った。
「帰れないよ」
「え?」
「島主さまから、僕を出さなければ娼館を潰すって命令があったんだって。だから、別の地区に逃げるか、島主さまのところに行くしかなかったんだけど」
こんな有様じゃあねぇ、とリディルは小さく呟いて空を見上げる。けれどすぐに視線を落とした。
今日の夜、島主さまが迎えを寄越すそうだよ、とリディルは体を起こしながら言った。その瞳は、建物を通り越してどこか遠くを見ている。
「……リディルは、どうしたいの?」
さぁ、と返す言葉はひどく乾いている。
「僕に、聞かないで」




