あなたの記憶、買います。其の二③
真夜中に他人の家に忍び込むなんて無理とは思ったのだけど、あの、翔のことをすっかり忘れてしまっている様子のルリを見ていたら、どうしても、どーしても、忘れる前のルリに戻って欲しくて、そんな大事なことマユに頼めない。ちゃんとやってくれるかどうか信用できない。
それではどうやって忍び込むのかだ。
姉妹に聞いたことがある。まだ小さかった頃、おじさんが連日連夜午前様をして、おばさんをカンカンに怒らせて、とある夜に閉め出された。通常の鍵で開けられる鍵の他に、夜中だけ家の中からかける第二の鍵がルリの家にはあって、それをかけられてしまったのだ。
おじさんはしばらく寒い中反省していたが、だんだん酔いも覚めてきた。家のあかりが一つもついていないところを見ると、奥さんはどうやら寝てしまったらしい。このまま朝まで外にいるのかと思うとゾッとした。それで、電信柱伝いに屋根に上り、ベランダから家に入ると、娘の部屋で朝まで寝てたらしいのだ。それに倣おうと思う。
草木も眠る丑三つ時、フードのついた薄手の黒のパーカーに下も黒いズボン、靴も黒。マスクして手袋までしたら、我が家を出て外に出る。
ウォーン……
どっかの犬が遠吠えを。くそ。犬、おとなしく寝とけ。森川家(マユとルリの名字)の塀の前に立つ。夜中にこんなことやってるとこを誰かに見られたらどうしようと思うと、ドキドキが止まらない。
不審者がいると思われる→警察に連絡が行く→現行犯逮捕→警察はルリの家に事情を聞く→あ、それは泥棒ではなく翔くんですとなる→青年、一体君はなにをしようとしていたのだ?→翔、答えない→そりゃもう、夜這いでもしようとしてたんでしょうとなる→一堂、ええええええ
いや、それはそれでまずいだろ。明るい未来がなくなるだろ。
ブロックを積んだ塀の前でどっから見ても不審者のいでたちで、翔、頭を抱える。妄想の中で、いや違うんです。お巡りさん、おじさん、おばさん、これには深い訳が……
ウォーンどっかの犬がまた遠吠える。どうでもいいからさっさとのぼれ、翔。
それで、翔は、両手でブロック塀にしがみつくと自分の上半身を持ち上げた。
よっこらせっと。
塀を伝って電信柱を登り、屋根へ伝ってからはギシギシと鳴らさないように足を忍ばせた。
ベランダに入ってしまうと周囲の視界から逃れられるので安心する。そこからそっと、2階の廊下へと続くドアノブを回す。忍足で入りこんで廊下をつたい、ルリの部屋へと忍び込んだ。ルリ、ごめん。いくばくかの罪悪感がある。
部屋の窓はカーテンがきちんと引かれてなくて、隙間から月の光が入ってきてルリの寝顔を照らしていた。翔はしばらくボケっとルリの寝顔を見ていた。
ギシッ
後ろで鳴った微かな音に、咄嗟に後ろを振り向くのと後ろの人影が手に持ったものを振り下ろすのが同時だった。
ガッ
本能的に体を捻ってその一撃を避けた。細長い何かが床に当たって音を立てる。人影はもう一度細長いものを振り上げる。
「このっ」
「ちょ、タンマタンマ。俺、俺だって……」
「ん?」
翔がフードを外し、マスクを下ろして顔を見せると、まゆは目を丸くした。
「翔、あんた、何やって……」
「うーん」
ルリが寝返りを打つ。翔はそれを見ると、まゆの腕を掴んで引っ張ってルリの部屋から出た。ベランダまで後退してから口を開く。
「そ、それ、よく見たら、ゴルフクラブじゃん」
「おうよ」
パジャマ姿のまゆが父親のだろうゴルフのアイアンクラブを右手で握り、ぺんぺんと左の手のひらに当てながら胸を張る。
「いや、さっき、めっちゃ本気でふりかかってきてたよね?」
「当たんなくて良かったぁ」
「俺だから避けれたんだよ?」
「いや、でも、翔でもルリになんかしたら容赦しないって」
翔はため息をついた。
「寝込み襲うとか、ありえないだろ。見損なったぞ、翔」
「これには深い訳が……」
そう言って例の小瓶をポケットから出した。
「なんこれ?」
「ルリの記憶」
正確に言えば、これはルリの俺に対する気持ちだ。翔は桜色の渦巻く煙を見ながら心の中でつぶやいた。翔がことと次第を説明すると、まゆは言った。
「うさんくさ」
「いや、まゆならそう言うと思ってた」
だから、任せる気にはなれなかった。
「信じてくれなくてもいいよ。邪魔しないなら」
まゆに背を向けてもう一度ルリの部屋に戻ろうとする。
「ちょっと待て」
ルリに肩を掴まれた。
「なに?」
「一つはっきりさせておきたいことがある」
「はっきりさせておきたいこと?」
「あんたと美希って付き合ってるんだよね?」
「……」
「それなのにルリ、ルリって、あんた二股かけようとでもしてるの?」
「いや、これには深い訳が……」
まゆはアイアンクラブをまるで、不動明王の棍棒か何かのようにずしりと床に打ち付けると翔をぐいと睨んだ。
「言うまで通さないよ」
それで、翔は事情を話した。あの、同窓会のあった日、会の途中で美希にちょっと話があると表に呼び出されて、そこで、ずっと好きだったと言われたのだ。
ずっと翔くんが好きだった。いつものヘラヘラした様子は何処へやら、ちょっと潤んだような目で美希にそう言われて上目遣いに見られた時は、正直ちょっとクラクラきた。でも、自分にはずっと好きな人がいるからごめんと言った。そしたら途端に泣かれたのだ。これには本当に参った。
「で、なんでそれであんたと美希が付き合うことになったわけ」
「だから、せめて1ヶ月だけって言われて」
「は?」
まゆの目が怖い。
「なんそれ?断ればいいじゃない」
「いや、それが……」
「まだなんかあるな、良いから全部言え」
「俺に彼女ができたら、本命の子も俺のことを男として見るようになるって言われたんだよっ」
ルリのそばにはいつもいるけれど、ルリに男として見てもらえてる気が全然しなくって、だから、良いかもと思ったのだ。
ゴン
「あいったぁ」
「ばっかじゃないの?」
アイアンクラブがぶっかったあたりを両手で押さえている翔に向かって、まゆの慈悲のない声がする。
「美希はね、ずっとあんたが好きだったなんて嘘こいて」
「うそ……」
「あいつ、中学の頃から彼氏いたって。別に翔のことだけずっと好きだったわけじゃないよ」
俺のことが好きだと言って、断ったら泣いていたのに、あれが演技だったの?夜空を見上げる。綺麗な月が浮かんでいた。告白らしい告白受けたのが初めてで感動してたのに、あれは嘘だったの?
しばらく月を見ながらぼけっとしている翔。その傍でルリは本当にずっと翔のことだけが好きなんだけどなとまゆは思う。
「だから、翔みたいな子にはさ」
「うん」
「……やっぱなんでもない」
月は近くにあるように見えて遠い。でも、時々、手を伸ばせば届くように思えるから不思議だ。
記憶というのはデリケートなものだから、戻す作業は翔だけでやりたかったのだが、マユが引き下がらなかったのでしょうがない。暗い部屋の中でルリのベッドの頭の棚に小瓶を置くと、そっと蓋を取った。
すると小瓶の中でキラキラ輝いていたその煙が、まるで生き物のように外へ這い出してきて驚いた。それはクネクネと空を色のついた小さな蛇のように這う。
興奮したマユが身を乗り出した。すると、その蛇は鎌首をもたげてこちらを見た。その瞬間に思い出した。ピーターの話。蓋を開けたら、その部屋に他人がいてはならない。
「まゆ、まずい」
「え、何が?」
声に反応するかのように蛇がこっちに向かって一直線に伸びてくる。強い力でマユの手首を掴み、一目散にドアを開けて廊下に飛び出した。
「翔、痛いって」
尖ったまゆの声を無視して、ルリの部屋のドアを慌てて閉めた。
「何、なんかしくじったの?」
「わかんない」
あの、桜色の蛇が、翔とマユを追って外に出てしまったのかどうか。翔はあたりを見回してみた。見渡す限りでは、見当たらない。
「わかんないけど、とりあえず朝まで待つしかないと思う」
「うん」
立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
「じゃ、俺、帰るね」
まゆにバカと呼び止められた。やれやれ。
「今日、何回、俺のことばかって言った?」
「バカはバカだからしょうがないだろ。玄関から帰りなよ」
そうでした。




