第5話「猿とオレと、うるさい棒」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
朝の井戸水は、頭の中まで冷たかった。
顔を拭いて裏庭へ出ると、悟空が棒を立てて待っていた。木の枝を削ったような棒だ。飾りはなく、握るところだけ色が濃い。
「遅い」
「まだ日が出たばかりだぞ」
「おれは出る前からいた」
「じゃあ、太陽が遅かったんだろ」
悟空が笑う。
オレは上着の留め具へ手をやった。緋天衣は身体へ合っている。袖も、裾も、動く時に邪魔にならない。一本の三つ編みを背中へ払い、右足を少し引く。
庭の広さは、道場より狭い。
左に井戸。右に薪の山。奥に壁。後ろには、まだ眠っている客の部屋がある。
壊せるものが多すぎる。
「壁へ当てたほうが負け」
オレが言う。
「おまえが当たったら?」
「オレの負け」
「分かった」
悟空は棒を横にした。
初めて会った時と、同じ立ち方だった。かかとが軽い。どちらへも動ける。だが、肩は昨日より下がっている。薪を割る時とは違う構えだ。
オレは右手を少し前へ出した。
悟空が来る。
棒の先が、まっすぐ胸へ伸びた。
掌で横へ流す。硬い木の感触。引き戻すと思った棒が、途中で回った。反対の端が脇腹へ来る。
膝を落とす。
頭の上で、風が鳴った。
オレは前へ踏み、棒を握る手首へ拳を伸ばす。悟空は棒から片手を離した。空いた手がオレの肘を押し、身体を斜めにねじる。
近い。
昨日の妖怪なら、この距離で足が止まった。
悟空は止まらない。
オレの脛へ、足の裏が当たった。軽い。蹴り倒すためではなく、次に踏む場所をずらしている。
右へ流れた身体を、左足で受ける。
その前へ、棒が一本置かれた。
跳ぶ。
着地の場所を読まれた。悟空の足が先にある。オレは空中で腰を返し、片手を地面へついた。低く回って、相手の足を払う。
悟空は、棒を支えに浮いた。
足が、空を切った。
二人とも、半歩離れる。
息はまだ乱れていない。
オレの頬だけが、勝手に上がった。
「いいな」
「おまえもな」
声が、今度は同時だった。
*
次は、オレから行った。
拳を顔へ見せ、途中で沈む。赤い袖が目の端へ入る瞬間に、膝を曲げる。紅燕歩。背を低く回し、棒の下へ身体を滑らせた。
悟空が、後ろへ跳ぶ。
追う。
三歩目で止まるふりをして、足の指で土をつかんだ。重さを前へ落とす。肘が、相手の胸の前へ届く。
棒が、縦になった。
肘と木がぶつかる。
重い。
悟空は受け止めたのではなく、棒の下を地面へついていた。オレの力が、土へ抜ける。押し続ければ、こちらの肩が詰まる。
力を引く。
引いた分だけ、相手の棒が前へ出た。
「うおっ!」
首を倒す。鼻の前を先端が通る。その下で、悟空の拳が腹へ来た。オレは左腕で受け、右足を相手の足の外へ置く。
投げられる。
そう思った瞬間、悟空が自分から低く沈んだ。
重心が消える。
消えたわけではない。オレが持ち上げようとした場所から、別のところへ移っただけだ。だが、腕に掛かっていた重さが抜ける感覚は、かなり嫌だった。
オレは足を止めず、悟空の背中を越えた。
その先に、井戸があった。
まずい。
石の縁に足を置き、向きを変える。水桶を蹴らないよう膝を上げた。身体が浮いた分、着地が遅れる。
悟空の棒が、こちらを向いた。
間に合うか。
「そこは、こうだ!」
横から、別の棒が入った。
先輩だった。
雷綴と木の棒がぶつかる。悟空が腕を引き、先輩が半歩進む。オレは二人の間へ着地し、ほとんど同時に飛び退いた。
「邪魔すんな!」
「見ていたら、入りたくなった!」
「見てろよ!」
悟空が、声を出して笑った。
「こっちのほうが、うるせえな!」
「棒の使い方なら負けん!」
先輩の棒が唸る。
悟空の棒が、その内側へ入る。
木と金属が、速い音を重ねた。先輩は長い間合いから押し、悟空は短く持ち替えて潜る。似た武器なのに、身体の使い方が違う。
オレは二人の足を見た。
先輩の右足が、少し内側を向く。
悟空の左足が、そこへ入ろうとする。
その間なら、オレも入れる。
もう一度、前へ出た。
「今度はおまえが邪魔だ!」
悟空の声に、オレは笑った。
邪魔をされる気分が、よく分かったらしい。
先輩が雷綴の中ほどを握り、両端を短く見せた。
長い棒を、狭い庭で扱う構えだ。右へ振れば悟空、左へ返せばオレがいる。二人へ同時に届くわけではないが、先輩は身体の向きを変えず、手の位置だけで狙いを替えてくる。
オレは棒を受けない。
一歩外へ回る。
そこへ悟空が来た。
目が合う。
二人とも、相手をどかすより先に笑った。
「あいつから、止めるか」
オレが言う。
「賛成」
「相談が聞こえているぞ!」
先輩の棒が、低く走った。
悟空が跳び、オレは逆に沈む。上と下へ分かれれば、先輩はどちらかを選ぶ。棒の先が上がる。悟空を選んだ。
オレは足元へ滑り込んだ。
先輩の膝が、そこへ来た。
「脚もある!」
「知ってる!」
前腕で受け、勢いを横へ流す。先輩の足が一瞬だけ地面を離れる。その間に悟空が、肩越しへ棒を掛けた。
後ろへ引く。
オレは足を押す。
先輩は、倒れなかった。
雷綴を地面へ突き、三本目の脚にした。土が少し沈み、銀の文字が朝日に光る。電気は出ていない。普通の一本の棒として、二人の重さを受け止めていた。
「ずるいぞ!」
悟空が言った。
「二人掛かりに言われたくない!」
正しい。
オレは笑いながら手を離した。先輩の身体が前へ戻る。その瞬間、悟空が棒を下へずらした。
足首を狙う。
先輩が跳ねる。
オレは空いた場所へ肩を入れた。
持ち上げるのではなく、着地する向きを少し変える。大きな相手ほど、足の置き場をずらすだけで困る。先輩の顔から、一瞬だけ笑いが消えた。
「おっと!」
着地した先に、薪が一本転がっていた。
先輩は踏み潰さず、靴底で転がす。そのまま片足で回り、雷綴の端をオレの肩へ当てた。
強くはない。
だが、きれいに入った。
「一本!」
先輩が言う。
「まだ倒れてねえ!」
オレが言い返すと、悟空が横からオレの肩へ棒を置いた。
「二本」
「おまえ、さっきまで味方だっただろ!」
「さっきまでだな」
ひどい猿だった。
オレは棒を脇へ挟み、悟空のほうへ身体を寄せる。近い距離では、武器を大きく振れない。悟空は手を緩めて棒を滑らせ、端だけを残して持ち直した。
その指が速い。
握っていない瞬間が、ほとんど見えない。
オレは膝で棒を押さえ、掌を悟空の胸の前へ止めた。
同時に、悟空の足の裏がオレの腹の前で止まる。
二人とも、あと少しで届く。
どちらが先だったかは、分からなかった。
先輩が、二人の肩へ棒を渡した。
「これで三人、引き分けだ!」
「おまえが決めるな!」
今度は、オレと悟空が同時に叫んだ。
戸口で、誰かが小さく笑った。
チャオだった。
眠そうな目をしていたが、肩から力が抜けている。悟空が一瞬そちらを見て、口を開きかけた。その足元へ、先輩の棒が下りる。
「脇見は――」
悟空が反射で払う。
先輩が受ける。
二本の棒が、さっきまでとは違う高さで交差した。
*
最初に壊れかけたのは、井戸の桶だった。
誰の棒が当たったのかは分からない。たぶん先輩のほうだ。オレの足だった可能性も、少しある。
桶が空へ飛ぶ。
三人とも動きを止めた。
落ちる。
悟空の棒が、下へ入る。先輩の棒が、反対側を支える。オレは二本の間から手を伸ばし、取っ手をつかんだ。
水が、全部こぼれた。
三人とも、濡れた。
「勝負、終わり!」
藍羽の声が来た。
振り向くと、戸口に全員がいた。ひなたは顔へ手を当て、蓮は雑巾を持ち、鈴華はすでに店主へ頭を下げている。
ハヨンだけが、少し楽しそうだった。
「朝から、いい音してたね」
「見てたのか」
「途中から。桶を飛ばしたところが一番そろってた」
三人とも、答えなかった。
三蔵が庭へ出てきた。眠そうな顔で、悟空の頭を見る。
「おまえは、朝から騒ぎを起こしおって」
「おれだけじゃねえだろ」
「その返事も、いつも同じじゃ」
三蔵が口の中で何か唱えた。
悟空の顔が変わった。
棒が落ちる。
両手で頭を押さえ、片膝をついた。
「おい!」
オレは三蔵の前へ出た。
「何した!」
三蔵が言葉を切る。
悟空の肩が、ゆっくり下がった。金の輪の縁が、朝日と関係のない色で光っていた。
「叱っただけじゃ」
「言葉で叱れよ!」
オレの声が大きくなった。
三蔵が、口を閉じる。
悟空は額へ手を当てたまま、もういいと言った。けれど、すぐには立たなかった。チャオが駆け寄り、隣へ膝をつく。
先輩は雷綴を下ろした。
さっきまで、勝負の続きをしたがっていた空気が消えている。
ハヨンが、悟空の正面へしゃがんだ。
「その輪、いつから?」
「少し前からだ」
「触らない。見るだけ」
一度だけ、輪の縁へ目を近づける。銀髪が頬へ落ちた。ハヨンはそれを払わず、短く息を吸った。
「法宝だ」
オレは、輪を見た。
いまなら分かる。金属の光の奥に、気の道がある。雷綴にも、緋天衣にもある、あの細い流れだ。見慣れた形ではないので、ただの輪だと思い込んでいた。
「本の中にも、同じものがあるのか」
「同じ。呼び方が違うだけかもしれない」
ハヨンは立ち上がった。
「それと、この輪は誰かを持ち主として結んでる。誰なのかまでは見えない。分かるのは、そこまで。輪の結び方を知らずにいじったら、かえって締まる」
悟空が、ようやく顔を上げた。
「外せるのかと思った」
「簡単なら、もう外してる」
妹の返事は短かった。
けれど、悟空は少しだけうなずいた。できないことを、できるような顔で言われるよりはよかったのだろう。
*
朝飯は、静かに始まった。
三蔵は、悟空の前に一番大きな椀を置いた。何も言わない。悟空も何も言わず受け取る。オレには、それで全部済むとは思えなかったが、二人の間へまた割って入る言葉も見つからなかった。
チャオが、小槌の包みをほどいた。
朝の光の中で、丸い頭が明るくなる。ハヨンはそれを見て、今度は驚かなかった。
「これも同じね」
「法宝か?」
「うん。昨日は、気の流れまでは見なかったから」
蓮が、時計の鎖を指で押さえた。
「働きが違っても、力を通す道具としては同じなんですね」
「なら、こいつも」
先輩が壁へ立てかけた雷綴を見る。
「この世界じゃ、名前の違う宝物になるのか」
「名前まで変わるわけじゃないと思うけど」
ハヨンが答える。
悟空は小槌を見ていた。
チャオは、それを机の上に置いた。押しつけるようには渡さない。両手を離し、悟空の顔をまっすぐ見た。
「持ってきたよ」
「知ってる」
「途中、何回も帰ろうかなって思った」
悟空の指が、椀の縁で止まった。
「でも、これを持って帰ったら、家にはわたし一人でしょ。渡せないまま、棚に置いておくのは嫌だった」
オレは、箸を下ろした。
誰も、その時は食べなかった。
「いま、何かが変わらなくてもいいよ。ちゃんと、渡したかったの」
チャオが小槌を少し押す。
悟空は、すぐには取らなかった。
金の輪が額にある。小槌は机の上にある。どちらも法宝だが、そこに置かれるまでの道は同じではない。
チャオは渡すために、ここまで歩いた。
悟空は、手を伸ばした。
持ち手へ指が掛かる。
淡い光が、指の間へにじんだ。すぐに消える。何かを壊す音も、誰かを変えるような大きな光もなかった。
「……ありがとな」
小さな声だった。
だが、チャオには聞こえた。
彼女はうなずき、ようやく自分の椀を持ち上げた。
悟空は小槌を布へ包み直す。元の結び目をそのまま真似しようとして、うまくできなかった。チャオが手を伸ばしかける。
「やる」
悟空が言った。
チャオは手を引っ込めた。
少しいびつな結び目ができる。
それを胸元へしまってから、悟空は飯を食べ始めた。
*
朝の仕事を終えると、宿を出る支度が始まった。
店主は、壊れていない桶を何度も回していた。オレたちが井戸から水を汲み直し、庭まで拭いたので、もう怒ってはいない。それでも、出発する先輩へは、棒を横に持たないでくれと念を押した。
「縦ならいいんだな!」
「天井にも気をつけて!」
旅立ちの見送りが、注意事項になった。
三蔵は村の先へ向かうと言う。西へ進む街道沿いに、旅人へ食事を出す古寺があるらしい。食事という言葉だけ、妙に強く発音した。
鈴華が眉を上げる。
「無料、という話ですか?」
「そう聞いた」
「聞いた相手は?」
「昨日、道で会った親切な者じゃ」
藍羽がオレを見る。
オレも藍羽を見た。
二人とも、昨日の立て札を思い出していた。
「一緒に行くか」と先輩。
「オレは行く」
悟空とまだ勝負が終わっていないし、チャオを送り届けたからそれで終わりという気にもならなかった。ひなたも、古寺のある村で泊まれるならいいと言った。
蓮が道を教わり、ハヨンは宿の入口の小さな風鈴を見上げる。
「あれも法宝かな」
オレが聞く。
「違う。普通の鈴」
「なんで分かる」
「風が吹いた時しか鳴ってないし、いまのところ他の働きがない」
鈴華が、自分の鈴へそっと触れた。
「不思議な場所だからといって、全部に不思議があるわけではありませんわ」
オレは道端の石を一つ拾い、掌で転がした。特別な重さも、変な気の流れもない。投げれば痛い、普通の石だ。
もとの場所へ戻した。
悟空がそれを見ていた。
「何してんだ」
「見学」
「さっきから、その言い方、便利だな」
「便利だから使うんだよ」
悟空は笑い、棒を肩へ担いだ。先輩も並ぶ。二本の棒が、狭い門でぶつかった。
「先に行け」
「おまえが行け」
「二人とも縦!」
店主の声が、村の朝へ響いた。
*
その日は、街道の途中で一度だけ雨に降られた。
大きな木の下で雨宿りをする。三蔵は濡れた荷物に文句を言い、八戒は葉の大きい場所を探して横になった。悟浄は、雨が降るほうを少し喜んでいるように見えた。
オレと悟空は、木の根に並んで座った。
朝の勝負で打ち合った腕が、少し重い。痛みは強くないが、肘を曲げると相手の棒があった場所を思い出す。
「明日は、先輩を入れないでやろう」
オレが言うと、悟空がうなずいた。
「声がでかいんだよな」
「聞こえるぞ!」
木の反対側から返事が来た。
悟空が笑い、オレも笑う。
チャオはひなたたちと、包みの紐の結び方を話していた。ハヨンが片手で解ける結びを見せると、チャオは実際に試して、ここはほどけやすすぎると言った。二人で結び直し、蓮が自分の袋でも真似する。
大げさな道具を使わない工夫は、見ていて分かりやすい。
オレは、悟空の胸元を見た。
小槌の包みが少しだけ見えている。
「大事にするんだな」
「落としたら、怒られる」
「それだけか」
悟空は、雨の向こうを見た。
「ここまで持ってきたんだろ」
オレはうなずいた。
それなら、もう聞くことはなかった。
雨が弱くなると、鳥が枝へ戻ってきた。葉の先から大きな雫が落ち、三蔵の頭へ当たる。
「冷たい!」
「雨やからな」と八戒。
当たり前の返事に、三蔵がまた文句を言う。
道の先は、まだ長そうだった。
オレは立ち上がり、濡れた草を靴で払った。明日の古寺で何を食べられるかと三蔵が話し始め、鈴華がその話を横で聞いている。
悟空は棒を持ち直した。
胸元へ一度だけ手を当て、小槌があるのを確かめてから、チャオの隣へ歩いていった。
坂を越えると、道端に新しい板が立っていた。
『お疲れの旅人へ。温かな食事と寝床あり』。
古寺の名前が、その下にある。板だけ妙に白く、足元の土には掘り返した跡が残っていた。三蔵はうれしそうに文字を読み、歩く速さを上げた。
オレは板の裏へ回ってみた。
削りかすが、まだ草に掛かっている。
「どうした?」
悟空が振り向く。
「ずいぶん新しい案内だなと思って」
「坊さんは、新しい飯のほうが好きなんだろ」
それはそうだ。
それでも、オレは板を覚えておいた。帰りにここを通ることがあったら、同じ向きに立っているか見てみようと思った。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




