一
韓家のとある居室の扉の前
「若様、お目覚めですか?」
文淵付きの従者である阿順が、後ろに顔を洗うための水を入れた水差しと金盥を抱えた下男を携えて声をかける。返事がない。今度はほとほとと扉を叩く。
「ああ、阿順か。入れ」
阿順は中に入る。下男は頭を下げたまま部屋に入り、傍の台の上に金盥と水差しを置くと、文淵に背中を見せないように後ろ向きに下がって退室していった。
「昨夜はよくお休みになれたでしょうか」
「うん……」
文淵は白い夜着で寝台に腰掛けて天井に向かって伸びをした。それから立ち上がる。阿順は水差しの水を金盥に入れた。文淵は身を屈め顔を洗うと、目を閉じ身を屈めたままで横に手を伸ばした。主人の手に柔らかな布が触れる。受け取り顔を拭いてから横を向くと、
「おはようございます」
「……」
玉桃がいた。
「寝起きに驚かさないでください」
「こうでもしないと貴方様に会えないのですもの」
「こんなところで何をしてるのです?」
「お着替えを手伝おうかと」
突然現れた女主人に、従者の阿順も、水と金盥の次に若様の出仕するための衣服を揃えて持ってきた下男もオタオタしている。
「そこに置いて、お前たちは下がりなさい」
玉桃の声に従者と下男がいそいそと立ち去る。二人とも少し口元が緩んでいる。玉桃が文淵の夜着を脱がせようと帯に手をかけると、その手を文淵が捕まえた。
「自分でやりますから」
「あら」
それで、文淵は玉桃に背を向ける。玉桃は傍の椅子に座り文淵が手を動かして服を着替えるのを眺めることにした。文淵が背中で言う。
「出ていけと言わなければ、出ていかないのですか?」
「ですから、こうでもしなければ貴方様にお会いできませんので今ここにいます」
文淵がかすかにため息をついたようで、さすがに玉桃もそれを感じて憂鬱になった。が、すぐに気を取り直した。
「家中の者にわたくし、陰で笑われていますのよ」
「家中の者とは?」
「それは、侍女や従者や小間使や下男たちにです」
着替えの途中で、眉を顰めて文淵がこちらを振り返ったので、玉桃はにっこりとした。そして、ふわっと立ち上がり羽でも生えたように文淵に近寄った。
「なんて笑われているのです?」
「そんなの決まっているじゃないですか」
玉桃は一番上の衣を持ち上げると文淵の傍に立ち、袖を右、左と通させる。そのまま、背後からくるりと回り込み前に立って衣の紐を結ぼうとしたところで、やはり文淵に手を捕まえられてしまった。
「自分でやります」
「あら」
二、三歩下がって、文淵が自分で紐を結ぶのを眺めながら玉桃はまだ立ち去らずにいる。
「そこまで嫌わなくても」
「嫌っているわけでは、ただ、混乱しているのです」
「混乱、ね……」
玉桃はそれで、自分が文淵と出会って、というか、妹の婚儀で再会してから今までに自分が取った行動を順番に思い出してみた。
「それで、わたくしの一体何が貴方様を混乱させたと?」
「全部です、全部」
「え、全部?」
え、全部……、全部なのか……。玉桃は立ったままで腕を組み、片手を口元にあててもう一度文淵になったつもりで、考えてみた。
でも、よくわからなかったので、やめた。
「だからといって、結婚して夫婦になったのに、こう何日も寝所を別にしないでもいいではないですか。わたくし、小間使や下男にまで陰で笑われているのですよ」
「わたしは大理寺で皆に笑われているんです」
「あら……」
玉桃は出仕した文淵が大理寺で笑われている様子をしばし想像してみた。
「羨ましがられて悪口を言われているのではなくて?」
「笑われてます」
おかしいな。わたしが文淵に嫁いだことのどこが笑えるのだろう?わたしが文淵に相手にされていないのは笑えるだろうが……。考え込んでいる玉桃をほっといて、身支度を終え帽子を被った文淵が居室を出てゆこうとする。
「あ、ご主人様」
「はい、何ですか?」
「その、混乱は、大体いつぐらいに終わるんでしょうか?」
怒ってるとまではいかないが、温かいとは言えない顔で、文淵は玉桃を振り向いた。
「わたしにもよくわかりません」
そのまま夫は新妻をほっといて、家人が朝の膳を用意して待っている向こうへすたすたと行ってしまった。玉桃はその背中を見ながら、がっかりとか、いらいらとか、そういう感情とは全然別のところにいた。
まぁ、時間の問題だろう。
いくら文淵が嫌だといっても、結婚してしまったのだ。蕭家の娘をもらっておいて、簡単に離縁できると思うな、韓文淵。
I will be back!……というか、一緒に住んでいるんだけどね。
***
大理寺 ーーー国の難事件や重罪人の裁きを司る役所
とある評議が長引き夕刻になってやっとお開きとなった。主簿達の片付けを手伝っていた文淵は他の皆より少し遅れて評議の間を出た。回廊を渡ってゆこうとすると少し離れたところに男達が固まって何やら話している。それは文淵と同じ評事達だった。
「今日のあれはなんだ」
自分の姿が向こうから見えないように文淵は建物の陰に隠れた。文淵は耳がいい。幼い頃に怖い思いをしたせいか、五感が鋭くなった気がする。そのせいかもしれない。だから、離れてはいても男達の声が聞こえた。
「寺丞はまだしも、李少卿、自らが韓評事に意見をこうていたではないか」
「それはそうだろう。なんせ今ではあの丞相の娘婿だぞ」
誰かが声を抑えろと言った。それでも文淵には彼らの声が届いた。
「どうにもならんのか。このままだと我らの上にあの衍国の生き残りが立つことになるぞ」
「忌々しいことだ」
「それにしても、なぜ丞相はよりによって韓の家に娘を嫁がせたのだ。しかも、長女を」
「お前、知らぬのか」
そこで、低く忍び笑いをした者がいる。耳に絡みつく嫌な笑い方だった。
「もともとは次女だったのよ」
「なに?」
「それがどうも、長女があの韓主事を見初めたらしい。妹の婿を横取りしたということだ」
「なに?あの才女だと評判の長女が、か?」
その後また複数の男が忍び笑いをする。
「なるほど。言われてみれば主事の男ぶりも女からみたらなかなかのものだったということか」
「なに、才で選ばれたのではない。顔と身体で選ばれたのだな」
「浅ましいことよ。国を裏切るような輩は、生きていくためには何でもするのだな」
その時、隠れていた文淵の肩を後ろから叩いたものがいる。
「何をやっている?」
振り向くと、寺丞が立っていた。文淵の上司である。少し離れたところにいた連中にも、文淵と寺丞の姿が見えたのだろう。固まって話し合っていた主事達は思い思いの方向に散っていった。
「いえ、なんでもありません」
低頭して、自分もその場を去った。




