三
この日の昼過ぎに話は戻る。王都の郊外のとある寺。堂の中で僧が経をあげている。その後方で文淵の母である秋菊が手に数珠をもち目を閉じてこうべを垂れじっとしている。しばらくして、経をあげ終えた僧が立ち上がる。振り返り秋菊と向き合うと、互いに数珠を片手に手を合わせあい、お辞儀をした。
秋菊が堂の外へと出てくる。堂の暗さから明るい戸外に出て少し瞬きしていると、奥様の用事の間寺の庭で暇を潰していた阿順が立ち上がって寄ってくる。馬車に乗ろうとしたところで、声をかけられた。それは、文淵の婚姻により縁の続いた蕭家の人。蕭家当主の承徳の妹で、蕭蘭心だった。
「あら、沈夫人。偶然ですわね」
秋菊は黙って頭を下げた。彼女は、寺の石をジャリジャリと踏みしめながらこっちへきた。
「玉桃は元気にしてる?」
「はい」
「あの娘には本当に手を焼くわ。一見おとなしそうに見えるのに、昔から大人の言うことを聞かない子で」
「はぁ」
「本来ならば蕭家に残り、婿を取らねばいけないところを」
「……」
秋菊はますます頭を下げた。
「ま、こんなことをあなたに言ってもしょうがないわよね。ただ、兄の思っていたところとは違う結果に落ち着いたってことは皆様重々お知りおきくださいね。わたしの言っていること、わかるかしら?」
女丞相と名付けたくなるような堂々たる体躯と物言いで、ほっそりとした老婦人である秋菊はただただ縮こまった。言いたいことだけ言うと蘭心は侍女を従えずかずかと奥へとゆく。秋菊はその背中をしばらく見送っていたが、その姿が視界から消えるとホッと息を吐いた。
「阿順、行きましょう」
「はい」
馬車に揺られて帰る途中、秋菊は馬を繰る阿順に後ろから話しかけた。
「阿順、お前、今日は文淵を迎えに行かなくてもいいの?」
「ああ、それが……」
「まぁ、またなのね。呆れた。あの子ったら」
妓楼通いは仲の良い景舟との付き合い。そこまで女遊びをするような息子ではなかったはずだが、この前の婚儀からおかしい。家を避けて帰って来ないのだ。
「一体何が原因であの子、玉桃を避けるのかしら」
「さぁ、わたくしどもめには、若様の考えることはさっぱり」
ため息をつきながら馬車の簾ごしに街並みを眺めていた時である。
「あら」
とある街角を玉桃によく似た娘が通り過ぎた気がした。薄絹で顔を隠していたが、着ているものや姿形が玉桃に似ていた。
「ちょっと阿順、あれは玉桃かしら?」
「え?」
馬車を一旦とまらせ2人でそちらを向いた時には、娘はもう消えていた。気のせいだったのかと思い自宅に帰ってみると玉桃はやはりいない。
「どこへ行っているの?」
「なにか買い物に行かれると」
「買い物?」
自ら行かずとも下女を走らせれば済むところを。自分が衍国からこの宸国へと移り住んできておいて言うことでもないのかもしれないが、次々に他国へ攻め入り属国を増やしているために、王都には今、色々な国出身の民が流れ込んできている。治安が良くはないのだ。そんな中、侍女を伴っただけで街をそぞろ歩きするなんて。
蘭心の昔から大人の言うことを聞かない子で、という言葉がふと思い出された。
しばらくして、玉桃は侍女の阿春と戻ってきた。
「玉桃、どこへ行っていたの?」
「ああ、お義母様」
玉桃は屈託のない笑顔となった。
「ちょっと買い物に」
「買い物……」
出かけるには従者を伴いなさいと言おうとして、でも、うまく言葉が出なかった。
「なにか?」
「いえ、なんでもないわ」
玉桃はもう一度微笑むと自分の居室へと戻っていった。姑としてなにか言おうと思っても、玉桃の後ろにいる丞相のことを意識してしまう。まして今、文淵が玉桃を避けている。その負い目もあって、なんだか、口を閉ざしてしまった。
***
もう一度夜。妓楼を出て屋敷へと戻る道すがら。月が出て、その月が川面にも映っている。橋を渡る途中で立ち止まり、空の月ではなくその川面の月を文淵はぼんやりと眺めた。
自分の婚姻は家のため。蕭家と繋がるのは家にとって喜ばしいことだった。だから、簡単に考えていた。ところが実際に蕭家の娘が家に入ってきて身近にいるようになると、予想以上に混乱した。
玉桃を見ているとイライラする時がある。
そのイライラは一体何からきているのだろうと川面の月を見ながら考えていた。黒い水の中に黄色く光る月を眺めながら。
多分、明日を信じている真っすぐさのようなものが、自分は苦手なのだと思う。そんな明日など来ないと言ってやりたくなるのだ。でも、同時に、それを言おうとしている自分が正しいというわけではないのも知っている。だから、明日を信じられる人は明日を信じればいいと思う。
でも、その人がすぐ傍にいて四六時中にこにこしていると、なんだか調子が狂うのだ。
その後、どうにもあの月蓮の言った言葉が残っている。玉桃が文淵を騙している、というあれだ。
妹が嫁ぐはずだったのに、命を助けられたのは自分だからと唐突に自分が嫁ぐと言い出して、本当にそのまま居座ってしまった。強引さと突然のことに、自分は驚いてしまった。それで、玉桃の行動についてよく考えていただろうか。
もし、あの命を助けられたからというのが嘘だったら?本当はあの婚儀の前から文淵があの日玉桃を助けた男だと知っていた。そして、蕭家より格下で弱みもある韓家との縁談が玉桃にとって都合のいいものだった。
そう、玉桃が自分に惚れるなど本当はないのだ。ただ、そう演じただけ。頭のいい玉桃であれば、簡単なことだったかもしれない。
でも、なぜ、都一の才女と評され、引く手あまたの玉桃が、わざわざ自分を選ぶのか?玉桃の身に何か不都合が起こっていて、それを隠したいから。例えば……
ふと思いついた可能性を、文淵は首を振って否定する。いや、まさか。丞相の娘だぞ?
考えるのをやめて、再び家に向けて歩き出す。しかし、その考え達もついてくる。
玉桃が何を言ったとか、その時の表情などは一旦全部忘れ、客観的な事実だけを並べてみる。蕭家の長女が格下で問題もある韓家でもいいから嫁ぎたいと思った。それが、才女の玉桃にありえないような不都合が起こっていて、それを隠すためだったら釣り合う。後から発覚しても、韓家には負い目があるから、のむだろう。
自分は玉桃に騙されているのだろうか。
人の気配の少なくなった夜更けの道を歩き、家人の寝静まった屋敷へと辿り着いた。泥のように眠りたい。もう何も考えたくない。
ところが、酔いに任せて眠ってしまいたいと思いながら回廊を自分の居室へと渡ってゆくと、奥の玉桃の居室にまだ灯りが灯っているのが見えた。その灯りを見た途端に気が変わった。ふと玉桃の正体を見たいと思ってしまったのだ。この夜更けならたおやかでもなく溌剌でもない、命の恩人に嫁ぐなどという殊勝な嘘をついて、文淵を利用してやろうというしたたかな女の顔をしているのではないかと思って。酔っていたのもあるかもしれない。
声もかけずにいきなり戸を引くと、居室にいて夜着で腰掛けに座り俯いて何かしていた玉桃ははっと顔を強張らせて顔をあげた。その後、ぽかんとした。
「文淵様?」
玉桃の手には、針ともう片方の手には丸い刺繍枠がある。
「こんな遅くまで刺繍?」
「あ、いや、これはなんでもありません」
玉桃は慌てて針や糸を片付けた。文淵は玉桃の隣に腰掛けて、黙っている。玉桃は黙り込んでいる文淵の様子を黙って見ている。しばらく黙った後に、ふと玉桃の方を向いて文淵は口を開いた。
「あの……」
「はい」
「怒らないから正直に話してほしいんですが」
「はぁ」
「あなたは僕と結婚しなければならない理由が何かあるのではないですか?」
ご主人様、酔っ払ってるなと玉桃は思う。
「それは文淵様がわたしの恩人だからで」
「それは表の理由で」
「お、おもて?」
玉桃はぽかんとした。
「何か事情があるなら先に言ってください。嘘をつかれるのは嫌です」
「文淵様、嘘とは?」
「蕭家の長女がわざわざ僕のようなところへ来たのには、本当は恩人だからというような理由ではなく、特別な事情があるのではないかということです」
「……」
「僕が寝所を別にするものだから、本当は困っているんじゃ……」
文淵のその言葉でやっと玉桃の中で点と点がつながり、線になった。そして、玉桃は思わず立ち上がった。
「文淵様、あなた、なんかとてつもない勘違いをしてるんじゃ……」
「……」
「そんなことあるわけないじゃないですか。わたくしは、わたくしは……」
丞相の娘ですよ、と本当は言おうとしたのだ。だが、咄嗟にそれはなんか違うと思った。それで玉桃は代わりにこう言った。
「文淵様には、わたくしがそんなに卑怯な人間に見えるのですか?みんなを騙して、貴方を馬鹿にして平気な人間に?」
痛点はどこだったのだろう?人間、カッとなると自分が何に怒ったのか、或いは何に傷ついたのか、混乱してわからなくなることがある。ただ、痛点がどこだったのかはわからなかったが、玉桃には自分が傷ついたことがわかった。
思い切り息を吸って、息を吐いた。それから、腰掛けに座って自分を見上げている文淵の両腕を掴んだ。掴んで立たせた。
「玉桃……」
「もう結構です」
「なにが?」
「信じられないのならどうぞ、何ヶ月でもそうやって別々に寝て、わたくしのお腹が大きくなるのでも待てばいいですわ」
「……」
「誓ってもいいですけど、この勝負、わたくしの勝ちですわよ」
そう言って乱暴に言い立てると文淵を居室の外に追い出した。追い出して扉を閉めると、居室の中で廊下に背を向けて、しばらく扉越しに夫の気配を感じていた。文淵はすぐには立ち去らず、そこに立っていた。玉桃も立ち尽くし、その気配を感じていた。
それから、去ってゆく足音を聞いた。
夫が一歩、一歩と自分から離れて行く度に、だんだん悲しくなった。
灯りを消して、寝台に横たわる。
慣れない婚家で、気を張っていたのがぷつりと切れた気がする。右を見ても左を見ても知らない人で、そして、一番肝心な夫には、全く信頼されていないのだと思い知らされた。
喜ばれると思い込んで、飛び込んでしまったわたしが間違っていたんだろうか……。
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