シスレーという画家
シスレーという画家
2026.05.02
現在、執筆中の長編の一部を抜粋した「下書き」です。予定が変わり本編に組み入れられないか、あるいは細部が変更になるかもしれません。思い浮かんでいる場面を書いてみるデッサンのようなものと思っていただけましたら幸いです。
(本編)
「昔、シスレーって画家を好きな人に恋をしたことがあって、大好きだったんだけど別れちゃったのよ」
紫陽花の花が咲くような季節だった。わたしが爪を削って整えていると、AKIさんがそんな話をし出したのは。
「いつ頃の話ですか?」
「結構昔。学生服とか着てたような大昔」
そう言われて、セーラー服かブレザーか、制服を着ているAKIさんを思い浮かべようとしてみる。それはうまくいかなかった。
「学生で好きな画家がいるなんて、なんか大人ですね」
「そうね、ふふふ」
その笑顔を見ながら、もう一度、制服を着ているAKIさんと恋をしている彼女を思い浮かべようとしてみる。横に男の人を並べてみようとしても、学ランかブレザーか、制服を着た彼と彼女の像が結ばれない。ところがそれが、片方が大人だと一気にイメージが浮かんだ。背伸びをしている学生服を着た大人びたAKIさんと、シスレーが好きな大人の男の人。
ところで自分は、シスレーという画家を知らない。
「シスレーってどんな画家ですか」
「結構有名よ。知らないの咲夜ちゃん」
「知りません」
「ルノワールやモネと仲よかったのよ」
「へぇ」
水飴のような透明のジェルを取り出し、余分な液を瓶に落としてから、左手の親指に伸ばし、伸ばし終わったらペンライトを一旦当ててから、AKIさんの手元のライトに入れてもらう。
「熱かったら出してくださいね」
今度は右手を受け取り、右手の親指にジェルを伸ばす。
「有名な人なんですね」
「死んでからね」
「ああ」
芸術家にはよくあるパターンだ。
「どんな絵を描く人なんですか?」
「ほとんど風景画ね」
「それで、AKIさんもそのシスレーが好きなんですね」
「違うのよ」
「あ、動かないで」
歪んだ部分を再度塗り直し、また、ライトに当てる。
「とっても地味な絵なの。彼には画集を見せられて、いい絵だろうって言われたの。そうねと答えたけど、どこがいいのかちっともわからなかった」
AKIさんにも、いいと思わないものに対して、相手に合わせていいねというような時代というか、頃があったんだなと思う。思いつつも、手は止めずにジェルを塗っては交互にライトに当て続ける。
「シスレーって、最初はお金持ちの家の子なんだけど、財産は失ってしまってね。人生の後半はずっと貧乏なの。絵なんて売れないのよ。地味な絵だしね。それなのに、どうしてこの人はこんな地味な絵を描き続けることができたんだろうって本当に不思議だった。そんなことばっか考えながら、彼の横でその絵を見ていたのよ」
ジェルを塗り終わり、下地の色を塗る。小指で試し塗りをする。
「こんな感じでどうですか?」
「うーん」
下地は薄い緑だった。淡い緑と言っていい。AKIさんの色の好みに合わせて透き通るような華やかな色を選んでいた。
「今日はもうちょっと、なんというのかな?くすんでいてほしい」
「はぁ」
珍しかった。
「くすむ、ですか」
「さび、とでもいうのかな?」
それで、立ち上がり、自分がホールドしているネイルの棚からいくつかの緑を取り出してくる。白に近いような薄緑だ。彼女はその中から一つを指差した。
「これ、かな」
「珍しいですね」
いつもは透明度の高いクリアな色使いの好きな人だが、今日選んだ色は確かにくすんでいる。また小指に試し塗りをする。本人がこくんとうなづくので、そのまま塗り進めていく。そして、ピンときた。
「これが、そのシスレーのグリーンですか?」
「ええ?」
「今日はその、好きだった人のことを思い出してます?」
「違うのよ」
「また、違うんですか」
「というか……」
AKIさんはわたしに手を預けたままで、遠い目になった。
「あの頃は、ただの地味な風景画だなと。こんなの何がいいのかさっぱりわからないと思って見てた。全部同じような絵に見えたし。だって、空と木と川と家と、時々橋とか、同じようなものばっかり描いてるし」
「はい」
「あの人を失わなかったら」
AKIさんはその言葉を丁寧に囁いた。彼女の声は美しい。使う言葉もその音も。
「こんなに長い時間、こんなに何度も、わたしがシスレーを見ることなんてなかったと思うわ。変な話だけど、シスレーの絵の中に、彼とわたしが別れなければならなかった答えのようなものがあるって思ってたんだと思う。だから、一生懸命見てた」
「はい」
「別にその答えが見つかったからって、彼が帰ってくるわけでもないのに、何かせずにはいられなかったのね」
わたしの手作業を伏し目がちに見ながら、AKIさんはため息をついた。
「そしたらね、全部同じように見えてたシスレーの画の違いが見えてきたのよ」
「あ、同じじゃなかったんですね」
「木と橋と家並みを描いた絵だったとしても、季節が違えば、朝か昼か夕方かでも、光が違う。光が違えば色も違う。同じものを書いていても、その風景がまとう空気が違うんだってことが見えた」
それから、彼女は塗ったばかりの薄緑を見た。
「こんな色もあるわよ。シスレー。でも、夏の日の緑ではないわね。シスレーは鮮やかな緑も描いているし」
わたしは見たことのないシスレーのその緑を思い浮かべてみた。鮮やかな緑や、くすんだ緑を。
「彼が言っていたの。人間は自然の一部だから、風景がまとう空気が違えば、その空気の中で人も心を動かすんだって。風景がはしゃいでいれば人もはしゃぐし、切なく悲しければやはり寂しいのだと。シスレーの絵を見ていると、過去のいつか自分が自然の中ではしゃいでいた日、あるいは寂しくてたまらなかった日、その日の中に入っていけそうな気になるって」
失った過去のある日を甦らしてくれるような、そんな力が絵にあるということなんだろう。
「わたしにとって大切な経験なのよ。錆びない恋心というか」
「錆びない……」
「今は届かない彼や、彼と一緒にいた日々をシスレーの画のような色や雰囲気で思い浮かべて、その幻に向かってわたしは歌っているのよ」
「ほんとですか?」
「まぁ、彼のことだけじゃなくて、その時々によって違うのだけど、届かないとか失ったとか、そういう感覚ってすごく大事なのよ。芸事をやって生きていくのにはね」
「なるほど」
「人はね、完璧なものには惹かれないものなの。欠けたところがあるものをいつも求めているものなのよ」
わたしの穴の中を風が通り抜け、その時に聞こえる音が泣いているみたい
あなたにはその音が聞こえる?
AKIさんの書いた詩の一片をふと思い浮かべた。それから、コンサートホールで闇に沈む観客席に向かって、別れた男を思い浮かべ声を伸ばす様子を。それはなんだか人の心をかき立てる情景だった。
狂おしいというのだろうか。
AKIさんの彼は、そんなAKIさんを今もどこかからみているのだろうか。大人になった彼女を。
AKIさんが帰った後に、シスレーをネットで検索してみた。有名だというのはほんとだったようで、さまざまな画像がヒットした。
確かにそれは、地味な風景画だった。でもよく見ると、一つとして同じ空の色がない。
AKIさんと彼は愛し合って、そして、同じものを見て、そこに光も空気もあったのだけれど、その時はそれを共有できなかったんだな。
それからしばらく、AKIさんがこの恋で失ったものと、そして、得たものについて考えてみた。それから、寝た。
了
汪海妹




