第28話 デート七回目(もう少しだけ、付き合ってくれる?)
身体が熱い、ウィルスのせいではなくて。
赤い屋根のアパートに着いてから、自転車に乗ってこなかったことに気づく。
はあはあと息を大きくしながら、かんかんと階段を上がる。
二階の一番奥に着く、扉は半分開いていた。
俺は呼び鈴を鳴らさず、ノックもせずに中へ入る。
靴を脱いで上がると、一度、訪れたときとは違うことに気づく。
台所にあった必要最低限だろう家具と家電に、流し上の棚にあった食器、引き出しのなかのものがなくなっている。
磨りガラスの戸を開いて隣の部屋に入ると、窓と何も荷物のないクローゼットの扉が開け放され、むき出しのマットレスだけがあった。
遅かったのか、と思った。
力が抜けて、マットレスに身体を投げ出した。
「……俺は、何をしてたんだ」
寝込んでいたあいだに何があったのか。
分からないまま、彼女はいなくなってしまった。
『もう、水曜日に会うのはやめよう、今までありがとう』
そう言われたのは、先週の火曜日だったか。
寝込んで、強い薬を飲んでいたからか、そのことについて考えなかった。
いや、違う、考えれられなかったんだ。
「……あんなに、簡単に」
短い電話で終わりにされたのが、ショックすぎて。
もしかして、夢ではなかったのではと思ったが、違った。
「……まだ、早すぎだろ」
気持ちの準備など待ってもらえず、こんなに突然に。
……俺は、初めて恋したひとに、会えなくなってしまった。
毎週の約束は、いつか終わると思っていた。
それでも、こんなに早くとは、甘い俺は思っていなかった。
祖父を死んだときを思い出す。
何度か入退院をくり返していたので、戻ってくるものだと思っていた。
だが、帰ってこなかった。
あのときは幼かったのと、多分、今の様にショックが大きすぎて、どうだったか覚えていない。
どうやって、いなくなったことから立ち直ったのか。
俺より、別れを経験しているだろう両親に聞けば分かるのだろうか。
そういえば、おじさんは、恋人を事故でなくしてからひとりだ。
「……俺は、これから、どうすればいいんですか」
答えは、当たり前に返ってこず、両目を閉じる。
何を考えたらと思うが、どれからかも分からず。
視界と同じように頭のなかも真っ黒になり。
目が覚めたのは、水曜日だけ、隣から香ってくる匂いに気づいたからだ。
「……何、やってるんですか」
「健太郎君、今、夢のなかだよ」
「違います」と返すと、俺の身体の上からふふっと聞こえる。
「どうして、分かっちゃったの」
薄い暗闇のなか、ぼんやりしていた姿が、はっきり見えて。
心臓がばくばくと鳴り出してしまったので、大きな声を上げてしまう。
「……おっ、お姉さん、……だっ、ダメですよ、こんなっ……」
「私、お姉さんて名前じゃないよ」
どこから香ってくるのだろう。
俺の上にある、くっついている場所全部がびっくりするぐらい柔らかい身体。
俺の顔にかかっている、さらさらの髪の毛。
彼女の全部から、とても甘くてよい香りがしてくる。
「……一条さん、……俺の上から、どいて下さい」
「それ、名字だよ」
「……桃子さん、……お願いします」
「初めて、名前呼んでくれたね」
「……悪ふざけが過ぎてますよ、……からかうのやめて、どいて下さい」
「ふざけてないし、からかってないよ」
「……じゃあ、……どうして……」
こんなことになっているか聞く前、お姉さんは俺の胸に顔をうずめた。
ぴったりとくっつかれ、甘い匂いが鼻から全身に回って、先週かかったインフルエンザの時のように俺はなっている。
頭がぐらぐらして、身体が熱くて、色んなところから汗が吹き出ているのが分かるのに動けない。
「健太郎君の、心臓の音が聞こえる」
恥ずかしくて身体を離そうとしたら、胸の顔がゆっくり上がる。
「私と、こうしてるの、嫌?」
薄い闇の中、彼女の両目がきらりと光り、両頬に水がつたった。
「……そうだよね、健太郎君も、私なんか嫌だよね」
そう言ったあと、お姉さんが見せた笑顔を、両腕で自分の胸の中に押しつけた。
「ふざけないでください」
「……ごめん、……今まで、ありがとう。もう、健太郎君に……」
「だまって」と、俺は、ぎゅっと強くしめつけられている胸に彼女を更に強く押しつける。
「俺を、誰と一緒にしてるんだよ」
両腕のなか、お姉さんが全身をびくりと震わせのに、言葉を止められない。
「俺が、こうしてるの、嫌なわけないだろ」
「どうして」と小さく聞こえ、なぜか、震えている唇で返した。
「……あなたが、好きだから」
マンガやドラマや映画で聞いたことのあるセリフを、本当に言っている。
「俺は、お姉さん、一条桃子さんが好きだ」
言葉を、自分でも確認する様に言い、
「初めて会ったときから、好きだ」
今、気づいた気持ちを言って、右目から水が垂れたのが分かった。
「好きです」
俺は、胸のなかに感じる温かさに目を閉じる。
二ヶ月前、まだ彼女に出会う前の自分に話してやりたい。
……初めての恋は、とても苦しい。けれど。
「俺は、あなたと出会えて良かった」
素直な言葉を吐くと、彼女の肩が小さく震えはじめ。
「私も」と、とても小さくて、とても嬉しい言葉をくれた。
それだけで、彼女と居た二ヶ月は意味があったと思った。
「デート、楽しかったです。桃子さんは、楽しかったですか」
返事を待つあいだ、俺は、出会った日を思い出す。
夕日に照らされ、きらきらと輝く濡れた笑顔を。
とても綺麗だったと思い返し、今更、俺は聞いた。
「桃子さん、初めて会ったとき、一緒に居たのは誰ですか」
少し待つと、聞こえた。
「健太郎君、まだ、もう少しだけ、私に付き合ってくれる?」
俺は、「はい」と、すぐに返した。




