第二話 夜の街
体を洗った後、リディルに先導されてまた建物内部を移動した。先程見た煌びやかな通りに面しているのか、ある扉を超えた途端に内装は華やかになり、様々な香が混じった匂いがあちこちから漂ってきた。
「何その子、新しい見習い?」
「迷子。明日には帰すよ」
「なぁんだ、折角可愛い新人が来たと思ったのにー」
「あっリディル、いいところに。これ、アイラ姐さんに渡しといてくれない?」
「えー、今から上に行くんだけど」
「その後でいいから! 頼んだわよ!」
「ねえ、外でコンラッドさんを見なかった? あの人、昨日来るって約束してくれたのに、今日も予約が入ってないの........事故にでも遭ったのかしら、ねえリディル探してきて」
「そういうのは探さないって、前も言ったでしょ。ひとりに入れ上げない方がいいったら」
「リディルまで.......!」
階段を二階分上る間に、着飾った女性と慌ただしく走り回る女性を何人も見かけた。嵐のようにやってきては去る女性たちは、皆ここで働いているのだとリディルが教えてくれた。
「さ、ここが今日ウツィアが泊まる場所。エルヴィーラ、入るよ」
「あいよ」
扉が開かれた途端、別世界が広がった錯覚を覚えた。廊下と同じ木造の壁には異国情緒の漂うカーペットがかけられ、鏡台や寝具も似た意匠の布で統一されている。微かに揺蕩う白煙の向こう側に、女性が見えた。
「きれい……」
気だるげに寝台から身を起こした女性の長く艶やかな髪が、肩を滑り落ちる。おや、と片眉を上げた女性は、器用に手の中で煙管を回した。
「おや、見ない子だね。新入りかい?」
「迷子。エルヴィーラ、今日ここに泊めてやって」
「全く、人を便利屋扱いするんじゃないよ――ほら、呆けてないでお座りよ。あたしが綺麗なのは世の常識だからね」
女性—―エルヴィーラは紅に染められた長い爪先で絨毯を指し示す。自分に言われているのだと気づくのに数秒の間を要した。
「あ、は、はい!」
「ところで、なんでこんなところで迷子になったんだい」
「えっと、あの、地図、落としちゃって……べ、別の地区に行く途中で、」
「えっ、もしかして他所の地区から来たの? 見ない顔だとは思ったけど」
「はっは、随分、派手な散歩じゃないか」
なんとか絞り出した言い訳は、特に怪しまれずに受け入れられた。そのことに安心し、けれど居た堪れなくて視線を絨毯に落とした。
「しかし、随分綺麗な顔をしてるじゃないか。どうだい、ここはひとつ、あたしの妹になるってのは」
「いいとこの娘さんに勧誘なんてするなよ」
「うーん、でも10歳くらいならちょうどいいしねえ」
え、とルーナメリィは顔を上げて目を瞬く。
「あ、あの、わたし、12です」
「「はぁ!?」」
エルヴィーラとリディルが素っ頓狂な声を上げたので、ルーナメリィは体を縮こめた。反射的に手を地面についたところで、思いもよらなかった言葉が耳に届く。
「12にしちゃ小さすぎるよ」
「細いとは思ってたけど、もしかして栄養失調?」
「........ぇ、」
「ちゃんとご飯食べてた?」
ルーナメリィは無言で首を横に振る。
「今日は? この地区に着いてからご飯を食べてないなんてことはないよね?」
「た、食べてない、です」
お店はやっていた。けれど、どうやって声をかければいいのかもわからなかったし、近づいていいのかもわからなかった。
リディルはルーナメリィの手を握った。
「エルヴィーラ」
「あたしの取り分から分けていいよ。たんと食べさせておあげ」
ルーナメリィが目を白黒させている間にリディルはルーナメリィの手を引いて元来た道を辿った。先程と同じ扉を通り、別の場所へと移動する。
「さぁウツィア、何が食べたい?」
連れてこられたのは、どうやら食堂である。見たことのない食材がずらりと並べられていて、その色鮮やかさに、ルーナメリィは目を白黒させた。
ルーナメリィが知るご飯は、カビの生えた固いパンと、味のしないスープだけだ。
「な、なんでも……?」
「好き嫌いは?」
「な、なんにも……」
「じゃ、僕にお任せあれ」
リディルは器用に片目を瞑り、何やら調理し始めた。座っていていいよ、と言われ椅子に腰かける。落ち着きなく部屋を見回し、結局はリディルを眺めることにした。じゅー、と何やらいい匂いと音がする。
「ウツィアはいつまでここにいるの?」
「ええと、一日か二日、です」
「じゃあ、明日の午前中に美味しいご飯屋さんを教えてあげる。いっぱい食べなきゃダメだよ、背も伸びない」
「いっぱい食べてるから、綺麗に踊れるんですか?」
「そうかも。曲芸もするから、筋肉つけないといけないしね」
きょくげい、と呟くと、リディルはもしかして見たことない?と振り返った。頷くと、明日見せてあげる、と笑う。
「ありがとう、ございます」
「いいよいいよ、お安い御用」
調理の音が響く中、ルーナメリィは先程から疑問に思っていたことを訊ねる。
「あの、リディル、さん」
「リディルでいいよ、敬語もいらない」
「リディル。ここは、あの……」
遊郭、売春宿、娼館。御伽噺で聞いたどの単語が当てはまるのか分からず、ルーナメリィは言葉に詰まる。
「夜の店。平たく言えば娼館かな」
言いながらリディルは皿の上に料理を盛りつけ、ルーナメリィの前に置いた。それがなんであるか、ルーナメリィにはよく分からなかったが、立ち昇る匂いだけでよだれが出そうになる。
「美味しそう......」
「ただの野菜炒めと魚の煮付けだけどね。僕も便乗」
リディルがもうひとつ皿を持って隣に座る。盗られるのかと思って黙って待っていたが、リディルは自分の皿の物しか食べない。
「どうしたの? 食べなよ」
「え、あ。いただきます」
すごく美味しい。
ルーナメリィはあまりの美味しさにびっくりして目を見開く。
「ふふ、いい食べっぷり。ああでも、無理に食べなくていいからね」
リディルは皿ごと飲み込みそうな勢いのルーナメリィを見て目を細める。
「ウツィアは隣の地区に何しに行くの?」
「えっと、いとこのお兄さんの、ええと」
「親戚のところに行くのかな?」
「はい」
「そっか、気をつけるんだよ。また迷子になったらだめだからね」
「気をつけ、る」
「地図を買うお店も明日教えてあげるよ」
「あ、ありがとう……」
野菜炒めと魚の煮付けを食べ終わり、ルーナメリィはフォークを置いた。ちなみにリディルはとうに食べ終えている。
「えと、ごちそう、さま、でした」
「はい、おそまつさま。座ってていいよ」
「え、う、はい」
リディルは鼻歌を歌いながら皿を洗っている。こんなにも穏やかな時間が信じ難く、ルーナメリィの口から言葉が滑り落ちた。
「……すごい」
「え? 何が?」
「全部、すごい」
「全部って、ご飯食べただけじゃないか」
おかしそうにリディルは笑うが、窓があることも、ご飯を奪われる恐れがないことも、誰かとゆっくりご飯を食べることも、ルーナメリィにとって初めてだったのだ。
手を引かれてエルヴィーラの部屋に戻る途中、来た道とは逆の方から喧騒が聞こえた。男の人が怒っている。リディル、と名前を呼ぶ声が聞こえた。
「リディル、呼ばれてる?」
「……ウツィアは耳がいいね。エルヴィーラの部屋はあそこ、一人で戻れるね?」
リディルはひとつ溜息をついて階段を下っていく。花瓶に生けられた白い花の花弁が一枚、はらりと地面に落ちた。




