92 優しい夢
懐かしい夢を見ていた。
今はもう見ることのできない、当たり前だった日常の夢。
***
時計のアラームで目を覚ました私は、ハンガーにかけてあったセーラー服に着替えて自分の部屋を出た。
一階に下りて台所で洗い物をしていたお母さんに声をかける。
「おはよー」
「おはよう。凛、律は?」
「お兄ちゃん? まだ寝てるんじゃない?」
リビングにもダイニングにもお兄ちゃんの姿はない。きっとまだ寝ているに違いない。
そう思って答えれば、お母さんは深いため息をついた。
「もう、あの子ったら――――りーつー! 早く起きないとまた遅刻するわよ!」
エプロンで手を拭きながら階段下から二階に向かって呼びかける。
毎日よくやるなぁと思いながらテーブルにつくと、すでにお父さんの朝ご飯が片付けられていた。
「お父さんは?」
「今日は朝から会議があるってもう出かけたわよ」
「えー、学校まで乗せていってもらおうと思ってたのに」
残念、と思いつつお箸に手を伸ばす。
今日の朝ご飯はご飯とみそ汁と目玉焼きだった。
ホカホカご飯と半熟の目玉焼きを見て、なぜだか無性に懐かしい気持ちになった。
なんでだろ、と首を傾げてテレビのチャンネルを変える。
ちょうど星座占いが始まるところだった。
日課になっている占いをチェックしながらご飯を食べていると、階段を下りる不規則な音とともにお兄ちゃんが起きてきた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「…………はよ……ふぁー……ねみー……」
お兄ちゃんはパジャマのまま私の前を通り過ぎると、よろよろとソファーに座って目を閉じた。
「ちょっと律! なに寝ようとしてるの! じーかーん! 時間みなさい!」
お母さんがお兄ちゃんを見咎めて怒鳴った。
私が通う中学はここから歩いて二十分くらいだから余裕で間に合うけど、お兄ちゃんの通う高校は電車を乗り継いで行かないといけないから、そろそろ家を出ないと間に合わなくなるだろう。お母さんが怒鳴りたくなる気持ちもよくわかる。
私はお母さんとお兄ちゃんのやりとりを横目で見つつ、もくもくとご飯を食べ進めた。
食べ終わる頃になって、ようやくお兄ちゃんが重い腰を上げた。
のっそりと私の向かいに座って、しょぼしょぼする目をこすりながら台所にいるお母さんに声をかける。
「あ、そだ。お母さん、俺、今日バイトあるから夜遅くなるー」
「晩ご飯は?」
「家で食べるー」
「はいはい。終わったら寄り道しないで真っすぐ帰ってきなさいよ」
「はーい」
お母さんとの話が終わるのを見計らって、こそっとお兄ちゃんに声をかける。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん」
「んー?」
「バイトってどんなことしてるの? 楽しい?」
「ふっふっふっ……中学生にはまだ早い」
「えー」
むぅと膨れて見せると、お兄ちゃんは得意げな顔をして「凛も高校入ったらバイトすればいいじゃん」とニシシと笑った。
こんな当たり前の日常が失われるなんて、この頃の私は露ほどにも思っていなかった。
***
場面が切り替わる。
私はパジャマのまま、赤く燃えさかる炎を呆然と見つめて立ち尽くしていた。
数分前まであの中で寝ていたとは思えないほど火は燃え広がっていた。
頭の中が真っ白で何も考えられない。
消防車のサイレンの音も、野次馬の声も全部が遠くに聞こえた。
誰かが私の肩を揺すって何かを言っている。
けれど私はその声に応えることもできず、ただただ呆然と自分の家が火に包まれていくのを見ていることしかできなかった。
お兄ちゃんが、お兄ちゃんを起こしに行ったお母さんが、二人の様子を見に行ったお父さんがまだあの中にいるのに。
燃えさかる炎とその熱に足がすくんで私は動くことができなかった。
消防車が到着して消火作業が始まる。
そうして完全に火が消えた時、私の家は真っ黒に焼け焦げた枠組みだけの残骸になり果てていた。
両親とお兄ちゃんを待ち続けていた私は、朝日に照らし出された無残な家を見て三人が助からなかったことを悟った。
***
頬を伝う温かな感覚に意識が浮上する。
ゆっくりと目を開けると、そこには夢で見た人たちが私を囲んでいた。
お父さん、お母さん、それにお兄ちゃん。
まだ夢でも見ているんだろうかとパチパチと目を瞬かせていると、私が目覚めたことに気がついたお兄ちゃんが一番に声を上げた。
「凛! よかった、目が覚めたんだな!?」
「おにいちゃん……?」
「ああ! お兄ちゃんだ。お父さんとお母さんもいるぞ!」
「凛!」
「凛っ!」
よく見ると、お父さんもお母さんも私の記憶の中の二人より幾分か痩せて見えた。
「凛! ああ、凛! 本当に凛なのね! こんなに大きくなって……!」
お母さんが涙を流しながら私を抱きしめた。
なんで? どうして?
お兄ちゃんだけでもいっぱいいっぱいだったのに、どうしてお父さんもお母さんもいるんだろう。
もしかして。
私はふと思い至った。
「わたし、死んだの……?」
ぽつりと口をついて出てきた言葉を、お兄ちゃんが即座に「違う」と否定した。
お母さんが名残惜しそうに私から離れて、お父さんとお兄ちゃんに目配せする。示し合わせたように頷き合うと、お兄ちゃんが私の両肩を掴んで言った。
「凛はまだ死んでない――――死んでないから、お前はすぐに元の世界に戻るんだ」




