94 帰れだなんて言わないで!
走って走って走って。
どこに続くかもわからない角を何度か曲がって、行き当たった階段を上りきって屋上庭園みたいなところに出た。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が上がって苦しい。
なんだかこっちの世界に来てから走ってばっかりな気がする。
膝に手をついて乱れた息を整えながら、なんで階段を上がっちゃったんだろうと後悔する。
かといって、今すぐ階段をかけ下りる気力はない。
疲れた……。
外壁にもたれかかったところで背後から声をかけられた。
『リン』
「ひぁっ!」
思わず変な声が出た。
――――って、なんだルミナか。
お兄ちゃんじゃなかったことに安堵して顔を上げると、青い空とスーリアの町並みが見えた。
さすがに高い建物の上だけあって見晴らしがいい。
けれど私の気分は晴れなくて、ため息が口をついて出た。
『急に飛び出してどうしたんだ? 家族と話していたんじゃないのか?』
どうしたと聞かれてぎゅっと拳を握りしめる。
「…………だって……だって……」
じわりと涙が滲んでくる。
それを必死に堪えながらやっとのことで理由を吐き出した。
「帰れって――――やっと会えたのに、帰れって言うんだよ?」
一度口に出したら堰をきったように言葉が溢れて止まらなくなった。
「ずっと会いたかった……幽霊でもいいから会いたいって思ってた……それなのにお兄ちゃんたち、私だけ向こうの世界に帰れって……」
『…………』
「どうして私だけ帰らなきゃいけないの!? お父さんもお母さんお兄ちゃんも、シルヴィーも……ルミナだって! みんなこっちにいるのに…………あっちに帰って、またあの寂しい生活に戻れって言うの!?」
あちらに帰りたいと思う気持ちはすっかり消え失せていた。
帰りたくない。こっちにいたい。こっちで生きていきたい。
外壁の手すりに突っ伏して溢れそうになった涙を隠しながら、私はいかに自分があちらの世界で寂しい思いをしてきたかを切々と語った。
ルミナはただ黙って話を聞いてくれた。今はそれがありがたかった。
「凛……」
不意に背後から声をかけられてビクリとする。
振り返らなくてもわかった――お父さんだ。
「さっきは悪かった――凛、ちゃんと話をしよう」
「…………あっちに帰れって話なら聞きたくない」
謝るお父さんに、私は突っ伏したまま素っ気なく答えた。
本当はこんなこと言いたいわけじゃない。
せっかく会えたんだから、もっと別の楽しい話をしたいのに。
私がこんな態度をとったせいか、お父さんがため息をついた。
「話す前からへそを曲げないでくれ」
「だって……」
「別に頭ごなしに帰れって言ってるわけじゃないんだ」
「嘘! だって、お兄ちゃんは帰れって……!」
「それは律の意見だ」
「……………………お父さんは違うの?」
引っかかるものを感じて、お父さんを振り返って聞いてみる。
三年ぶりのお父さんは前より白髪も増えて幾分か老けたように見えた。
お父さんはどこか困ったような表情で私の問いかけに答えてくれた。
「本当は律みたいに生きてるんだから帰れって言うべきなんだろうけど、父さんは凛がちゃんと考えた上でこちらの世界を選ぶって言うのなら、それでもいいと思ってる」
「ほんとう……?」
「ああ。だから、ちゃんと凛の話を聞かせてほしい」
お父さんが歩み寄って隣に並ぶ。
優しい眼差しを向けられて、いつだったかの遠い日の記憶が甦った。
そうだ、この顔……昔、私が幽霊が見えるって話を友達が信じてくれないって泣きついた時と同じ顔だ。
お父さんは私と一緒で幽霊の見える人で、私の話を唯一理解してくれる人だった。
もちろん、お母さんもお兄ちゃんも幽霊の見える私たちの話を信じてくれている。でも、他の人には見えないものが見えてしまうことや、それを周りの人に理解されない苦悩を真に理解してくれたのはお父さんだけだった。
大丈夫、ちゃんと話せばわかってくれる。だって、お父さんだもん。
私は勇気を出して、今までずっと悩んできた交友関係のことやこの世界にいたい理由を伝えた。
私の話を一通り聞いたお父さんは私の頭をなでて遠くを眺めた。
「そうか……凛がこの世界に惹かれる気持ちはよくわかった――――父さんも正直こっちの方が生きやすいからね」
「じゃあ……!」
「ああ。父さんは反対しない――――けどね、帰れって言ったお兄ちゃんのことを悪く思わないでほしいんだ」
「?」
「律は今でこそ神子なんてやっているが、こちらの世界に来た当初はこっちの生活に全然馴染めずにいたんだ」
「そうなの?」
「父さんは幽霊を見れたから退魔師になれたし、母さんはすごくポジティブな人だからこの世界に順応するのも早かったけど、律は――あの子だけはずっとあっちの世界に帰りたいって言ってたんだよ」
意外……。
お兄ちゃんの持ってたラノベ、七割が異世界転移ものだったから異世界来れてラッキーとか思ってるんだと思ってたのに。
やっぱり現実と小説じゃ違うのかな………………まぁ、違うよね。
「今回のことも、凛をこちらに呼んでしまったことをすごく気にしていてね。イーニスからお前とはぐれたって聞いて血相変えて探してたんだよ。お前だけは何としてでも向こうに帰さなないとって責任感じてたんじゃないかな――――そうだろう? 律」
そう言ってお父さんが後ろを振り返ると、そこには息を切らしたお兄ちゃんがイーニスと共に立っていた。
「お兄ちゃん……」
「…………お父さんの、言った通りだよ。俺のせいで連れてこられたお前だけは向こうに帰さないとって必死だったんだ。それなのになんで……なんでお前は帰りたくないだなんて言うんだよ! この世界を選ぶってことは、今まで当たり前にあったものを全部手放すってことなんだ。テレビもない! スマホもない! 友達もいない! ラノベの主人公みたいになれるわけでもないし、都合いい展開もチートな能力も俺には何もなかった! 凛はそれを聞いても本当にこの世界に残るつもりなのか!?」
お兄ちゃんがつかつかとまっすぐに歩いてきて私の両肩を掴んで揺さぶる。
「俺は、俺は、あっちに戻れるお前が羨ましい――それなのに! その権利も捨ててこっちに残るって言うのか!?」
今にも泣きそうなお兄ちゃんの顔を見て、私は「ああ」と思った。
そっか、お兄ちゃんは今でもあっちの世界に帰りたいんだね。
お兄ちゃんは私と違って友達も多かったし、毎日楽しそうだったもんね。
でも、私のことも知りもしないで羨ましいなんて言わないでほしい。
「お兄ちゃんだって私の何がわかるの!? 私ずっと寂しかった! 叔母さんちに厄介になるのが嫌で全寮制の高校入ったけど、夜は一人だし、夏休みに入ったって私が帰るのは叔母さんち! 友達だって、上辺だけの付き合いで本当に友達って思える人なんていなかった!」
カッとなってずっとひた隠しにしてきたことまで言ってしまった。
言ってからはっと口を噤んだ。
しまった。変に心配されたくなくて、友達がいないの家族にも言わないでいたのに。
急に心許なくなって無意識に隣に立つルミナの手を探ると、それに気づいたルミナがそっと私の手を握り返してくれた。
まるで頑張れって言われてるみたいで心強くなれる。
お兄ちゃんと目が合った。
いつもなら私から反らす目を、反らすことなくまっすぐに見返す。
「初めてなの! 幽霊を見る力のことを受け入れてもらえるのも、それを頼られるのも!」
「…………」
「ルミナにこっちの世界を選んでほしいって言われてから、ずっとどうしたいのか考えてきた――やっと答えが出たの! 私は私のままでいられるこの世界にいたいの! 私を必要としてくれる人たちのいるこの世界で生きていきたいの! だからお願い! 帰れだなんて言わないで!」
ありったけの気持ちを込めて決意を言葉にして叫んだ。
肺の中が空っぽになって空気を求めて息をすうと、お兄ちゃんから「お前は……」と呆然とした呟きが返ってきた。
「向こうの世界の体が死んで二度と戻れなくなっても後悔しないのか……?」
「後悔しないかどうかなんて先のことなんかわかんないよ――――でも、私は自分で決めた道を歩いていきたいの」
「そっか……」
お兄ちゃんはひざを折って脱力したようにへたり込んだ。
「凛も自分のことを自分で決められるくらい大人になってたんだな……」
「そうだよ……私、もう高三なんだよ?」
「そっか、高三か……」
「うん――――お兄ちゃん、私をこの世界に呼んでくれてありがとう」
「りん……」
お兄ちゃんの目から涙が零れて、慌てたお兄ちゃんはそれを隠すように俯いて手の甲で涙を拭った。
それを見たルミナが小さく笑った。
何かと思ってルミナを見れば、彼はお兄ちゃんに慈しむような視線を向けて言った。
『いやな、泣き顔を隠す仕草がお前によく似ていると思って。やっぱり兄妹だな』
「ちょっ……!」
何でそんなところをつっこんでくるの!? めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。
胸倉を引き寄せようと手を伸ばして、その手がスカッと宙を切る。
ぐ……やっぱりこっちから触れないなんて不公平だ。
そんなやりとりをしている私たちのそばで、イーニスがへたり込んだお兄ちゃんの服をつまんだ。
『リツ……』
「大丈夫だ、イーニス………………俺ももっと強くならなきゃな」
そう小さく呟いたお兄ちゃんは、雲一つない青空を見上げて眩しげに目を細めた。




