第六話 裏切り
ヴィヴィアンが子を産んでから一年半。
リディルは5歳になった。
「リディルー! 白ワイン二つ!」
「はーい」
小間使いとして、リディルは娼館で働き始めた。初めはグラスを割ったり部屋を間違えたりと散々だったが、最近では上手くできるようになってきた。
「この部屋でお昼は終わり。ご飯食べてきな。アノンにもパンあげといで」
「はーい!」
リディルは逸る足取りで厨房に向かった。自分の分とアノンの分の膳を取って最上階に向かう。
「ノン、ごはんだよ!」
「でぃう!」
最近ようやく一人歩きができるようになったアノンは、よちよちと歩いてきてリディルにしがみついた。なんとも可愛い。
結局、アノンは娼館で生きることが許された。頭の固い館主には内緒だが、お産の手伝いをした娼婦は皆、沈黙を守ってくれたのだ。なぜかは分からない。赤子の愛らしさにころりと参ってしまったのかもしれないし、ビビに絆されたのかもしれなかった。
「よーくかんでね」
「あい」
リディルは自分のご飯を食べる傍ら、アノンの食事を見守った。ビビは体調がよくなると早々に娼婦の仕事に復帰し、以降は口の固い娼婦たちが代わる代わる面倒を見ていた。
リディルはスープでふやかしたパンで頬をいっぱいにしたアノンの頭を撫でた。亜麻色の髪に隠れるようにして、布が巻いてある。これは額を覆う役割を果たしていた。ぐずった時に外しかけたことがあるが、断固死守している。
「でぃう、おいちい」
「うん、おいしいねぇ」
紋有りの話なんて嘘っぱちだ、とリディルは思う。だってアノンはこんなにも可愛い。
「――おや、先客がいたか」
「サラ」
スープで汚れた口の周りを拭いてやっていると、娼婦のササラリーネ――通称サラが顔を覗かせた。アノンが生まれた時、赤子を殺せと執拗にビビに迫っていたが、ビビが意見を変えないと分かると、諦めたらしい。アノンの面倒を見ることはあまりないが、時折こうして見に来ては、様子はどうだと尋ねて帰る。
「ごはん、もうたべたよ」
「いや、顔を見に来ただけだよ」
「さー!」
アノンはサラに向かって手を伸ばしたが、サラは手を振るだけで、近づこうとはしない。
「アノンの様子はどうだい」
「いつも通りだよ! ごはんもたべてるし、このあとは、おはなししてあげるの」
「そうかい」
サラは目を細めてアノンを見つめた。アノンはいつものようにちゅぱちゅぱと指を吸っている。美味しいのかと思って自分の指で真似したことがあるけれど、特に味はしなかった。
「サラは? 今日は昼もあるの?」
「ああ、夕方に馴染みの憲兵が来る。覚えてるかい」
「ええと、みどりの服着た、少し怖い顔の人」
「名前と顔で覚えなねーーまあいい。変なことは、してないかい」
「へんなこと? ご、ごめんなさい、しょくどうにおいてあった飴、たべちゃった」
「あんたじゃないよ、アノンだよ」
「アノン?」
リディルはきょとんとしてアノンに視線を落とす。瑠璃色の瞳がリディルを見返した。
「えーっと、パンとまちがえて、布をかじってた。つかまり立ちが、上手になった」
「変なことじゃないね」
「そうかも」
サラは苦笑する。
「あんたに聞いたのが間違いだったかね。まあいいさ」
サラが出ていくと、アノンはリディルにしがみついた。
「しゃりゃ、ノンのこと、きあい?」
「え?」
アノンは不安そうに瞳を揺らしている。
「どうなんだろう」
正直、サラが何を考えているのか、リディルにはとんと分からない。
「きあいなのかな」
「だ、だいじょうぶだよ。ノン、アノン、ものがたりをおしえてあげる。ね、どんなのがいい? 小さな男の子のだいぼうけん、森のくまさんのおはなし、ええと、それから」
「もりのくまさん!」
アノンは不安そうな表情から一転してぱっと笑みを浮かべる。
「こほん! むかしむかし、もりに小さな女の子がすんでおりました。女の子は木のみをとり……」
ご飯を食べて眠くなったのだろう、話の途中でアノンはリディルに寄りかかって眠り始めた。大変可愛い。
リディルはアノンの口からそっと指を外してやり、ころんと横になった頭の下に枕を入れた。ちょうどよく、仕事が再開する時間だ。
「行ってくるね、ノン」
リディルはアノンの頬を撫でて部屋を出た。
***
ササラリーネが姉のように母のように慕っていた娼婦が死んだのは、雨季だった。雨が降り続いたある日、馴染みのひとりに殺された。
あれほど慕っていたのに、サラは彼女の笑顔を思い出すことができない。彼女が最期の日に着ていた紫陽花の柄の衣装も、お気に入りの紫の髪飾りも、頭を撫でた温かな手の感触も覚えているのに、その顔だけは霞がかかったようにおぼろげだ。
—―これで彼女は永遠に俺のものだ! 今世も来世も、ずっと共にいるんだ!
彼女の亡骸を抱いて狂ったように笑った男は、殺人の罪で処刑された。おねえちゃん、来世でもあんなやつに付きまとわれるの、と震える声で別の娼婦に問うと、男は大罪人だから、来世で会うことはないよ、と慰められた。
—―あぁ、そうか。男は紋有りとして生まれるのか。
そう考えたら、少し楽になった。彼女はもう、あんな狂った男に煩わされなくて済むのだ。安心したと同時に、紋有りに対する嫌悪感が生まれた。彼らは人を人とも思わないようなやつらなのだ。生きていることすらおぞましい。
そのはずだったのに。
「なにかあったのか」
「いいえ。なにもありゃしません」
サラは脳裏に蘇ったあどけない子供の笑顔を消して微笑んだ。馴染みのひとりである憲兵の男は、必ず夕方の時間にやってくる。伽を求められたことはない。ただ静かに酒を飲み、娼館の様子を聞いて帰っていく。肉欲ではなく、情報を求められているのだと理解していた。ゆえに、本来ならば伏せるべき他の顧客の情報も、必要であれば流していた。
「今日は、ご機嫌がいいように見える。何かあったんですか」
「さてな」
憲兵の男はこちらの質問に答えてくれた試しがない。馴染みになって6年が経つ今も、サラは名前しか知らない。人間味のない彼が、実は少し苦手だった。
男は酒を飲み干すと、席を立った。
「不審なことがあれば、言うように」
「あい」
恐ろしい、紋有りの子供がいるのです。
子供だからと侮ってはならない。紋有りはおぞましい奴ら。成長すれば、必ず周囲に害をもたらす。
分かっているのに、サラは1年以上もの間、告げることが出来ないでいた。
不安だけが胸に巣食っていく。あどけない笑みを浮かべた赤子の顔が、殺人者の顔に近づいていく。
破綻は目の前にあった。
***
ある日の明け方、リディルが部屋の片付けをしていると、ヴィヴィアンが顔を出した。伽を終えた後なのか、妖艶な雰囲気を纏っていた。
「リディル、ノンを見なかった?」
「見てない。へやにいないの?」
「いないのよ。どこへ逃げ出したのかしら」
「えっ。ちゅうぼうかな?」
歩けるようになったアノンは、時々部屋から抜け出すことがあった。大体は娼婦に見つかって部屋に連れ戻されているが。
「見てみたわ」
「うーん」
「客はもうみんな帰って大扉は閉まってるし。どこに行ったのかしら」
ありがとう、と声をかけてビビは去っていった。リディルは急いで後片付けを済ませ、昼の御膳を取りに厨房に向かった。今日は予約が多く、厨房は混み合っていた。
御膳を部屋に運んでいた時、食器が割れる音と怒声、それに混じって小さな子供の泣き声が聞こえた。
――アノン!
リディルは走って御膳を部屋に置くと、並べることもせずに声の方に向かって走った。
娼館の西側地上階。そこには既に騒ぎを聞きつけた娼婦が集まっていた。リディルは娼婦たちに迷惑そうな顔をされながらも、足の間をかき分けて輪の中心に向かう。アノンの泣き声が尚も聞こえていた。
「お前、分かっているのか、死刑だぞ死刑!」
「黙っててください! あなただって、共犯と思われたら命はないですよ!」
「ふざけるなよヴィヴィアン、俺を脅す気か!」
館主とビビが向き合っていた。ビビはアノンを抱いている。アノンはいつものように指を吸っていたけれど、額には、あるべき布がなかった。どこに、と視線を彷徨わせ、館主の背後に佇む娼婦、サラの手の中にそれを見つける。
「お前たちも分かっていたのか! 紋有りは見つけ次第報告だ、下手をすれば島主さまへの反逆と見做されるんだぞ!? どうしてくれるんだ、店の評判もガタ落ち、いや、俺の命だって……!」
「今までバレてなかったんです、問題なんてないでしょう! 館主さまさえ黙っていてくれたらいいんです!」
「もう無理だよ」
静かな声が落ちた。反射的にその場の全員が声の主を、サラを見つめる。サラはビビだけを見つめていた。
「あたしの馴染みに憲兵がいるのは知ってるだろう」
「っ! サラ、あなたまさか、」
「ああそうさ、通報したよ。ここに紋有りと、紋有りを匿ってる大罪人がいるってね!」
「「どうして!」」
叫んだのは複数の娼婦、だがその声なんて聞こえていないかのように、サラの視線はビビひとりに注がれていた。
リディルは何が起きているのか分からないなりに、周囲を満たす焦燥を感じて不安な気持ちになっていた。
もしかして、憲兵が来るのだろうか。アノンを、捕まえてしまう?
「アノンはいい子だ、そんなことは分かっているよ! だから、この1年、黙ってたんじゃないか!」
「だったら!」
「でもね、怖くて堪らないんだよ! 紋有りは大罪人だ、アノンがいつおかしくなるかなんて、分かったものじゃない! あんたは自分の子だから安心し切ってたんだろうけどね、こっちはいつおかしくなるかも分からない子供の相手をさせられてたまったもんじゃなかったんだよ!」
「そんな……そんなの、分かったことじゃないでしょう! 嫌なら近づかなければいいだけのことじゃない!」
その子は紋有りだ、とサラは叫ぶ。その瞳から涙が零れていた。
「愛しく思うだなんて、ありえないだろうっ......!」
ビビは息を飲んだ。瞳は微かに潤んでいる。
「そう、よね。怖いわよね。でも。でも、サラ。あなたのことを......あなたのことだけは」
信じていたのに。
サラとビビの視線が交差する。サラの瞳に絶望の色が濃いのが不思議だった。
それ以上は何も言わず、駆け出したビビの背にサラの悲鳴が追い縋る。
「ビビ――ヴィヴィアン、ビビ」
逃げて、という声は果たしてサラの声であったのかどうか。




