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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第八章「はみんぐ・ふれあ」
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48/51

第48話「勝ったら、みんなで昼飯」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 帽子が落ちた。


 天井近くで止まっていた角帽が、いくつも講堂へ降ってくる。


 卒業生の頭。


 椅子。


 床。


 先輩の顔にも一つ当たった。


「痛っ!」


 途中だった拍手が続く。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 最初の三回だけは、固定される前と同じ速さだった。


 四回目から、一人ずつずれる。


 早く手を止める者。


 帽子を拾う者。


 何が起きたのか、時計を見る者。


 舞台袖の紙コップから、白い湯気がまた上がる。


 窓の雨粒が下へ流れた。


 桜のつぼみは、風に押された続きで小さく揺れた。


「十三、は?」


 写真係が、数えかけた言葉を終える。


「何で十三?」


 隣の生徒が笑う。


「三、二、一だろ」


「そうだった」


 一般生徒にとっては、長い一秒だった。


 四十八扉も、教授との選闘も、零頁の中も覚えていない。


 でも、卒業式で自分から言ったことは残っている。


「大学、途中で変えてもいいんだよな」


「私は、明日謝るって言った」


「今日はまだ嫌だから」


 選んだ余白を、一人ずつ口にする。


 手首の赤い選択印が、色の違う小さな光へほどけた。


 身体。


 関係。


 所属。


 行動。


 記憶。


 時間。


 持ち主へ戻った選片が、全員の中へ消えていく。


「お兄ちゃん!」


 ハヨンが走ってくる。


 オレの肩と腕を見て、足を止める。


「帰還枝」


「取り返した」


「選闘の勝敗は?」


「オレの勝ち」


「身体が戻ったから?」


「戻る前に勝った」


 ハヨンの口から、長い息が出る。


 すぐ端末へ手を伸ばしかけ、止めた。


「計測していい?」


「いい。立ったままでできるやつ」


「了解」


 小さな観測器を腕へ当てる。


「男相波形、正常。時間・循頁の封鎖なし。女相波形も消えてない。第三線、継続」


「オレのやつだ」


「うん」


 ハヨンは画面より先に、オレの顔を見る。


「おかえり、お兄ちゃん」


「ただいま」


 藍羽が、黒に変わった緋天衣の上着を確認する。


「ちゃんと男の身体に合ってる?」


「ハヨンに開いてもらった合身紋のおかげでな」


「引きちぎってない」


「オレを何だと思ってる」


「お兄ちゃん」とハヨン。


「それ、答えになってないって前にも言ったぞ」


 先輩は顔へ当たった角帽を拾い、持ち主を探しながら来る。


 オレを上から下まで見た。


「本当にハミンだ」


「偽物に見えるか?」


「男の姿は写真でしか見てなかった」


「感想は?」


「格好いい」


「即答するな!」


「女の姿も格好よかったぞ」


「聞いてない!」


 先輩が笑う。


 その声も途中で止まらない。


 蓮は壊れた時計の中核を見る。


 ひびの入った針が、現在の秒を刻んでいる。


「十三分、跳びました」


「外では経ってた」


「学校の時計は停止し、選闘終了時に外部時刻へ追いついた。基本則どおりです。でも、そのあとにも別の一秒がある」


 針が進む。


「固定、解除されています」


 ハヨンの端末へ、母さんの外縁回線が戻った。


《地上観測節・進行再開》


 小さな窓が三つ開く。


 町では、自転車の前輪が水たまりへ入り、子どもが慌ててハンドルを切った。


 遠い国の病院では、医者が残りの一歩を踏み、手術室の扉を開けた。


 海では、銀色の波頭が崩れた。


 転ばない保証も、手術が成功する保証もない。


 それでも、次の一秒がある。


 鈴華の心響鈴から、細い音が何百も抜けていく。


 悲鳴じゃない。


 元の持ち主へ戻る時の、鈴を指で軽く弾いたような音。


「全選片の返却を確認」


 鈴華は台帳を開く。


 赤い未返却欄が、上から順に白くなる。


「未収、零。保管、零。返却確認待ち――」


 言いかけて、台帳を閉じる。


「確認は、本人へ尋ねます。数字だけで完了にはいたしません」


「成長したな」と先輩。


「京一の食費欄だけは、数字で充分です」


「そこは聞けよ!」


「大盛りを希望なさいますか」


「する!」


「確認できました」


 講堂に笑いが戻る。


     *


「あの人、誰?」


 ひなたの声で、オレは舞台の端を見る。


 紫苑が立っている。


 腕の紫紐は残っている。


 名前帯には、《霧崎紫苑》の字。


 でも、輪郭が前と違う。


 光が通り抜けない。


 写真機の画面にも、ちゃんと紫髪の男が映っている。


 学校の名簿が、講堂脇の端末へ開いた。


《高等部三年 霧崎紫苑》


 その下には、《課程修了判定・保留/本人確認中》と出ている。


 名前と在籍が戻っても、失われた二年間を卒業済みへ自動で書き換えはしない。単位の確認、補習、追認、在籍を続ける選択肢を学校が本人へ示し、紫苑が決めるまで証書は発行しない。


 二年前の試作選闘記録。


《選闘レベル:3(原典級)》


《実装経路:零頁直結・非公開》


《起動権限:目黒総司単独鍵》


 欠番だった頁。


 所属と記憶の保護領域を外した、教授の原典校正。


 委員会が保管していたレベル3の規約には、この実装経路も単独鍵もなかった。三人が知らなかった教授の裏側が、消えていた紫苑の名と一緒に記録へ戻った。


 消えていた名前が戻っている。


 ひなたは紫の紐を見る。


 自分で何度も書いたランチョンマットの筆圧。


 辛い鍋が好きだと覚えようとしたこと。


 全部が一度に戻ったわけじゃない。


「私、あなたを知ってた気がする」


「気のせいかもな」


 紫苑がいつもの軽口で答える。


 ひなたは、分かったふりをしなかった。


「名前を、もう一度教えてください」


 紫苑の目が少し細くなる。


「霧崎紫苑」


「霧崎紫苑」


 ひなたは、自分の口で繰り返した。


「霧崎先輩。辛い鍋が好き」


「そこまで戻るのか」


「合ってます?」


「合ってる」


「じゃあ一つ覚えた」


「前にも同じことを言った」


「そうなんですか」


「いまは、それでいい」


 卒業生の一人が、紫苑へ近づく。


「霧崎?」


 四十八の扉の区画で聞こえた、元同級生の声だった。


「おまえ、二年前に――」


 記憶が途中で切れている。


 紫苑は答えを先に置かない。


「知らないままにしないって言ったな」


「俺が?」


「そう聞こえた」


「覚えてない」


「なら、最初から話す」


 二年間の友情は、自動で戻らない。


 過ごせなかった時間も、謝れなかったことも、空白のまま。


 名前を覚えられる未来だけが返った。


 その先は、二人が原因を作り直す。


「紫苑」


 オレが呼ぶ。


「何だ」


「昼飯、辛いのにするか?」


「命令か?」


「誘ってる」


「なら、あとで選ぶ」


「分かった」


     *


 教授は、鐘の下で倒れていた。


 消えていない。


 紫のスーツは白紙の中で裂けたまま。左腕の火傷から血がにじみ、サングラスはなくなっている。


 胸は動いている。


 ハヨンがオレへ目で聞く。


「診てくれ」


「了解」


 脈を取る。


「目黒教授。《身体・延》も測っていい?」


「頼む」


 白雲衣の袖から、観測核で使った薄い板が出る。


「管理者自己契約、返却済み。加齢の先送りは停止。生体年齢は三十歳前後のまま」


「何千年ぶんが、一度に来るんじゃないのか」


「来ない。生きた年数を身体にためてたんじゃなく、次に老いる時刻だけを延ばしてた。心拍も代謝も、怪我も最初から止まってない。今日から普通に老いる」


「正常だね」と教授。


 藍羽は救急箱を持ってくる。


 先輩が教授の短杖だった赤ペンを拾い、遠くへ置いた。


 蓮は講堂の出口を開ける。


 鈴華は、集まろうとする生徒へ言った。


「負傷者の処置を優先します。説明は、本人から行わせます」


「目黒教授が、何をしたの?」


 卒業生の一人が聞く。


 長い一秒を覚えていなくても、手首から戻った選択の重さは感じている。


 教授が目を開けた。


「私が説明する」


 起きようとして、左腕が動かない。


「寝てろ」とオレ。


「説明責任がある」


「治療を受けてからだ」


「逃げると思わないかね」


「逃げるか?」


「逃げない」


「じゃあ寝てろ」


 教授は天井を見る。


「教師が生徒に命じられた」


「これは勝者請求じゃない。怪我人への助言」


「なら、聞こう」


 自分で目を閉じた。


 許されたわけじゃない。


 負けて消えれば、説明せずに済んだ。


 零頁へ取り込まれて都市の土台になれば、きれいな犠牲として終われたかもしれない。


 そうしなかった。


 生きて、返す。


 怒られる。


 被害を一件ずつ説明する。


 それが、教授の選んだ請求だった。


 その時、講堂の返却門が二つ開いた。遠い研究施設にいた母さんと、地下で地脈を支えていた父さんが、それぞれ講堂へ戻ってきた。


 講堂の西扉が、二回鳴った。


 誰も触れていない。


 一度目は普通のノック。


 二度目は、扉の向こうではなく、扉と壁の間から響いた。


 母さんが赤い髪をかき上げる。


「管理者権限の返還、確認。著者鍵の自動起動条件も解除。ようやく通れるわ」


「誰が?」


「連れてきた人」


 母さんが扉を開く。


 向こうに廊下はなかった。


 暗い海みたいな空間へ、細い金色の足場が延びている。その上を、黒く長い髪の女が大きな鞄を抱えて歩いてきた。


 見た目は二十代の終わり。


 青緑の瞳。濃紺と白の外套。胸元の幾何学留め具。


 観測像と同じ顔。アトランティス最高の錬金術師、キャリー・アイ本人だ。


 でも、髪が足の動きから半拍遅れて揺れる。息をしている。頬に血の色がある。


 一歩目で、金色の足場の縁につまずいた。


「あ」


 鞄が開く。


 金属の計測板、青い説明書、透明な瓶、鉛筆、なぜか小さな鍋の蓋が講堂へ飛び込んだ。


 ただし、鞄の内側に固定された銀の安全端末だけは落ちなかった。緑の封印灯を点したまま、留め具の奥で静かに式を回している。


 本人は両手を前へ出したまま、床へ倒れかける。


 父さんが白熊の腕一本で受け止めた。


 母さんはキャリーより先に安全端末へ指を当てた。


「外部安全位相、正常。本人署名、照合済み。操作系は多重ロック済み」


「そこは外さないわ。命に関わるもの」


「助かったわ。位相を三層越えるより、最後の一段のほうが危険ね」


「足元を見なさい、キャリー」


 母さんが呆れている。


「見ていたわ。安全端末の著者鍵の値を」


「安全端末は鞄へ固定したでしょう」


 キャリーが右手を上げた。


 握っていたのは、ひよこの絵が付いた三分計だった。


「これは調理用ね」


「説明書も違う」とハヨン。


 床から拾った青い冊子の表紙には、《外部位相用・携帯鍋》と書いてあった。


「大事な書類と鍋の説明書を同じ鞄へ入れないで」


「色が同じだったのよ」


 すごそうな言い訳なのに、内容はまったくすごくない。


 けれど、鞄の固定枠に収まった銀の安全端末には、零頁より細かな式が何百層も走っていた。ハヨンが一目見て、息を止める。


「外部位相を携帯端末だけで固定してる」


「天才と整理整頓は別の能力なの」


 女は外套を払い、立ち直った。


 水鏡が勝手に光る。


 そこへ、アトランティスの自律観測像が現れた。


『照合。キャリー・アイ。生命相、現在。著者署名、一致率一〇〇パーセント』


 観測像は自分と同じ顔を見た。


『私は、あなたではない』


「ええ。長い間、返却規約を守ってくれてありがとう」


『本人の礼を受領。所有権は要求しない。私は私として応答を継続する』


「それでいいわ。統合も停止も求めない。あなたの継続は、あなたが決めなさい」


 観測像は鏡から消えなかった。本物が来ても、置き換わらない。


 本物だ。


 教授が、目を開けた。


 天井ではなく、長い黒髪の女を見る。


「キャリー先生」


 声が、子どもみたいに細くなった。


 キャリーは教授の前へ歩く。


 今度は転ばなかった。


「説教を、し、します。……起きられる?」


 大事な出だしを一音噛んだ。それでも、教授を見る青緑の瞳はまったく揺れない。


「治療中です」とハヨン。


「では寝たまま聞きなさい。ソウジ・カイ」


 許す声じゃない。


「第一。勝手に私を死なせないで」


「最終観測では、先生の生命相が――」


「消えたわ。でも、私が死を偽装したのではない。零頁の原著者鍵追跡を防ぐ安全機構が、私を観測不能な外部安全位相へ強制排出した。フェイルセキュアが退避路を閉じるため、南研究棟の崩壊と同時に死亡相当観測を自動生成したの。あなたが見た記録は本物の機械が測った、本物そっくりの死亡結果。見破れなかったことだけを責めるつもりはありません」


 母さんが、外部位相の図を床へ投影する。


「崩壊直前、キャリーは著者鍵として零頁へ捕まるのを避けるため、観測不能な外部安全位相へ排出された。通常通信は全部切断。そこは外界に対する時間流もほとんど止まる層だった。私が地上節の修理中に救難符号を見つけたのも、ずっと後」


 地上では何千年が積み重なっても、キャリーの側では、見た目が二十代の終わりから変わるほどの時間が流れていなかった。


 キャリーは教授へ向き直る。


「ただし、あの安全機構を設計したのは私です。復帰鍵を誰にも渡せない構造にして、あなたへ死亡相当観測を何千年も背負わせた。その代償には、私の責任もある。そこは謝ります」


「キャリー先生の責任で、私の選択が消えることはありません」


「ええ。消しません」


「お母さんは、いつから知ってたの」とハヨン。


「本人の生存を確定できたのは、あなたたちが観測像の隔離を外したあと。そこから外部位相で連絡を続けた。でも、補完圏へ真正な観測結果を返すだけでも、発信元の痕跡から原著者鍵の観測が成立する。生存の一言さえ、四十八頁を起動させ得た」


「だから、あの時点では本人認証も生存も、あなたたちへ共有できなかった」


 キャリーが鞄の固定枠にある銀の安全端末を示す。封印灯は緑のまま、操作系は閉じている。


「総司が管理者権限を返す前に私が近づけば、四十八頁は予備起動を飛ばして完成していた。学校の選片も、アトランティスの静止相も、その場で著者鍵へ集められた。だから決着まで、姿も声も証明も送れなかった」


 偽の死亡観測。


 何千年もの通信遮断。


 本人そっくりに応答する観測像。


 そして、本物へ連絡できても近づけない著者鍵の危険。


 教授が師の死を信じた理由は、簡単な勘違いじゃなかった。


 それでも、キャリーの説教は終わらない。


「第二。あの観測像を、私の残りと決めつけないで」


 水鏡の中で、観測像が顔を上げる。


『私は私』


「私は、先生の記憶と残留意識が混線したものだと――」


「最初にそう疑うことと、本人ではないと名乗る意思を無視し続けることは別です。あの子は考え、選び、嫌だと言った。起源が私でも、その独立した意思を、私の不在を埋める材料にしてはいけない」


「はい」


「第三。私一人を救うために、世界を止めないで」


「私は、都市も――」


「都市も、でしょう。だからなお悪い。私と百八十万人を一つの理由へ束ね、生徒たちから選ぶ権利を取った。救いたい人数が増えても、同意を飛ばしてよいことにはならない」


 教授は言い返さない。


「第四。返事がないことを、私の承諾へ変えないで」


「連絡路はなく、あらゆる受信域を探しました」


「知っているわ。見つけられなかったことを責めているのではありません。連絡できない状態は、承諾ではない。私を死者と判断せざるを得なかった時期があっても、私なら世界を差し出して救われたい、と書いてはいけない」


 キャリーは一度、息を吸った。


「それから、私を原因にしないで。方法を教えたのは私。目的と手順を選び、生徒の選択を使ったのは総司。あなたの責任です」


「はい」


「返事が早い」


「では、考え直します」


「そこは早くていいの」


 観測像と同じ言い回しだった。


 藍羽が笑いかけて、いま笑うところじゃないと思い直す。口元が変な形で止まった。


 キャリーは教授を見下ろす。


「私はまだ、あなたを許すとも許さないとも決めていません。返却を続けなさい。被害を説明しなさい。私への謝罪で、ほかの人への責任をまとめないこと」


「先生が生きていたことも、安全機構の責任を先生が引き受けることも、私を免責しない」


「そのとおりです」


「承知しました、キャリー先生」


「あと、世界を止める計画書より先に、連絡先一覧を作りなさい」


「それも、承知しました」


 教授の目から、涙が一筋だけ落ちた。


 キャリーは拭かなかった。


 代わりに、キャリーは鞄の内側にある封印袋を開いた。金の署名線が走る工程表を取り出し、自分の指紋と著者署名を順に照合する。


「これは、返却作業の第一工程」


 母さんが署名を確かめ、ハヨンも工程番号を端から端まで追った。


「署名も手順も正しい」と母さん。


 教授が受け取る。


 正しい工程表を枕元へ置いてから、キャリーは床へ散らばった紙をもう一枚拾って差し出した。


「手元用の複製も」


 紙には、《携帯鍋を安全に加熱する方法》と書いてある。


「先生。説明書が違います」


 キャリーは紙を裏返した。


「こっち?」


「同じ説明書です」


 教授は泣いた顔のまま、ほんの少しだけ笑った。


 悲劇が間違いになるわけじゃない。


 連絡が届いていれば全部起きなかった、という軽い話でもない。


 届かない時間の中で教授が選んだことを、本物の師の生存は消してくれない。


 だから、生きて返す。


 怒られる。


 一件ずつ説明する。


 その続きへ、本物のキャリーも自分の足で来た。


     *


 満月が西へ沈む頃、オレは女の身体へ戻った。


 帰還枝は返っている。


 だから、月の入りで出生相の照合が終わり、いままでどおり現在相へ戻った。


 肩が狭くなり始めると、緋天衣の上着も同じ速さで縮んだ。男相の黒は明るい朱赤へ戻り、黒ズボンは色を変えず、腰と裾だけが女相の寸法で止まる。一本の長い三つ編みはほどけも短くもならず、黒に近い紫から赤へ色だけを変えた。


 服は着用者の身体に合わせて変わる。だからといって、身体の次まで勝手に決めるわけじゃない。


 身体も、勝ったから永久に決まったわけじゃない。


「次を決める必要がある」


 ハヨンが言った。


「いま?」


「いまは休む。補完圧が消えたあと、男相、女相、第三線の安定率を測る。治療案はそのあと」


「急がないのか」


「急いで決めない」


 ハヨンは、眠そうな目を眼鏡の奥でこする。


「お兄ちゃんも、今日は決めなくていい」


「そうする」


 女の身体のまま、道場へ帰った。


 男へ戻れたのに、月の入りを悲しいだけには感じなかった。


 次は、奪われていない。


 自分で決められる。


     *


 学校の鐘が動き始めても、事件は学校の中だけで終わらなかった。


 母さんの外縁回線には、海を越えて報告が届いた。港の荷役記録に空白ができた。列車の信号は安全側で待機し、運行指令には再開確認が殺到した。航空路では時刻情報のずれを検出した機体が旋回待機へ入り、病院や消防の通信には送れなかった連絡が順番を失って積み上がった。


 止まった長さは場所ごとに違った。母さんが外縁を一本ずつ切ったから、世界全部が同じ形で固定されずに済んだ。その代わり、何秒を失い、どの判断が保留され、誰に影響が出たかを、一件ずつ確かめる必要がある。


 怪我や機器故障の報告は、まだ確認中だった。大きな事故が見つかっていないからといって、なかったことにはできない。


 学園の外部監査には、各地の観測所だけでなく、交通、通信、医療、防災の担当者も加わった。目黒教授が説明しなければならない相手は、講堂にいた生徒だけではない。


     *


 教授の説明は、一日では終わらなかった。


 一週間目。


 講堂で、最初の全体説明会。


 決闘制度が選択を保管していたこと。


 安全同意書を改ざんしたこと。


 試作原典で紫苑の保護領域を外したこと。


 アトランティスを現在へ重ねるため、選片を燃料にしたこと。


 教授は、いい結果も悪い結果も同じ声で読んだ。


「事故が減ったから正当だった、とは申しません」


 教師席ではなく、説明する側の低い机へ座る。


「救われたと感じる人へ、それを否定しろとも申しません。しかし、その利益は、同意のない選択移譲を正当化しません」


 説明席にいたのは、教授一人ではなかった。


 先輩は、秘密のレベル2を戦闘執行に使い、《危険な条件を広めないため》と説明しないことを正当化した、と自分の口で話した。


 蓮は、条件欄と発動時刻を設計し、公開しない方を選んだと話した。


 鈴華は、内部台帳へ移譲を記録しながら、本人が読める帳簿を作らなかったと話した。


 三人とも、《教授に騙されました》だけでは終わらせなかった。レベル3の実装を隠されていたことと、自分たちがレベル2の秘密を善意で守ったことを、別々の責任として公開した。


 怒鳴る人がいた。


 帰る人もいた。


 話を聞かず、返却記録だけ受け取る人もいた。


 教授は止めなかった。


 質問へ答えられない時は、《確認して後日回答》と書いた。


 万能な教授の顔をやめた。


 二週間目。


 全選片の返却確認。


 鈴華の台帳だけで完了にしない。


 本人へ、何が返ったと感じるか尋ねる。


 返った過去の選択を、もう使わないと決めてもいい。


 決め直してもいい。


 分からないと答えてもいい。


 第三者に説明したくなければ、《確認拒否・返却権保持》とだけ記録した。


 三週間目。


 アトランティスの段階解凍が始まった。


 都市全部を起こさない。


 観測室に近い一人へ、身体状態と記憶への影響を説明する。


 起きるか、待つか、本人の署名を得る。


 教授は監視下で翻訳と被害記録を担当した。


 キャリーが魔械文書を確認し、母さんとハヨンが現代側の安全値を別々に計算する。


 誰か一人が《安全》と書いても実行しない。


 三系統の数値と、本人の同意が揃って初めて、一秒の次へ進める。


 都市が完全に戻る日は、まだ遠い。


 急がないことが、今度の計画だった。


 調査中、教授は教師職と決闘管理から外された。


 逃亡も、証拠の校正もできない監視環境で、被害者への説明、返却記録、段階解凍へ従事する。


 四週間目。


 世界側の暫定報告が、十二の言語で公開された。


 停止へ直接結びつく死亡は確認されなかった。それでも、《被害なし》とは一行も書かれなかった。


 非常停止した列車の車内で転んだ人がいた。搬送先との通信が詰まり、別の病院へ向かった救急車があった。港では宙吊りの貨物を一本ずつ検査し直し、空港では着陸順を組み直した機体の乗客が、知らない街で朝を待った。止まった時間が短くても、その後ろへ延びた時間は短くない。


 故障、軽傷、追加輸送、営業停止。国も組織も違う報告を、同じ原因の別々の結果として数え直した。学校の一件で丸めず、各地の窓口が本人から申告を受け、学園側に補償と再発防止を求める手順も公開された。


 母さんは外縁遮断の記録を提出した。教授は監視下の公開回線へ座り、自分が接続した節と予測できなかった影響を、一件ずつ説明した。分からない項目には、今度こそ《分からない》と書いた。


 一人の天才が世界を止めかけた事実を、一つの学校だけで採点しない。そのための外部監査は、オレたちが日常へ戻ったあとも続く。


 説明会のあとには、学園の外から調査団も来た。


 建築、警察、通信、機器解析。専門の違う人間が塔を測り、壁を撮り、七階まで何度も上り下りした。


 けれど、見つかったのは図面どおりの七階建ての塔だけだった。


 資格階段も、屋上扉の向こうにある雲上闘技場も、停止した時間の痕跡も見つからない。塔の中から、教授の説明を物理的に証明できるものは一つも出なかった。


 当然だ。


 時間が止まることも、崑崙の法宝も、アトランティスの技術も、普通の人間の測定器だけで理解できるものじゃない。


 だからといって、なかったことにはならない。


 教授自身の説明、返却された記録、改ざんされた同意書、選片を奪われた本人たちの証言は残った。塔から証拠が出ないことと、教授が何もしていないことは別だ。


 処分と監査を経て、教授は新年度から学園の教職へ復帰した。


 ただし、決闘管理にも委員会顧問にも戻らない。塔の接続資格と、魔械文書へ触れる鍵も失効したままだ。研究設備、生徒記録、成績、進路へ単独で触れる権限もない。授業には別の教員が立ち会い、生徒は理由を言わずに別の授業を選べる。説明と返却の仕事も終わっていない。


 無罪になったわけでも、全員に許されたわけでもない。


 教授が教師だったことまで消さず、これから何を教え、何を選ばないかを見張る。それが、学園と外部監査の出した結論だった。


 罰がこれだけで終わるかは、オレが決めることじゃない。


 許すかも、一人ずつ違う。


 教授自身にも、きれいに終わる選択はなかった。


     *


「絶対運命補完委員会を、もう一度作ります」


 鈴華が黒板へ書いた。


 決着から一か月。


 旧委員会室には、赤い目の旗がない。


 代わりに、色の違う四十八枚の小さな紙が壁へ貼ってある。


「名前は残すのか?」


 オレは長すぎる文字を見る。


「《絶対運命を補完しない委員会》じゃなかったの?」とひなた。


「否定を名称へしますと、活動内容が伝わりません」と鈴華。


「絶対、いらなくない?」と藍羽。


「伝統です」


「悪い伝統もあるぞ」と先輩。


「あなたが言いますか」


 新年度になり、先輩と鈴華は高等部三年へ、蓮は高等部二年へ進級した。


 オレと藍羽、ひなたも中等部三年になった。日本での留学は、中等部を卒業するまであと一年だ。


 学園は、紫苑の履修と補完被害を科目ごとに審査した。戻った提出物から必要な単位を追認し、不足分は補習計画へ分けた。


 そのうえで紫苑は、遡って卒業したことにはせず、高等部三年をもう一度やると選んだ。先輩、鈴華と同じ学年で、今度は自分の名前が残る一年を学校で過ごす。


 三人とも在校生のまま、新しい委員会を作る側にいる。紫苑も、役職を持たない協力者として席へ着いている。蓮は今日の議事進行役だが、役職はまだ誰にも固定していない。


 腕章は、机の上に置いたまま。


 その隣には、三つの法宝が並んでいる。


 キャリーが、この一か月で修理したものだ。


 雷綴は焦げた外装と導路を直し、余剰な電気を地へ返す本来の流れを取り戻した。時門時計は割れた外装と透明板を作り直し、本来の三十秒安全枠を越えれば必ず閉じる。心響鈴には、鈴華だけが開閉と強さを決められる新しい濾過環が加わり、管理者の声を優先する裏側の路はない。


 強くするための改良じゃない。


 外から勝手に起動できないこと。上限を持ち主にも隠さないこと。止めたい時は、使っている本人が止められること。


 壊れていた箇所は直っても、壊れた経緯と修理前の状態は三人の記録に残っている。


「安全に使いなさい。使わないと決める時も、自分で決めなさい」


 キャリーは、三人へそう言って返した。


「前より面倒だな」と先輩。


「安全とは、手順が増えることでもあります」と蓮。


「管理者ではなく、使用者の手順です」と鈴華。


 三人とも、すぐには手に取らなかった。


「議題一。補完の定義」


 蓮が読む。


 黒板へ、ひなたが大きく書いた。


《本人の代わりに正解を選ばない》


《足りない選択肢を増やす》


《奪われた選択を持ち主へ返す》


《相談を断る選択を残す》


「絶対に守るのは、運命じゃなくて、この四つ」とひなた。


「それなら絶対が残る」と先輩。


「強引ね」と藍羽。


「でも、前よりいい」


 ハヨンは新しい相談票を確認する。


 氏名を書かなくてもいい。


 途中で相談をやめられる。


 提示される案は最低二つ。


 今すぐ決めない欄もある。


「同意撤回方法、明記。用途外利用、禁止。研究利用は別紙で再同意」


「ハヨンが一番厳しいな」とオレ。


「経験者だから」


「薬の?」


「同意を飛ばした側の」


 ごまかさない。


「議題二。雲上闘技場」


 蓮が塔の新しい規則を出す。


 旧制度の三段階も、名前を伏せずに監査結果へ載せた。


 公開されていたレベル1は、選択を奪う機能を外し、《任意約束》だけを記録する試合形式へ作り直す。


 レベル2の条件選択移譲は廃止。実行術式も管理端末から削除し、削除記録を全校へ公開する。


 レベル3(原典級)は起動機能を封印。原本は被害と返却を検証するためだけに、崑崙、アトランティス、学校外部監査の三者鍵へ分ける。教授にも、新しい委員会にも、学園にも単独では開けない。


 塔は壊さない。


 外観七階の塔、資格階段、屋上扉からつながる直径百二十メートルの雲上闘技場も残す。選闘のない時は、接続資格を持つ者と、一時同行登録された者が入れる。資格のない者は七階から先で数を失い、屋上扉へ到達できない。


 選闘中に当事者二人以外の姿を待機相へ外す安全機構も残す。外縁から落ちれば屋上扉の階段側へ即時転送され、選闘の外なら計数なしで安全に帰還できる。


 ただし、強制挑戦はできない。


 参加は任意。


 開始前なら、どちらも理由なしで撤回できる。


 賭けられるのは、本人が自分から預けた軽い約束だけ。


 第三者の身体、記憶、関係、所属、時間を請求できない。


 勝者が相手の選択を奪うのではなく、互いが事前に約束したことを、終了後にもう一度確認する。


 片方が履行を断れば、選択を封鎖せず、普通の約束違反として話し合う。


「それ、選闘で賭ける意味あるか?」


 オレが聞く。


「試合の記録と安全停止」と蓮。


「勝ったら昼飯を断れない、はなくなるのか」


「なくなります」


「しょうもない請求が!」


「喜ぶところでしょ」とひなた。


「勝った感じが減る」


 藍羽が手を挙げた。


「勝ったら、その場で相手をもう一回誘えばいい。断られたら断られる」


「なるほど」


「それでいいの?」とひなた。


「勝負は勝負だ。昼飯は昼飯」


 前は分けていなかった。


 いまは分ける。


「議題三。名称の承認」と蓮。


「もう決まったのか」


「僕は、《選択肢補完・返却相談委員会》を提案します」


「長い!」


「短くすると?」


 鈴華が古い看板を裏返した。


 裏へ、新しい文字を書く。


《絶対運命補完委員会》


 名前は同じ。


 下へ、小さく説明を足した。


《あなたの答えを決めません。選べる道を一緒に増やします》


「看板代を節約しました」


「結局、予算か!」


「大切ですわ」


 全員が、自分で賛成か反対を言う。


 全会一致ではなかった。


 藍羽は《絶対》を外す修正案。


 ひなたは通称を短くする条件付き賛成。


 オレは昼飯相談も受けるなら賛成。


 議論の末、正式名は残り、半年後に再検討となった。


 決まらない部分も、議事録へそのまま残した。


 会議が終わると、ハヨンが机の中央へ携帯ゲーム機を置いた。


 端末も計測器も出さない。白雲衣の袖にも手を入れない。


「時任さん。今度こそ続き」


「妨害道具はありで」


「今日は走行データを取らない」


「解析しないの?」


「しない。前の負け方は残ってる。次に時任さんが何を選ぶかは、始まってから見る」


「正解を解かなくていい?」


「遊びだから。分からないままやる」


 蓮は一拍遅れて笑い、議事録を閉じた。腕章を机へ残したまま、角の擦れたゲーム機を取った。


 開始三秒。最短線を外れた車が、ハヨンの車へ横からぶつかる。


「時任さん、また」


「ゲームですから」


 ハヨンも最短線を捨て、拾った妨害道具をすぐ投げ返した。


 蓮は、会議の時には見せない顔で笑った。


 前の一敗は消えない。


 これは同じ一戦のやり直しじゃなく、そのあとに二人で選んだ次の一戦だ。


 その勝敗は、どの議事録にも書かれなかった。


     *


 身体の答えを聞かれたのは、その夜だった。


 天道宗道場の大広間。


 床の十三重円には、もう選塔の赤い線が重ならない。


 母さんとハヨンが、三枚の図を並べる。


 父さんは白熊のまま壁際へ座り、何も書かずに待っている。


 おっさんと藍羽は、庭にいる。


 答えを聞く場へ、大勢で囲まないためだ。


 ハヨンは調整装置の電源へ手を置いた。


 触れない。


 先に、オレを見る。


「お兄ちゃんは、どうしたい?」


 薬の成分も、成功率も、先に言わなかった。


 何を選ぶべきかも。


 オレの答えを待つ。


「男の身体で毎日いたい。そこは変わらない」


 ハヨンはうなずく。


 まだ装置へ触れない。


「理由を聞いていい?」


「オレは男だから。満月だけじゃなく、朝起きた時も、学校へ行く時も、生まれた時からの身体でいたい」


「学校で説明しなくてよくなるから?」


「それは学校の側にも、その都度先に聞かせろ。個室が必要か、記録へ何を書くか、身体の安全に何が要るか。オレを楽に扱うために男へ戻るんじゃない」


 言ってから、自分の胸へ手を置く。


「オレが、そうしたいから選ぶ」


「女相を消したい?」


「消したくない」


 即答する。


「女の身体になったのは、オレが選んだことじゃない。戻りたいと思ったのも本当だ」


 赤い編み髪へ触れる。


 いまは女の身体。


「でも、この身体で過ごしたことはオレが選んだ。藍羽と戦った。先輩たちと行事を作った。紅燕歩も、聴脈も、無選歩も覚えた。教授に勝った」


 女の身体を否定すれば、その全部まで事故へしてしまう。


「経験も技も、どっちの運動地図も残したい。その上で、いつかは男の身体を毎日の基準にしたい」


「了解」


 ハヨンが、やっと三枚の図を開く。


「安全にできる処置は三つ」


 一枚目。


《男相を日常基準へ戻す》


「補完圧が消えたから、出生相を通常の身体相として安定させられる。月齢に関係なく男の身体。女相の記憶と運動波形は保存。必要なら将来、再評価できる」


 二枚目。


《月ごとの切替を残す》


「いまの帰還枝を維持する。通常は女相、満月の月の出から月の入りまで男相。これまでと同じ。ただし切替時の衣服と体調管理は必要」


 三枚目。


《女相を日常基準へする》


「現在相を基準として安定させ、月ごとの男相照合を休止する。男相の記憶と運動波形は残る」


 母さんが補足する。


「どれも、恋愛対象や人格へ触れない。あなたが誰を好きになるかは処置しない。今夜決めないこともできるわ」


「成功率は?」


「三案とも安全基準を満たした」とハヨン。


「一番高いのは?」


 前なら、それを答えにしたかもしれない。


「差は〇・二パーセント未満。選択理由にするほどではない」


「長期徐放担体は?」


「留学終了までの設計範囲にある。循環も続いてる」とハヨン。


「でも、それは今の女相を維持する式ではないわ」と母さん。「身体相へ作用が逃げた時点で、卒業日に薬効を切る予定式も使えなくなった。卒業すれば自然に男相へ戻る、という意味ではないの」


「分かってる」


 薬が切れる日を待つんじゃない。


「じゃあ、二つ目」


 月ごとの切替を残す。


「選ぶ」


「男相を日常基準へ戻したい気持ちは、変わってないんだよね」とハヨン。


「変わってない。だから、薬や満月に決めさせない」


 自分の胸へ手を置く。


「三年生の一年は、この周期で過ごす。普段は女、満月は男。中等部を卒業する時、もう一度測って、その先の毎日をオレが決める」


「私が留学中ずっと効くようにしたからって、そこまで続ける義務はない」


「知ってる。おまえの予定に従うんじゃない。いま固定しないって、オレが決める」


「卒業まで、選び直せないわけでもない」と母さん。「身体に危険が出た時も、あなたの気持ちが変わった時も、その時点でもう一度相談できる」


「それでいい」


「確認。通常は女相。満月の月の出から月の入りまでは男相。帰還枝と、二つの記憶と技、第三線を残す。中等部卒業時に再評価する。いい?」


「いい」


「了解。帰還枝はお兄ちゃんの中へ残す。今日は観測記録だけ取っていい?」


「いい」


 ハヨンは調整装置の電源から手を離し、観測器だけを十三重円へ置いた。


 端末へ《処置なし/月例切替継続/定期観測》と記録する。


 母さんは横から手を出さない。


 ハヨンの手順を監視し、危険値だけを読む。


 父さんは何も命じない。


 十三重円へ、赤ではない二本の波が出る。


 男相。


 女相。


 その二本を包む、細い第三線。


 どちらかを日常へ固定する線は出ない。男相は次の満月へ、女相はいまの身体へつながっている。帰還枝も、オレの中に残っている。


 肩も、指も変わらない。一本の三つ編みは赤いまま。緋天衣の上着も朱赤のままだった。


 何も起きなかった。


 何も決めなかったんじゃない。


 いまは変えないと、オレが決めた。


「お兄ちゃん」


 ハヨンが呼ぶ。


「何だ」


「どう?」


「腹減った」


「身体所見を聞いた」


「変化なし。正常だ」


「先に言って」


「オレへ先に聞いた仕返しだ」


 ハヨンが呆れた顔をする。


 それから笑った。


 次の満月は、四月の終わりに来る。


 男の姿で学校へ行くか、道場で測るか。それも、その時に決める。


 普段は女の身体。満月は男の身体。中等部を卒業する時、その先の毎日をもう一度選ぶ。


 それでも従兄のふりはしない。「女の身体でいた時間は間違いだった」とも言わない。


 「赤いお兄ちゃん」と呼ばれたことも、一人部屋を選んだ夜も、朱赤の上着で勝った試合も、全部オレの続きだ。


 面倒なら、短く言う。


 オレはハミンだ。詳しい話は昼飯のあと。


     *


 庭へ出ると、藍羽が待っていた。


 拳当てを両手へ付けている。


「いま決めたばかりだぞ」


「だから、宣言だけ」


 藍羽の後ろ、縁側の柱に新しい稽古表が掛かっていた。


《土曜・初級組 担当 如月藍羽》


「今までも子どもに教えてただろ」


「今までは、父さんが組んだ順番で教えてた。今度は順番から私が組む」


 稽古表には、同じ型へ入る三つの歩幅が描かれている。


 大きく踏める人。


 半歩しか出せない人。


 怖くなったら、一度止まってから入る人。


「父さんから習った呼吸も、ハミンと作った動きも、子どもたちへ教えて分かったことも入れる。全員を同じ一歩へ揃えない」


「それが、自分の天道宗か」


「最初の一歩」


「名前は?」


「あとで考える!」


「前にも聞いたぞ」


「いまは中身を作ってるの!」


 藍羽はオレを真っすぐ見る。


「男の身体のハミンにも、女の身体のハミンにも、一勝ずつする」


「オレはどっちでもオレだぞ」


「知ってる。でも間合いが違う。両方に勝ったら、言い訳できないでしょ」


「一回も勝ってないやつが言うな」


「これから勝つの!」


「受ける」


「いつ?」


「昼飯のあと」


「また昼飯!」


「大事だろ」


「じゃあ食べたら一本」


「自分から?」


「自分から」


 約束は、選塔へ登録しない。


 明日、どちらかが気を変えれば、もう一度聞く。


 それでも、いまは二人ともやると選んだ。


 藍羽と拳を軽く合わせる。


「その前に、オレともいいか」


 先輩が縁側の柱から出てきた。


「盗み聞き?」と藍羽。


「待ってた」


「何を」


「ハミンが身体を決めるのを」


 先輩は雷綴を道場の壁へ預け、新しい委員会規則の草案を丸めた筒を脇へ挟んでいる。


「満月の夜、月が出てる間だけ男へ戻るままでも、前の話を取り消すと思うか?」


「前の話が多すぎる」


「好きだって話だ」


 藍羽が一歩下がる。


「私、席を外す?」


「外さなくていい」と先輩。


「何で?」


「隠す気がない」


「オレには心の準備をさせろ!」


「待つ」


 先輩は本当に黙った。


 オレが息を整えるまで、答えを先へ進めない。


「言え」


「オレが好きになったのは、女の姿だったからじゃない」


 明るい声。


 でも、冗談にしない。


「戦って、負けて、昼飯を食って、行事で背中を預けた。男へ戻りたいって聞いたあとも、変わらなかった」


 オレを見る。


「好きになったのは、ハミンだ」


「オレは女の子が好きだ」


「知ってる」


「すぐ返事はできない」


「それも知ってる」


「勝負に賭けるなよ」


「賭けない。返事を迫る選闘は、旧規則でも保護領域だ」


「規則じゃなくても駄目だ」


「分かってる」


 先輩は拳を出した。


「いまは戦友。それでいい」


「オレが決める台詞だぞ」


「じゃあ?」


「いまは戦友」


 拳を合わせる。


 朱赤の袖から出たオレの拳と、先輩の拳。


 一度だけ軽く触れ、離れる。


 先輩は、それ以上答えを取らなかった。


「話、終わった?」


 藍羽が拳当てを締め直す。


「じゃあ私との一本」


「昼飯は?」


「そのあと!」


「順番を勝手に変えるな!」


     *


 後日、勝者請求の昼食は、一つの長机だけでは足りなかった。


 校庭いっぱいの机。


 講堂。


 食堂。


 空き教室。


 決闘制度の試作から最後の監査まで、選片を保管された元所有者全員へ、教授が一食を提供する。


 学校へ来て同じ場所で食べる。


 静かな別室で食べる。


 持ち帰る。


 自宅や指定先へ届けてもらう。


 受け取り自体を辞退する。


 請求文どおり、方法を本人が選べた。


 この日までに全員へ個別の提供票と返却説明が届き、元所有者はそれぞれ自分で受領方法を返した。学校へ来ないと選んだ人の一食も、指定された場所へ同じ時刻に届く。持ち帰りを選んだ人は、入口で包みを受け取った。


 辞退欄も空白ではなかった。


 教授は、その一件へも《本人選択により不受領。請求提供は保持し、希望時に一食を提供》と記録した。食べさせて完了にしない。


 その上で、ほとんどの元所有者が、学校規模の昼食会へ何らかの形で参加した。


 主役はオレたちじゃない。


 奪われたものを返してもらった全員だ。


 だから、校庭には一種類の最適パンを置かなかった。


 辛い鍋。


 塩鍋。


 野菜の煮込み。


 魚。


 肉。


 卵を使わない料理。


 持ち帰りやすい弁当。


 食べるものを決めたくない人向けには、あとで選べる引換票。


「種類が多すぎます」


 蓮が配置図を見る。


「配膳経路が十三本。途中で鍋へ行く人と弁当を取る人が交差します」


「止めるか?」と先輩。


「いいえ。矢印を増やします」


 蓮は一つに絞らない。


 赤、青、黄色の案内線を床へ貼った。


 途中で変えてよいと、分岐のたびに書く。


 鈴華は予算表を持っている。


「教授の個人資産、学園の不正運用返還金、研究特許の利用料。請求履行に不足なし」


「オレが食べ過ぎても?」


「ハミンさん一名へ一食です」


「おかわりは?」


「本人負担」


「厳しい!」


「一食を軽く扱わないよう、ご自身でおっしゃいました」


「覚えてたか」


「会計ですから」


 鈴華は黒い和装の袖を上げ、配膳表へ自分の希望を書いた。


《辛い鍋、少量。団子あり》


「辛いの好きだったか?」と紫苑。


「本日は試します」


「結果を先に言う。団子のほうが好きだ」


「原因を待ってください」


 ひなたは大きな名札を作った。


 席を強制する名札じゃない。


 誰が座っているか、あとから来た人が聞ける名札。


 紫苑の前には、今回も厚い紙。


《霧崎紫苑》


 でも文字は薄くならない。


「名前、お願いします」


 ひなたがわざと聞く。


「書いてあるだろ」


「本人から聞く」


「霧崎紫苑」


「覚えた」


「今日は忘れないぞ」


「明日も聞くかもしれません」


「好きにしろ」


 紫苑は、自分で辛い鍋の列へ並んだ。


     *


 校庭の中央に、一本の長机がある。


 こちら側には、オレ、藍羽、ハヨン、先輩、蓮、鈴華、紫苑、ひなた、おっさん、母さん、父さん。


 誰の手首にも請求印はない。全員が、自分でこの席を選んだ。


 教授は最初、配膳台の後ろに立っていた。


 左腕には包帯。


 サングラスはかけず、元所有者へ一人ずつ食事票を渡している。


「座らないのか」


 オレが聞く。


「提供者が先に食べては、請求履行の確認ができない」


「全員が食べ終わるまで立つ気か?」


「その予定だ」


「蓮みたいになってるぞ」


「僕は、いまは休憩を入れます」と蓮。


「反面教師にされたね」


 教授は少し笑う。


「おまえも食うか、自分で決めろ。席は空いてる」


 勝者命令じゃない。


 教授は、配膳表を見る。


 まだ受け取っていない元所有者がいないことを確認する。


 代理受領と配送の記録も確認する。


 係へ自分の仕事を引き継いだ。


「同席してよいかね」


「元所有者に聞け」


 教授は中心卓の全員へ、一人ずつ尋ねた。


 嫌だと言う者がいれば、別の席へ行くつもりだった。


 先輩は長く黙ったあと、うなずく。


 鈴華も、蓮も、自分で答えた。


 全員が、今日は同じ卓で説明の続きを聞くと選んだ。


 教授が端の席へ座る。


 許した印じゃない。


 次の話をする一食だ。


「長机なのに、キャリーさんがいない」


 藍羽が言う。


「ここにいるわよ」


 声は、長机の下からした。


 机の端に固定された銀の端末には、《食事転送口:安全試験済み/三系統照合一致/生体転送ロック》と緑の文字が出ている。母さん、ハヨン、キャリーの三つの署名が揃ったあとだ。


 白い卓布が持ち上がる。


 本物のキャリーが、銀の端末と青い説明書を抱えて這い出してきた。


「何してるんですか」と藍羽。


「食事転送口のせ、接続は終わっているわ。落とした外装の留め具が転がって」


「その説明書、また鍋用」とハヨン。


「途中までは同じ構造よ」


「途中から違う」


 机の中央に置いた水鏡が縦に立つ。


 向こう側は、アトランティスの観測核。


 自律観測像のキャリーが鏡の中で、正しい接続図を上下逆さに掲げている。


「そっちも逆」とハヨン。


『失礼』


 本物と観測像が同時に図を返した。


「似てるな」とオレ。


「元データが同じだもの」と二人が同時に答えた。


 本物のキャリーは、空いていた椅子へ身体で座った。


 投影じゃない。


 日本へ自由に移動できなかった長い隔離は、管理者権限の返還で終わっている。ただしアトランティスへ近づくたび、安全な外部位相を経由しなければならない。母さんと組んでも、往復には何重もの確認が要った。


「朝食一人前の借り、ようやく払うのじゃな」


 おっさんが鏡の前へ鍋を置く。


「一か月、利息が付いた」


「勝手に付けないで、天道王」


 キャリーは机の下から皿を一枚取り出す。


 アトランティスの海草と豆を煮た料理。


「現物を持ってきたのか?」


 オレが箸を伸ばす。


「少量、双方同意、質量交換を合わせれば。私も通ったでしょう」


「料理はいいのか」


「料理に移動の意思を聞く必要はないけれど、所有者の許可は取った」


「誰の?」


「私の」


「じゃあ食う」


「お兄ちゃん、一食の種類を越える」とハヨン。


「試食だ」


「量は一口」と鈴華。


 キャリーが笑う。


 こちらの身体で箸を持ち、同じ時刻に食べる。


 観測室の外では、起きると選んだ最初のアトランティス市民が、別の卓でゆっくり食事をしていた。


 まだ数人。


 次に起きる者を急かさない。


「段階解凍、第一群の生命値は安定」


 母さんが端末を見る。


「第二群の開始は三日後ね」


「五日後」とキャリー。


「数値上は三日で安全」


「本人が五日待ちたいと言った」


 母さんはすぐ予定を書き換えた。


「なら五日後」


「ハユンが一度で引いた」


「本人の選択は計算対象じゃないもの」


「いい研究者になったわね」


「前からよ」


「一人ずつ聞くのか」


 紫苑だった。


「ええ。少なくとも百八十万回」


「何年かかる」


「あなたが生きている間には終わらない」


「なら、早く始めたほうがいい」


 キャリーが箸を置いた。


「弟子は取らないわよ」


「即答だな」


「総司で懲りたの」


「弟子入りしたいなんて言ってない。本人の返事を読んで、記録へ戻す人間が要るだろ」


「操作鍵は渡しません」


「要らない。俺は読み手をやる」


「返事を先に決めない読み手が必要なの。できる?」


「できるとは言わない。見て決めろ」


 キャリーは紫苑を見た。


「では、放課後に面接します。学校を休まないこと」


「三年生をもう一度やるって決めたばかりだ。休まない」


 それから紫苑は学校へ通いながら、放課後だけキャリーの記録補助をすることになった。装置には触れず、起きるか待つかを本人へ聞き、返事を本人の言葉のまま記録する。


「二人とも、食べながら研究しないで」とハヨン。


「あなたが言う?」と母さん。


「今日は言う」


 三人の天才が、同じ鍋を挟んで言い合う。


 誰も一人で解決しない。


 父さんは白熊のまま、長机の一番大きな椅子へ座っている。


 着ぐるみは脱がない。あれも崑崙の法宝、白沢衣だ。体格に合わせて中の寸法を変え、汚れを寄せつけず、白熊の外形を人へ見せても、中の着用者を一人の存在として観測させない。


 一言も喋らない。


 熊の手で箸を持つのは難しいので、小さな食事用の挟み道具を使って肉を取る。


 先輩がじっと見る。


「お父上。食後に一戦、お願いできますか」


 父さんは首を横へ振る。


 紙へ書く。


【紙面:昼食が先。】


「食後なら?」


 次の紙。


【紙面:昼寝。】


「そのあと!」


【紙面:夕食。】


「避けられてるぞ」とオレ。


「選択を尊重する!」


「言いながら何回も聞くな」


 おっさんは大鍋を自分の前へ寄せる。


「選択とは、早い者勝ちでもある」


「違う!」


 藍羽が鍋を取り返す。


「父さん、一人で食べないで」


「わしが作った」


「みんなの昼食!」


「まだ大鍋が二つ」と蓮。


「なら一つはわしの」


「予算上、一人分ですわ」と鈴華。


「世知辛い世になったのう」


「前からです」


 ひなたが笑う。


 紫苑は辛い鍋を食べ、鈴華は一口で水を取った。


「団子のほうが好きだろ」


「まだ原因を検証中です」


「顔が結果を出してる」


「幻ですわ」


「鈴、使ってないぞ」


「比喩です」


 先輩はオレの隣に座ろうとして、今日は先に聞いた。


「ここ、いいか」


「いい」


 藍羽は反対側へ自分で座る。


「その席、競争だった?」とひなた。


「違う」と二人が同時に言う。


「息ぴったり」


「違う!」


 また同時だった。


 蓮は一時十五分に配膳、二時に片づけと予定へ書いていた。


 時計を見る。


 予定より十九分遅れている。


「片づけを遅らせます」


「いいの?」


「まだ食べたい人がいる。帰りたい人は自分の食器だけ返せば帰れる。それで進行を分けます」


「遅れたら、オレが待つぞ」


「もう待っています」


「じゃあ食う」


「それは待つとは言いません」


 鈴華が教授へ、昼食提供の最終確認票を渡す。


「元所有者全件、提供経路確保。受領済み、配送済み、持ち帰り済み、本人辞退による保持。強制参加、零」


「確認した」


 教授が自分の名前を書く。


「勝者請求、履行完了だ」


「まだオレが食い終わってない」


「一食は提供したよ、ハミンくん」


「おかわり」


「自費だ」


「黒幕のくせに細かい!」


「責任と会計は別だ」


「それ、鈴華みたいだぞ」


「光栄ですわ」と鈴華。


 教授は自分の皿へ、少しだけ塩鍋を取った。


 キャリーが同じ長机の向こうから見る。


「総司」


「はい、キャリー先生」


「次の解凍手順、あなたの案は却下」


「まだ提出していません」


「顔に書いてある」


「心を読まないでください」


「師の経験よ」


「鈴華より厄介だな」とオレ。


「ハミンさん、わたくしを比較対象に使わないでください」


「でも、次は聞く」


 キャリーが続ける。


「総司。あなたが案を出す。私が危険を数える。起きる本人へ説明する。本人が選ぶ。順番を飛ばさない」


「承知しました」


「返事が早い」


「では、考え直します」


「そこは早くていい」


 教授が少し笑った。


 師匠と弟子の話は、終わっていない。


 許しで一行にまとめず、次の手順を一つずつ進める。


     *


 腹がいっぱいになった頃、誰かが鼻歌を始めた。


 校庭の端。


 元所有者の一人。


 文化祭へ来ていた生徒かもしれない。


 ん――。


 音程は外れている。


 別の教室から、高い音が返る。


 講堂からは、短い一音。


 長机の向こうで、キャリーも小さく重ねた。


 藍羽が入る。


 先輩は大きすぎる。


 蓮は一拍遅い。


 鈴華の音は細い。


 紫苑は口を閉じていたが、ひなたに見られ、仕方なさそうに低い音を出した。


 ハヨンは計測器へ手を伸ばす。


 途中で止める。


「今日は、歌う」


 眼鏡の奥で目を閉じ、自分の音を選ぶ。


 母さんの声は、少し高い。


 おっさんは腹の底から低すぎる音を出し、鍋の蓋を震わせた。


 教授は歌わない。


 聞くと選んでいる。


 父さんも声を出さない。


 白熊の身体で立ち上がる。


 全員が見る。


 父さんは、一枚の紙を掲げた。


【紙面:腹が減った。】


「いま食っただろ!」


 笑いが、校庭から講堂へ広がる。


 誰かは歌うのをやめた。


 誰かは笑いながら続けた。


 オレも低い鼻歌を重ねる。


 ばらばらの音は、一つの正解にならない。


 違うまま触れ、空気の縁へ小さな色を灯す。


 時計塔の秒針が、一つ進む。


 次も進む。


 その次も。


 時間は、もう止まらなかった。


最終話エンディングテーマ

たいようは約束:グランドフィナーレ

https://youtu.be/YvaPBjv8b3w

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