第二話 宿
雲海を飛ぶこと一日、ようやくハイラに辿り着いた。入島審査では、島に入る目的をしつこく聞かれた。隣の島の島主の息子ともなれば、仕方のないことだろう。問答そのものは短かったが、待ち時間が長く、二刻に亘った。ウツィアの方が早く終わっていたようで、大部屋に通された時、ウツィアは心底安堵した様子で頬を緩めた。
「リディル! よかった」
「待たせてごめんね」
「ううん、大丈夫」
「アルデバラン殿、シュトロフィア殿」
名を呼ばれて二人は振り返る。憲兵は無言で、鮮やかな青い色の紐を差し出した。
「ハイラ島では、身分ごとに紐を右手首につける義務がある。身分を表すものゆえ、隠してはならない。なくすと罰が与えられる。気をつけるように」
「ありがとう、ございます」
片手で器用に紐を結んだリディルは、もたつくウツィアの分も結ぶ。大門をくぐった途端、空は瞬時に夜空に切り替わる。街灯は少なく、一瞬にして暗がりに変化した視界がほんの僅か明滅する。
「夜だ……リシュルトと、同じくらいかな?」
「島の中と外で時間が違うから、頭がこんがらがりそう……」
わかる、と笑いながら宿を探す。既に二つ目の月が欠けており、どこもかしこも暗かった。
「あ、ここ宿屋かも」
「ほんと?」
「たぶん。ちょっと看板の文字が掠れてて見にくいけど……」
入れるかな、と小声で喋っていると、いきなり戸が開いた。ウツィアは余程驚いたのか、飛び上がる。戸を開けたのは、眠そうに瞼を擦る中年の女だった。
「なんだい、こんな夜中に店の前で……おや、空行者かい」
不機嫌そうな声が一気に和らぐ。女の視線が右手につけた紐に注がれているのを見て、紐の効力を感じた。
「今、狭い部屋しか空いてないけど?」
「大丈夫です。お値段は?」
「そうさね、ふたりで一泊銀貨百枚だよ」
リディルは目を剥いた。
「ぼったくりすぎでしょう! その一割にしたって高いくらいだ!」
「はぁ!? 一割なんて商売あがったりだよ、馬鹿なことをお言いで……あ、もしかして」
声を荒げた女は、何を思ってか店の中に戻り、すぐに戻ってきた。ほら、と開いた掌の上には、知っている銀貨よりもだいぶ小さなものが載っている。リディルは目を瞬いた。
「あれ….」
「あんたの島と、銀貨の大きさが違うんじゃないかい? こっちじゃあ、丸パンひとつが銀貨一個だよ」
「丸パン一個で銀貨……えー……いや、にしても高いですよ」
値切り交渉の末に、二人で一泊銀貨六十枚にまで値切った。リディルはホクホク顔だが、ウツィアは目を回している。ギシギシと軋む階段を登りながら、ぽつりと呟いた。
「リディルすごい……あんなふうに交渉したら、安くなるんだ」
「まぁ、慣れてるからね。こういう交渉は任せてよ」
お願いします、と階段の途中で律儀に頭を下げたウツィアは、目の前の段差に額をぶつけて悶えていた。
部屋は聞いていた通り、さほど大きくない。寝台もひとつしかなく、小さかった。
「ウツィアは寝台をーーって、ちょっと!?」
「え」
ウツィアが当たり前のように床で寝ようとするので、リディルは全力で止めた。
「寝台で寝て! 僕が床で寝るから!」
「え、あ……でも、わたし、慣れてるし。リディルが使って」
「いやいやいや! そういうわけにはいかないよ! 風邪引くかもしれないし」
「わたし、頑丈だから大丈夫。それよりリディルが」
「……わかった、二人で寝よう! それで解決!」
リディルがパン、と手を叩くと、ウツィアは目を丸くした。
「大丈夫? 落ちかけてない?」
「うん。平気」
小さな寝台とはいえど、小柄なウツィアと細身のリディルが横たわるには十分な広さだ。ウツィアは顔の近くの布をきゅっと握りしめた。
「……あったかいね」
「ね。僕、体温高いから、寒い時は湯たんぽになるよ」
おどけて言うと、ウツィアは驚いたようにリディルを見つめた。沈黙が落ちて、冗談が滑った時のような居た堪れなさを感じていると、そっか、とウツィアは呟く。
「ーーそっか」
「……人間湯たんぽはやっぱり嫌?」
しみじみと呟かれた言葉の意図が分からず尋ねると、ウツィアはゆるゆると首を横に振った。眠くなってきたのか、瞼は徐々に下がり始めている。
「昔……わたしも、幼馴染に似たようなことを言ったの。寒い時は温めるよって」
声はどんどん小さくなっていった。
「同じなんだな、って……」
かくりとウツィアの頭が枕に沈む。髪が垂れて、その表情を隠した。




