11 そうだ、福岡行こう!②
時間を半時間ほど前に戻す
中川崇
社長がヒョロヒョロとクラゲのように会社に入ってきた。
この人、オンとオフがはっきりした人で、そりゃあもう、重要な場面では別人なのである。お金を投資してもらいたい人とか銀行とか、そういう重要な人と同席した時は、この人、結構頭いいんじゃないかなとうっかり思ってしまいそうなくらい弁が立つ。それが所謂お勉強ができる頭の良さとは全然違う。社長はそういうのじゃないのである。そういうのじゃ。型にはまらない雰囲気がウケて、結構割と色々な人に評価されている人なのである。
しかし、オフでは……
クラゲのように会社に入ってくる。朝が弱い人なのである。
ただ一応言っておくと、毎朝クラゲではない。普段は
「おはよー」
フツーである。オンの時のようなオーラはない。フツーのサラリーマンが会社に出社してんのと別に何も変わりありません。
それがクラゲになった時、理由は簡単で、こんな日は二日酔いなのである。
ほっとこう、ほっとこうと思っても、つい口が出る。春菜に時間の無駄だからやめておけと言われた。たしかに。
それで、クラゲもしばらくすれば徐々に復活するだろうしと春菜の忠告に従って、自分のタスクに集中しておりました。すると……、スマホが鳴った。
「はい」
店舗の誰かだろうと思って画面を見ずに無愛想に出た。
「中川さーん」
あ……
その軽やかな声を聞いてパッと画面を見直す。やっぱり……
「麗子さん」
背筋を伸ばして声を出し直した。接客用とでもいうか。
「すみません。店の誰かかと思って」
「いやいや、いいのよ。ごめんね。忙しい時に」
「どうしました?」
「そのう……」
電話の向こうでもじもじしてる。
「なんかありました?社長呼びます?」
ガタンと立ち上がった。麗子さんはですね、今、臨月なんです。
「あ、いや、違うの。違うの。そういうのじゃなくってごめんなさい」
電話の向こうで慌ててる。
「忙しい時にすまないんだけど、ちょっと今会社に来てて、その、ビルの一階に」
「ええ?」
「中川さん、降りてきてくれないかな?」
「社長じゃなくて、僕が?」
「うん、ごめんね」
「わかりました。すぐ行きます」
なんで、僕が?まぁ、でも、降りてって聞いた方が速いだろう。
そして、エレベーターで降りて行くとエントランスホールの窓際のソファーにお腹の大きな麗子さんがにこにこと待っていた。
「あ、中川さーん」
両手を振っている。小走りになりました。
「どうしたんですか?」
「うん、あのね」
傍のトートバックをガサゴソとして、そこから小さな小瓶を取り出した。
「これは?」
「秀さんに渡してほしいの」
「はぁ」
「わたしからって言わないで」
「へ?」
唇の前に一本指を立てて事実の秘匿を要求する麗子さん。とりあえず受け取って眺めた。ドリンク剤でした。苦そうな。
「二日酔いに効くのよ」
「……」
チーン
「今朝は結構辛そうだったからテーブルの上に出しておいたんだけど、秀さん、飲むの忘れて出かけちゃったから」
「それで、わざわざそんなお腹おっきいのに届けにきたんですかぁ?」
ちょっと泣きそうになりました。自分がしてもらったわけではないのだけれど。
「いや、違うの、違うの」
両手を顔の前で振る、奥さん。柔らかそうな長い髪が一緒に震える。
「今日、定期検診の日なの。病院のついでよ」
「病院って、タクシーで来たんですか?」
「いやいや、地下鉄」
「ええ?」
麗子さんのにこやかな顔と大きなお腹を交互に見比べる。
「そんな無理しちゃ。タクシー使えばいいじゃないですか、タクシー」
すると麗子さんはコロコロと笑った。
「男の人はダメねえ。妊娠はね、病気じゃないんですよ」
「でも、何かあったら」
「適度に運動するようにって言われてるのよ」
「普通の体じゃないのに?」
「もう。帝王切開とかじゃなければ、子供は腰と足の筋肉で産むものなんだから」
「ええっ」
若干のショックを受けてました。他の人だったらもう少し平気だったかも。でも、麗子さんだったからなんだかよりショックだった。
「運動してある程度筋肉つけてないと。現代人は昔の人に比べて足腰が軟弱だからお産に時間がかかるってお医者さんに言われて。だから、ちょっとでも歩いた方がいいかなと思って」
「そうなんですか?」
「そうなんですよー。中川さんも自分の時のために知っておいた方がいいわよ」
「……」
ニコニコされた。それから麗子さんは手首の時計を見つめた。
「あ、もうそろそろ行かないと。中川さんそれお願いね」
「ああ、はい」
「わたしからって言っちゃダメよ」
「せっかく持ってきたのに?」
「違うのよ」
麗子さんはまた違うと言った。
「何がですか?」
「この前お友達と話してて」
「はい」
「言われたの。麗子はなんというか、重いって」
「重い?」
「つくしすぎるっていうの?こう、いくら相手のためのいいことでも、片方ばっかりがやりすぎるとよくないっていうのよ。重いって」
「はぁ」
「わたし、はっきり言ってそういうのよくわかんないし。でも、まあそういうものなのかなと」
「……」
「それなのについうっかりまた所謂重い?ことをしてしまったかも。会社についてからそうはたと思って。だから、中川さんが買ったことにして」
「僕がですか?」
「そうそう。お願いね」
麗子さんは両手を合わせて僕にお願いをした。
「……」
僕が、社長の二日酔いを心配して、ドリンク剤をわざわざ買って届ける……。どう考えてもあり得ないシチュエーションだな。
「それじゃ、そういうことで」
「あ……」
しかし、麗子さんはトートバッグを肩にかけソファーから立ち上がると、さっさと行ってしまった。どうしよう?
とりあえずドリンク剤を持ったまま会社のフロアに上がり、会社に戻ると社長室のドアを開けた。すると、神谷秀は部屋の真ん中で体を海老のように曲げて両腕を握り拳にして固まっていた。
「何やってんですか?社長」
「ん?」
姿勢を戻してこっちを見た。さっきまでのクラゲは復活したようだった。ふと手元の瓶を見る。じゃ、これはいらないかな。
「別に何も。それよかなんだ?なんかようか?」
「社長のファンから預かりましたよ」
躊躇しつつ、とりあえず渡した。
「ファン?」
眉間に皺を寄せ、瓶を見る。
「麗子?」
チーン
1秒ともたなかった。
「麗子さんだとは言ってないですよね?」
「でも、これ、うちで買い置きしてあるやつだぞ。数あるドリンク剤の中から一つ一つ試してこれに落ち着いたんだ。そのファンはそんなうちの内部事情にまで通じてるのか?」
「……」
「なに、会社に来たの?そういえば今朝飲み忘れたな」
軽ーく言って、ピキッと蓋を開けると、まるでなんでもないことのように軽ーく飲んだ。軽ーく。ぐびぐび。少し青ざめた顔で秀さんを見る崇くん。
「あんなおっきいお腹でたった一本のドリンク剤をわざわざ……」
「え、もう帰ったの?」
「病院の時間があるからって」
「あ、そうか。でも、なんでお前に渡すんだ?変なやつ」
その時、中川崇の中で何かが壊れた。ぱき。
「会いたくなかったんじゃないですか?社長に」
はははと笑う神谷秀。
「会いたくないほどやな奴にわざわざドリンク剤届けるか?」
チーン
……たしかに
「じゃ、俺に会いたかったんですよ」
「ああ、日頃お世話になってますとかなんとかか」
これにも動じない。
ふっと崇、気が遠くなり、そして、瞬時に悟りました。
麗子さんのお友達、あなたのおっしゃることは正しいです。どっちか一方がせっせと健気に尽くす。最初はそれをありがたがっていた受け手も、長い年月が経ってくるとそのありがたみが薄れ、当たり前のことだと思うようになる。
この神谷秀のようにっ!
「麗子さんは社長には勿体無い奥さんですっ」
「なんだなんだ急に」
ちょっとビビる神谷秀。
「普通あり得ませんよ。こんなこと」
「え、そうなの?」
やっぱりわかっていなかった。
「お腹が大きくて自分が大変な時に、わざわざこんなことしてくれる奥さんなんて日本全国探しても麗子さんだけですっ」
「そうなの?」
「ちゃんとありがとうって言ってくださいよ。大切にしてます?」
「いやいやいや……」
ドリンク剤の空瓶を片手にもう片方の手を腰に(銭湯にいって上がりに牛乳を飲むときの定番ポーズ皆さんもご一緒に)、自分の会社の天井を見てふっと遠い目をする神谷。
「そりゃ、君が諸所の事情から俺のことをダメな夫だと判断するのもやぶさかではないが」
このやぶさかではないは使い方を間違っているような気もするが、続きを聞こう。
「だからと言って、そこまでひどい夫でも父親でもないんだぞ?なぜみんなにわかってもらえないんだろう?」
切々と訴える。
「社長」
「うん」
「もし、社長の相手が普通の奥さんなら、僕だって他人のプライバシーにここまでとやかく言いません」
「はぁ」
「麗子さんは特別なんです」
「え?」
つまりはですね。こうなんです。皆さま。
この会社の中にはですね、崇くんを始め男女を問わず麗子さんの健気さと温かい人柄に打たれている人々がいまして、いわば純粋なファンがいるんです。自分のものにしてどうこうというようなものではなく、ただただ麗子さんには幸せでいてほしいという純粋なファンです。
実は会社の中で秀さんよりも麗子さんの方が求心力があるんじゃね?という意見も裏にはあるくらいで。
そんな不穏な動きがあったとしてもね、安心してください。皆さま。
社員の一部の皆様は麗子さんのファンで、そして、麗子さんは社長のファンなのです。だから、とりあえずのところは会社は安定しております。しかし、もし、もしもですが、麗子さんが秀さんとの結婚に疲れて誰か別の人とやり直したいと思ったとします。
「じゃ、いい人探しましょう!」
と協力する社員A。
「ついでに社長もそちらの方に変更してしまいましょう」
「いいねー!!」
盛り上がる社員たち。
「でも、株主とか、どうする?」
「じゃ、そっちのシナリオは俺が考えるから」
わらわらわらわらと集まる麗子ファン。会社危し。しかしだな、ご安心ください、みなさま。
麗子さん、スッゲー秀さんのこと好きだから。よっぽどのことがない限りこの人が他の人とやり直したいと思うことはないでしょう。
こんな背後の事情がありまして、場面を元に戻します。
「とにかくちゃんとありがとうって言ってくださいよ」
「わあった、わあった」
大切にしなかった暁にはさもなくば……。チラリと心をよぎるそんな想念についてはもちろん言葉にはしない。
「じゃ、そういうことで」
「あ、違う、崇」
呼び止められた。出て行こうとした姿勢で振り向く崇くん。
「なんですか?」
「来週、福岡行くからな」
「あ、そうですか。行ってらっしゃい」
「ちげーよ。おめえも行くんだよ」
「へ……」
崇くんの眉間に皺がよる。
「来週のいつですか?」
「まだ決まってないけど来週」
「どのぐらいの長さですか?一泊二日?」
「そんなわけねだろ。最低でも二泊三日だ」
崇くん、姿勢を正してまっすぐ立つと天井の方を見た。おそらく頭の中で来週の予定を思い浮かべているのだと思います。
「かなりきついんですが、それ、俺、必要ですか?なにしに行くんですか?」
「出店の候補地として福岡を見に行くんだよ」
「別に社長一人で行けばいいじゃないですか。じゃなきゃ、サオリを連れてけば」
「サオリだとな、俺と考え方が似てるとこが多いからさ。こういうのは視点が違う奴らが行く方がいいんだよ」
「じゃあ、もう少し先の日程にしてくださいよ」
「もう行くっていっちゃたもん」
「誰に?」
「津島くん」
「それ、誰ですか?」
「よくぞ聞いてくれた」
そこで中川くんをPCまで引っ張っていって津島くんの会社のHPを嬉々として見せる秀さん。これまでの経緯を説明する。
「商売ってのはよ。運ってのも重要だからな。久々に再会した同級生が社長でしたってさぁ」
「まだ、社長じゃないですよね」
「次期社長だったってさぁ」
ニコニコしてる秀さんの顔を見ながらため息をつく崇くん。
「そんな期待したって、実際うまく転がるかどうかなんてわからないでしょ?」
「なに言ってんだよ。商売なんていつも上手く転がるかどうかなんてわからないんだよ」
「……」
「うまくいくかもしれないって思ってより多く動いたもんの勝ちなの」
それはたしかにそうかもしれないとちょっと思った崇くん。
「でも、それにしたって来週はぁ」
「ああ、もうっ!お前何歳だよ。ジジイみたいだな。フットワーク重っ」
「……」
なんというか、社会人として、あまりに乱暴な口の利き方ではないか。この会社のCSRはどうなってるんだ?ふと、他人の会社の社長を眺めるようにつくづくと代表取締役を眺めた。つくづくと。
「ちょっと待て。動くな。崇」
そんな崇くんの様子は一切気にせず、PCの傍に立っている崇くんを指でビシッとさしながら、社長室のドアのところまで行って事務所を覗いた秀さん。
「ね、野田くんいるー?」
「はーい」
呼ばれてトコトコ野田くんがやってくる。
「あのね、来週、俺ら福岡行くから」
「はぁ、行ってらっしゃい」
「ほら、別に何も問題ないじゃないか」
欧米人のように両手を広げ肩をすくめながら崇くんの方を見る。秀さん。
「お前がいないといけない案件って何なんだよ」
「そりゃ、まぁ、いろいろ。イベントが入ってくる店舗もありますし」
「2、3日くらい、別に野田くんが代わりにできるよなぁ」
「ああ、はい。指示があれば」
「ほら」
じっと崇くんを見る。秀さん。
「でも、実際にはその場その場で判断してやってかないといけないことが……」
思い通りにいかないトラブルが起こることがビジネスの現場では多々ありますからね。
「いや、なんかあったら電話しますから」
「それで大丈夫?」
二人が仲良く話している横で秀さんがいう。
「電話禁止」
「「え……」」
「メールもチャットもテレパシーも禁止だ!」
チーン
(テレパシー?)
「いや、でも、それだと……」
野田くんが青くなる。
「いつまでもいつまでも崇におっきなことからちっちゃなことまで頼るな。だから崇がどんどんフットワークが重くなるんだよ」
「だけど、それじゃ……」
野田、オタオタし出す。
「僕たちだけじゃ、間違ったことをしてしまうかも」
「いいか」
秀さんが野田くんをじっと見る。
「なんかあったら崇に電話すればいいと思ってるから、お前らの頭はまだ寝てんだよ」
「ええ?」
「電話できない状態でお前らの自分の頭使ってみろ。結構いろいろちゃんと覚えてて、自分でもびっくりするくらいどうしたらいいか実はわかってるもんなんだよ」
「でも、お客さんに迷惑を……」
煮え切らない男、野田大輔。そこがいいとこでもあるのだが。
「ああっ、もう!」
そして、社長もう一度事務所を覗く。
「ちょっとづかちゃん!」
「ほーい」
グリッシーニをくわえながらきた。
「お前、もの食いながら社内を歩くなよ。動物か?」
「これも仕事ですよ。試作品。で、なんですか?」
「ちょっと待て」
くわえているグリッシーニの先っぽをポリッと折って口にする、神谷秀。
「別にいっつもとおんなじ味じゃねえか。新作でもなんでもないじゃねえか」
「品質チェックですよ。おんなじ味ならオッケー」
片手で丸を作ってみせる。
「……」
「定期的にチェックしないと手を抜きますからね」
いけしゃあしゃあと言う。実は意外と飯塚春菜は肝が据わってるんですよ。
「で、なんですか?」
「ああ、俺ら来週福岡行くからさ」
「お土産買ってきてくださいね」
「何がいいんだ?」
「ええっと……」
「ちがーう!」
話したかったのはこんなことではない。
「いいか。留守の間、崇に電話するのもメールもチャットも禁止だ」
「テレパシーもですか?」
「そうだ」
「アイアイサー」
水兵のように敬礼する春菜。ポリポリ。
「そんな簡単に応じて大丈夫?づかちゃん」
大輔がオロオロする。
「問題が起こっても電話するなって言ってるだけでしょ?」
チーン
「ちがーう」
いつもはボケ役の秀さんがツッコミをしている。次世代型ボケマシン春菜に。
「自分たちで解決しろと言ってるんだ。いつまでも崇に頼らずに」
するとにへらっと笑った春菜。ポリポリ。
「社長、任命責任って言葉、知ってます?」
「……」
「なんか起きても知りませんよー」
秀さん、横にいる崇くんの腕に捕まった。
「なんとかしろ、崇」
「でも、手を出すなって言ってるのは社長でしょ?」
にっちもさっちも行かなくなりました。ポリポリ、流石にもうグリッシーニは食べ終わったかな?すると、不意に声を上げポンと手を打つ野田大輔。北海道出身。
「あ!」
「な、なんだ?」
「福岡って言いましたよね?」
「そうだ」
「づかちゃん、地元じゃない」
「え?」
一同づかちゃんを見る。
「なんでお前言わないんだよ」
秀さん、春菜ちゃんではなく隣にいる崇くんにいう。すかさず崇くんなんでもない顔をして言いました。
「全社員の出身地まで流石に把握してませんよ」
でもね、本当は知ってます。彼女だからね。二人が付き合ってるのを社内で知ってるのは社長だけってことになってる。でも、実は野田くんは気づいてます。だけど、今の会話も何も気づかないふりして聞き流しました。
「じゃあ、崇をやめてづかちゃん、一緒に行くか」
ホッとする崇くんと大輔。これで様々な面倒が片付いた。
「やです」
「「「へ?」」」
「お」
「お?」
「こ、と、わ、り、し」
「ことわりし?」
「ます!」
「……」
づかちゃん、その言葉の分解の仕方は、塊をあまりに無視してないか?君は日本人なのか?本当に。
「他のところならどこへでもお供しますが、南極でも」
「南極でも」
「福岡だけはやですっ!じゃっ、そういうことで!」
水兵のようにビシッと敬礼すると、グリッシーニ娘は自席へと戻っていった。
「え、なんでダメなの?地元でしょ?」
「……」
そして、すぐに崇くんに聞く秀さん。これ、わざとやってんのかなと思いつつ、野田くんの手前崇くんこう答える。
「さぁ、なんでなんでしょうねぇ」
野田くん、もう一度何も気づかないふりをする。人生はね、みざる、言わざる、聞かざるですよ。




