四
一晩寝て朝の光の中に起きてみると、昨夜、月蓮の毒にあてられて見せられた夢幻も烏散霧消した。昨日は流石にどうにかしていたなと文淵は思う。
「若様、お目覚めですか?」
「うん」
いつものように阿順が下男を連れてきて、盥の水で顔を洗う。顔を拭く布を受け取り拭いてから横を向く。
そこにまた玉桃がいるような気がしたのだが……。
「若様、どうかしましたか?」
「いや……」
着替えて朝の膳を取る。出仕するまで玉桃は顔を見せなかった。昨日夜遅くまで起きていたので、まだ寝ているのだろうと思った。
阿順を携えて城へ向かう途中、少しずつ昨夜のことを思い出してきた。玉桃が怒っていた気がする。我ながら、酒に酔っていたせいとはいえ、くだらないことを言ってしまった。ま、でも、あの玉桃のことだ。夕方にはもうケロッと忘れているだろう。城門に着いたところで阿順が問う。
「若様、今日はお帰りはどうされるので?」
「ああ……」
連日連夜家にはまっすぐ帰らずに寄り道していた文淵であった。
「今日は帰る」
「えっ……」
驚く阿順をじっと見る文淵。
「あ、いや、なんでもございません。承知いたしました。それでは夕刻にお迎えにあがります」
***
一方、玉桃は、その朝は遅く起きた。嫌な夢を見てうなされて、なんだかぐっすりとは眠れなかった。寝台で目を開けて寝台の天井を眺めながら、昨日の文淵の自分から離れていく足音を思い出す。
自分の悪い癖だ。こうと思ったら後先考えずに飛び出してしまう。
あの雪梅の婚儀の夜に、飛び出したのは、自分としては間違ってはなかった。後悔していない。でも、文淵にとってはどうだったのかをよく考えなかった。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「入っていいわよ」
阿春が小間使を従え入ってくる。寝台で膝を抱えながら玉桃は阿春にいう。
「阿春、わたし、どうもまた先走ってしまったみたい」
「は?」
この、頭の回転が速く思い立ったら即行動の玉桃を子供の頃から知っている阿春は、この時すでに嫌な予感がしていた。
***
そして、夕刻、雨が静かに降り出した。柔らかな雨の中を阿順の持ってきた傘を差して帰る。家について軒下で傘を畳んで阿順に渡していると、母が出てきた。
「あら珍しい。帰ってきたのね」
「皮肉を言うのはやめてください」
「濡れましたか?」
「いや、そんなには」
出仕用の衣から着替えて夕餉の席に着く。父の文衡がいないのはいつものことなのだが……。辺りをそっと見回している文淵の様子を見て、母の秋菊が口を開く。
「玉桃なら頭が痛いって寝ています」
「別に何も言ってはいないでしょう」
「あらそうですか」
言葉少なに食事を終えて席を立とうとすると、秋菊に呼ばれた。
「文淵、ちょっと」
「なんですか?」
母の居室に呼ばれて中に入ると、秋菊は自らの書き物机の引き出しから何枚かの布を取り出してきた。
「ちょっとこれを見てちょうだい」
「はぁ……」
それは刺繍だった。龍と鳳凰が向き合う龍鳳呈祥という図柄なのだが、どうにも……。刺繍のでこぼこを指で触りながら眺める。布は一枚ではなく、下にもあり、そちらもまた色違いの布に龍と鳳凰が刺されている。鳳凰のたなびく尾羽はぎこちなく、龍は頭が大きすぎ、顔も優雅というよりユーモラス。
「これ、母上が刺されたのですか?」
「違いますよ」
「え?」
「わからないの?」
それで、ふと思い出した。昨日、夜中に玉桃は刺繍をしていたではないか。
「これ、玉桃が?」
「そうですよ」
それでもう一度、そのお世辞にも上手いとはいえない刺繍をじっと見た。
「阿春が玉桃に内緒でこっそり持ってきたのよ」
「阿春が……」
「阿春がいろいろ教えてくれました。玉桃は都一の才女だなんて言われているけれど、丞相の娘であるが故に噂に尾鰭がついているのだと。別に得意なこともあれば苦手なこともあるのだとか」
「……」
「でも、才女の玉桃が変なものは贈れないとこっそり布と糸を買っては、一生懸命練習していたそうよ」
龍は男を表し、鳳凰は女を表す。龍鳳呈祥は、夫婦円満を願う図案である。もう一度、刺繍を眺めている息子に向かって秋菊はいう。
「阿春が言うには」
「はい」
「お嬢様が頭が痛いというのは嘘で」
「嘘?」
「実家に帰る支度をしているから止めてくださいって」
「は?」
驚いて母の方を見た。
「あなたが悪いんですよ。嫁いできたばかりで不安な娘を……」
「なんで先にそれを言わないんですか」
「文淵、話はまだ終わっていませんよ」
ここぞとばかりに小言を言おうとしている母をほっておいて、文淵は慌てて母の居室を出て行った。
「玉桃」
玉桃の居室へと辿り着き、扉を開けてみると、確かに玉桃は自分の荷物をまとめていた。
「あら、文淵様。今日はお早いお帰りで」
「何をやっているのですか?」
「実家に帰ろうかと」
「なんで……」
そこで、玉桃は片付ける手を止めて文淵の顔を見上げた。
「恩返しにと思って嫁ぎましたが、あなたのためになると思っていたのはとんだ勘違いだったようで」
「どうしてそういう話になるんですか?」
「どうしてって……」
玉桃はため息をついた。
「腹に別の男の子を宿しているのではなどと疑いたくなる女と一緒にいても、幸せになれるわけはないでしょう?」
「あなたに出て行かれると困ります」
「そりゃ、困るでしょう。わたくしは蕭家の娘ですもの。離縁となったら家同士だけではなく、大騒ぎになるわ」
文淵は玉桃の横に腰掛けた。
「すみません。昨日はちょっとどうかしてた。酒も飲んでたし」
「……」
玉桃は文淵とは目を合わせず、膝の上で衣を畳んでは伸ばし、伸ばしては畳んでいる。
「文淵様が困るのは、蕭家の娘がいなくなることですよね」
小さな声でぶつぶつと玉桃がつぶやいた。
「なんの話?」
「文淵様はいつもわたくしを見ていない。わたくしの家とお父様のことしか見ていないんです」
「……」
「だから、わたくしが嘘をつくような人間だと思ったんですよね?」
「いや……」
玉桃が文淵をまっすぐ見ている。その視線を受けていると、適当に誤魔化すことが難しい。かといって、選ぶ言葉を間違えれば、玉桃は本当に実家に帰ってしまうか、帰らなくとも自分に二度と心を開いてくれないかもしれない。
「あなたがいなくなると困ります」
そう言って、玉桃の手を取った。硬い自分の手と違って、柔らかな手だった。
「お父様の援助を得られなくなるから?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
「それだけじゃないって?」
「……」
ところでその時、文淵はくだらないことを考えた。景舟だったらこういう時、なんというのだろうか。それは考えても答えは出なかったが、とにかく景舟だったらうまいことなんか言うに違いないということだけはわかった。
「文淵様?」
「少なくとも」
さっき母に見せられて慌てて居室を出る時に、袂に突っ込んだものを取り出して、玉桃の顔の前に吊るしてみせた。
「わたしはこれが好きです」
本来そこは わたしはあなたが好きです で全然よかったのだが、文淵のいうところの 混乱 はまだ終わっていないらしく、混乱中の人間には、わたしはあなたが好きです といったような台詞は逆立ちしても言えない。
ちなみに突然目の前に吊るされた布切れを見て、玉桃はまずフリーズした。その後に一気に耳まで真っ赤になった。
「な、な、なんで、それを文淵様が……」
「母から見せられました」
「あ、阿春が?」
しばし、侍女について悪態をついた後、玉桃は手を伸ばした。
「返してください」
「返したらどうするの?」
「捨てます」
「いや、捨てないで」
「上手にできたらあげようと思ったのに」
「いや、でも、こっちの方が好きです」
「え?」
「上手にできたのより、こっちの方が好きです」
「……」
「まさか、才女の玉桃様が、実は刺繍ができないなんて……」
そう言って、文淵は玉桃の出来損ないの刺繍をギュッと握りながら笑った。笑うとこんな顔になるんだと玉桃はまた思った。そう、文淵はあまり笑わない。
「もっと、いつも笑っていればいいのに」
ついポロリと言葉が漏れた。
「笑う門には福来ると言いますし」
すると、文淵は笑っていたのをそっと引っ込めて、ああと言った。
「いいのかな?笑って……」
「どういう意味ですか?」
文淵は自分の膝に両手を置くとその手をじっと見つめた。
「弟に悪い気がするんですよ」
「弟……、文淵様に弟さんがいるのですか?」
「いたのです」
文淵は両手を膝の上で握った。
「国での父の立場がどうにも危うくなって、とうとう国を捨てると決めた時、弟は叔父の家に養子に出されていたのです。一緒に逃げることができなかったんですよ」
「……」
「先にわたしたちが逃げてしまった。そのせいで、残った一族は全部打首になった。弟もです」
その弟の首が河原にさらされた情景を直接見たわけではない。でも、まるで見たかのような絵が、文淵の心の中にはある。自分もまだ幼かった。弟もまだ何も知らないような子供だったのだ。
「かと言ってわたしたちがあの時逃げなければ、遅かれ早かれ私たちも一緒に打首になってたでしょう。そんなふうに生き延びてきた命です。弟のことを思うと、笑っていいのだろうかと思ってしまう……」
母はあの日から、弟の月命日に欠かさず寺へ行く。弟とまた、弟と共に亡くなった人の魂を慰めるために。突然玉桃が横から文淵にぎゅうっと抱きついた。
「玉桃」
「笑ってもいいです。きっと弟さんも許してくれる」
抱きついてきた玉桃の髪を静かに撫でながら文淵は言った。
「ずっと明るいところを通ってきたあなたのような人を、僕のような人間のところへ嫁がせるなんて、あなたのお父様もずいぶん、厳しい人ですね」
「父は……」
「はい」
「いくら恩のある方だとしても、あなたがろくでもない人なら大事な娘を嫁がせたりしない」
そう言って顔を上げた玉桃が泣いているのを見て、文淵は驚いた。
弟のことを思っても、文淵は泣けないのである。思うに、あの時に起きたことは全て大きくて重いことだったので、扉があってその門を抜けて先に行けないような感覚がある。ただ、だからといって忘れているわけではなく、延々と自分を重い重りのようなもので下へ下へと引っ張っている。忘れたのではなく、思い出させないように鍵がかかってしまった感じなのだ。
不思議な感覚だった。まるで玉桃が笑えない自分の代わりに笑い、泣けない自分の代わりに泣いているような気がする。
「それに、文淵様はわたくしがずっと明るいところを通ってきたと言いますけれど、もしあの時あなたに助けられていなければ、今はわたくしも暗いところにいたかもしれません」
文淵は、あの紙のように白い顔で震えていた玉桃の様子を思い出した。賊が逃げ去った後、名前を教えろと言われて、名乗るほどの者ではないといって走り去った。たまたま通りかかり、当然しなければならないことをしただけだと思ってきたのだが……。
文淵は腕の中にいる玉桃の髪をもう一度ゆっくりと撫でた。
「そう言われてみれば、あの時、あなたとわたしが出会ったのは、運命のようなものだったのかもしれませんね」「やっとそう思うようになりましたの?」
尖った声が飛ぶ。玉桃の顔を見ると、目が吊り上がっている。しばらく見つめあった。
それから、お互いにお互いの腕の中で、ふっと笑った。しばらく小さな声で体を震わしながら笑い続けた。
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