第6話「月がオレを思い出す」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
日本へ来て、一週間が経った。
戻る期限に近づいたわけじゃない。ハヨンの薬は、もともと留学中ずっと効く予定だった。しかも作用先が身体相へ逃げてからは、どの数値を終点と呼べばいいかさえ分からない。
ハヨンは崑崙の重なり谷から、到着後ずっと一秒ごとに計測値を送ってきた。
『長期徐放担体、循環継続』
『留学期間維持用指向式、脳への作用なし』
『予定外相転換、気脈へ定着』
『女体相、継続』
『自然復帰時期、算出不能』
最後の一行だけ、何度測っても変わらない。
「つまり、担体と式は予定どおり長く残ってる。恋愛対象は変わらない。身体だけ、いつ戻るか分からないってことか」
道場の客間で端末へ話す。
画面の向こうのハヨンは、研究棟の机を計測器で埋めていた。丸眼鏡には何枚ものグラフが映っている。
「正確。身体相へ逃げた時点で、通常の代謝計算は使えない。さらに外部から女体相を保持する場がある可能性――」
「簡単に」
「分からない」
ハヨンはその三文字を、ひどく言いにくそうに口にした。
天才ほど「分からない」が嫌いらしい。
母さんとは、出国二日目の夜にようやく通信がつながった。最初の映像を開いたあと、五秒も黙った母さんを見たのは初めてだった。痛みがないかを確認し、ハヨンへの説教は帰宅後に直接すると告げ、今は海上施設から解析へ加わっている。
「母さんは?」
「追加解析中。未知応答が来日後に増えてる。でも、場所までは絞れない」
「学校か道場だろ。十三の線が出たのはそこだけだ」
「お兄ちゃんに先に言われた」
「オレもたまには考える」
「たまに」
「切るぞ」
「待って」
ハヨンの手が、赤いリボンへ伸びた。
「お兄ちゃん。戻らないかもしれない」
「聞いた」
「怖くないの」
「怖くないって言ったら嘘だ」
小さな手を開く。手相も爪の形も、昨日より見慣れた。見慣れること自体が少し怖い。
「でも、戻るかどうか考えてるだけで一日終わるほうが嫌だ。学校も稽古もある」
「私が必ず――」
「必ずって言うな」
思ったより強い声が出た。
ハヨンが黙る。
「母さんも断言しなかった。分からないなら、分からないって言え。その代わり、調べてくれ」
「……分かった」
「それから、次に何か試す時は先に聞け」
「分かってる」
「本当に?」
「同じ失敗はしない」
「違う失敗ならするんだな」
「研究に失敗は必要」
少しだけ、いつものハヨンへ戻った。
「三十七時間後に第二報を出す」
「また三十七?」
「今度は根拠がある」
「前はなかったのかよ」
通信が切れた。
端末には最後に、次の観測推奨時刻が表示されていた。
『満月。月の出、午後六時四十二分』
母さんは、家の気脈と月相の反応を疑っていた。
満月までは、あと九日。
端末がもう一度鳴った。
表示されたのは、ミンジュ、ソラ、ユリ。三人同時の映像通話だった。
「ちょうどよかった。オレも連絡しようと――」
通話を開く。
三つに割れた画面で、三人の顔が同時に固まった。
『誰?』
「オレだ。ハミン」
『ハミンの端末だよね?』
「だから本人だ。朝起きたら女の身体になってた」
沈黙。
次に、三人は一斉に画面の外をのぞいた。
『ハミンを出して』
「出てるだろ!」
『日本でできた彼女?』
「違う!」
説明しても、信じる気配がない。
「ミンジュは右から打ち込む前に柄を三回握る。ソラは最後の坂だけ呼吸を四歩から三歩へ変える。ユリの新しいサーブはトスが前へ流れすぎだ。これで分かるだろ」
三人が黙った。
やっと通じたと思った。
『……ハミン、その子に私たちの癖まで話したんだ』
『一週間も連絡しないで?』
『最低』
「なんでそうなる!」
ミンジュが画面へ顔を近づけた。
『ハミンに伝えて。私、もう待たないから』
『私も』
『わたしも!』
「待て! 何を待ってたんだ!」
返事より先に、三つの画面が同時に暗くなった。
恋愛対象は変わっていない。
なのにオレは、付き合ってもいない三人からまとめて振られたらしい。
*
九日あれば、学校の自分の席へ消しゴムのかすが溜まり、道場の茶碗の場所を覚え、藍羽へ十三回負けずに勝つことができた。
ただし、藍羽との勝負はどんどん長くなった。
四戦目は一分。
八戦目は三分。
十二戦目には、オレが一本を取る一呼吸前、藍羽の拳が初めて頬へきれいに入った。
首をひねって威力を流す余裕は残っていた。十三戦の勝ちは全部オレのまま。それでも、普通の人間の拳が道士の呼吸へ初めて届いた。
床へ片手をついたまま笑う。
「今の、いいな!」
「当てられた人の言い方じゃない!」
藍羽はそう言いながら、誰より嬉しそうだった。
「呼吸を変えたのか?」
「最初の二歩は型どおり。三歩目だけ吐いた」
「オレが吸うと思った瞬間に入れ替えたんだな」
「毎日相手してたら、それくらい分かる」
道場の端で、おっさんが髭を撫でた。
「小僧の気を己の力へ足したのではないぞ。内を深く通す道士の巡りを鏡にして、幼い頃から積んだおぬしの纏気が、型の外でもつながり始めたのじゃ」
「じゃあ、私が強くなった」
「それは間違っておらん」
オレは頬をさすりながら立つ。
「でも、まだ一本はやらねえ」
「次は取る」
「いいライバルだな、藍羽」
「当たり前でしょ」
耳が赤くなったのは、稽古の熱のせいだと思う。
学校では、ひなたが身体の事情より小テストや新メニューの話をした。勝負も血縁も関係なく、同じ机でくだらない話のできる、日本で最初の普通の友達だった。
委員会との距離は、友達より遠く、敵より近い。時任は予定を確認し、閑崎は腕輪の波形を写し、先輩は「監視」を口実に昼食へ来る。赤い印のない手で食券を選ぶたび、たった一食の自由も前よりはっきり感じた。
*
満月の前日、オレはおっさんへ二度目の挑戦を申し込んだ。
「まだ早い」
おっさんは庭で大根を干しながら言った。
「やってみないと分からない」
「分からぬうちは早い」
「昨日よりは分かってる」
「昨日より分かった者は、明日まで待てる」
「おっさん、逃げるのか?」
おっさんの太い眉が動いた。
藍羽が廊下の柱へ額をつける。
「父さんにその挑発、効くの?」
「効かせる」
「よかろう」
「効いた!」
「ただし」
おっさんは干した大根を一本、オレへ投げた。
反射的につかむ。
「それを折らずに一本取れ」
「なんで大根?」
「夕餉のおかずじゃ」
「折ったら?」
「漬物が減る」
大事だった。
板間の十三重円へ向かう。藍羽が審判役に入った。
前回は三秒。
今日は、それ以上立つ。
大根を左手へ持ち、右を前に構える。おっさんは両腕を下げた自然体。紫の道衣の表面で、気が熱の揺らぎになっている。
「始め!」
藍羽の合図。
オレは動かない。
前回は正面から飛び込んだ。相手の気の流れも、今の身体の距離も分からないまま。
おっさんは待っている。
いや、待っているように見せて、呼吸でこちらを誘っている。
吸う。
全身の気が薄くなる。
そこだ。
右へ踏み、正面を外す。先輩戦で使った小さな回転。腕で受けず、おっさんの肩を軸に裏へ回る。
速く回れた。
背中が見える。
大根を折らないよう胸へ抱え、右の掌底を肩甲骨へ――。
床が消えた。
そう感じた。
おっさんは振り向いていない。後ろ足を半歩引き、オレの回転の中心へ踵を置いただけだ。
軸にするはずの場所を奪われた。
勢いを逃がせず、身体が外へ飛ぶ。
片手で受け身を取る。大根を守ったせいで肩へ衝撃が集中した。
「一本!」と藍羽。
「まだ打たれてない!」
「場外!」
見ると、十三重円から両足が出ていた。
時間は?
壁時計の秒針を確認する。
「五秒」
「二秒伸びた!」
「喜ぶところ?」と藍羽が言う。
「前回の倍近い」
「低すぎる倍ね」
おっさんは円の中で髭を撫でた。
「回転は覚えた。じゃが、軸を相手へ預けておる」
「背中に回るなら、相手を軸にしたほうが速いだろ」
「速い。ゆえに、相手が一歩動けばおぬしの道も消える」
「じゃあ、どうする」
「自分で選べ」
「それを教えるのが師匠だろ」
「答えを奪うのは師ではない」
おっさんは大根を指した。
「折れてはおらぬ。今日は漬物が食える」
「そこは褒めるのか」
「大事じゃ」
夕飯のあと、藍羽が縁側へ来た。
「父さんの言い方じゃ分からないでしょ」
「半分くらい」
「ほとんど分かってるじゃない」
藍羽は庭へ降り、構えた。
「さっきの回転、もう一度やって」
向かい合う。オレが肩へ触れ、藍羽を軸に回る。藍羽は途中で足を引いた。さっきと同じように身体が流れる。
「ほら。最初から右足の爪先が外を向いてる」
「回る準備だ」
「準備が相手に見えてる。それに、昔の歩幅へ戻そうとして最後だけ大きくなる。今の脚なら、半歩でいい」
藍羽がオレの前足を軽く蹴り、角度を内側へ直した。
「自分の足の下に軸を置く。相手が動いても、最後の半歩は自分で選べるように」
「できるのか?」
「女子格闘では、体格が大きい相手を軸にしすぎたら振り回される。私のほうが知ってる」
秒殺された相手の顔じゃない。
オレが知らない身体の戦い方を、藍羽は知っている。
「藍羽、すげえな」
「いまさら?」
「最初から強いと思ってた。でも、教えるのもうまい」
「そ、そう」
藍羽は髪を結び直すふりで顔をそむけた。
「もう一回やるよ。今度は足を引いても流されないで」
「何回でも」
月が屋根の上へ出るまで、同じ回転を繰り返した。
*
満月の日。
学校では朝から落ち着かなかった。ハヨンの予測が外れ、何も起きなかった時を考えると、期待するほど胸が重くなる。
「今日、ずっと窓見てるね」
ひなたへ、今夜は身体が戻るかもしれないと話した。「同じハミンがどう見えるか確かめたい」と笑われ、見世物じゃないと返した。変に心配されるより、その好奇心のほうが楽だった。
その会話を、後ろの藍羽が聞いていた。
「学校は休んだほうがいいと思う」
「なんで?」
「月の出からどうなるか分からないでしょ。緋天衣が身体相へどう合わせるかも、気脈が乱れないかも分からない。保健室で変わるより道場のほうがいい」
「一理ある」
前の身体なら「見れば分かる」で済ませただろう。今は、分からない状態で走ると何へぶつかるかを少し学んだ。
担任へ午後からの早退を伝える。学校側には母さんの連絡があり、すぐ許可が出た。
廊下で先輩へ早退の理由を話すと、「戻っても戻らなくても連絡をくれ」と言われた。監視かと聞けば、半分は心配だと笑う。道場へ見に行こうとして時任に襟をつかまれたので、残り半分まで聞かなくても分かった。
*
午後六時二十七分。
月の出まで十五分。
道場の庭で、喉の奥へ低い音が混じり始めた。
いつもの鼻歌より、さらに下からもう一つの音が重なる。
手を伸ばす。
指先の位置が揺れて見えた。今の短い腕と、前の長い腕が、透明な影になって重なる。足の裏では、地面までの距離が伸びたり縮んだりしている。
藍羽が少し離れて立っていた。
おっさんは縁側で腕を組む。画面の中にはハヨン。母さんも海上施設から通信をつないでいる。
「心拍、上昇。気脈位相、二重化」
ハヨンが早口で言う。
「お兄ちゃん、苦しくない?」
「変な感じはする。痛くはない」
「無理に気を回さないで。自然な呼吸を維持」
「鼻歌は?」
「止めないで。波形が安定してる」
オレは低く鼻歌を続けた。
庭の向こう、屋根の間から満月が上がる。
雲が少しかかっていた。それでも身体の奥へ、借り物の光が触れた。
足元で、今の短い影と、前の身体の長い影が一瞬だけ二つに分かれた。
一度、心臓が強く鳴る。
視界が高くなった。
手が大きくなる。肩の位置が広がる。脚の骨が遠くへ伸び、足裏へ乗る重さが変わる。赤い髪は根元から濃い色へ移り、黒に近い紫になる。一本の三つ編みはほどけず、同じ低い位置のまま背中へ長く落ちた。
緋天衣も、身体を追って変わる。
朱赤の上着が肩と腕へ沿って広がり、夜みたいな黒へ変わった。黒いズボンは色を変えず、裾だけが伸びて足首へぴたりと止まる。引きつれも、破れる音もない。十四年間、男のオレへ合わせていた形へ戻っただけだ。
息を吐く。
「戻った」
自分の声だった。
ここ数週間、頭の中で聞いていた声じゃない。喉から出る、前の声。
拳を握る。
力が、知っている場所へ集まる。
庭を一歩走った。
歩幅が合う。
二歩目で跳ぶ。屋根の高さまで身体が上がり、着地した場所も思ったとおりだ。
「これだ!」
笑いが止まらなかった。
手足が遠くない。近すぎもしない。十四年かけて覚えた身体の地図が、全部、現実へ重なる。
「お兄ちゃん、止まって! 計測が――」
「あとで!」
オレはおっさんの前へ立った。
「おっさん。やろうぜ」
「断る」
「なんでだよ!」
「今のおぬしは、自分の身体へ酔うておる」
「酔ってない。戻っただけだ」
「では一歩、わしへ打ってみよ」
「勝負か?」
「確認じゃ」
右拳を構える。
届く距離が分かる。
おっさんの胸へ、最短で踏み込んだ。
世界が斜めになった。
「え?」
右足が思った位置へ着いていない。
拳はおっさんの肩の横を抜け、身体が前へ流れた。おっさんは触れてさえいない。
膝を床へつく。
気脈の中で、二つの呼吸がぶつかっていた。
男の身体の歩幅は分かる。だが、ここ数週間、女の身体で覚え始めた短い半歩が途中へ混ざる。頭は長い距離、足は短い距離を選び、どちらにも乗り切れない。
「相が戻っても、流れはすぐ戻らぬ」
おっさんが言う。
「今、わしがおぬしに勝っても、女の身体を否定したことにはならぬ。おぬしが勝っても、男の身体に勝たせてもらっただけじゃ」
「でも、この身体なら前より強い」
「力はある。間合いも知っておる。ゆえに、身体の勢いへ任せれば勝てると思う」
「思ってない」
「なら、なぜ最初に走った」
答えられなかった。
戻れた嬉しさで、確認もせず飛び出した。
昨日、女の身体で自分の軸を相手へ預けたのと同じだ。今度は、男の身体へ全部を預けようとした。
「今夜は勝負を受けぬ」
おっさんの声は厳しかった。
「次の満月まで、自分の二つの足で歩け。その時、どちらの身体に勝たせるでもなく、おぬしが戦え」
「一か月も待つのか」
「待つことも選択じゃ」
悔しい。
目の前に、前の身体がある。おっさんもいる。戦わない理由だけが正しい。
「……分かった」
言うと、おっさんは初めてうなずいた。
「それでよい、小僧」
オレは庭へ座り込んだ。
画面の向こうでハヨンが泣きそうな顔をしていた。
「お兄ちゃん、本当に戻った」
「見れば分かる」
「予定外の相転換触媒はゼロなのに、女の身体相が現在側の基準に残ってる。留学中だけ残る指向式とは別の外部場が固定してる可能性がある。満月だけ出生相を照合し直して――」
「難しい」
「私にもまだ難しい」
「じゃあ、分かってから教えろ」
母さんが画面の端で笑った。
「いいデータが取れたわ。ハミン、戻れてよかった」
「母さんでも分からない?」
「分からないことが一つ減った。満月に基準へ戻る。それ以外はまだ分からない」
「次も戻る?」
「可能性は高い。でも約束はしない」
「それでいい」
*
通信を切ったあと、藍羽がまだ庭にいた。
さっきから、オレをじっと見ている。
「どうした?」
「本当に男の子だったんだなって」
「だから言っただろ」
「頭では信じてた。でも、全然違うから」
藍羽の目線が、黒紫の髪、広くなった肩、長い手足を順に測る。
「怖いか?」
「どうして?」
「急に別人みたいだろ」
「見た目はね」
藍羽は近づき、オレの額を指で弾いた。
「痛っ」
「戻ってすぐ父さんへ勝負を挑んで、止められて、悔しそうに座る。中身は同じ馬鹿」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「本当に馬鹿だと思ってる」
藍羽は笑った。
その笑い方も、いつもと同じだった。
「学校のみんなには話す?」
「ひなたには戻る可能性を話した。先輩たちは変化の事情までだ」
「委員会へ、満月で戻ることまでは伝えてないでしょ」
「そこまでは言ってない」
「隠したいわけじゃない」
「恥だからじゃない。身体と塔が関係してるなら、仕組みが分かるまで見せる相手を選んで」
倉庫の紙に出た赤い文字を思い出す。
『双相、観測一回』
「次からは、学校を休む」
「月例の体調不良として?」
「嘘じゃない。変わる前後は本当に体調が変だ」
「主要な人には、ちゃんと自分で話してね」
「分かってる」
別人を演じるつもりはない。だが、何が見ているのか分かるまでは、相手も自分で決める。
「藍羽」
「なに?」
「少しだけ稽古しようぜ。勝負じゃなく、身体を確かめる」
「父さんに止められたでしょ」
「本気ではやらない。歩くだけ」
「本当に?」
「本当」
「三分だけ」
藍羽が庭へ線を引いた。
男の身体で、女の身体の半歩を使う。
最初は足が絡んだ。二度目は膝が合わない。三度目、藍羽の肩を軸にせず、自分の足の下へ小さな円を置く。
回れた。
「今の!」
「できたな」
「もう一回」
「三分過ぎるよ」
「あと一回」
結局、おっさんに止められるまで続けた。
勝負はしなかった。
次に勝つための歩き方だけを選んだ。
*
月が沈む前、オレは客間の鏡の前に座っていた。
十五分前。
鼻歌へまた倍音が混じる。
今度は逆だ。
遠くへ伸びていた手足の感覚が近づき、目線が下がる。肩が狭くなり、黒紫の一本の三つ編みが赤へ変わる。緋天衣も身体を追い、上着は黒から明るい朱赤へ戻っていく。黒いズボンは色を変えず、今の脚へ合わせて縮んだ。
夜明けの薄い光の中、鏡には赤い髪の女の子がいた。
男の顔を忘れるわけはない。それでも、一か月後まで見られないと思うと寂しかった。「おかえり」も「ただいま」も、どちらもオレには少し変だ。行き来する身体に合う言葉だけが、まだ見つからない。
廊下へ出ると、藍羽が壁にもたれて眠っていた。見届けるつもりで待っていたらしい。
「藍羽」
肩を揺らす。
「ん……戻った?」
「ああ」
藍羽は目を開け、赤い三つ編みを確認した。
「こっちもハミンね」
「当たり前だ」
「なら、朝稽古できる」
「寝ろよ」
「一回だけ」
「おまえも大概だな」
庭へ出る。
満月は西の屋根へ沈みかけ、朝日が反対側から昇っている。
女の身体の足で、昨夜覚えた半歩を試した。
男の時よりきれいに回れた。
嬉しくて、鼻歌が漏れる。
道場の床下から返る音は、オレの呼吸に合わせてわずかに揺れていた。
学校の塔で聞く、まっすぐすぎる音とは違う。
その違いを、まだ言葉にはできなかった。
*
この春、オレには三つの場所ができた。負けても飯と次の勝負が待つ道場。ひなたと机を並べ、藍羽に再戦を迫られる学園。敵か味方か分からない委員会。
どこにもまだ、家のこと、満月のこと、十三の輪と鏡の女のことを全部は話していない。話さないことは嘘と同じじゃない。だが、選ばず置いたものは、いつか自分で選ばなければならない。
その時のオレは、次の満月におっさんへ勝つことばかり考えていた。
空の上より広い屋上が、オレの月を数えているなんて知らなかった。
*
幕間・目黒教授
旧天文塔の最上階。
誰もいない観測室で、月齢表がひとりでに開いた。
赤いペン先が、満月の日へ小さな円をつける。
紫のスーツの袖から伸びた手が、余白へ文字を書いた。
『帰還枝、実現』
その下には、先日の記録がある。
『双相、観測一回』
目黒教授はペンを置いた。
「よく帰ってきたね、ハミンくん」
机上の鏡へ、一瞬だけ長い黒髪が映った。
女は目黒教授ではなく、その横の空いた椅子へ微笑みかけた。間違いに気づいたように視線を直した時には、もう輪郭が薄れていた。
目黒教授が顔を上げた時には、鏡には満月しか残っていなかった。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




