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短編集22〜26年  作者: 汪海妹
雨宿り
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雨宿り

京が西の都なら、江戸は東の都だということで、東京と呼ばれるようになって数十年経った頃の話である。今ではビルが切れ目なく続くような新宿や大久保のあたりも、この頃はまだ畑や雑木林の広がる郊外だった。石畳が続き煉瓦造りの洋館も立つ、それが東京の表の顔だとしたら、裏の顔もある。


未来へ向けてまっすぐに進むものの影で、一家はどこへ消えたのだろうか、打ち捨てられた武家屋敷がそのまま荒れ果てて、見るものの気持ちを塞ぐ。


真壁はいかに相手が頭の上がらぬ相手だったとはいえ、このようなところまでわざわざ足を運ぶべきではなかったなと酷く後悔した。断れぬとはいえ、誰か下のものに任せればよかったのだ。


「一刻ほどしたら戻るから、ここに来なさい」


車を降りると車夫にそう言い聞かせて少し金を渡した。そしてふと曇天を見上げる。


「嫌な空だ。いいかい?一刻ほどで戻るのだぞ」


もう一度言い含めると、ぬかるんだ道を通り、寺の門を潜った。由緒はある寺であろうに、これも明治になったばかりの頃の騒動に巻き込まれたか、どうにも勢いがない。なんだか裏ぶれて見えるのはこちらの気のせいか。


「まさかご当主にご足労いただくとは」


小坊主に通された座敷で、住職は大変恐縮した。荒れた門や手入れの行き届かない寺の庭よりは、この奥の座敷から見る裏庭はまだ良い。やっと人心地ついた。住職の挨拶を適当に聞き流しながら、床の間にかけられた書を眺め、開け放された縁側からのぞく裏庭を見る。黒々とした岩に苔の淡い緑が映えている。


「早速ですが、これが約束の……」


曖昧な挨拶も、取ってつけたような澄まし顔をする気にもならず、小泉から言われた通りの額面のものを住職と自分との間に置き、包んでいた風呂敷を解いて中を見せる。住職は少し眉の辺りを曇らせたがそれは一瞬で、破顔して額を畳に擦り付けた。それから、手を擦り合わせながらぶつぶつと呟きつつ上体を起こし、縁側沿いに寺の奥を覗きながらパンパンと二度手を打った。


僧侶というのはどうしてこんなにも音の通る手の打ち方をするのか。何かコツがあるのだろうかと思っているうちに、廊下を奥の方から足音も立てずに小坊主が現れ、座敷にすすと入ると、住職に顎で促されたものを胸に押し抱き頭を下げたままでまた後ろ足に下がってゆく。


ほどいた風呂敷をたたみ懐に入れて、さて、このまま帰ろうかと思っていると、さっきとは別の小坊主が茶を用意してきた。そこで、茶をいっぱいだけ飲んでから立つこととした。


「真壁様は小泉様とはどういう」

「古い知り合いです」

「そうですか」


住職は自分も茶を少し口に含んで飲み下すと、また口を開いた。


「真壁様はどのような生業をされているのですか」


答える前にふっと笑みが漏れた。


「住職から見て、わしの顔がどんな人相に見えますかな?」

「……」

「まぁ、いろいろです」


これで、住職の方から聞きたいことは無くなったらしい。代わりに真壁が口を開く。


「住職は若い頃からずっとこちらに?」

「いえ、ここに落ち着いたのはここ10年ほどで、その前は別の寺におりました。ま、その寺もほど遠くないあたりにございますが」

「御一新からこっちは大変だったでしょう」


すると途端に住職は顔をくしゃくしゃにして何度も頷いた。


「それはもう、なんというのでしょうねぇ、あれは」


住職は自分の右手をはげた頭にはたと置くと、首を傾げながら軽く目を瞑る。


「我々にとっては天と地がひっくり返ったというか、この前まで熱心に仏様を拝まれていた人たちが手のひら返すように変わってしまってですね。まさかこんなことが起こるなどと思っても見ませんでした」

「このお寺は由緒のあるお寺ですか?」

「ええ、それはもう歴史の古い由緒ある寺です。それなのにこんなにさびれてしまって」


そう言って住職が泣きそうな顔で笑うのに、流石に少し心が動かされた。


「東京はどんどん変わっていきますが、ここら辺はまだ江戸のままのようですな」

「いいえ、同じではありません。今はあちこちのお屋敷から人が抜けて、荒れ果てております」


そして、徐に袂にある数珠を取り出しては念仏を唱える。


「やめろ、やめろ。なんだかこっちまで辛気臭い気分になる」

「坊主というものは存外、辛気臭いものです」


真壁は明るい声を出した。


「なに、そのうちにこのへんも綺麗な街になろう。東京はどんどん大きくなるからな。だから、住職、辛気臭いのはよせ」


そして、少し緩くなった茶を飲み干すと、ぐいと立ち上がる。こんなところへ長居するものでもない。用は済んだ。立ち上がった真壁を座ったままで住職はじっと見る。


「何か?」

「いや、どこかでお会いしなかっただろうか」

「そんなわけなかろう。今日が初めてだ」

「そうですかな?はて」


寺の内側を巡り本堂の脇から外へ出ようとすると、座敷を立つ時にはまだ平気だったのに静かにさあっと音がする。見ると白くけぶるような霧雨が辺りを一斉に濡らしていた。


「これはまた降ってきましたな。待ってください。今傘を」


住職が出してきたのは大きな傘。あの金がこの傘に化けたかと。傘を開いてしみじみ眺める。いいことをしたと割り切る気にはなれず、小泉との縁を繋ぐのに使ったのだと思うことにした。


「さ、もうお戻りなさい。見送りはここまででよい」


そう言って、まだ数珠を出して真壁を拝もうとする住職を追い払うように奥へ向かわせると、雨の中へ足を踏み出した。雨は霧雨。時は夕刻になろうとしていたが、まだ暗くなるほどではなかった。


足裏に細かな砂利の音を立てながらしっとりとした地面を進むと、


「もし……」


真壁の右手から女の細い声がする。声のした方を見るが、誰もいない。気のせいかと思ってまた一歩、じゃりと足を出すと、もう一度声がした。


「もし、旦那様、そこの旦那様」


それで、もう一度右手を見る。右手には本堂とは別に小さなお堂がある。白くけぶる雨の中で目を凝らすと、そのお堂の軒下に佇む影があった。


「どうした、ご婦人」

「あら、わたしが見えますか」

「見えるも何も傘がないのかな?」


それは、女だった。その女の様子を見て、真壁は久しぶりに興味を持って女を見た。若い頃には金に任せて吉原へゆき、歳をとってからは女を抱くことには執着しなくなったが、目で愛でたい気持ちはあって、赤坂やら新橋やらへ、客を伴ってあるいは自分が客として伴われて足を伸ばしてきた。そんな真壁も流石に女を見飽きたと思っていた。そうそういい女などいるものではない。


ところが、この目の前の女は、真壁の好みであった。


遊女から始まり、たくさんの芸者を見てきた真壁の目は誤魔化せない。一見、凛としてどこぞのご内儀のような雰囲気も漂っているが、髪を上げたその首筋のあたりの色気がたまらない。これは、自分の体で生業をしている玄人の女だと思う。


「もうずっとここから動けずにいたのです」

「おやおや」


先ほどまで雨など降ってはいなかった。傘がなくとも問題がなかったはずである。それが、あからさまにこんな嘘をつくのは、呆れたこの女は寺の軒先で客でも取ろうとしているのであろうか。


しかし、真壁はその女の嘘に乗った。女が久々に見つけた上玉だったからである。


「どこまで帰るのかな?車を待たせてあるから、そこまで送りましょう」

「あら、うれしや」


女は、もう娘とは言えない年齢なのだが、はしゃいだ口調と仕草で本当に嬉しそうに真壁の傘に入り込んで、すぐ近くで真壁を見上げた。


白くけぶる雨越しに見て、いい女だと思ったが、近くで見ておやと思う。本当に美しい女だ。目元の凛とした感じが良い。少し歳をとり、柔らかな眼差しへと変わったようだが、若い頃はきっともっと少年か少女かと見まごうようなキリッとした眼差しをしていただろう。その凛とした感じと首もとのたまらない色気が同居しているのが、不可思議なようでまた良いと真壁は思った。


ところが、連れ立って門まで来ると、あんなに言いふくめておいたのに車夫がいない。現在のように携帯電話があるような時代ではない。このような場所では、もう少し人通りの多いところへ出なければ、車を捕まえることもできないだろう。


一瞬忌々しく思ったが、待てよと思う。それならばこの霧雨の中をこの美人とそぞろ歩けば良い。女はあからさまにどこぞの旦那を今晩の客にしようと待っていたようであるし、歩いている間に算段もつこう。


「すみませんが、待たせていた車がどこかへ行ってしまったようで」

「あら」

「少し歩けば車の捕まえられる道に出られると思いますからそこまで送りましょう」


歩き出すと、女はぎゅっと真壁の傘を持っている片袖にしがみついた。悪い気がしなかった。


「濡れるでしょう」


真壁は傘を持つ手を持ち替えて、女の側の腕で女の肩をだき自分の方へ抱き寄せた。腕の中で自分の体の重さを慣れた様子でこちらに預けてくる。これはやっぱりそういう女だなと真壁は思う。二人で大通りの方へ目掛けて歩き始めた。女がポツポツと話し始める。


「旦那さんは随分お金持ちのようですが」

「うん」

「当然、奥様やお子様がいらっしゃるのでしょうね」

「妻はいるが、子供には残念ながら恵まれなくてね」

「あら、そうですか」

「妻の遠縁から養子をもらったのだ」

「へえ……」

「なんで突然、こんな話を聞くのだ?」

「なんだって、いいじゃないですか」


そういうと女は横で軽い笑い声を立てた。


「旦那様のことを一つ当てましょうか」

「なんだ?」

「実は旦那様は、今は、商人然とされてますが、昔はお武家様ですね?」

「……」


さーと、優しい雨があたりを濡らしている。真壁は女の肩に回していた腕を解き、一歩離れて女をまじまじと見直した。道は片側は畑が広がり、片側は雑木林が広がる。雑木林の黒に近い緑の色を背景に、傘を外された女が濡れた。


「お前は誰だ?」

「濡れるじゃないですか、傘をこっちへもかけてくださいよ。冷たい」


甘えるような顔は、やはり女郎のようである。しかし、自分も浮かれすぎた。この場所で、よく素性の知らない女と知り合うなどと。


「なぜ、そんなことを言う?」

「もう一つ、あててみましょうか?」


周りを見渡した。霧雨の中、見える範囲に他に人がいない。まるで、二人っきりになるように仕組まれたような気がする。


「お武家さん、この辺りの出身ですよね?」

「……」


咄嗟に逃げようと思うほどに、この女が怖くなってしまったのは何故だろう?しかし、足が動かなかった。動かそうとしても、己の足がまるで鉛にでもなったかのように重く、地面に突き刺さってしまったかのように動かない。


「また、逃げるんですか?いつかのように……」

「お前……」


真壁は突然己の心の臓がどくどくと音を立てて動き出すのを聞いた。驚いて、寺でもらった傘は地面に取り落とした。


「惣ニ郎さん」


間違いない、足は動かないままでぞぞぞと悪寒が足元から走った。


どうして、すぐにわからなかったのだろう?ずっと避けてきたこの地に、つい今日は足を向けてしまったのはなぜだろうか。そして、どうしてそんな日に、自分はこの女の顔を忘れていたのだ?土地を離れたとともに、封印したからであろうか。


「……」


少年のような凛とした目元。それが、女らしく変わろうかとする、蕾のような頃に、この女の家に入婿として入った。二人とも貧しい武家の出で、そして、御一新の波をこの身に受けた。お文と名前を呼びかけて、やめた。


「お前など知らない」

「嘘です」

「嘘ではない。お前のような女など知らない。大体お前……」


そして気がついた。


「お前は、一体、何歳なんだ?」


若く見えるといってもほどがある。目の前のお文はどう見ても30から40手前にしか見えない。


お文はにやりと笑った。


「あなたが、惣ニ郎さんでないなんてことはありえないんですよ」


動けない真壁に向かって女が近寄ってくる。女の白くて冷たい指が惣ニ郎の目元をなぞり、頬を撫でた。


「歳をとっても、面影があります。待ち侘びました。もう、これは、会えないうちにあなたが先にあの世へいっちまうんじゃないかと思いましたよ」

「お文、お前……」

「あたしはずうっとあそこにいたんです。何年も、何十年も、でも、だーれもわたしが見えなかったんですよ。わたしが見えたのはあなただけ」

「……」

「わたしの声が聞こえたのもあなただけ、それなのにどうして、わたしなど知らないと言うのだ。そうじろうー」


女は優しい声と表情を途端に一変させ、般若の形相となり、女の手で真壁の首を絞めてくる。それは、とても女の力とは思えないほどの剛力だった。


「ま、待て、文、俺の話を聞け」


首を絞められている合間に声を絞り出した。見開いた血走った目は間近に迫り、息をできない苦しさの中で、ただ、女の手は異様なほどに冷たい。


「信じていたのに、お前のことを信じていたのに」


少年のようにも見える目元の美しい女だった。汚れのない文を娶り、自分の手で少しずつ女に変えていった。貧しかった。自分たちのせいで貧しかったのではなくて、時代の流れに飲み込まれた。このまま流されて生きていくのが嫌で、とある日に家と妻を捨てた。


全てを捨てたと思っていたのに……


ごほ、ごほ、ごほ……


気づけば、自分は地面に崩れ落ち、文の足元に蹲って荒く息をしていた。そんな自分を文は冷たく見下ろしている。


「お前がいなくなった後にわたしたちがどうなったか知っているのか?」

「お前はまた誰かに縁づいたかと」

「あの時代、夫に逃げられた家付の貧乏娘に縁づく男などいるものか」


己が捨てた家と妻を遠い遠い過去に置き去り、考えないようにしてきた。考えないようにしているうちに忘れた。


「お前に子が生まれなかったのがいい気味だ」

「……」

「教えてやろう。惣ニ郎。お前に子はいたのだ」


思わず顔を上げた。


「子がいた?わたしに?」


すると、お文は首をのけぞらせ、天を向いて狂ったように笑った。その白い喉元が雨に濡れて光った。


「お前に捨てられても、産みはしたさ。だが、大きくなる前に死んだ。今はあの寺にいるのさ。だから、わたしはあそこからずっと動けずにいたのだ」


狂ったように笑い続ける文を見ながら、真壁は呆然とした。自分に子がいたという事実をこれっぽっちも知らなかった。自分は妻だけでなく子まで捨てていたのか。


「結局、暮らしていけはせず、わたしは遊女になった。わたしの客は口を揃えていったもんさ。いい時代が来たもんだ。今じゃ、お武家様の娘を金を出せば抱けるんだからってね」


断片的に一緒に暮らしていた頃の文の様子が蘇る。恥ずかしそうに体を硬くしながら自分を受け入れたあの様子が、今目の前であけすけにことの成行を語る女と重ならない。


「一言、知らせればよかったのに。わたしに、一言」


地面に蹲りながら文を見上げると、文は斜に構え見下ろすと品定めでもするかのような目で真壁を見た。


「お前を見つけていたら、きちんとしてやったのに」

「そんなの、ごめんさ。他の男だったらいいが、あんたに身請けされるのだけわね」

「……」

「誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ」


金のためならなんでもやった。自分には商才があったし、運もあったのだろう。自分でも信じられないような結果がついてきた。


最初は御一新を恨んだ。だが、結局はその時代の大きな流れに乗ることに決めたのだ。変化に乗れた人間にとって、明治は悪い時代ではない。たくさんの人が失敗して落ちてゆくのを尻目に自分はここまできた。


ところが、全て忘れたと思っていた、その自分が心の底では、文の美しさを覚えていたことに驚いた。ここで再会して、若い頃に自分の心を打った文の様子が色鮮やかに甦った。


「文、お前はそれで、どうなったんだ?」

「年季明けまで生きられなかったんだよ」


ううっと真壁が声を上げて嗚咽すると、女はかえって激怒した。白い手がまた首にかかる。


「勝手に泣いて、勝手に悲しがっているんじゃないよ。あんたになんか、あんたになんか、わたしの何がわかるものか」

「待て、文、知らなかったんだ。知っていれば必ず……」

「さっき、わたしを見て、わたしだとわからなかった人が何を言う」


女の力とは思えない剛力で再び首を絞められて、とうとう自分もこんなところで終わるのかと思う。今まで潜り抜けてきた修羅場を思うと、なんという呆気ない最後であることか。文の般若のような形相をだんだんと遠くなる意識の中で見つめる。


「信じてたのに、信じてたのに……」


悪鬼のような形相となった文の目から、涙が流れている。その顔とまだ汚れのない頃の少年のような目元だった文の顔が重なる。自分は一体、何ということをしてしまったのだろうか。あの女をどうしてこのように変えてしまったのか。そして、どうしてそれを今日の今日まで忘れていたのか。


そう、自分たちは貧しい中でも愛し合っていた。そんな昔のことをすっかり忘れてしまっていた。でも、その愛が本物だったなら、金を持った時に自分は文を探していただろう。だが、その頃には自分は文のことなどすっかり忘れてしまっていた。


だから、きっと、俺のこれを愛と呼んではいけないのだろう。


***


夕刻の霧雨は夜から本降りとなり一晩中降り続いて朝方にようやく止んだ。住職は朝のお勤めをしてから、本堂を出て境内を見回した。そして、おや、今日はいないなと思う。


それはいつの間にか住職の毎日の習慣となっていた。いつの頃からかわからないのだが、境内に建てられた薬師堂の軒下に女の幽霊が佇んでいることがある。それは毎日ではないのだが、ふと見るとそこにいる。


寺に幽霊とは困ったことだと思っていたが、しかし、これもまた御仏の導きかもしれないと思い、女の霊が見えた時には必ず、その方向に向かって念仏をあげてきたのである。女の成仏を願って。


「ご住職様、大変です」

「なんだ」


庭を掃いていた小坊主がかけてくる。その後ろから制服を着た巡査が2名、帽子をとって頭を下げている。


「これは朝からご苦労様です。で、何か当寺に御用ですか?」

「実は、ここからちょっと行った先の道端で倒れている人が見つかりまして」

「はぁ」

「昨夜のうちに近くの民家に運び込まれたんですが、これが亡くなってしまってね」

「それは、ご愁傷様です」


数珠を取り出して念仏を唱える間、巡査は黙って待っていた。


「身なりから見るとお金持ちの旦那衆のようだが、ここらの人ではないと言われて」


お金持ちの旦那衆と言われて、住職の表情が変わる。


「はて、その方、お歳の頃は」

「50から60ぐらいですかな」

「昨夜、見つかったんですか?」

「いや、昨日はひどい雨だったもので、人通りも少なくて……。見つかったのは夜ですがね」

「……」


知人かもしれないと住職が確認に出て、昨日は生きて元気だった男が青い顔をして寝かされていて、またその首筋に禍々しい赤い跡を認めたのはそれから半刻とたたないうちのことだった。


この日は雨のせいで人通りが少なく事件を目撃したものはいない。また、現場に残ったものも全て雨が洗い流してしまった。


男の人間関係の方から探ってみれば、商売の上での敵といえそうな者は何人かいたが、これと思う人物にはその夜にはアリバイがあった。これを、過去まで捜査の手を広げるとなるとキリがない。


事件は迷宮入りしたそうである。


また、その日を境に住職が時折薬師堂の軒下に見かけていた女の幽霊は、ついぞ姿を消したそうな。


まだ、江戸が東京と呼ばれるようになって日が浅い頃の話である。


汪海妹

2026.05.31


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