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短編集22〜26年  作者: 汪海妹
僕らは別れて、それから漫画は終わった
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41/61

僕らは別れて、それから漫画は終わった













僕らは別れて、それから漫画は終わった

2025.06.07








はじめにお断り


この短編は 2021年発表の映画 花束みたいな恋をした に着想を得ています。映画の二人と短編の設定は似ていて、ただ、映画中のセリフをそのまま使ったり、名前をそのまま使ったりはしておりません。言うならば、私の中に残っている映画の断片を私の脚色で書き直し、また、映画にはなかった場面を追加した小説になります。男の子の心情もまた私が映画から着想を見て追加したものになります。映画では心を言葉で語らず、表情や空気感で語るものですから、それを私なりに解釈して言葉で書いてみた、感じでしょうか?所謂二次創作の範囲に入るのかもしれませんが、自分としては広義の 感想 のようなものです。ご理解の上お読みいただけましたら幸いです。

汪海妹








その漫画は、僕と(すい)がまだ友達だった頃に一緒に読み始めた。それから僕らは恋人同士になって、翠がリクルートスーツに身を固め、ボロボロになりながら就職活動に勤しみ、そして、イラストレーター目指す傍らフリーターしてた僕と同棲するようになり、そんな傍で連載は続いていた。


新しい巻が発売される日、僕らはそれを買い、帰り道でじゃんけんをする。どっちが先に読むか、じゃんけんで決めるのだ。読み終われば二人で並んでベッドに横になり、感想を言い合った。


漫画は巻を重ね、僕たちも少しずつ歳を重ねた。


紺色のスーツに身を固め、僕と比べてきちんと就職した翠は、しかし会社勤めに根深く矛盾を感じるようになる。心と体をゆっくりと痛めてゆく彼女をみてられなくて、また、自分の夢に限界を感じて、僕は絵筆を置いて、交替で翠はスーツを脱いだ。


僕の入った会社は、そんな大きな会社ではなくて、そこにもやはり、翠が翠の会社で感じていたような矛盾があちこちにあって、


あれはいつだったろう?二人で住んでいた駅から遠いアパート、古い物件で僕たちはあの部屋の無駄にでかいベランダが好きだった。ベランダとベランダから見える川の土手が。あの時も確か、あのベランダに僕と翠はいて、ベランダの錆びた手すりに寄りかかりながら夕焼けの中を走る人や犬の散歩をする人を眺めてたんだ。二人で缶ビールを飲みながら。


「ね、辞めたいなら辞めていいんだよ」


翠は真剣な顔をしてすぐ横から僕の顔を、僕の目を覗き込んだ。


「別に辞めたいなんて言ってないじゃん」

「無理してない?」

「無理なんかしてない」


その頃、翠は、彼女のいうところのクリエイティブな仕事をしていた。クリエイティブといえば格好がいいが、本当に小さなデザイン会社で事務や営業をしていた。給料は安いし、いつ潰れてもおかしくない会社だった。


「俺がさ、頑張るから、翠は翠の生きたいように生きればいいから」


それは本当に心からの気持ちだった。


僕がその頃やっていたのは、誰かがやらなくてはいけない仕事ではあるんだろうけど、でも、僕がやらなくてはならない仕事というわけではなく、また、僕でなければできない仕事でもなかった。時には自分が悪いわけでもないのに、ただひたすら頭を下げ続け、時には家に帰らずにただ黙々と最後まで逃げずに何かをやり続けるような、そんな仕事だった。


辛くなると、会社の会議室の床に仮眠のために寝袋を広げ、電気を消して、昼間とは違う様子を見せるその床で、スマホで延々とゲームをした。疲れているのに、わずかな睡眠時間を削って、ゲームをした。


そんなどん底の時、僕は、よくわからなくなっていた。どうして僕はこんな酷いことを我慢してやっていたんだっけ?


始まりは翠のためだったはずだ。だけど、会社の会議室の床に寝袋で寝ている時は、もう、そういうこと全部ひっくるめて何が何だかわからなくなっていた。


でも、それは翠のためだった。翠のためのはずだった。


「ねぇ、別れよう」

「え?なんで?」


とある日の午後、机に向かってpcを開いていた僕に翠がそう言った時、僕は目を尖らして彼女を振り返った。彼女の後ろにベランダへと続くガラス戸越しの青空と僕らの本棚が見えて、そして彼女は遠く遠くにいる何かを悲しそうに見つめているような表情をしていた。


「え、冗談でしょ……」


一声目で怒って、二声目でちょっと気弱になって、その後でももう一度激怒して、本当は僕はこう叫び出しそうだった。


ふざけんな


かろうじて、それを飲み込んだ。


「ちょっと出てくる」


そして、彼女をおいて逃げ出した。家の周りをあてもなく歩きながら、頭の中でふざけんなという声が延々と反響する。ふざけんな、俺がどんだけ酷い目にあってると思ってる?どんだけ酷い目にあっても、我慢してきたのは、翠のためじゃないか。


むしゃくしゃしたままパチンコ屋に入り、スロット台の前でタバコ吸いながら台に吸い込まれていくパチンコ玉を眺め、騒音の中にいる。何時間かそうやって過ごした。


陽の光が消えて、闇が迫る。夜の街のネオンを目にして、僕の心も転がった。


翠と、別れる……


僕たちはその時、未来の約束をしていなかったけど、でも僕は勝手に二人は未来もずっと一緒にいるんだと思ってた。翠のいない未来なんて、耐えられない。


彼女の前に跪いて、号泣して懇願したかった。縋りついて縛り付けてしまいたかった。翠がどこにも逃げては行かないように。


翠のいない人生なんて信じられない。僕の人生から翠がいなくなるなんて。


そして、僕はその日、なかなか家に帰れなかった。家に帰ると、彼女が話の続きをしてしまい、僕たちが別れるというそのことが本当になってしまいそうな気がして。それで僕は駅の近くの漫喫に行き、そして漫画を読んだ。それは僕と翠が一緒に読んできたあの漫画だった。当時はまだ完結していなかった。


一巻、一巻と読み進めるたびに、その時、翠と過ごした時間が蘇ってきた。僕たちがまだ友人だった頃、あれ、読んだ?と声をかけたら振り返って笑った翠。付き合うようになってから、買った漫画を順番に読んで、その後肩を寄せ合って語り合った時間。


僕たちは一体どこで、すれ違ってしまったんだろう?


翠が僕と別れたがっているなんてこと、彼女が言い出すまでこれっぽっちも気づいていなかった。そういえば最近、翠はどんな表情でいた?どんな気分でいて、何をしていた?何が好きで、何に落ち込んでいたりした?


過去の表情はあんなにくっきりと思い出せるのに、最近の翠の表情を思い出せないことに気がついた。


どうして翠は俺と別れたいなんて言い出したんだろう?


先を聞くのが怖くて逃げ出してしまった。その日の夜、翠が寝ただろうと思う遅い時間まで僕は漫喫で時間を過ごし、そして、ひっそりと家に戻った。その日は翠の横では寝ずにソファーで寝て、翌朝は翠が起き出すより早く家を出た。


彼女とできるだけ顔を合わせないようにして、平日を過ごし週末を迎えた。毎日夜遅くまで帰らなかった僕は、金曜日だけは早く帰った。翠は家にいた。僕は靴を脱がないで玄関から声をかけた。


「もうご飯食べちゃった?」

「まだだけど」

「外で食べない?」


ちょっとだけ首をかしげ僕を眺めた翠は、つけていたテレビをリモコンで消し立ち上がる。僕は、そんな彼女を背後に再び部屋の外の廊下に出る。


バタンとドアが閉まる重い音を聴きながら、


神様


と思ってた。


神様、どうかこの1週間で 彼女の気持ちが変わってますように


ギイとドアが開き、翠がパンプスを履きながら出てくる。


「どこいくの?」

「どこがいい?」


灰色のコンクリートに映える赤い靴。全部黒なんだけど、少しずつ質感の違う布が縫い合わされた彼女のスカート。


「そうだなぁ」


鍵穴に鍵が差し込まれ、かちゃりと回る音と翠の鍵につけられたキーホルダーのミッキーマウスが揺れる音がする。


耳たぶにぶら下がる小さなエキゾチックなピアス、天パじゃないんだけど、湿度が高いとうねってしまう髪。のんびりと話す癖。一見おとなしそうだけど、自分の考えはしっかり持っていて、ここというところでは絶対譲らない性格。


翠は両足のパンプスを履き終えて鍵をかけると僕の前にすっくと立つ。


君のいいところも悪いところも、全部好きなんだけど、本当の本当に僕と別れるの?


心の中でつぶやいた。


会社帰りの僕はスーツで、手を伸ばして彼女の手を取った。それは小さくて冷たかった。


「天ぷらは?」

「デニーズとかでよくない?わたし、そんなお腹減ってないし」


店についてメニューを開く。


「なんにするの?」

「ハンバーグカレードリア」

「また、それ?ほんっと、隆史、それ好きだね」


僕はドリアを頼んで、彼女はエビとアボカドとたらこのパスタを頼んだ。店員が下がると、彼女はコップの水を飲み、僕はポケットからとあるものを出した。そして、彼女に向かってテーブルに両手をついて、頭を下げた。


「お願いします。もらってください」


周囲のお客さんが少しざわついた気もした。しかし、なりふり構っていられなかった。頭を下げているので、翠がどんな表情をしているのかわからない。どれだけ待っても翠が何も言わないので、僕は渋々顔を上げた。


翠が、泣きそうになっているのを見て、何も言われなくても彼女の答えはわかっていた。でも、僕は続けて言った。


「結婚しよう」


手を伸ばして彼女の手を取った。その時はまだ手を伸ばせば翠の手は僕の手の届くところにあった。


彼女の片目から涙が溢れて、少し時間差でもう片方の目からもぽろりと溢れた。小さな子がイヤイヤをするように彼女は首を振った。


「隆史、ごめん」

「なんでだよ、俺、翠のために頑張ったじゃん」

「ごめん」

「なんでだよ、納得できない」


翠はその手を引っ込めて、僕は馬鹿みたいに彼女の前に座ってた。


「隆史、わかって」

「なにを?」

「わたしは、絵を描いてた隆史が好きだったの」


無意識に俺の鼻が は と鳴った。吐き出すように言葉が漏れた。


「そんなん、どうやって食ってくんだよ」


その時、自分が翠に向かってどんな表情をしていたのか思い出せない。きっとすごく嫌な表情をしてたと思う。


「いつまでも夢みたいなこと言ってられないじゃん」

「わかってるけど、でも……」


涙に濡れながら光る目で翠が僕を見た表情を今もずっと覚えてる。


「隆史、変わった。わたしが好きだったのは、昔の隆史なの」

「は?大人になれよ」


どうして僕は、あんなに好きな翠にあんなふうに食ってかかってしまったのだろう?


「ごめん」


彼女はもう一度謝って、そして、席を立って出ていこうとする。


「翠」


追いかけようとして店員さんに止められた。


「お客様」

「ああ」


お金を払って、外に出て、翠は一人で歩いていて、それを追おうとしたら、店員があのデニーズの制服で慌てて走ってくるのが見て、もう一度呼び止められた。


「お客様、お忘れ物です」


必死な声をあげながら小さな上品な四角い包みを捧げもって店員がかけてくる。誰だって一目でわかるだろう。その中に入っているのが指輪だということが。


数日前にそれを一人で買った時、売り場のお姉さんは当たり前だといえば当たり前なのだけど、にっこり笑ってて、僕はその笑顔に励まされた。指輪を出せば翠がお姉さんと同じように笑ってくれるのじゃないかと、そう一縷の望みを託していた。


心に穴が空いてしまったみたいに悲しくてたまらなかった。悲しくて悲しくてたまらなかった。


まだ真剣に人を恋するというか、愛したことのなかった子供の頃は、わからなかった。もしそんな子供の僕が映画を見るようにあの、ファミレスの出入り口で、店員から自分の忘れた、翠の受け取らなかった指輪を受け取って絶望している僕を見たら、そんな僕に向かって、


「グッドラック。次があるよ」


なんて言ったかもしれない。何も知らなかったんだ。子供の頃の僕は。


その後も僕らは話し合ったけど、翠の気持ちは変わらず、僕たちは程なく自分たちのものを二つに分けて、それぞれ別の部屋へと引っ越した。


あれから何年も経った。僕は相変わらず同じ会社で働き、上手に手を抜くことを覚えた。僕の瞳は昔と比べたらとろんとしたというか、幾分濁ったかもしれない。ただ、同じような大人の男の人たちと並べたら別に目立つほど濁ってるなんてことはないだろう。


むしろ、学生の頃と同じようなキラキラした目をしていた方が、悪目立ちするだろう。


いずれにせよ、僕は前よりももっと上手くやれている。仕事に関しては。


新しい彼女もできた。付き合ってそろそろ1年になる。年齢も年齢だし、時々彼女も仄めかしてくるので、この人と結婚することになるのかなと思う。それは無理ではないし、決して嫌ではない。


ただ……


純粋に楽しいとは言えず、時々トラブルは起きる日々をそれなりに器用にこなしながら、同じような日々が昔とは段違いの速度で過ぎていく。僕の心はいつも動いていなかった。どんどんどんどん自分が無感動になっていく。


そんなある日、長期連載をしていた僕たちのあの漫画が終わった。


この日だけくっきりと僕の心が動いた。早回しの毎日がこの日だけ昔と同じようにスローモーに動き、世界に色と温度と香りが戻ってきたように思った。


残ってる仕事を明日に回して、最新巻を、いや、最終巻を買って家に帰る。空の青さを久しぶりに見た気がした。


家に着いて鍵を開けようとするとそれは開いていた。ガチャリと開けると、台所に立っている彼女がこちらを向く。


「早かったじゃない」


エプロンをつけた彼女が満面の笑みで僕を見た時に、僕はつい無表情に彼女を見てしまった。


「え、なに、来たらまずかった?」

「いや、驚いただけ」


靴を脱いで、部屋に上がる。さっきまでの弾んだような全てが、家にいる彼女の顔を見た途端に消えた。


台所で彼女が何かを作っている音を聞きながら、テレビをつけた。あの漫画は一人で読みたくて、だから、すぐに頁を開くのを我慢して、つまらないニュースを眺めていた。


特にいい会社に勤めているわけでもなく、背がとても高くて顔がいいわけでもなく、親が桁違いの金持ちなわけでもない。こんな僕と喜んで結婚したいと言ってくれる女の子がいたら、僕はやっぱりそれをありがたいと思って、大切にしなければいけないのだと思う。


そのうち、彼女の食事の支度が終わる。


「ごめん、遅くなっちゃって」

「ありがとう」


狭い部屋の小さな食卓にお茶碗やお箸を並べて、バラエティ番組の音を聞きながら、一緒にご飯を食べる。彼女が話す今日の出来事を適当に相槌を打ちながら聞いていた。


「もう少し大きい部屋に住みたいね」

「ん?」

「だから」


いつの間にか話が僕たちの未来の話にすり替わっていた。


「今はいいけど未来はさ」

「……」


そう言いながら僕の顔を窺っている彼女の顔を見る。予告もせずに部屋に入り込み食事を作っては、僕にこうやって結婚を仄めかしてくる。


「そうだね。未来はね。もうちょっと大きい部屋にね」


そういうと、彼女は安心したように笑って、そしてまた箸を動かした。


たいして大きな会社に勤めているわけでもなく、足が長くて顔がいいわけでもなく、親が桁違いの金持ちでもない僕は、やはり感謝して、彼女のために頑張らなくてはならないのだと思う。彼女やこれから生まれてくる子供のために。


それが人生なのだと思う。


食事が終わって食器を洗ってから彼女は帰っていく。泊まっていけばと僕は言わなかった。彼女が消えた後にお風呂に入り、パジャマ姿になってから冷蔵庫から買い置きの缶酎ハイを出した。そして、濡れ髪のまま僕らの漫画の最終巻を取り出した。


翠はこれを今日、読んだだろうか?翠は今、どこで誰といるのだろう?翠は今日、僕のことをほんの一瞬でもいいから思い出しただろうか?


頁を開く前に僕は、泣いていた。一人で泣いていた。


僕の部屋に僕の人生に、今の彼女を迎えて仕舞えば、僕はこんなふうに泣くことすら許されなくなるのかもしれない。


翠は今でも僕の心の底にいた。


もらってください、あんなに必死な気持ちで誰かに指輪を差し出すことなど、僕の人生ではあの一回きり。僕が今までの人生もこれからの人生も、心から愛した人は、翠以外にいないのだろう。


それがわかっているのに、翠ではない人と結婚して、それでも生きていく。それが人生だ。人生というものだ。


僕は一体、翠と一緒に何を失ったのだろう?一体どうすれば僕たちは一緒にいられたのだろうか。


ひとしきり泣いたら、少しスッキリした。


そしてそれから缶酎ハイを開けた。喉に流し込んだお酒と炭酸は少しだけぬるくなっていた。それから、表紙を開いた。


僕はそれを一頁、一頁、ゆっくりと読んだ。どこか離れたところで猫が鳴く。


猫の鳴き声を聴きながら思う。


漫画のおわりと一緒に、僕もこの恋を卒業しようと思う。こんなふうに泣くのは、今日で最後だ。


人生に二度目のチャンスはある。自分を騙して、明日も歩いていくのだ。生きていくために。


2025.06.08

汪海妹


デニーズは現実にもあるファミリーレストランで、作中のメニューはネット上で検索して美味しそうだなと思って登場させております。スパゲッティが食べてみたかったです。ミッキーマウスは、ディズニーが誕生させた、二足歩行をして歌って踊れる有名なネズミでございます。


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