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短編集22〜26年  作者: 汪海妹
無理して頑張らないで
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無理して頑張らないで













無理して頑張らないで

2025.04.06












自分の20代の頃の経験をもとに私小説風に綴るものです。

自分自身のことを語るのに今更抵抗はありませんが、私の周囲の方々にご迷惑がかからないよう気をつけて書きたいと思います。










どこから書けばいいのだろう?


こうやってこの年齢になってから私の過去を幼少時代から見てみると、自分にはその時々に周囲に友人はいたし、私は受け入れられていた。ただ、当時の自分は自分は嫌われているというか、孤立しているというか、浮いているというか、自分で自分のことをそんなふうに思っていたことが多かったと思う。


どこにいてもピリピリとしていて、自分はもっととんがった人間だった。

そういう意味では若者というのはわりと自分に自信がなく、人間関係に悩む人も多いし、自分の程度は些か重度だったが、私もありふれた一般的な若者だったと言っても過言ではないだろう。


人に受け入れられている気がしない。

大学生になってもその思いは続き、居心地の悪い思いをしていた自分が、その状態をブレイクスルーしたきっかけはアメリカへの短期留学だった。


簡単に言えば、アメリカでは変人の方がウケたということだ。

私はひねくれた性格だったので、人のいう当たり前の隅をつっついてものを考える癖があり、それをもとに個性的な話を披露するのは得意だった。


ただ、日本では 空気を読む 文化があり、突拍子もない意見は 嫌われるきっかけになる確率が高い。出るくいは打たれる というやつだ。だから、いつもおっかなびっくりものをいう。地雷を踏みたくないからだ。


ところが、アメリカでは 空気を読む 必要がなかった。個性的である方が ウケた。大ウケだ。そこで、自分の英語が当時そこまで流麗だったわけではないが、ウケを狙ってあの手この手で英語で話した。楽しかった。


それで、単純な自分はアメリカ人になろうと思った。この話は別の話であるし、自分はアメリカ人にはならなかったので省略する。


アメリカに一緒に短期留学した友達は、さまざまな大学出身、また社会人も含めた大事な友達になった。英語という共通項を持つ、年代や価値観のある程度ばらけた友達ができたのは、狭い世界でキュウキュウとしていた自分にとってよかったのだろう。


ここで、そのままの自分を出しても人に受け入れてもらえるという実感を得た。


昔からの友達を含め、友人たちには感謝している。


友達はいた。自分を認めてくれる人はずっといた。ただ、実感できなかった。そして、自分を嫌う人の動向ばかりが気になり、私は長く弱く心を病んでいたと思う。感受性が高すぎるために、ある意味自分は世間一般の基準よりも弱い人間でもあったし。


その後、アメリカ人になろうと思ったので、日本で働くのはやめようと思った。それで、派遣社員で働きながら、夜、日本語教師養成講座に通ったのである。


昼、働き、夜、受講し、週末に模擬授業を他の受講生と準備する。


ウルトラスーパーハードな日が約1年続いた。しかし、若かったので体力もあり、楽しかった。


自分が中国(アメリカ人にはなれず中国に行くことになった)に行く直前、私には昔からの友達と、アメリカ留学の友達と、養成講座の友達がいた。


全員、素の自分で付き合える、正真正銘の友達で、私の孤独は全て消失した。


幸せだった。それなのに、全てを捨てて、一度も行ったことのない国へ行って働くことにした。


とある日に狭い東京の我が家にわんさか人が集まり、キムチ鍋を囲んでいた時のことである。友達がポツンと私に言った。


「無理して頑張らないで」


あの言葉が今でもずっと忘れられない。


海外好きな日本人として、東京で働きながら生きていく道だってあった。日本人と結婚して東京で暮らしてもよかった。十分に幸せだったろう。


日本語教師の養成講座に通っていた人たちは、海外に興味のある人たちで、留学した友達と同じで私と共通項のある人たちだった。ただ、養成講座は受けたものの日本語教師を仕事として生活してゆくのは結構大変で、また、いざとなると海外まで出てそれをやると踏み切れない、ほとんどの人は躊躇していて、その中で私は中国での仕事が決まっていた。


だから、あの時、あの子が私に向けたあの言葉は、講座は受けたけど転職には踏み切れないあの子の不安な心が私に反映して出た言葉なのだとその時は思った。でも、長い時間をかけて今思い出すと、確かに私は無理をしていたなと思う。若い頃の自分は無理して頑張ってた。


そんな薄ぼんやりとした不安を見ないようにして、海外に出た。


中国に出てすぐの頃、あのサーズの騒動があった。


「もしもし」


国際電話などかけなれない父が、おっかなびっくり私の会社の電話にまで電話をかけてきた。


「大丈夫なのか?」

「ああ、はいはい」


客先やら何やら膨大な日本からの問い合わせに蜂の巣になっていた自分は、父の電話をおざなりに受けた。


その当時、自分の周囲には同世代の日本人の男の子が何人もいて、女の子もいた。そのうちの3人に非常に嫌われて、陰で嫌がらせを受け続けた。


日本にいれば友達がたくさんいて、しなくてもいい苦労をその時散々した。これではいじめられたことのある小学校の頃に逆戻りである。あの頃の自分から変わるために一身に頑張ってきたのに、どうして自分はまた地獄のようなところに舞い戻ってきたのだろう?


時々、仮病を使って自室で一日寝た。でも、次の日の朝が来るのが億劫だった。

その頃にはもうそばにいた今の主人と、所属は少し離れるが同世代の日本人の男の子の友達に相談して何とか保っていた。


春節には飛行機に乗って一時帰国する。休暇が終わって飛行機がまた香港へ向けて飛ぶ時、その飛行機がどこまでも落ちてゆくように思えて仕方がなかった。逃げ出したかった。会社なんかやめて東京に戻ってしまいたかった。でも、自分には帰る場所がなかったんです。それは物理的な帰る場所がなかったわけじゃない。逃げ出す弱い自分では帰る場所がなかった。


子供の頃から成績が良かったために期待されて、偽物の張子の虎のような自分を演じてきた。今更その虎を脱いで、ただの自分に戻るわけにいかなかった。


弱い自分や無理をしている自分を誤魔化すために日本から遠い中国に逃げたのだ。そのせいで、やっと築いた友達から離れて、もう一度1人になった。


ギリギリで何とか、私は会社を辞めず、四面楚歌のような状態を耐えた。


そして何度もどうしてあの3人がこんなにも私を嫌い、隙あらば、有る事無い事上に言いつけて、密告のようなことすら言うほどに憎むのかについて考えていた。


漠然とした答えを得たのは、転職を何度かして、その彼らとは離れて随分経ってからだ。この解答は、彼らと答え合わせをしていないので、正解なのかどうかは知らない。


私と彼らは対照的だった。中国に来たばかりの頃自分は、彼らの持っていないものを自分が持っているということを知らなかった。全く無自覚だった。


彼らは親との仲が悪かったのだ。子供の頃から家に居場所がなく、就職して自由を得た時に遠い中国まで出てきた。彼らから見たら私なぞは日本で働いていればいい存在だった。


父親が国際電話の掛け方なぞわからないのに、必死になって電話をかけてきてくれる。

そんな親、彼らにはいなかった。


周囲にいる自分より年配の日本人男性が苦手な彼らの前で、素直な性質の自分は父親に可愛がられたように、みんなにも可愛がられた。そんなもの、自分にとっては何でもないものだった。年上の男性に対して、トラウマのようなものがあり、心を開くことができない彼らの前で、自分は父に愛され、そして、おじさんたちにも娘のようにすんなり可愛がられた。


そういうことだったんだと思う。


もう少し細かくいうと、お客さんのおじさんたちには可愛がられたけど、実は、同じ会社のお爺さんたちは、私より彼らを気にかけていた。私はお爺さんたちにも嫌われているなと思っていたのを覚えてる。


あの二年は本当に辛かった。今思い返してみてもよくもったなと思う。


愛されるのが当たり前で、そして、新しい環境に入り込んでも、嫌われるわけないと色んなおじさんと話す。愛嬌のある娘だったわけだが、努力して中国語を学び、仕事をしているが愛想が悪い彼らからしたら、愛嬌だけで得をしているように思えて憎かったのだと思う。


自分が悪いわけじゃないのに徹底的に憎まれて、さぞかし私も相手を憎んだろうと言われるとちょっと違う。


理解できないうちは悲しかった。それでは理解できた後は同情し、自分が上の立場で慈悲深く許したか?そういうことでもない。


ただ徹底的に憎まれたことによって体で感じ学んだのである。親に愛されない辛さや寂しさを私は経験したことがなかったから。自分がそれを経験していないということすら、知らなかったのだから。その辛さや悲しさの重みというか、どっしりとした何かを感じた。


その頃自分が経験した辛さは、それでも、彼らが経験した辛さよりも少なかったと思う。


人間は主観的な世界に生きていて、客観性というのに欠けているのだと思う。自分は恵まれているということを頭では理解しているつもりだった。だけど、自分には自分の困難さというのもあった。そんなもの、親とうまくいっていない人から見たら、 甘えてる と映るものかもしれない。


じゃあ、他人に比べて自分は 恵まれている のだから、 親に感謝しなければならないし、 頑張らなければならない と思えば、人生は上向くのかというと そういうものではない。


主観の辛さをなかったことにしても、本当の意味で元気に頑張ることはできない。ただ、客観性は大事だ。主観の世界と客観の世界を行ったり来たりしながら、人間は他人を理解し、そして、自分を理解し、それから、心に調和が訪れるのだ。


私が 親とうまくいかない 彼ら を 可哀想だと思い、寛大に接すれば 私は 彼らと 友達になれたであろうか?そうは思わないのである。ただ、激しく憎まれているうちに理解した。


この世には色んな人がいる。みんながみんな私と同じように生まれ育ってきているわけじゃない。だから、他人から見たら自分は他人が持っていないものを持っている人であることもある。そして、世の中には分かり合えない人もいる。こちらが悪くはなくとも、憎まれることもある。


その人と仲良くなれないからといって、自分が否定されたわけではない。

世の中の全ての人と仲良くなれなくても良い。

ただ、大切なのは、相手に対して敵意を持たないことと、表さないことである。


親に感謝しなければならないとか、自分は恵まれているのだから、親が私にした一部のことを恨んではいけないとか、そういうことは私に言わせると頭で考えることじゃないんですよ。自然と感じられるようになるまで、自分のいい心も悪い心も潰してはならない。


この世の中のみんながみんな、親から愛され大切にされて育ってきたわけではない。


東京で、自分を好きだと思ってくれる友人たちとだけ付き合って暮らしていたら、自分は幸せだったけど、でも、私の世界はやっぱり小さいままだったと思う。自分が一体どういう人間なのか、客観的に知ることはできなかったと思う。


子供の頃にクラス中の子に拒絶されたあの時も、中国に来てから激しく憎まれたあの時も、とても辛かった。ただ、少なくとも中国に来てから憎まれたこの経験は、私にいろいろなことを教えてくれた。


辛いのは自分だけじゃないってことです。

そして、幅広く周囲の人と交わり生きてゆける人というのは、他人の痛みが見えている人です。

みんながみんな生きてゆく過程で、他人の痛みを知ることができる人間になれるわけではない。

それは、苦い経験を通じて学ぶものじゃないかと思う。


自分は他人の痛みは見えると思う。でも、理解はできないと思っている。

そして、自分の経験していない痛みを「わかる」と言ってその人の心に近づこうとするのは、失礼だと思ってる。その他人の痛みに対して何かしてあげたいと思い、優しさでもって近づいてもその手に噛みつかれることもあると知っている。それでも、噛みつかれても傷つかない人間になりました。


大事なのはこういうことだと思う。

純粋に相手のために何かをしてあげたいのなら、私がしてあげた何かで相手が元気になっても、私じゃない誰か別の人がしてあげた何かで相手が元気になっても、どっちでもいい。

愛とは与えるものであり、私がしたことにより相手が元気になって欲しいというのは、愛を与える行為ではなく、愛を求める行為なのです。


自分が純粋な心から相手に対して向かえるのなら、相手が私を拒絶したり憎んだりしても私は傷つかない。


この世にはさまざまな痛みや辛さがあり、辛かったのは自分だけじゃない、それがわかってから、不思議と前よりも周りの人が怖くなくなり、また、孤独を感じなくなりました。


憎まれることもなくなったと思います。


汪海妹

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