あなたの記憶、買います。其の二⑦
もうそろそろ看板の灯りを消そうかと思っていたそんな時間。
「まだいいかい?」
カランと音を立てて店に入ってきた初老の男性がいた。きちんとした仕立てのスーツを着た小綺麗な人だ。
「社長」
「やめてくれよ。今はもう会長なんだよ」
そういうと慣れた調子でカウンターに座る。
「何か飲まれますか?」
「ああ、それよりも何か、心を軽くしてくれるような、ないかな?」
「心を軽くですか」
会長は穏やかに笑ってはいるが、その顔に疲労の陰を見せている。ここは、久しぶりに来ていただいた会長のために、選りすぐりの一品を出したいところだ。ところがイマイチいいものが思いつかない。
「ちょっと前なら、大魔術師に挑んで勝った記憶というのがあったんですが」
会長はいい声で ははは と笑った。
「何もできなかった僕が大魔術師に勝った、という晴々しい記憶です。ところが、これがちょっと詐欺罪の立証に役立つっていうんで、持ってかれてしまいまして」
「それはそれで興味はあるが、でもそんなのじゃなくていいんだよ。もっとささやかな何かがいいな。純粋なというか」
「あ、じゃあ、こんな僕でも学年一番の美女に惚れられた話ってのはどうですか?」
「そういうのもなんかかえって疲れるねぇ。惚れたはれたって年でもないし。もっと単純で素朴なのがいいな」
はて?と考え込むピーター。それでふと思いついた。あれはどうだろう?
「ちょっとお気に召すかどうかわからないんですが、ま、これはお気に召さなければお代は結構ですので」
「うん」
そして、ピーターは紳士を奥の部屋へと誘う。手に持った小瓶には金色に光るキラキラとした煙が脈打っている。
「ごゆっくりどうぞ」
小瓶を紳士に渡すとドアを静かに閉めた。その後、紳士が目覚めるまで1人店内でゆっくりと過ごした。久しぶりに葉巻をすった。葉巻から立ち上る紫煙を飽きることなく見ていた。
ガチャリと音がして、老紳士が部屋から出てきた。
「いかがでしたか」
「うん」
穏やかな様子だったが何も言わない。やはり拍子抜けだったかな。ま、でも、無料で手に入れたものだし、別に良いか。紳士はいつも通り、カウンターの端に座ると、胸の内ポケットから万年筆と小切手帳を取り出すと慣れた手つきでサラサラと書き込む。そして、ピリピリと破り取るとそれを置いて立ち上がる。
「ありがとう。ピーター、また来るよ」
「はい、お待ちしております」
きちんと礼をしてお見送りする。紳士はゆったりと歩きながら去っていった。この御仁、非常な太っ腹なのである。その日暮らしのピーターの身を気遣って、いつも破格の値段で記憶を買ってくださる。しかし、さすがに今日の記憶では会長にはご満足いただけなかっただろう。
平凡な男の子の、とある日の輝かしい記憶。
そして、今度こそ店じまいのためにキュッキュッとカウンターを拭きながら、端っこまで行ってその会長の小切手をぱっと拾って額面を見た。
3,000,000.00
おっと……老眼が、老眼が進んだぞっと。もう一度目をギュッとつむり、パッと開くと小切手をグッと遠くに引き離して見た。
3,000,000.00
え、あれが、え、会長?
もういないってわかってるのに、つい小切手片手に店のドアを開けて外へ出ると右と左を覗き込むピーター。でもそこにはただ、誰もいない夜道が続いているだけだった。
2026.08.06
汪海妹
そして、おまけ
ルリの部屋でアルバムをめくっている翔とルリ。
「これは覚えてる?」
「覚えてるよ。運動会が6月でさ。わたしの誕生日が近いから一緒にやっちゃおうってお母さんがスイカ持ってきてさ」
「うまかったよな」
「翔、運動着、汚しちゃってたよね」
「よく覚えてんな」
二人でアルバムを見ていたら、翔に後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「どうしたの?」
「俺のこと二度と忘れないでね」
「忘れたことなんてないでしょ?」
背中の方にいる翔にそう言いながら、ルリは考える。あのまま、翔の記憶が戻らなかったら、わたしの人生、どうなっていたんだろうなぁ。もう一度翔を好きになったんだろうか?そんなことを思っていたからだろうか。とある記憶が蘇ってきた。
「そういえば、この時さ、翔、リレーのアンカーなって、ビリから全員追い抜いて逆転して1位になったよね」
そばで応援しながら、周りの子もキャーキャー言っていた。そんな翔が誇らしくてたまらなかった。このくらいの頃からきっとルリは、翔は自分のものなんだってどっかで思ってた。
「そんなことあったっけ?」
「え、覚えてないの?」
「うーん、覚えてないなぁ」
「ええ!かっこよかったのに」
「そんなん、ルリが覚えていたらそれでいいよ」
「そうなの?」
「うん」
翔が甘えた表情で顔を寄せてくる。抱きしめられながら唇を重ねた。




