56 テト君のお母さん
シルヴィアさんの錫杖が振り下ろされるのと、私が黒い影の前に躍り出るのは同時だった。
『リン!!』
遠くにルミナの声が聞こえて、私は衝撃に備えて自分の頭を守るように腕を顔の前で交差させた。
シルヴィアさんの錫杖から放たれた眩い光が私に迫る。
来る! そう思った瞬間、私の両手から風が吹き荒れた。
「なっ!?」
「!?」
私もシルヴィアさんも目を閉じて風が治まるのをやり過ごした。
やがてシルヴィアさんの放った光と私の手から発せられた風が相殺して辺りに静寂が戻ると、シルヴィアさんは信じられないといった感じでぽかんと私を見ていた。
私も自分に起こったことがよく分からずに自分の両手に目を落とした。
風と言って思い出すのは風の加護だ。
また助けてくれたんだろうかと思っていると、向かい側からわなわなと唇を震わせたシルヴィアさんが声を上げた。
「バカ! なんてことしてくれたのよ!」
「ごめんなさ……」
『リン!!』
謝ろうとした私の言葉を遮って、血相を変えたルミナがこちらに手を伸ばしてくる。
「なに?」と言うより早く、背後から伸ばされた悪霊の手が私の背中に触れた。
どろりとした黒い泥のようなものに包まれるような感覚がして、意識が遠のいていく。
瞼をゆっくり閉じて泥のような感覚に身を任せてしまおうとした瞬間、『リン!!』とルミナにもう一度呼びかけられた。
頭の中に直接聞えたルミナの鋭い声に我に返った私は、思いっきり手を握りこんで爪を手のひらに食い込ませることでなんとか意識を持ち直した。
すると、背中に触れた黒い影から声が聞こえてきた。
『ドコ……ドコにイッテシマッタノ……?』
女の人の声だった。その声は繰り返す。
『テト……テト……どこ……ドコにイッテシマッタノ? ……テト……』
テト君を探してる。
やっぱりこの黒い影はテト君のお母さんだ。
触れた部分から、テト君のお母さんの気持ちと記憶が流れこんでくる。
ある日、遊びにでかけたまま帰ってこなくなってしまった一人息子のテト君のこと。
村中を探し回ったことやそれでも見つからなくて村の外まで探しに行ったこと。
日に日に探してくれる人も少なくなって、村の人にはもう諦めろと言われたこと。
それでも諦めきれなくて、毎日村の外を一人で探していたこと。
そうして探しに出た森の中で、魔獣に襲われてテト君のことを思いながら息絶えたこと。
ずっと心配で不安に押しつぶされそうで。でも、生きてると信じて探し続けていた孤独な母親の記憶に、私は堪えきれなくなって泣いてしまった。
悪霊になった今でも、テト君のお母さんはテト君が生きてると信じて探し続けてる。
でも、私はもうテト君が死んでしまっていることを知っている。
私はくるりと体を反転させて、黒い影になってしまったテト君のお母さんに向き直った。
この悲しい現実を伝えなければならないことが何より悲しい。
「おばさん……テト君は……テト君はもう……」
私の言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
黒い影はぶわり膨らんで、その言葉の先を拒むかのように私の口を塞いできた。
『ソンナコトナイ! ドウシテミンナ、ソンナコトヲイウノ!?』
「ぐ……」
い、息ができない。
「その子から離れなさい!」
錫杖を構えたシルヴィアさんがこちらに走ってくるのが見える。
しかし、悪霊から伸びた黒い影がシルヴィアさんに巻きついて、彼女の自由を奪った。
『くそっ! リン!』
苦悶に満ちた声に涙のにじむ目をルミナに向ければ、同じように助けてくれようとした彼も黒い影に捕らわれて身動きが取れなくなっている。
手足の自由を奪われたルミナがこちらを見て顔を歪めた。
苦しい。
息ができない。
口を塞ぐ黒い影を振り払いたいのに、私の手は黒い影をすり抜けてしまって掴むことすらできない。
酸欠で目が霞んできた。
私はじたばたと手を動かして、助けを求めるように無意識にまっすぐ前に手を伸ばしていた。
その指先がテト君のお母さんの胸のあたりに触れた瞬間、それは起こった。
凄まじい光と風が私の手首とテト君のお母さんの胸元から発せられた。
その光と風はテト君のお母さんを包むと、纏っていた黒い影を吹き飛ばした。
あまりの眩しさに目をつぶった私は、頭を守るように顔の前で腕を交差してその風に耐える。
やがて風がおさまってきたのを感じてうっすらと目を開けてみると、目の前にテト君と同じ茶色の髪を緩く結わえた女の人が立っていた。
顔立ちもどことなくテト君に似ている気がする。
きっとこの人がテト君のお母さんだ。
「あの……テト君のお母さん、ですか?」
様子を伺うように顔を覗き込んでみると、テト君のお母さんはきょとんとした顔で私を見返してきた。
どうやら黒い影が吹き飛ばされたことで、自我を取り戻すことができたらしい。
しっかりと意思のこもった目を向けられる。
『ええ、そうだけど……貴女は?』
「私、リンっていいます。テト君に頼まれて貴女を探していたんです」
『テト!? 貴女、あの子がどこにいるか知っているの!?』
掴みかかる勢いで詰め寄ってきたテト君のお母さんが、私をすり抜けた。
勢いあまってたたらを踏んだテト君のお母さんは、驚いたように自身の手と体に視線を落として、何かを思い出したように『ああ』と呟きをもらした。
『私、死んだのね……』
「…………」
『分かってるわ……ちゃんと死んだ時のことも覚えているもの』
今にも泣き出しそうな顔をしたテト君のお母さんに手を延ばすと、私の手首に巻き付いていたテト君のお守りを見つけて彼女は驚いたように目を見開いた。
『これ……! あの子の!!』
ふとその胸元を見ると、テト君のお母さんも同じお守りの袋を首からぶら下げていた。
さっき光と風が起こった時、私の手首とテト君のお母さんの胸元が光っていた。
もしかしたら、二つのお守りが合わさったことで何かが起きたのかもしれない。
「このお守り、テト君から預かってきたんです――――私たちと一緒に来てくれませんか?」
まっすぐ向き合って言うと、テト君のお母さんは何か覚悟を決めたように表情を引き締めて頷いてくれた。




