第五話 娼婦の子
「じゃ、これ運んできて」
「あい!」
リディルは渡された盆を慎重に抱え、裏の小さな階段を登る。三階分登り切った頃には息が切れていた。
「はぁ、はぁ……ええと、おへや、おへや……」
リディルはキョロキョロ周囲を見回しながら廊下を進む。と、隅の部屋から歌声が聞こえた。嬉しくなって走り出そうとし、盆の上のお皿を落としそうになって慌ててやめた。
「ビビ、ご飯だよ」
扉の外から声をかけると、声が止む。程なくして内側から扉が開かれた。
「リディル、遠かったでしょう。ありがとう」
「ううん、だいじょーぶ!」
微笑んだ娼婦の名を、ヴィヴィアン――通称をビビといった。この間までは、娼館でも指折りの娼婦であった。
盆を置いた途端、ぐぅ、とリディルのお腹が鳴った。
「あら。お腹が空いているの? 厨房には行った?」
「ご飯、もらえなかった」
ビビはりんごを爪楊枝で刺してリディルの口元に運んだ。
「いいの?」
「内緒よ」
リディルは嬉しくなってりんごにかぶりつく。ビビはそれを微笑んで眺めている。柿を咀嚼しながら、リディルは卓の上に置かれた編み物に目を留めた。
「姐ちゃん、あれなに?」
「ん? あぁ、産着を編んでいたの」
「もう、うまれるの?」
「ううん、まだ先よ。でも、楽しみで」
ビビは子を身籠っていた。今まで隠し通していたため皆仰天し、堕ろせと促したが、ビビは梃子でも動かなかった。
「なまえは?」
「まだ決めてないの。候補は沢山考えたのよ」
ビビは引き出しから紙を取り出した。
「男の子だったらノエル、アレン、リック、女の子だったらアンナ、アビゲイル、セナ。リディルは何かいい案ある?」
リディルは首を捻り、最近読んだ物語の主人公の名前を出した。
「アノン」
「あら、アノンの大冒険、の主人公ね」
「うん。だめ?」
「そんなことないわよ! アノンは勇敢でかっこいい男の子だもの」
それもいいわね、とビビは上機嫌で紙に名前を書き付ける。
「……ビビは、あかちゃん、たいせつ?」
「世界で一番大切よ」
リディルは忙しなく瞬きを繰り返す。
リディルにとって、母というのは遠い人だった。腹が大きくなるまで気付かず、気付いた後三度堕ろそうとしたが、いずれも失敗した。名前もつけず、その腕で抱いたこともなく。リディルが死なずに済んだのは、単にビビのような子供好きの娼婦が面倒を見てくれたからだ。
時折、その人を見かけることがある。リディルと同じ黄金の髪に、空よりも深い青の瞳。舞がとても上手な娼婦。目が合うと、必ず先に逸らす人。
「私の家族だもの」
リディルには、晴れやかな顔でそう言うビビの気持ちは全く分からなかった。けれど産着を手縫いし、揺籃を編み、詩や唄をまだ見ぬ我が子に向けて聞かせることが、愛だということは分かった。
そしてそれを、微かに羨ましく思ったのだ。
「リディルは、この子のお兄ちゃんになってあげてね。ここのこと、たくさん教えてあげるのよ」
「えっ、ぼく、おにいちゃん!?」
「そう。できる?」
「がんばる!」
リディルはふんす、と意気込んだ。
***
ヴィヴィアンが子を産んだのは、よく晴れた日の夜のことだ。リディルの母のお産を手助けしていた娼婦数名がお産を手伝った。陣痛は昼から始まっていて、半日近くが経過していた。まだ3歳だったリディルはその時既に寝ていたけれど、喧騒で目を覚ました。もしかして生まれたのかな、と三つ隣のビビの部屋に走る。娼婦たちの甲高い声に混じって、赤子の泣き声が聞こえた。入ろうとしたが、甲高い声に思わず扉にかけた手を止めた。
「今すぐ殺しちまいな!」
「嫌よ! この子は私の子よ!」
「モンアリは人じゃないんだよ! すぐに殺さなきゃばちが当たる!」
「……っ、でも!」
「サラ、落ち着きなさい。ビビも、冷静に」
「相手してらんないよ!」
荒々しく扉が開けられる。リディルは尻餅をついた。扉を開けた娼婦、ササラリーネはリディルを助け起こすと溜息をつく。
「なんだいリディル、盗み聞きかい。いい度胸だね」
「う、」
「とっとと寝な、子供がベッドに入る時間は過ぎてるよヴィヴィアン。あんたもさっさと子供殺す覚悟決めな。」
ササラリーネを筆頭に、娼婦が数人桶や布を持って出て行く。ひとりの妓女がリディルを見て足を止めた。リディアーヌという娼婦だ。黄金の髪に青の瞳。舞の美しい、笑わぬ娼婦。
「......おかあ、さん?」
リディアーヌは目を見開いた。手が伸ばされ、引っ込められる。薄い唇が開き、しかし何も言葉を紡ぐことなく閉ざされる。足早に去って行くその背を見つめ、リディルは項垂れた。リディルは母に、名を呼ばれたことも、抱かれたこともない。
ビビも、生まれた子供に、見向きもしないのだろうか。ぼうっとしていると、部屋の中から赤子の泣き声がした。リディルは我に返って部屋に飛び込む。
「ビビ!」
リディルは四つん這いでベッドの側に寄った。ビビの腕の中には、弱く泣く赤子がいる。
「おとこのこ? おんなのこ?」
「……男の子よ」
「なまえ、どうするの?」
「……どうしよう」
ぽたりとビビの瑠璃色の瞳から涙が落ちる。初めてビビが泣いているところを見て、リディルはびっくりした。
「ビビ、ビビ、なかないで」
「り、でぃる。リディル……」
どうしよう、と呟く声は掠れていた。
「私の子が、殺されちゃう」
「ころされる?」
「……連れていかれちゃう」
「えっ、なんで?」
リディルはただただ驚いていた。ビビは束の間躊躇い、生まれたばかりの赤子の額を見せた。
そこには不思議な模様があった。花のような、葉のような。言葉では形容しがたい模様だ。
「きれいだね」
「へ?」
「え?」
沈黙のまま見つめ合うこと数秒、先に声を上げたのはビビだった。
「モンアリ、よ?」
「モンアリ?」
どこかで聞いたことがあるような、とリディルは首を捻る。
「憲兵に、連れて行かれちゃうの」
「えーっ、どうして!?」
「だから、紋章があるから」
「もんしょーってなぁに?」
「紋章は、悪人の……悪いことをした人の生まれ変わりの証。だからこの子はーー昔、すごく悪いことをしたの」
「わるいことってなぁに?」
「それは……わからないけど」
リディルは首を傾げた。わからない悪いこと、がなんなのか、よくわからなかった。
「あかちゃん、いまもわるいことするの?」
「……それは」
ビビは言葉に詰まった。赤子の泣き声だけが部屋に響く。
「も、もしかして!」
「ど、どうしたの」
「あかちゃん、ぼくのおかしとっちゃうかな!?」
「……それは心配いらないと思うわ」
「よかったー!」
リディルは満面の笑みを浮かべた。
「なら、いいこだね!」
「…………リディルは単純ねぇ」
「たんじゅん?」
「もしかしたら、他に悪いことをするかも。リディルのお洋服、盗っちゃったり」
「ええっ!」
それは困る、とリディルは腕組みして唸った。一生懸命考えて、考えて、あっ!と声を上げる。
「わかったよ、ビビ姐!」
「今度はどうしたの?」
「あかちゃんにね、これぼくのっていうの!」
「……え?」
「そしたら、あかちゃん、ぼくのおかしたべないよ!」
ビビは呆気にとられた様子で口を開けた。
「だいじょーぶ! ぼくがおしえてあげる!」
えへん、とリディルは胸を張る。
「だってぼく、おにーちゃんだもん!」
ビビは目を丸くし、次いで弾かれたように笑い出した。
「そっか。リディルが見ててくれるなら、安心ね」
「えへへ」
「……私も、ちゃんと教えてあげたらいいんだわ。悪いことをしちゃだめだって。そうしたら、きっと」
ビビは何度も頷いた。
「ーーリディル、ありがとう」
「へ? なにが?」
首を傾げるリディルの傍らで、ビビは花開いたように笑った。
「ええ。とっても素敵なことをしてくれたわ」
「? どういたしまして」
眠くなったので部屋に戻ろうとしたリディルを、ビビは引き留めた。
「リディル。この子の名前、アノンにするわ」
「ほんと!?」
リディルは飛び上がって喜んだ。
「やった! アノン、よろしくね」
アノンは返事の代わりに泣いた。リディルはアノンの、ビビと同じ瑠璃色の瞳を見下ろして笑った。




