73 穢れ
「リン、大丈夫だった!?」
その場に座り込んでしまった私にシルヴィアさんが駆け寄ってくる。
のろのろと顔を上げて彼女を見ると、ひどく心配そうな顔をしていた。よほど急いで来てくれたのだろう、シルヴィアさんは肩を大きく上下させて息をついていた。
私はぎこちなく頷いて、だんだんと薄くなって消えていく光の粒子に視線を戻した。最後の光がすうっと消えてなくなるのを見送ってから、はっとしてシルヴィアさんを見た。そこにいるのはシルヴィアさん一人だけだった。
「そうだ! アドルフさんは!?」
地面に倒れて動かなくなったアドルフさんを思い出す。
シルヴィアさんは眉間にしわを寄せて唇を噛みしめると首を左右に振った。
「………………彼はもう手遅れかもしれない……」
「え……」
手遅れ? それ、どういうこと……?
私はアドルフさんのところに向けて歩き出したシルヴィアさんの後をよろよろと追いかけた。
***
アドルフさんは倒れた時のままだった。
魔獣の住処の入り口にうつ伏せで倒れているのを見て、ピクリとも動かないアドルフさんに駆け寄る。
「アドルフさん!!」
『………………』
返事はない。私の呼びかけにも全く反応しなかった。
アドルフさんのそばに膝をついて彼の状態を見れば、魔獣に噛みつかれた左肩から背中にかけてがえぐれてなくなっていた。傷口からは血ではなく黒い靄のようなものが漂っている。
生きている人だったら致命傷であることは間違いない。
私と同じようにアドルフさんの隣に膝をついたルミナがアドルフさんを見て顔を顰めた。
『損傷が酷いな――いや、このくらいの損傷ならまだ何とかなるが……』
「死んでないの!?」
『もともと生きてないからな』
「そういうことじゃなくて! アドルフさん、大丈夫なの?」
『大丈夫か大丈夫じゃないかで言われたら、大丈夫じゃないな。今のままだと消滅する』
「なっ……」
『消滅』その言葉が重くのしかかる。
「ど……して……」
掠れた声で呟きを漏らすと、シルヴィアさんが私の向かいにしゃがみこんでアドルフさんの状態を教えてくれる。
「私たちが致命傷を負えば死んでしまうように、霊体も大きく損傷すればこの世に存在することが難しくなるの。そうして損傷した霊体は自分を保てなくなって、やがては消滅してしまうのよ」
「怪我……を治すことは……?」
『本来なら自己修復作用が働くはずなんだが、穢れが回復を阻害してしまっている』
「穢れ……?」
『悪霊は黒い影に覆われているだろう? あれがそうだ。悪霊に傷を負わせられると、その傷口から穢れが流れ込んで正常な体の働きを阻害されてしまうんだ』
ルミナがアドルフさんの傷口を覆う黒い靄を指す。
「この、黒い靄みたいなやつ……?」
『そうだ。そうしてじわじわと体を蝕んでいき、やがて存在できないほど消耗して魂の消滅を迎える』
淡々と語られることにいてもたってもいられなくなって、アドルフさんの傷口に触れようと手を伸ばす。私に黒い影を吹き飛ばす力があるなら、この黒い靄も吹き飛ばせるんじゃないかと思った。
けれど、私の手首に巻きつけられたリストバンドは光を放つことも風を起こすこともなかった。代わりに、アドルフさんの弱々しい意志を感じた。弱すぎて何を思っているのかわからなかったけれど。
どうしよう。このままだとアドルフさんが消滅しちゃう。
「なんとか……なんとかならないの!?」
私の問いに、ルミナもシルヴィアさんも黙り込んでしまった。
『………………セゼの木……』
ややあって、ルミナがぽつりと呟いた。
聞き覚えのある単語にルミナの顔を見ると、彼は口元に手を当てて思い出すように言葉を続けた。
『あの聖なる木の根元なら、穢れも浄化できるかもしれん……』
セゼの木と言われて、以前ベルナ山で野宿した時にお世話になった白い木を思い出す。
そういえば、前に聖なる木って教えてもらった気がする。
一筋の光が見えて、私は勢いよく立ち上がった。
「本当!?」
「待ちなさい! セゼの木なんてこの辺には……」
立ち上がった私を制止するようにシルヴィアさんが立ち上がって――ぐらりとよろけた。踏みとどまることのできなかったシルヴィアさんの体は、そのまま膝をついて力なく地面に倒れた。
「シルヴィアさん!?」
一体どうしたのかと思ってシルヴィアさんのそばに膝をついて顔を覗きこんだ私は、あまりの顔色の悪さにはっと息をのんだ。
真っ青な顔で額には玉のような汗がにじんでいた。
苦しそうに肩を上下させるシルヴィアさんの様子に狼狽えていると、ルミナが思い至ったように口を開いた。
『穢れか!』
「穢れ!?」
言われて、シルヴィアさんも魔獣に怪我を負わされていたことを思い出す。
そうだ、腕のところを魔獣に引っかかれてた。
私は苦しそうにするシルヴィアさんの腕を取って、魔獣に引っかかれたところをあらわにした。
綺麗な白い腕に二本の爪の跡が赤く残っていた。すでに血は止まっていたけど、ぱっくり割れた傷跡が痛々しい。気になったのはその傷口だ。アドルフさんの傷口と同じように黒い靄が傷跡から漂っている。
「これ、人にも影響あるの!?」
『ある。人の方が影響は弱いが、なるべく早く穢れを祓った方がいいだろう』
「セゼの木の下に連れてけばいいの?」
『それでもいいが、セゼの実を食べさせた方が早い』
「セゼの実?」
『ああ。霊体だと食べられないから木の下で穢れを祓うしかないが、生きている人間ならば実を食べさせて、聖なる力を身の内に取り込んだ方がいい』
「それなら早く連れてってあげないと……!」
『だが、その肝心のセゼの木がこの辺に生えているかどうか……』
「え!? ベルナ山にはたくさん生えてたよね!?」
『あそこは特殊な山なんだ。他の場所ではそんなに生えているものではない』
「そんな……」
私は目の前で苦しそうに息をしているシルヴィアさんと俯せのまま動かないアドルフさんを見る。
二人がこうなってしまったのは私のせいだ。あの時、私が不用意に魔封じの封印なんか解かなければ……。
ぎゅっと手を握りしめる。
「私、探してくる……」
ふらりと立ち上がってよろよろと草むらに入っていくと、ルミナが慌てて追いかけてくる。
本当はルミナにアドルフさんとシルヴィアさんの様子を見ていてもらいたいところだけど、ルミナは私から十メートルほどしか離れることができない。
私が探しに行くとなると、ルミナも強制的に探しに行かざるを得なくなる。
『待て、リン! 探す当てもないのに、どこを探す気だ!』
「当てがなくったって! 探さなきゃ見つからないよ!」
何もしないで状況がよくなるわけでもない。早く何とかしなければ、アドルフさんもシルヴィアさんも危なくなる。
この状況を作り出してしまったのが私自身だと思うと、いてもたってもいられなかった。
ぼろりと涙が零れる。
泣きたいわけじゃない。泣いてる場合じゃないのに。
「絶対、何とかしなきゃ……」
自分に言い聞かせて気合を入れるように両頬をパンッと叩く。頬がじんと熱を帯びて頭がすっきりしてくる。
しっかりしなきゃ。
涙を拭って前を見据えた時、懐かしい声が聞こえてきた。
『キミが望むなら、ボクがセゼの木まで案内してあげるよ』
ふわりと風が巻き起こった。
まばたきの一瞬の隙に、目の前に薄い緑色のふわふわした髪をした小さな少女が姿を現した。その背中には透明な羽が四枚。
この世界に初めて来たときに色々お世話になった風の精霊――ラティスは、エメラルドのような瞳に笑みを浮かべて、あいさつ代わりに小さく手を振った。




