あなたの記憶、買います。
夜に自室にいると、カバンの中に入っていたスマホが震えている。
「はい」
「ね、ルリ、今度の同窓会行く?」
それは高校の同級生の美希からの電話だった。
「行こうかなー」
「でさー」
美希が聞きたいのは本当は、ルリの動向ではなかった。それは薄々わかってた。
「翔はどうなんだろ?」
「さぁ、めんどくさがっていかないんじゃない?忙しそうだし」
「ええっ、そんなん困る」
散々、ルリから誘って翔にも来させろと言われて電話は切れた。姉のマユが廊下から顔を覗かせた。
「ルリ、お風呂空いたよ」
「うん」
お風呂に入って、タオルで髪をゴシゴシしながらリビングに出ると、
「よっ」
マユと並んで翔がソファーに座ってる。二人でカップアイスを食べている。
「なにそれ?」
「かき氷」
「それは?」
「バニラ」
「あ、いーなー」
「やるよ」
翔は立ち上がるとルリの手にアイスとさっきまで使ってた木ベラを残してゆく。タオルの上からポンポンと頭を叩いて、
「ルリはアイスはバニラなんだよな」
と言って、リビングの飾りガラスのドアをガラガラ引いて閉じて出ていく。閉じた引き戸に向かってつぶやいた。
「何しにきたの?」
「そりゃ、あんたの顔をチラッと見たかったんでしょ」
「はあ?」
姉はいつも妹を揶揄うのが好きだ。ルリは、アイスを手に、頭にタオルを被ったままで翔を追った。玄関に座って、翔はスニーカーを履いていた。
「ね、翔、今度の同窓会行く?」
「え、そんなのあったっけ?」
「連絡来てなかった?」
「お前は行くの?」
「……行く、かな?」
すると、翔は振り向き、ルリをみてにっこり笑った。
「じゃ、一緒にいこ。時間とか場所とか送っといて」
そして、でてった。アイスを持ってペタペタ戻る。テレビ見てる姉の横で、少し柔らかくなってしまったアイスを掬って食べる。甘い。姉はそんなルリを横目でチラチラ見ながら、突然手を伸ばして妹の肩を抱く。
「妹よ」
「なに?」
「乗れる電車には乗り遅れるなよ」
「なに?なぞなぞか、なんか?」
「乗り遅れると、一生後悔するぞ」
***
ところがルリは電車に乗り遅れた。二人で一緒に行った同窓会、帰りは翔と一緒ではなかった。勇気を出して声をかけた美希が、翔を連れて行ってしまったのだ。
それから二人が時々一緒にいるのを見かけるようになった。家が隣同士なので、時々出くわしてしまうことがあった。
そんな時、翔は前と変わらずルリに声をかけた。「よ!元気?」と。
ルリは良かったなぁと思った。
翔がルリにずっと優しかったから、翔ももしかしてと思っていた。あれは、勘違いだったんだなぁ。少しずつ少しずつ時間をかけて重ねてきた気持ちだったから、もしうまくいかなかったらどうしようと思って、なかなか勇気が出せなかった。
言わないで良かった。このままこの気持ちはなかったことにしてしまおう。
「お嬢さん」
そんなことを考えながら歩いていた時のこと。よく通る鈴のような声で呼び止められた。それは男の人の声でも女の人の声でもなかった。
キョロキョロ辺りを見渡す。
「お嬢さん、こっちです」
通りから細い路地へと通じる角に不思議なものが立っていた。ポカンとした。立ち止まってその暗い路地に立つ不思議なものに見入る。そんなルリの後ろをたくさんの人が急ぎ足に通り過ぎてゆく。おかしいな、みなさん、これが見えないの?
「僕はピーター、お嬢さんは?」
「わたしはルリよ」
「いい名前だ。ルリさん、良かったら僕のお店に寄ってかない?」
それで、なんとなく、ついていってもいいかなと思ったのだ。ルリはこの時、なんだか何もかもがどうでもいいような気分でいたし。
「ピーターってあの有名なピーター?」
「ああ、遠い親戚みたいなものですかねぇ」
「え、すごい!」
有名なピーターとは、あのピーターラビットだ。そう、ルリに話しかけてきたのはウサギだ。うさぎが服を着て二本足で立って、話しかけてきたのである。「ね、なんでピーターラビットが、日本語で話しているの?」ルリさん、そこ、本来、なぜうさぎが話しているの?ではないのか?
「ま、細かいことはいいじゃないですか。着きましたよ。ここが僕のお店です」
路地裏に木の扉。看板には店名はなく、「あなたの記憶、買います」とだけ洒落た飾り文字で書かれていた。扉を開けると扉の上部につけられていたベルがいい音で鳴った。それは、今が何時代かを忘れてしまいそうな古びた店だった。大きな壁時計。飾られた鎧の騎士。棚に置かれたオルゴール。古びたアコーディオンに、高そうな陶器のティーセット。
「さぁ、こちらに座ってください。今、お茶を入れましょう」
そう言って、ピーターはカウンターにルリを座らせると、カウンターの奥のカーテンを潜って、向こうへ消えてしまった。一人になったルリはまたありとあらゆる骨董品の飾られた店を眺めた。路地裏の店には窓が無く、昼間であっても日がささない。昼間から店の中では様々なランプが付けられ、今が昼であることを忘れてしまいそうだ。
不意に奥の方からとても良い香りが漂ってきた。甘酸っぱい香り。銀のお盆の上にポットとカップを乗せてピーターが戻ってくる。
「アップルティーですよ。特製のりんごなんです。これはそこら辺で飲めるものではないですよ」
清々しい香りの紅茶を手に取り、それを覗き込んだ。右と左の手のひらでカップを包み込む。温かい。
「ルリさんは、猫舌ですか?さぁ、飲んで。一口飲んでみてください」
言われて恐る恐るカップを持ち上げる。そして、カップの縁を唇にあて目を閉じた。先にお茶の香りが突き抜ける。口の中に入れて喉を通る。まるで風が通り抜けたみたい。
或いは、自分が風になって通り抜けたみたい。そうやって、風になって通り抜けた時に、いろいろなものが見えた気がした。過去の自分が幾重にも重なって見えた気がした。
いつの間にか、ピーターはカウンターを挟んでルリの真正面に立っている。
「うちはね」
「はい」
「非常にデリケートなものを取り扱う専門店なんです」
「はぁ」
「今日、ルリさんに僕が見えましたよね?」
「え……」
「僕が見えるということはね、ルリさんには今、僕が必要だってことです」
お店の少ない光の中で、ついついてきてしまったこのウサギの顔が少しだけ怖い顔に見えた。
「ルリさん、今、忘れたいと思っている記憶があるでしょう?」
「記憶……」
「そう、僕たちが扱うのは、人間の記憶なんです。あなたの記憶、買いますよ」
唐突にそんなこと言われて、ルリはポカンとした。
「いや、売りたい記憶なんてないですよ」
「よく考えて。僕に声をかけられる直前、何を考えていた?」
ルリは考えた。そうだ。翔と美希のことを考えていた。翔に気持ちを伝えなくて良かった。このままこの気持ちはなかったことにしてしまおう。
「あ……」
「思い出しましたか?」
ピーターは目をキラキラさせながら、ルリを見た。
「さぁ、僕に売りませんか?その記憶」
***
「こんばんはー」
翔がまるで自分の家のように上がってくる。居間にはルリの姉のマユがいる。
「お、翔、おひさじゃん。どした?」
「アイス買ってきた」
「どれどれ」
ソファに座ってたマユが立ち上がり、翔のぶら下げた袋の中を覗き、ガリガリ君のソーダ味を引っ張り出す。翔は残ったジャンボチョコモナカを取り出した。
「翔さ」
「ん?」
「ほんとは、あんたはソーダを食べたいんだろ?」
「……」
「それで、あたしじゃなくてルリにそのモナカをあげたいんだろ?」
ただいまーと玄関で声がする。
「おかえりー」
マユがリビングから玄関に声をかける。ルリがしばらくしてリビングに入ってくる。
「お姉ちゃん、ただいま。あれ、お客さん?」
ニコニコしながらルリが2人を見ている。
「ルリ、アイスあるよ」
翔が声をかけると、ルリが変な顔をした。
「いらない?」
「すみません。前にどっかでお会いしていましたか?」
翔とマユがポカンとした。マユが立ち上がり、ルリに近寄る。
「ルリ、どうした?なんか喧嘩でもしてるの?あんたたち」
「お姉ちゃんこそ、どうしたの?」
「なんで、翔のこと知らないふりするんだよ」
「え、前、どっかで会ってる人?どこで?」
申し訳なさそうにチラチラと翔を見ながら、姉にボソボソ小声で呟く。
「ちょっとこっちおいで」
ルリと翔をソファーに座らせると、マユはどっかから家族のアルバムを持ってきた。
「ほら、運動会のお弁当、みんなで食べたでしょ」
「うんうん。スイカ半分丸ごと持っていってお昼の時間に食べたよね」
楽しそうにはしゃぐルリ。
「ここにちゃんと翔もいるじゃない」
「え、あ、え?」
写真と翔を見比べるルリ。
「え、でも、覚えてない……」
「じゃ、こいつは?」
「大和くん」
「この子は?」
「美希ちゃん」
「これは?」
「こんな子いたっけ?」
「ばか。これも翔じゃん」
「あ……」
しまったという顔で傍にいる翔をそっと見るルリ。
「俺、帰るね……」
「あ、翔」
若干青い顔になり、ふらっと立ち上がる翔。玄関でスニーカーを履いているとマユが追いかけてきた。
「翔、あの……」
「知らない人のふりされるくらい嫌われているって思わなかった」
そのまま、フラフラと家を出ていく。マユ、サンダルをつっかけて家の外まで追ってきた。
「翔、あのさ、ルリはさ」
「なに?」
「あんたに彼女ができたのがショックすぎて、ちょっとおかしくなってるんだって」
「……」
「大体、あんたもあんただよ。のらりくらりとやってんなと思って見てたら、いつの間にか他の女の子と付き合ってんだから」
「いや……」
言い訳をしようと思って口を開いた翔だったが、その時には、マユはもう翔に背中を見せて家の中に入っていってしまった。
***
その翌日のことである。学食でB定食の食券を買って、翔がトレイを持って並んでいると、
「お兄さん、お兄さん」
自分を呼ぶ凛とした声がする。それは男の人の声でも女の人の声でもない。
「こっちですよ。お兄さん」
食堂の片隅。食堂で働く人たち専用の出入り口のドアの影から、薄茶色の長い耳が見えている。すたすた近寄って、むんずとそれを掴んでみた。
「ちょっと。きゃっ、やめて。いやぁ」
「こんなところでなにやってんだ?うさぎが」
翔くん、そこはやはりうさぎがなんで喋ってるんだ?とおののくのが正しいのではないでしょうか。やれやれ。
「ウサギを捕まえるのに耳を掴むなんて、畜生のやることですよっ」
「離しても逃げないか?」
「逃げるわけないじゃないですか」
そこで、離してやった。うさぎはプリプリと怒りながら、白い帽子をきゅっと被り直し、白衣の汚れを手でさっさと払った。
「ね、なんで、食堂の調理人の格好しているの?職員なの?」
「これは、変装なんですよ」
「へぇ」
「ところでお兄さん、ちょっとこっちへ来てください」
そこで、調理人のコスプレをしたうさぎに連れられて、食堂のある棟の係員専用出入り口から抜けて階段を上がり、屋上に出た。
「僕はこういうものです」
渡された名刺は黒字に洒落た銀色の飾り文字が踊り、あなたの記憶、買います、という文字の下に Peter Rabbit と書いてある。
「ペーター?」
「いや、ピーターでしょう?どう考えてもここはピーターでしょう?ペーターじゃあ、クララも立ってしまいますよっ!」
「はぁ……。で、俺に何のよう?俺はさっさと下に降りてB定食を食べたいんですけど」
すると、ピーターはこほんと咳をする。それから胸を張る。そして、屋上のベンチに座ってピーターを見下ろしている翔くんを見上げた。
見上げた。
何か気に入らなかったのか、よっこらしょっと翔くんの座っているベンチの横によじ登り、立ったまま、座ってる翔くんを見下ろした。
見下ろした。
「ずばり、僕が持っているルリさんの記憶を買いませんか?」
「は?」
ピーターは胸を張った。
「何を隠そう。我々は、人間の記憶というデリケートなものを専門に扱う……」
「ルリがどうしたって?」
翔くんは立ち上がり、ウサギの胸ぐらを掴んだ。
「ちょっ、暴力反対。いやー」
「お前、ルリになんかしたのか」
「離してください。離さないと警察呼びますよ」
呼ばれた警察もちょっと困ると思うんだが……。翔くんは胸ぐらを掴むのをやめて、また、耳を持ってウサギをぶら下げた。良い子の皆さんは、真似しないでくださいね。
「ルリさんから翔さんに関する記憶を買ったんですよ」
「なんで?」
「ルリさんが翔さんのことを忘れたがってたからです」
「嘘だろ?」
「ほんとですよ。証拠を見せますから離してください」
やっとこさ足を地面につけて、ピーターはぶつぶつ文句を言いながら、肩がけにしているバッグから一枚のひらひらとした紙を取り出した。そこには、見慣れたルリの筆跡で、次のようなことが書いてあった。
翔くんに対する気持ちを忘れさせてください。
翔は紙を両手で持ったまま、しばらくじっとそれを眺めていた。突っ立って紙を手に黙り込んでいる翔の横で、ピーターはこれまたカバンからシュッと電卓を取り出す。
「値段については随分考えたんですけどね?このくらいかなっと」
電卓をパチパチ叩いて、液晶の数字を翔の方に見せる。いちじゅうひゃく、え、300万?
「これで、ルリさんが翔さんのこと思い出してくれるんなら、安いもんでしょ?翔さんって、法学部なんですよね?司法試験も受かるって言われてるんですよね?一旦、弁護士なんてなっちゃえば、300万ぐらいどうってことないでしょ、ぐえええ」
ピーターはあろうことか今度は首を絞められた。心配しないでくれ、軽く絞めている程度だ。
「これ、おかしいだろ?」
「なにがですかー」
「俺のこと、忘れたいとは書いてないぞ」
「はぁ?」
「俺に対する気持ちを忘れたいと書いているだけだ。俺のこと全部忘れたいとは書いてないぞ」
「なんですか、その、肉をとっても血を流すなみたいな屁理屈は」
「いや、でもそうだろ?おかしいだろ。ルリは俺の存在ごと綺麗さっぱり忘れてたぞ。元に戻せ」
「いや、だから、それは買ってくれれば」
「なに言ってんだ。依頼通りにこなせなかったくせに」
さすが、現役法学部学生、すきあらば攻める、攻める。
「ああ、じゃ、ちょっとディスカウントして200万、どうですか?」
「俺、金なんてねえから!」
「稼ぐようになってからでいいですよぅ」
その後、長らく交渉が続いた後に、ピーターがルリちゃんから記憶を買う時に払った1万円は、翔くんが払うという話になった。
「それだけでは足りません」
ピーターは顔を真っ赤にして怒った。
「我々だって生きていかなければならないのですからっ」
「でも、俺、金ない」
「クー」
こうなってくるともう、ピーターが可哀想である。
「わかりました。それじゃあ、大負けに負けて、翔さんの記憶をください」
「記憶?」
「輝かしい記憶を一つ、タダでください。それで手を打ちましょう」
「輝かしい記憶?なんだ?」
***
それから数ヶ月後
ルリの部屋でアルバムをめくっている翔とルリ。
「これは覚えてる?」
「覚えてるよ。運動会が6月でさ。わたしの誕生日が近いから一緒にやっちゃおうってお母さんがスイカ持ってきてさ」
「うまかったよな」
「翔、運動着、汚しちゃってたよね」
「よく覚えてんな」
楽しそうにアルバムを見ているルリの横顔を眺めていた翔。後ろからぎゅうっとアルバムごとルリを抱きしめた。
「どうしたの?」
「俺のこと二度と忘れないでね」
「忘れたことなんてないでしょ?」
君は忘れたことを忘れただけなんだよと思いながら、腕の中にルリを捕まえている。
「そういえば、この時さ、翔、リレーのアンカーなって、ビリから全員追い抜いて逆転して1位になったよね」
ルリちゃんの声がちょっとうっとりしている。そう。ルリちゃんが翔君を好きになったきっかけは、実はこの運動会での勇姿を見たからなのです。ルリちゃんがキラキラした目で翔君を振り返る。
「そんなことあったっけ?」
「え、覚えてないの?」
ルリちゃんがちょっと悲しそうな顔をする。
「うーん、覚えてないなぁ」
「ええ!かっこよかったのに」
翔君はルリちゃんの悲しそうな顔を見て笑った。
「そんなん、ルリが覚えていたらそれでいいよ」
「そうなの?」
「うん」
柔らかくていい香りのするルリちゃんを抱きしめながら、その唇に唇を重ねる。この幸せに対して一万円は安い買い物だったなと思いながら。
それにしてもですね、翔君。あなた、美希ちゃんとのことはなんだったんですか?え、それはまた今度ですって?
ところで、皆様。乗れる電車には乗れるうちにさっさと乗っちゃうことですよ。つい、うっかり乗り遅れると、一生乗り過ごすことにもなりかねませんからね。
汪海妹
2026.07.06




