第九話 分からない
静かだった。吐き出す息の音さえも聞こえるほどに。
どれほど経っただろう。少年は顔を歪めて吐き捨てる。
「お前……なんで紋章者のくせに、青紐なんて持ってんだよ」
「空行者、だから」
「クウコウシャ?」
鸚鵡返しに呟く彼が、数日前の自分と重なる。
「空行く者。わたしは、天獣を持っていて、島々を回っている」
「な、んで。なんで! お前紋章者だろう!? なのにどうして!」
「ある人が、わたしを箱から出して、その人が持っていたものを全てくれた――名前も、身分も」
嘘だ、と少年は掠れ声を漏らす。手に滲んだ汗が服に染みを作った。
「権能持ちか?」
「ううん」
「おもちゃか?」
「ううん」
「どう、して」
「わたしの髪と目が、赤いから」
「は?」
「あの人も、同じ色だった」
一拍遅れて少年は目を見開く。
「身代わりになったのか。非紋が、紋章者の」
「うん」
震える声は祈りに似ていた。
「俺はここで玩具になってたのに。お前はその間、空を飛んでたっていうのか」
「......そう」
「ふざけんなよ!!」
少年は手を振り上げ、けれど振り下ろさない。震えたまま、ルーナメリィを睨んでいる。
「どうしてっ......どうしてお前だけが、外に出られるんだっ! どうして!」
悲痛な叫びが胸に痛かった。
「箱の外から出ててもな、俺はおもちゃ扱いされてるんだよ。枷に繋がれて、ろくに飯も食えなくて、非紋に斬られて」
言って少年は服を捲る。骨の浮き出た腹は、傷跡ばかりだった。
「俺の権能は再生だ。傷をつけられても治る。死なねえから。壊れねえから。それを非紋は見たがって、島に来てからずっと、俺は斬られてる」
なのに、と少年は顔を歪めた。
「お前は呑気に空を飛んでたのかよ! 俺たちが、お前の同族が、非紋に痛めつけられている間に!」
ルーナメリィは目を伏せた。
「俺と替われよ。俺の代わりにいたぶられろよ。俺に、天獣を寄越せよ!」
「……わたしが天獣をあげても、あなたは外に出られないよ」
「だったらお前もいたぶられろよ、なぁ! どうせ知らないんだろ!? いたぶられたことも、ないんだろ!」
「……どう、だろう」
静かな声に、僅かばかり少年は息を止めた。
「殴られて、蹴られて、鞭で打たれて。こう、刃物を投げてどこに当てるかって遊びの景品にされて、死にかけたこともある」
少年は顔を歪める。努めて思い出さないようにしたけれど、言葉にしたら手が震えた。
「……でも、あなたの痛みが分かるわけじゃない」
「でも、お前も、された時は痛かっただろ」
言ってから、少年は口を塞ぐ。ルーナメリィは苦笑した。それはつい最近までの境遇に対する冷笑であったかもしれないし、少年の素直な反応に対する笑みであったかもしれない。
「うん。痛かった」
「……悪い。思い出させた」
「大丈夫。でも、どいてほしい」
「逃げるのか」
「ううん。話がしたい」
僅かに躊躇い、少年はルーナメリィの上から退いた。ルーナメリィは起き上がって少年と向かい合う。
「名前はなんていうの?」
問えば、少年は僅かに沈黙する。
「忘れた」
「……名前を?」
「呼ばれねぇから」
どこか不貞腐れたような横顔が、稚く見えた。もしかしたら、ルーナメリィよりも年下かもしれない。
「いつから、島にいるの?」
「答える義理はねえ」
「わたしが箱を出たのは、六日前」
少年は思わず、といった様子でルーナメリィを見た。
「お前、ずっと箱にいたのか」
ルーナメリィは頷き、残してきた友のことを想う。きっともう二度と会わない。会えない。それを承知で置いていった。自分ひとりが自由になりたいがために、彼女を捨てていった。恋しく思う資格はないと知っている。
「俺は、三年前だ。でも、どうせ島も地上も変わらねえ。お前だけだよ、空を旅してる紋章者は」
少年が睨んでも、ルーナメリィは顔色を変えない。
「裏切り者め」
ただ、その瞳を伏せる。長いまつ毛が微かに震えた。
「……そう、だね」
「恥ずかしくないのか。非紋みてえな顔して、非紋に混ざりやがって」
「恥ずかしくない。分かっていて選んだ」
暫く、少年は沈黙した。
「なぁ、おまえはさ、非紋に成り代わってるんだろ」
「うん」
「つらく、ないのか」
「苦しいよ」
答える声は端的で明瞭だった。
「だったら!」
「それでも、わたしは御伽噺の世界を見たかった。だから、箱の外に出た時、とても嬉しかった」
訳わかんねぇ、と少年は侮蔑も露わに吐き捨てた。
「こんなところの何がいいんだよ。人だらけの、こんな場所」
「焼き菓子、って知ってる?」
「は?」
「丸くて甘いの。とてもおいしかった」
「食べ物がなんだよ! 俺は島の話を」
「食べ物はね、島で人が作ってるんだよ」
少年は目を見開く。ルーナメリィは髪に挿した飾りを抜いた。ふわりと髪が膨らんで、頬を擽る。
「この可愛い髪飾りも、人が作ったもの。――確かに、人は怖いよ。恐ろしいよ。それでも、素敵なものも、あるよ」
「……素敵なもんなんてねぇっ! 枷に繋ぐことしかしない奴らだ」
少年は首を横に振り、声を荒げた。
「お前だって苦しんだんだろ! なのにどうしてあいつらの肩を持つんだ!」
ルーナメリィは言葉に詰まった。それ見たことか、と少年は鼻を鳴らす。
「......わたしね、箱の中にあの人がやってきた時は、紋章者だと思った」
「は? なんで」
「誰のことも殴らなかったから」
「……そりゃ、変なやつだな」
うん、とルーナメリィは頷く。彼女が人だと聞いた時の驚愕を、ありありと思い出した。
「だから、人だからみんな同じってわけじゃないのかなって思った」
「……っんなわけねぇだろ! おまえの言うやつがおかしいだけだ」
そうかもしれないけど、と言ってルーナメリィは頭を振る。
「前に行った島には、お菓子くれた人もいたし、いきなり剣を振り回してきた人もいたよ」
「……はっ、優しい人に会ったから全部許すって? なら、何が苦しいってんだよ。人に囲まれている以上に苦しいことがあるっていうのかよ!?」
「……全部、隠さなきゃいけないのが、いや」
少年は目を点にする。
「わたしは二度と名前を言えない。全部に嘘をつかなきゃいけない。そういうのが、いや」
「お前が紋章者だって言ったら、どうせみんなおまえから離れていくんだぞ。騙されてたとかなんとか言ってよ」
「......うん。そうだと思う」
「なら!」
「――あなたは違うの?」
少年は虚を衝かれた様子で瞳を揺らした。
「どういう、意味だよ」
「うまく、言えないけど……あなたは、わたしが人だって言ったら、きっとどこかに行っちゃうでしょ?」
「そりゃーー」
言いかけて、少年は短く息を呑んだ。ひゅっ、と吸い込んだ息が歪な音を立てる。
「ち、がう。俺たちは……あいつらとは、違う!」
「でも、さっき、違うものはないって、」
「違う!」
悲鳴のような声だった。がむしゃらに振り回した手が腕にあたり、ルーナメリィは痛みを覚えた。
「違う、違う違う違う違う違う! 俺はあいつらとは違う!」
「……違う方がいいの? 同じ方がいいの?」
問うと、少年は絶望的な顔をする。だって、と呟く声は震えていた。
「そんなの、知らない」
初めから憎悪しかなかった。憎悪の上に羨望と同族への愛が混じっただけ、憎悪を切り捨てたら全てが瓦解する。
「俺に、わかるわけないだろっ……!」
くるり、と少年は踵を返す。待って、と叫んで追いかけたけれど、すぐに差をつけられて、少年の姿は見えなくなった。
はあっ、はあっ、と己の吐く荒い息だけが耳に残る。建物の影になって、ぬかるんだままの泥が重い。
――でも、探さなきゃ。
話して何が変わるかなんて、分からないけれど。
ルーナメリィは膝についた手を握りしめた。




