あなたの記憶買います。其の二②
いくら幼馴染でお互いの家を行き来していると言っても、夜中にルリが寝ている部屋に忍び込むのは難しい。まゆに事情を話して手伝ってもらったほうがいいのだろうか。でも、こんな不思議は話、どうやって信じさせる?
考えがまとまらないまま、ルリの家に寄った。
「こんばんはー」
玄関で声をかけると、奥からルリが出てきた。
「あ、翔さん、こんばんは」
「こんばんは」
「お姉ちゃんなら今晩飲み会だから遅くなるって」
「そっか」
また出直すしかないかと背を向けると
「あら、翔君、ちょうどよかった」
奥からおばさんが出てきた。
「マユがいないっていうのに作りすぎちゃって。夕飯食べてって。どうせお母さんまた残業なんでしょ?」
こっちが返事する前に台所の方に戻っていってしまう。断る暇もない。翔は言われるがままに靴を脱いだ。
夕飯はカレーライスだった。つけっぱなしになったテレビのバラエティの音を聞きながら、3人で食卓を囲んだ。カレーを食べながらおばさんがルリと翔を交互に眺める。
「どうしたの?」
「え?」
「なんでそんな静かなの?2人とも」
なんと答えようか翔が困っているとルリが横からニコッと笑った。
「おいしい?」
「おいしい」
「おいしいね」
「うん」
それで会話は止まり、また黙々と食べる。おばさんがまた、変な顔で2人を見ている。突然またルリが翔の方を見る。
「大学、楽しい?」
「いや、別に」
「……」
「た、楽しい。楽しいよ」
「そう、よかった」
会話は終わった。おばさんが横から口を挟む。
「なんかよくわかんないけど、別にもういいからさっさと食べなさい」
それで、おばさんは自分の分をさっさと平らげると立ち上がり、一人分の食器を下げてそのまま台所で食器を洗ってる。すると、ルリがボソボソ話し出した。
「お母さんには」
「うん」
「わたしの記憶がなんかおかしいって言えなくて」
「ああ……」
「他はおかしくないって思うんですけど、翔さんのことだけ覚えてなくて」
「……」
「でも、家族に心配かけたくないんです」
記憶を失っても、そういうところはなんかルリっぽいなと思う。
食事が終わって帰ろうとすると、ルリが階段の上からおいでおいでしてる。
「なに?」
階段をトントン上るとルリの部屋に連れて行かれた。翔を床に座らせると自分は椅子に座り、その椅子をくるりと翔の方に回すと、机の上から小さな手帳を取って開いた。手にはペンが握られている。
「翔さんのこと教えてください」
「え?」
「好きな食べ物は?」
「なにが始まるの?」
「いいから、好きな食べ物は?」
「んーと、ラーメン?」
言葉を聞いて、何か手帳に書いている。
「嫌いな食べ物は?」
「ぴーまん」
くすくすと笑われた。
「何笑ってるの?」
「子供みたいですね」
「うるさいな」
「じゃあ次は好きな動物は?」
「なぁ、ルリ」
翔はルリの質問を遮った。
「ルリはさ、俺のこと君とかつけないで呼び捨てにするよ」
「ああ」
「ね、呼び捨てにしてみて」
「翔……」
遠慮がちにそう呼んだ。それが今までのルリの呼び方と全然違うことに今更ながら、ショックだった。
気づいたらいつの間にか、俺の横にはルリがいて、ルリの横には俺がいて、一番最初にルリに翔と呼ばれた時のことを覚えていないくらいだ。
「翔さん、どうかしましたか?」
なんでこんなことになっちゃったんだろう?もしも、ルリの記憶を戻すのに失敗して、それで、今からお互い一からやり直して、今までみたいな関係にいつか戻れるんだろうか?
「ルリ、だから、さんはいらないんだって」
「あ、すみません。つい……」
なんと言えばいいのかわからない。ルリが自分の彼女になるとかならないとかいうその前に、時間をかけて積み重ねてきたものがすっぽりルリの中から消え落ちてしまった。それを過去の出来事として逐一言って聞かせても、それは体験としてはルリの中に戻らないのではないか。翔はそっとポケットの中に忍ばせていたあの小瓶を握りしめた。
「俺、もうそろそろ帰らなきゃ」
「あ、すみません。引き止めてしまって」
見送ろうとするルリを手で制して部屋を出る。そこから帰るには本来階段を降りるべきなのだが階段には向かわず、そっと足音を忍ばせて廊下の奥へゆく。左右に姉妹の部屋があり、二階のトイレと洗面所があって、そして廊下の突き当たりには洗濯物が干せるベランダがあり、ベランダに出られるドアがある。そのドアの鍵を、開けようと思った。でも、それはもともと開いていた。
物騒だな……。
年頃の娘がいるのに鍵を閉めないのは物騒だぞと思いつつ、今度こそ階段から降りて挨拶をしながら家を出た。




