12 飯塚春菜の事情+α⑤
12 飯塚春菜の事情+α⑤
飯塚春菜
数ヶ月後
とある日のお昼休み、昼ごはんを食べ終わった後に教室の後ろの方で4、5人でおしゃべりしていた。ガラッとドアを乱暴に引き開けた女子がいて、みんながそっちをチラリと見た。その女子は周りのみんなのそんな視線は気にせず、まっすぐにわたしたちの方に突進してきた。
「ちょっと芽衣」
興奮して呼ばれて芽衣はきょとんとそちらをみる。
「あんた、トシと付き合ってるの?」
その場にいたみんなが、わたし以外、皆それぞれに固まった。特に言われた芽衣本人が。顔がみるみる青くなっていく。
「なんか二人でいるとこ見かけたって聞いたんだけどっ」
「……」
そして、芽衣は防御体制に入った。亀みたいに縮こまろうとした。まず、自分の机に顔を突っ伏してできるだけ体を縮こめて、あわよくば固形石鹸ぐらいの大きさにまとまってしまおうとしているように見えた。もちろん人間の体はそこまで小さくならないのだが。
「どういうこと?え、芽衣、ほんと?」
もともと教室にいておしゃべりしていた仲間も騒ぎ出す。
「ああ、みなさん」
ゆっくりと立ち上がって、わたしがそう声をかけると、みな、一斉にわたしを見た。
「春菜、知ってたの?」
亀、いや、固形石鹸のように縮こまっている人の横で、人差し指を一本立てると、唇の前に置く。みな真剣な顔でわたしを見ている。その後、音を出さずに、口を動かした。
あ、と、で
皆、間抜けなことに、わたしの真似をして、エアーで言葉を発する。
あ、と、で?
この集団、今、一時的に集団で挙動不審である。しかし、しょうがない。
そ、あ、と、で
「あ、あたし、なんか勘違いしてたかも。そうそう、先生に用事頼まれてたんだった」
「あ、そうなんだ。わたしはトイレに行こうっと」
それを合図に、皆、そわそわと散会し始める。気づくと石鹸のようになった芽衣のそばからみんなが消えている。教室を出て、外の廊下からそっと覗くと、誰もいなくなったところで、芽衣がやっと動き出しておどおどと周りを見渡しているのが見えた。
「ね、春菜、一体、どういうことなのよ」
一緒になって廊下に出て芽衣から隠れていた子たちが、目を爛々とさせてわたしに食いついてくる。
「あ、ちょっと、あっちいこ、あっち」
わたしは指で廊下の奥を指差す。それからそろそろと移動した。屋上に向かう階段に集まる。よっぽどのことがなければ誰も来ない場所。皆がわたしに食いついてくる。
「ほんとなの?ほんとにほんと?あのトシと芽衣が?」
「あー、まだ、非常に微妙な状態のようで、まず、間違いなく我々が周りで騒いだら、なくなる関係だと思います」
「え、なに?どっちから」
「どっちからって、そんな、芽衣からのわけないじゃん」
芽衣にはこの時まで、男のおの字もなかった。なんとか君素敵なんて言ったことすらない。
「え、嘘?じゃあ、トシから?なんでまたよりによって芽衣?」
「あんた、その言い方、ないでしょ」
「いや、でも……」
そして、みんなで女の子たちが下手したらパンツ見えるぞというような姿勢で冷たい階段に座りながら、それぞれてんでばらばらな方向に空を眺めながら、だまる。誰かがボソリと呟いた。
「マニアックなとこいったな、トシ」
そして、みんなで大笑いした。
「ちょっと、こんな笑ったら、芽衣が可哀想」
「だけど、もっと楽勝でいける女の子、あっちにもこっちにもいるだろうに」
「よりによって芽衣か」
「いや、でも、見直したぞ。トシ」
「そうだ。なかなか見どころあるぞ」
褒めているのか貶しているのかわからないお祭り状態だった。
***
それから二人がどうなったのかは、また別のお話なので詳しくは書かないが、しかし一つだけ言っておくと、トシは非常に苦労をした。みんなが大いに同情するくらい。しかし、なんだろうな。顔は母親に似ているが、一途なところは父親に似たのだろうか。めげずによく頑張った。
一方、わたしの方はというと、予想はしていたけれどそういった方面に関しては冴えない高校生活でした。
あの日、トシと芽衣のために一肌脱いで、そして、一人で帰ってきた時、この土地を離れようと決めた。まるで呪われているようだとまで思ってしまった。曙屋とは関係無い、ただの春菜になりたい。その気持ちが消えることはなかったんです。
この土地を憎んでいたわけじゃない。でも、少しずつ少しずつ苦しくなっていた。
わたしが大学は東京へ行くというと、父は嫌がりました。
「お前の生きていくところはここなんだから、そんな遠いところまで行くことはないだろ」
「一度は生まれたところとは別のところで暮らしてみたいんだよ」
「お前に東京がどう映っているのかわからないが、色々なものがあるように見えて、でも、結局お前にとって一番大切なものは何にもない。そう思うだけだぞ」
それは行ってみないとわからないじゃないと本当は言いたかったのだけれど、でも、別の言葉を口に出した。
「そう思って納得したら帰ってくるから」
「……」
「一度は東京で暮らしてみたいんだよ。後々その経験がきっと役に立つと思うし」
腕を組んで、父はため息をついて、その後、自分の頬を片手で撫でた。伸ばしている髭を撫でていた。父は、高学歴なわけではありませんが、馬鹿な人ではなかった。自分の所属している世界を抜け出して人が外の世界に触れる時、ある人はやはり父の言う通りになんらかの幻滅をしてもといた世界に戻ってくるでしょう。でも、10人の人がいて10人全員そうなるとは限らない。むしろ戻ってこない人の方が多いかもしれない。
一番確実な方法は、最初から外に出さないことです。大学のお金を出すのは親なのだから、福岡を出て東京へ行けばもっとお金だってかかるんだし、拒否する権利は親にはあった。もっともらしいことを言っていくらでも断念させられたでしょう。
「お父さん」
難しい顔をして黙ってしまった父の腕を横で母がそっと取った。
この時の二人の様子を思い出すと、胸が痛むんです。
自分たちの思う方向に、子供を縛り付ける権利も方法も二人にはあった。でも、うちの親は無理強いはしなかった。家のあとを継ぐということについては小さい頃から何度も言い聞かされてきたけど、それでも、わたしを東京に出してくれた。
***
大学が決まって、住むところを決めて上京する日、向こうでの家具とか電化製品を整えるのに母がついてくる。たくさんの人がわたしを空港に見送りに来てくれた。空港の片隅で、一つの輪になった。
「春菜ちゃーん」
芽衣が子供のように泣いてわたしにしがみついた。
「芽衣、そんな地球の果てに行って一生会えないとかじゃないんだから」
いい香りのする女の子の体を抱きしめながら、苦笑いする。
「バイトしてお金貯めて遊びにくればいいじゃない」
「行っていいの?」
「いいよ、おいで」
背中をとんとんしながら、宥めた。
「芽衣、いい加減、春菜のこと離しな。彼氏が見てるぞ」
同じく見送りに来てくれた別の友達がいう。
「みんなは悲しくないの?」
「なんかあんた見てたら満足した」
「うん。芽衣はすごいな。普通はこの年齢なったらそこまでできないな。こんなにギャラリーがいる前で」
「友達というより恋人と別れるみたいだな」
誰かが余計なことを言った。
「春菜が女でよかったよ」
トシがボソッと言う。みんながトシの顔を見る。
「確かに春菜が男だったら、いくらトシでも勝ち目はないな」
まだわたしにくっついてる芽衣を抱っこしながら、自分が男で芽衣と一緒にいる様子を想像してみる。なんだかうまく思い浮かばない。芽衣が泣きながらまだ抱きつきながら、振り返ってみんなに噛み付く。
「わたしの春菜ちゃんへの気持ちはそう言うのじゃないよっ」
「ああ、わざわざ言わんでいい。みんな、そんなんわかってるからさ。トシ、持ってって」
なかなか離れようとしない芽衣をトシに渡した。
「芽衣、おいで」
「あ、譲った」
「譲ったな」
綺麗なハンカチで口元をおさえながら、まだうるうるしている芽衣の肩を抱きながらトシが笑ってる。
「トシ、芽衣のこと、頼んだぞ。泣かせるなよ」
「いや、泣かされるのは芽衣じゃなくて、トシだろ」
すかさずわたしの揚げ足を取るやつがいる。
「芽衣、トシをあんまり振り回すな」
「そんなことしてないもん」
みんなで笑った。
「春菜、もうあんまり時間ないわよ」
少し離れて見ていた母に声をかけられる。そこで、一人一人と挨拶と言葉を交わした。何度も手を振り、何度も振り返りながら、セーフティチェックのゲートを潜る。
みんなが見えなくなった。
そうせずにはいられなかったのだし、後悔などはしていないのだけれど、そのみんなが笑いながら芽衣だけが泣いていて、わたしに手を振っている。その画像がずっと心の中に残っている。わたしは確かにあの時、両親や弟だけではなくてみんなをあの場に置き去りにしてしまったような気がするんです。
でも、そうせざるを得なかった。
「ああ、賑やかだった」
飛行機のゲートへ向かいながら母が言う。
「あんたは本当にいっつも大勢に囲まれている子だね」
「そう?」
「普通のことじゃないんだよ」
「うん」
「東京なんかいって、一人になって、大丈夫?」
一人……。その言葉がとても不思議な言葉として胸に響いた。
その時、わたしは初めて気づいた。
わたし、一人だったことがない。わたし、一人ってどういうことかを知らない人間なんだって。
「自分で選んだことだから」
「そう」
それから前を見つめて歩きながら、母は言った。
「でも、あんたはどこに行っても大丈夫よ」
「え?」
もうちょっと脅してくると思ったのに、あっさりとそう言った。空港の高い天井、一面のガラス張りの壁。キラキラした光の中で、離れる寂しさよりも新しいことが始まる喜びが強い。わたしは若かったんです。今も若いけど今よりもっと若かった。そう怖いもの知らずでした。
「お母さん、そこは、寂しくて泣いて帰ってくるわよとか言うところじゃないの?」
「そんな人間、福岡でだってやってけませんよ」
「そうくるんだ」
「春菜、東京なんてたいしたところじゃないわよ」
「はぁ」
「多分」
笑ってしまった。そう来るとは思ってなかったので。
「なんで、多分ってつけるのよ」
「お母さん、東京で暮らしたことないもの。わかんない」
父のように母も、わたしには福岡で暮らしてもらいたいのだと思う。父の方はそれを当然と思っていて、しかし、母は父とは少し違うようでした。そして、二人で無理矢理娘を福岡に留めるのとは違う道を選んだ。
ありがとうが言えなかった。ありがとうと言えなかった。
その言葉を言ってしまうと、自分のこの、切羽詰まった、そうせざるを得ない気持ちの一端をもれみせてしまう気がしたからです。
それは親にも見せられない剥き出しの自分でした。裸の自分という言葉ではまだ足りない。衣服だけではなくまるで皮膚すら剥いでしまった自分を晒すぐらいの気持ちだった。それは痛くて誰にも見せられない剥き出しの自分です。
親には、親だけでなくて誰にも、見せられなかった。
飛行機は飛んだ。様々な自分を中途半端なままで福岡に残し、わたしは新しい場所へと進んだ。
そして、わたしは東京で、別人になった。
見知らぬ人々の間でわたしは、本当に普通の平凡なただの女の子でした。
ある人にとってはそれは、悲劇なのかもしれない。田舎でチヤホヤされて、お山の大将だったような人が、都会でまるで塵のように扱われる。しかし、自分にとってそれは……
生まれてからずっと入っていた肩の力が初めて抜けた。
そして、やっと自分は、自分と向き合うことができた。
わたしが本当は、どんな自分でいたいのか。どんな自分で生きていきたいのか。
そんな時にふとたまに、わたしは東京でも芽衣のことを思い出したんです。芽衣とトシのことを。芽衣がわたしのことをどんなふうな存在として思っていたのかを知らない。だけど、実は、わたしにとって芽衣は、憧れの人でした。芽衣のようにはどう考えてもなれないし、ならないのだけど、芽衣はわたしにとってのある意味のヒントだったんです。わたしがどんな自分でいたいと思っているのかの。
福岡の家族や友達たちが嫌いなわけではなく、でも、ずっとみんなの春菜のままで生きていくことはできない。これはそれなりに辛い、わたしの孤独な闘いでした。




