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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第二章「満月の男と走る委員会」
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第7話「身体が変われば、間合いも変わる」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 母さんとの通話は、たいてい背景がおかしい。


 今日は窓の外を氷山が流れていた。


『ハミン、右腕を真横へ。藍羽ちゃんは肩の先から中指まで測って』


「母さん。そこ、どこだ?」


『北のほう』


「氷山があるくらい北って、だいぶ北でしょ」


 オレの腕へ巻き尺を当てながら、藍羽が画面をのぞき込む。長い濃紺の髪の、青い毛先がオレの赤い編み髪へ触れた。


 母さんは白衣の襟を直した。画面が小さく揺れ、その後ろをオレンジ色の防寒服を着た人が、巨大なレンチを担いで走っていく。


 母さんは海外の研究施設や調査船を渡り歩き、薬剤や観測機器を設計し、壊れれば現地で直す研究者だ。普通の仕事だけでも、家へ戻れないくらい忙しい。


『質問は一度に一つ。いまは腕。場所はあと。零下二十八度だから、端末の電池がもったいないの』


「そこまで行けるなら日本にも来いよ!」


『行くには地球を半周する必要があるわね。はい、藍羽ちゃん、数字は?』


「肩から中指まで、六十二・四です」


『男の身体の時は六十八・一。五・七センチ短い』


「五・七」


 口に出してみると、やけに腹が立つ数字だった。


 たった五・七センチ。だが、拳が相手へ届くか届かないかには充分すぎる。オレはこの何週間か、その五・七センチぶんだけ空気を殴り続けていた。


 天道宗道場の板間には、巻き尺、体重計、呼吸量を測る筒、足跡を取るための紙が並んでいた。母さんが遠隔で指定し、藍羽が用意した。おっさんは十三重の円が描かれた道場の奥で、腕を組んでこちらを見ている。


 見ているだけだ。


「おっさんも手伝えよ」


「己の身体を知らぬ小僧へ、わしが数字を教えてどうする」


「巻き尺くらい持てるだろ」


「持てる」


「なら持て!」


 おっさんは大きくうなずいた。


 それでも持たなかった。


『次。足を肩幅に開いて、深く息を吸って』


 母さんの声に従い、オレは呼吸量を測る筒をくわえた。限界まで吸い、限界まで吐く。透明な目盛りの中を青い線が上がっていったが、男だった頃の記録よりかなり手前で止まった。


『肺活量はおよそ八割。胸郭が小さくなった影響ね。瞬間的な吸気は悪くないけれど、同じ呼吸法を同じ回数使えば先に酸欠になる』


「筋力は?」


『最大出力は男相の四十七パーセント。特に上半身が落ちている。ただし体重も軽い。普通の中学生の尺度なら、それでも計測上限を越えているわ。自分の身体を運ぶ力との比率は、あなたが思うほど悪くない』


「やっぱり半分も出てねえじゃないか」


『人間の体育記録を大差で塗り替えながら嘆く数字ではないけれどね』


 母さんは画面の隅へ二つの人型を出した。黒い線の長いほうが男のオレ、赤い線の小さいほうが今のオレだ。肩幅、骨盤の角度、脚と胴の比率、重心の位置に数字が並ぶ。


『骨盤の角度が変わって、立った時の重心は少し低い。脚は全体に短くなったけれど、身長に対する比率はほぼ同じ。手足の先が軽いから、回し始めるまでの時間は短くできる』


「じゃあ、どう動けば前と同じ強さに戻る?」


『それは私には分からない』


 答えが返ってくると思っていたぶん、オレは筒をくわえたまま固まった。


「母さんが?」


『私が』


「だいたい何でも分かるだろ」


『知っている身体の数値は出せる。知らない身体の使い方は出せない。新しい器の運動データを取れるのは、中にいるハミンだけよ』


 母さんは簡単なことみたいに言った。


『あなたは元へ戻る方法を待って、そのあいだ身体まで待たせている。でも身体は毎日、ちゃんと今日を生きているわ』


「説教か?」


『観測方針。説教は帰ってから直接する』


「帰ってこなくていいぞ!」


『寂しいと言ってくれて嬉しい』


「言ってねえ!」


 通信が一瞬乱れた。氷山の向こうで、空へ青白い光が走る。母さんはそちらを見て、急に研究者の顔になった。


『時間ね。最後に一つ。痛みやめまいが出たら止まること。男へ戻る日まで身体を壊さないこと。それから――』


 赤い髪の母さんが笑った。


『女の身体で覚えたことも、戻った時に消えはしないわ』


 画面が暗くなった。


 道場に沈黙が落ちる。


 藍羽が巻き尺を巻き取りながら言った。


「いいお母さんね」


「人の質問に答えないぞ」


「答えてたでしょ。自分で見つけなさいって」


「それを答えてないって言うんだ」


「じゃあ、見つけるのを手伝ってあげる」


 藍羽は巻き尺を箱へ放り、長い髪を高い位置で結んだ。


 その動作は知っている。


 勝負の始まりだ。


     *


「足を開きすぎ!」


 竹刀より容赦のない声が飛んだ。


「男の時はこれでちょうどよかった!」


「いまは違う!」


「分かってるから直してるんだろ!」


「口じゃなくて足を直しなさい!」


 藍羽の足が、オレの前足の内側を軽く払った。


 軽く、のはずだった。


 次の瞬間、オレは板間へ背中から落ちていた。


「ぐえっ」


「受け身まで前の幅で取るからよ」


 藍羽が見下ろしている。勝ち誇るというより、出来の悪い門下生を見る顔だ。


 最初に会った日、オレはこいつを数秒で倒した。藍羽は正しい型を正しく使う。だからこそ、型の外から入るオレの一発へ対応できなかった。


 けれど、身体の使い方を教える側へ回った藍羽は強かった。


「女子格闘では、相手も自分も男子より軽いことが多い。重さだけで押そうとしたら、軸をずらされた時に全部持っていかれる。腰を落とすんじゃなく、重心の真下へ足を置くの」


「落とすのと置くの、何が違う?」


「いま見せたでしょ」


「もう一回」


 起き上がる。


 また払われる。


 今度は尻から落ちた。


「もう一回」


「喜んでない?」


「ちょっとな」


 相手にできて、自分にできない動きがある。そう分かった瞬間は、腹が立つより先に胸が熱くなる。


 三回目。藍羽の爪先を見る。違う。爪先は結果だ。動きが始まるのは、もっと内側。息が細くなり、腰の中心がほんの少し横へ逃げる。


 足を払われる前に、オレは自分から軸を回した。


 前なら踏ん張った。いまは、押された方向へ逆らわない。


 小さな身体が、藍羽の腕の下をするりと抜ける。


「あっ」


 藍羽が振り返るより先に、その背中へ指を当てた。


「一本」


「まだ技の説明中!」


「勝負で待ってくれる相手はいないぞ」


「教わってる相手が威張らないで!」


 怒鳴りながらも、藍羽は笑っていた。


 オレも笑った。


 もう一度。今度は最初から打ち合う。


 藍羽の前蹴りを外へ流す。短くなった腕で遠くを取りにいかず、肘が曲がった距離へ潜る。以前なら大きく腰を回して拳へ重さを乗せたところを、肩と腰を小さく続けて回した。


 軽い。


 物足りない軽さじゃない。


 次の動きへ残せる軽さだ。


 右、左、半歩後ろ。藍羽が追う。オレは円の上を滑り、正面へ戻る。


「その歩き方……」


 藍羽の目が細くなった。


「どうだ?」


「まだ上半身が遅い。でも、前よりずっといい」


「名前をつけよう」


「もう?」


「名前があったほうが必殺技っぽい」


「そういう理由?」


 道場の軒先に、赤い燕が巣を作っていた。小さな影が一度沈み、次には梁の反対側へ移っている。


「紅燕歩(こうえんほ)」


 オレが言うと、藍羽は少し考えた。


「悪くない」


「だろ?」


「私が半分作ったんだからね」


「じゃあ、オレが完成させる」


「その前に私が破る」


 拳と拳を軽く合わせた。


 そこで終わりにはしなかった。


 母さんが端末へ残した計測機能を使い、道場の十三重円を何度も走った。藍羽が外側から布球を投げ、オレは円の中心を踏まずにかわす。右、左、後ろ。身体の向きを変えるたび、端末が短い音を鳴らした。


「男の時の記録より、最初の三歩は速い」


 藍羽が表示を読む。


「そのあとは?」


「七歩目で同じ。十二歩目から遅い」


「肺だな」


「たぶん。あと、大きく動こうとすると歩幅が足りなくて回数が増える」


「だったら大きく動かない」


 オレは外周を走るのをやめ、一つ内側の円へ入った。


 布球が右肩へ来る。半歩だけ退く。次は膝。足を引くんじゃなく、軸を回して外す。


 一歩ごとの距離を競うから、前の身体に負ける。


 一つの動きから、どれだけ早く次を始められるかなら、今日の身体にも勝ち方がある。


「もう一回!」


「ちょっと待って。呼吸、上がってる」


「まだいける」


「そう言って倒れたら、私がお母さんに怒られるの」


「母さん、遠くにいるぞ」


「だから映像で延々と怒られる。逃げ場がないでしょ」


 藍羽は布球を背中へ隠したまま、オレの胸元を見た。


「四つ吸って、六つ吐く。肩を上げない」


「格闘だけじゃなく呼吸も教えるのか?」


「女子の試合で、自分より重い相手と最後まで動くには必要なの。力で止められないなら、息を切らしたほうが負けるから」


 言われたとおり、四つで吸う。六つで吐く。


 喉の奥から、低い鼻歌が漏れた。


 んー、と音が伸びる。


 藍羽が次の球を投げる。音を切らさず、肩だけを回して避けた。


「いまの」


「どうした?」


「呼吸が見えなくなった。音は聞こえるのに、次に吸う場所が読めない」


「なら使える」


「すぐ勝負へ使うんだから」


「使えるものを使わないほうがおかしい」


 もう一度、円を走る。


 十二歩を越えても、さっきより速度が落ちなかった。


 端末の数字より先に、藍羽の顔が答えを教えた。悔しそうで、でも嬉しそうだ。


「その顔、いいな」


「どの顔よ」


「可愛い」


 布球が額へ当たった。


「勝負をごまかさないで!」


 秒殺した相手に教わるなんて、前のオレなら考えなかったかもしれない。


 でも、強いやつが持っているものを、負けたという理由で見ないほうがもったいない。


「藍羽」


「なに?」


「おまえ、やっぱ強いな」


 藍羽は一拍黙り、耳だけ赤くした。


「いまさら気づいたの?」


     *


 三度目の挑戦は、その日の夕方だった。


 おっさんは道場の中央に立っている。


 長い黒髪。胸まである黒い髭。紫の道衣。両手は空なのに、向かい合うと分厚い壁へ道を塞がれた気分になる。


「新しい足を覚えた」


「足は昔から二本ある」


「そういう意味じゃねえ」


「ならば、足に語らせい」


 おっさんの周りで空気が沈んだ。


 気を纏ったのだ。


 光の鎧が見えるわけじゃない。けれど畳の目が、おっさんの呼吸に合わせて起き伏せしているように見える。


 藍羽が端で正座し、右手を上げた。


「始め!」


 正面からは行かない。


 最初の挑戦で、オレは最短距離を踏んで胸へ掌を置かれた。何をされたか分からないまま床へ転がった。


 二度目は回り込んだ。軸足ごと刈られた。


 だから三度目は、回る方向を一つに決めない。


 右へ沈み、左へ抜ける。


 紅燕歩。


 小さな回転でおっさんの腕の外へ出た。拳を伸ばす。短い腕で届く距離まで、ちゃんと入っている。


 おっさんの髭が、拳の風で揺れた。


 届く。


 そう思った瞬間、床が横になった。


「――っ!」


 腕を取られた感触はない。おっさんはオレの肩へ指を二本添え、回転の中心を数センチずらしただけだ。


 受け身。すぐ起きる。


 足を置く。


 おっさんの踵が先にそこへあった。


 腹へ衝撃が入り、息が全部抜けた。後ろへ飛びながら足を畳へこすり、どうにか倒れず残る。


「まだ!」


 声と一緒に息を吸う。


 肺が小さい。分かっている。だから一度に全部を使わない。


 半分吸い、半分残す。


 紅燕歩で懐へ入る。おっさんの掌が落ちてくる。その手首へ触れて流し、軽くなった身体を回す。


 肘が、紫の道衣をかすった。


 布の感触があった。


 次には額を指で弾かれた。


 鐘を頭の中で鳴らされたみたいだった。視界が白くなる。膝が落ちる。


 立とうとしたが、畳が遠い。


「そこまで!」


 藍羽の声が飛んだ。


 負けた。


 まただ。


 だが、オレは畳へ頬をつけたまま笑った。


「触ったぞ」


「道衣へじゃ」


「道衣はおっさんが着てる」


「屁理屈を鍛えたか」


「紅燕歩だ」


 おっさんは髭を撫でた。褒めるのかと思ったが、太い指がオレの額へ伸びてきた。


 もう一度弾かれる。


「痛っ!」


「男へ戻れば勝てる、と思うておるうちは、わしには届かん」


 笑いが止まった。


「思ってねえ」


「ならばなぜ、満月までの日を数える」


 言い返せなかった。


 数えている。


 月が丸くなるまで、あと二十二日。


 男の身体なら腕が届く。肺も大きい。踏み込みも拳の重さも戻る。今日かすった一撃は、きっと当たる。


 そう思っていた。


「戻ることを望むなとは言わん」


 おっさんが背を向ける。


「じゃが、今日の己を、明日の己の出来損ないにするでない」


 道場の外で、夕方の風が赤い燕を運んでいった。


     *


 翌朝、星環学園の全校放送は、やけに明るい行進曲から始まった。


『今年度の体育祭は、中等部・高等部合同で開催します』


 教室が沸いた。


 合同体育祭。リレー、障害物競走、綱引き、部活動対抗競技。黒板へ貼られた競技希望表へ、一斉に人が集まる。


 体育係のひなたは、集まった希望を端から別の表へ写していた。歓声の中でも手は止まらない。


「ハミン、全部に丸をつけないで。一人二種目まで」


「五つあるのに?」


「五人に分かれられるなら出ていいよ」


「母さんなら装置を作れそうだな」


「作らせないでね。私は普通の体育祭がしたいから」


 ひなたはオレの丸を三つ消し、リレーと障害物競走だけ残した。何でもないやり取りなのに、競技の名前を見ているだけで足がむずむずする。


「ハミン、リレー出るでしょ?」


 藍羽が当然のように言った。


「出る。おまえもだろ」


「もちろん。今度は走って勝つ」


「いいな。じゃあ同じ組に――」


「その希望は受理できません」


 静かな声が、教室の入口から割り込んだ。


 時任が立っていた。


 柔らかそうな茶色の髪、白シャツ、緩めたネクタイ。腕には絶対運命補完委員会の腕章。隣には黒い和装の閑崎、その後ろには長い棒を肩へ担いだ先輩がいる。


「また委員会か」


「また規則違反候補です、ハミンさん」


 時任は薄い書類を開いた。


「旧天文塔付近の選闘反応が、体育祭準備の開始から四・七倍に増えています。中心値はあなたです」


「オレ、まだ何もしてないぞ」


「何かしてからでは遅いんです」


「時任先輩。ハミンを競技から外すんですか?」


 藍羽の声が低くなる。


「危険を排除するのではありません。見える位置へ置きます。委員会警備へ参加してもらう予定です」


「勝手に予定へ入れるな」


 オレは席を立った。


 時任は逃げなかった。戦うのが得意じゃないのは、立ち方を見れば分かる。重心が高い。拳に固い跡もない。


 だが、腕時計へ置いた指だけは、まったく震えていなかった。


「なら、選んでもらいます」


「何を?」


「通常競技へ出るか、委員会警備へ入るか。選闘で」


 時任の書類には最初、『体育祭終了まで』と書かれていた。閑崎が黒い袖でその行を隠し、声を落とす。


「その期間は、一般へ示している範囲を越えます」


 時任は一瞬だけ黙り、文字を二本線で消した。代わりに『次回準備日・警備一回』と書く。先輩は何も聞かなかった。三人とも、消された条件が存在してはいけないものみたいに目をそらした。


 先輩が口笛を吹いた。


「蓮が自分から戦うとは珍しいな」


「西能寺先輩は黙っていてください」


 時任の指が、銀色の時計の竜頭を押す。


 ちり、と小さな音がした。


 オレは笑った。


「面白い時計だな」


「便利ではあります」


「強いのか?」


「僕は強くありません」


 時任は正直に言った。


「だから、勝てる時間だけを使います」


 教室の時計の秒針が、一拍だけ遅れた。


 その時、オレはいつの間にか鼻歌を鳴らしていた。


 低い一音。


 時任が、自分の時計とオレを交互に見た。


 閑崎の鈴が、誰も触れていないのに一度だけ鳴った。


 次の秒、教室の時計は何事もなかったように進み始めた。


「明日の放課後、選塔で」


 時任はそう告げた。


 オレは拳を鳴らす。


「待ちきれないな」

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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