第2話「本は読むもの。たぶん」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
旅の支度をしろと言われて、オレはまず食べ物を袋へ入れた。
干し肉、握り飯、焼いた芋。そこに藍羽が包帯を置き、ひなたが手拭いを足し、ハヨンが袋ごと持ち上げる。
「重い」
「鍛錬になる」
「帰りにお兄ちゃんごと運ぶ人の?」
妹は焼いた芋を二本戻した。ひどい。道場の机に置かれた芋は、すぐに父さんの前へ移動した。白熊の大きな手が一本を隠す。
取り返そうとすると、紙が出た。
【紙面:留守番の昼食。】
父さんはさっきも昼飯を食べていた。
「帰ってきた時の分、残しとけよ」
白熊がうなずく。芋についてなのか、腹の空き具合についてなのか、判断がつかなかった。
机の反対側では、先輩が雷綴を布へくるんでいた。紫苑はカードの角をそろえ、鈴華は小さな財布を帯の内側へ入れる。蓮が懐中時計の蓋を開けると、修理された銀色の縁へ日が当たった。
オレの服も、ハヨンの白いパーカーも法宝だ。持ち込めるかと聞くと、キャリーは巻物の内側の線を示した。
「身につけた物と、本人が持てる荷物は一緒に入れるわ。大きいから駄目、というより、あなたと一続きに運べるかどうか」
「じゃあ、父さんを持って入れば」
「持たない」
ハヨンが即答した。
「分かってるよ。例えだ」
「例えの父さんが、いま立ちかけた」
父さんは腰を下ろした。おっさんも、なぜか横で足を組み直す。
大人たちは道場に残る。教授は巻物に残る記録を読み、キャリーは外側のつながりを保つ役だ。おっさんは道場の留守番。父さんは、たぶん芋の留守番だった。
「君たちが歩いたあとの道は、こちらの本へそのまま映るわけではない」
教授が、茶色い本を手のひらに乗せた。
「書かれた物語が下地になる。だが、そこへ君たちが入れば、人物の行動も変わる。ここから次の危険を全部読んで知らせる、ということはできない」
「先の展開を教えられたら、芝居の練習になりそうだけどな」
「お兄ちゃん、読む気があるなら今読める」
ハヨンに言われ、オレは本を開いた。
最初のページには畑の話があった。女の子が大根を抜こうとしている。すぐ次へめくろうとしたら、ひなたが横からのぞいた。
「そこ、ちゃんと読むと面白そう」
「大根を抜くのに、そんなに力はいらないだろ」
「そういうこと言って、根っこを折るんだよ」
どうして分かった。
昔、畑を手伝って母さんに怒られたことを思い出した。オレは静かにページを戻す。話の最初で油断してはいけないらしい。
*
帰り道は、薄い栞だった。
硬い紙と布を重ねたような手触りで、片面に八本の短い線がある。端には巻物と同じ赤い糸。ハヨンが受け取ると、八本の線のうち一本だけが細く光った。
「まだ入っていない人を、数えているんじゃないわ」
キャリーが言った。
「いまは、この道具を誰が持つかを決めただけ。中へ入ったあとは、戻る場所で栞を置き、巻物の端を思い浮かべる。出口が形になるまで動かさないこと」
「急いで走りながらは?」と藍羽。
「形が崩れるわ。足を止められる場所を選んで」
「なるほど。逃げ足の代わりにはならねえな」
オレが言うと、キャリーがうなずいた。
「もう一つ。ほかの術で閉じられた場所からは、外へつなげられない。箱の蓋を閉めたまま、その中の扉を開くようなものだから」
紫苑が栞をのぞき込んだ。
「鍵の掛かった部屋なら?」
「普通の扉や壁は関係ないわ。空間そのものを閉じる術の話」
「じゃあ、窓を割ればいいわけではないんだな」
「図書館の本で、窓を割る予定を立てないで」とひなた。
紫苑は両手を広げた。いつの間にか指の間に赤い糸があったので、キャリーがそれを取り返す。さっきの栞から抜いたのではなく、机に落ちていた余りらしい。それでも、手元を通る物は全部芸の材料になる。
蓮は巻物の軸へ目をやった。
「時間の流れは、こちらと同じですか」
「かなり違うわ。本の中の一週間が、こちらのおよそ一時間」
オレは、いま食べた昼飯を思った。
「帰ってきたら、まだ夕飯前か」
「一週間ぶん、向こうで食べる必要はあるよ」
ハヨンが芋を一本、袋へ戻した。
よかった。時間の説明には価値がある。
「全員が外へ戻った場合は?」
蓮が続けて聞いた。
「最後の一人が出たところで、本の中の時間が止まる。次に誰かが入るまで、そのままよ」
ひなたが顔を上げる。
「じゃあ、みんなで帰ってくれば、向こうを待たせずに休める?」
「ええ。あなたたち八人が、全員戻ればね。誰か一人でも中にいれば、時間は進み続ける」
「本に出てくる人は、数に入らねえのか」
「入らない。もともとそこにいる人たちだから」
ハヨンが栞をパーカーの内側へ入れた。
「最初の一週間で一度戻ろう。私も、向こうの食べ物だけで平気かは分からないし」
「気になるものがあったら食べるつもりなんだな」
「もちろん」
よくできた妹だ。朝飯のあんを独り占めした件は、帰るまで忘れておこうと思った。
鈴華が紙袋を二つ持ち上げた。
「こちらは薬。こちらは飴です。間違えて勝負の景品にしないでくださいませ」
「どうして勝負する前提なんだ」
先輩とオレの声が重なった。
鈴華は何も答えなかった。反論の余地がない時の沈黙は、時々、長い説明より痛い。
*
巻物を広げるため、机を道場の端へ寄せた。
灰色の布の上に、茶色い本を置く。キャリーが左右から布を重ねると、表紙の『遊記』の二文字が隠れた。かすれた一文字は、最後まで読めなかった。
それでも、猿と坊さんが旅をする本なのは間違いない。
オレはそう思っていた。
教授は布へ触れず、横に置いた紙から古い文字を読み上げる。キャリーがそれに合わせて軸を半回転させた。布の模様がつながり、山の稜線のような一本の線になる。
風が来た。
道場の庭からではない。閉じられた本の中からだ。
ひなたの髪が頬へ掛かり、藍羽が押さえてやる。先輩は雷綴を肩から下ろした。ハヨンは眼鏡の位置だけ直し、爪先を前へ出す。
「開いたわ」
キャリーが言った。
巻物の向こうに、土の道があった。
最初は小さな絵に見えた。目を凝らすと、枯れ葉が石へ引っかかっている。裏側が白く光ったまま、動かない。奥の草も、空に浮かぶ雲も、同じところに止まっていた。それでも、道場の床と土の道の境目だけは分からなくなる。
オレは膝を曲げ、指で境目に触れた。
乾いた砂がついた。
「本当に、土だ」
「感想が早いわね」と藍羽。
「触る前に考えても、分からねえだろ」
「それはそうだけど」
ひなたが、オレの隣へしゃがむ。砂をつまんで見つめたあと、小さく笑った。
「匂いもする」
草と土の匂い。その奥に、どこかで物を焼いているような香りがある。見たことのない場所なのに、腹が減る匂いだけは分かった。
父さんが戸口へ立った。
大きな紙に、短い言葉が書いてある。
【紙面:帰る道も、残す。】
「今回はちゃんと持ってる」
ハヨンのパーカーを指す。
父さんはうなずき、今度は自分の胸を軽くたたいた。
そこにいる、ということだろう。
オレは立ち上がった。
「行ってくる」
土へ一歩。
靴の先が道へ入った途端、止まっていた枯れ葉が転がった。石を越え、草の根元へ滑り込む。木の葉が鳴り、遠くから鳥の声が来た。オレの一歩に合わせて、景色が大きく息をしたようだった。
靴底が沈んだ。床板と違う柔らかさを足の裏が拾う。次の一歩を出す時には、道場の屋根が頭上から消えた。
空が広い。
雲が、絵より遅く動いている。
後ろから先輩が来て、藍羽が続く。蓮がひなたへ手を貸し、鈴華と紫苑が道の端へ降りた。最後にハヨンが振り向いて手を上げると、道場の景色は布をたたむように細くなった。
閉じる直前、キャリーが指を立てた。
「痛いものは、こちらと同じように痛いからね」
「そこは、早めに言ってくれ!」
声だけが、広い空へ抜けた。
*
少し歩いたところで、先輩が振り返った。
道場はない。
畑の畝と、遠くの丘と、道端の木だけだ。さっきまで本があった場所を見ても、風に草が揺れている。
「入口は、消えるんですね」
蓮が言った。
ハヨンは返事の代わりに栞を出し、平たい石に置いた。指で端を押さえる。赤い糸が伸び、何もない空気へ細い縁が生まれた。
向こうに、道場の机の脚が見えた。
「つながる。閉めるよ」
栞を持ち上げると、縁はすぐほどけた。ハヨンは道具をしまい、道の先へ目を向ける。
「あの屋台、何を焼いてるんだろう」
オレも気になっていた。
丘を回ると、道が二つに分かれていた。分かれ道には小さな店がいくつかある。串に刺した丸い物を焼く屋台。布を広げて靴を並べた店。大きな桶から湯気を上げる店。
そして、その前を歩いている者たちは、人間ばかりではなかった。
耳の長い男。頭から角を生やした女。背中に亀の甲羅を背負った小さな子供が、両手で饅頭を抱えている。
「あれ、着ぐるみじゃないよね」
ひなたが小さく言った。
「父さんより、口が動いてる」
「比べるところ、そこ?」
角のある女がこちらを見た。目が合ったので会釈すると、向こうも軽く頭を下げる。そのまま籠から菜っ葉を取り出し、店主へ渡した。
別に、襲ってはこない。
妖怪というだけで構えるのは早いらしい。
先輩も棒の先を下げた。藍羽がひなたのすぐ前へ立っていた位置を、半歩横へずらす。みんなが少しずつ同じことをしているのを見て、オレは肩の力を抜いた。
串焼きの屋台へ近づく。
「おっちゃん、これ何だ?」
「芋団子だよ。一串三文」
店主の耳は丸くて、毛が生えていた。熊に少し似ている。父さんと違って、手際よく串を回していた。
オレは財布を出しかけ、止まる。
三文。
持っているのは、駅前の店で使える小銭だった。
「鈴華」
「ええ。旅費の問題が、もう来ましたわね」
紫苑が店主へ、こちらの硬貨を一枚見せる。店主は穴のない丸い金属を不思議そうに眺めたが、すぐ首を振った。
「どこの町の銭だい」
「少し遠い」と紫苑。
「遠すぎるんじゃないかい」
そのとおりだった。
八人で串を見つめていると、店主が苦笑した。
「裏の薪をこっちまで運んでくれるなら、二串やるよ」
オレと先輩が、同時に屋台の裏へ回った。
薪は、勝負するほど重くなかった。かえって二人で持つと歩きにくい。オレが両端を支え、先輩が残りを抱えて運ぶ。蓮が崩れかけた積み方を直し、ハヨンは風を遮る板を少し動かした。
火が安定して、焼ける音が変わる。
「おや、気が利くね」
店主は二串ではなく、四串をくれた。
ひなたが一本を半分ずつ分け、全員へ配る。団子は外が硬く、中がほくほくしていた。塩と少し甘いたれが混じっている。
オレは二口で食べた。
「どう?」とハヨン。
「もう一回薪を運びたい」
「味の感想になってるような、なってないような」
鈴華は空いた串を返し、近くの宿と道について尋ねていた。観光案内の紙はなくても、聞けば知っている人がいる。先に飯へ向かったことを怒られるかと思ったが、今回は役に立ったらしい。
屋台を離れようとした時、さっきの亀の子供が、オレの足へぶつかった。
饅頭が飛ぶ。
右手でつかもうとすると、子供も同じほうへ跳んだ。頭をぶつけないよう腕を引き、落ちる饅頭を足の甲で受ける。そのまま軽く上げて、今度こそ手に取った。
子供の丸い目が、饅頭とオレを行き来する。
「はい」
渡すと、しばらく考えてから、半分に割ってくれた。
「いや、おまえのだろ」
「おねえちゃん、さっき小さいのしか食べてなかった」
胸の奥が、変なところで温かくなった。
オレはたぶん、本当に腹が減った顔をしていたのだ。
「これから、もっと食う予定なんだよ」
「うん。じゃあ、これも」
子供は譲らなかった。後ろから来た母親らしい女が、頭を下げる。背中に同じ甲羅があった。オレは半分を受け取り、代わりに自分の袋から干し果物を一つ出す。
子供は母親を見て、うなずいてもらってから口へ入れた。
頬が、丸くなる。
「すっぱい!」
「当たりだ」
「甘いほうが当たりだよ!」
母親が笑った。藍羽も笑い、ひなたは膝を曲げて、子供が落とした手拭いを拾ってやる。こっちへ来てから、初めて道端でゆっくり立ち止まれた気がした。
ハヨンは子供の持っている木の玩具を見ていた。四つの車輪と、回すと上下する小さな亀。子供が軸を回して見せると、妹は目を丸くした。
「その動き、いいね」
「おじいちゃんが作った」
「私も作りたい」
「おねえちゃんのは、何?」
白雲衣の袖を指され、ハヨンが細い風車を取り出した。現実の商店街で買ったものだ。二重の羽が逆向きに回ると、子供が声を上げた。
少しの間、二人で玩具を見せ合っていた。
オレは饅頭の最後の一口をのみ込む。さっき見た甲羅が、もう珍しい物だけには見えなくなっていた。ぶつかったら子供が倒れる。食べ物を落とせば困る。そのへんは、知っている町と同じだった。
別れる時、母親がひなたへ、道の曲がり方を丁寧に教えていた。木の橋を渡る。赤い石があったら左。子供は足元に棒で橋の絵を描き、亀も一匹足した。
「亀は目印?」
ひなたが聞く。
「違う。ぼく」
それなら、忘れない地図になった。
*
店主が教えてくれた宿は、西の道を進んだ村にあるという。
「ただ、今日は妙なのがうろついてるよ。坊さんを探してる連中だ」
店主は顎で分かれ道の先を示した。
大きな木の下に、立て札があった。墨で描かれた坊さんの顔。その下に、捕まえた者へ褒美を出すと書いてある。
『三蔵法師』。
知っている名前だった。
「三蔵って、悪いことしたのか?」
オレが小声で聞くと、藍羽が首を振った。
「少なくとも、そういう話じゃなかったと思う」
立て札の前には、三匹の小さな妖怪が座っていた。鼻の長いのと、耳の尖ったのと、頭に鍋の蓋をかぶったの。棒を立て、真剣な顔で地面に絵を描いている。
オレたちは木の反対側へ回った。
「坊さん一人だろ。三人で捕まえりゃいい」
鼻の長いのが言う。
「だから、捕まえたあとの話だ。三等分したら、効き目も三分の一になるんじゃないか」
耳の尖ったのが答える。
「褒美を分けりゃいいだろ」
「食ったほうが強くなるって聞いたぞ」
鍋の蓋が、こくこくうなずいた。
オレは自分の喉を押さえた。
さっき芋団子を食べた口で、急に別の飯の話を聞いてしまった。
ひなたが息をのみ、藍羽が肩へ手を置く。先輩の指が雷綴へ掛かったので、オレは手首を押さえた。まだ、誰かが捕まったわけじゃない。
「そもそも、顔を間違えたらどうする」
「坊主なら、だいたい同じだ」
「それはまずいだろ」
思わず声が出た。
三匹が、こちらを見た。
オレも三匹を見た。
風が一本、間を通った。
「おまえ、坊さんの仲間か」
鼻の長いのが立ち上がる。
「まだ会ってねえ」
「これから会うのか」
「それは知らねえ」
「じゃあ、知ってそうな顔をするな!」
怒られた。
理屈は少し分かるが、顔まで決められては困る。
紫苑が横から出てきた。
「探し物なら、道の向こうで騒ぎがあったぞ」
「本当か?」
「聞こえないか」
耳を澄ますと、確かに遠くで怒鳴り声がした。紫苑が嘘をついたのかと思ったが、違ったらしい。三匹は慌てて棒を拾い、道を駆けていく。
オレたちも、少し遅れて歩き出した。
「近づくの?」とひなた。
「坊さんじゃない誰かを捕まえたら、もっとまずいだろ」
藍羽がうなずき、オレの隣へ来る。
坂の上へ着くと、小さな荷車が道を塞いでいた。籠が転がり、根菜が土の上へ散っている。その向こうから、一人の女の子が走ってきた。
胸へ、布包みを抱えている。
さっきの三匹とは別の、大きな妖怪がその後ろにいた。女の子の足は速い。だが、道の真ん中に転がった車輪を越える時、一瞬だけ膝が崩れた。
オレは袋を藍羽へ投げた。
「飯、頼む!」
「最初に頼むのがそれ!?」
土を蹴る。
舞台の見学は、たぶんまだ始まっていない。
その前に、転びそうなヤツがいる。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




