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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第八章「はみんぐ・ふれあ」
PR
46/48

第46話「奪われた満月を取り返す」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

《一二:五九》


 教授の短杖が消えた。


 そう見えた。


 次の瞬間には、黒い先端がオレの胸へ来ている。


 右へ避ける。


 左へ払う。


 下へ潜る。


 三つの動きが、床へ影になった。


 教授の左手が空中へ三本の赤線を引く。


 右足から力が抜ける。


 左腕が遅れる。


 膝が曲がらない。


 残ったのは、後ろへ下がる道。


 短杖は、もうそこへ回っていた。


 石突が肩へ触れる。


 強く打っていない。


 それでも気の流れを正確に切られ、腕が落ちた。


『有効打、目黒』


《ハミン〇―目黒一》


《一二:四八》


「十一秒か」


「前回より遅いよ、ハミンくん」


「最初の一発を取るのに?」


「初めての授業では、三秒だった」


「覚えてろ。あとで抜く」


 肩を回す。


 痛い。


 骨に異常はない。


 女の身体でも、オレは崑崙の道士。人界の呼び方なら仙人だ。人間相手なら、体育の授業でも普通の格闘でも圧倒できる。けれどオレ自身の基準では、男だった頃の半分どころか、出力も間合いもまるで足りない。


「これで半分も出てないんだぞ」


「体育の授業で言う台詞ではないね」


「教授との選闘は授業じゃないだろ」


 短杖は、キャリー仕込みの型だ。


 教授は規則を使わなくても強い。


 おっさんのように気で身体を覆わない。先輩のように間合いを棒で埋めない。必要な場所へ、必要な角度で、短い距離だけを動く。


 そこへ、候補校正が重なる。


 オレが考えた動きを最大十二まで読み、届く三つを赤く消す。


 残った一つを、杖術で潰す。


 前は、それで何もできなくなった。


「同じ授業なら、復習してきたぞ」


 鼻歌を鳴らす。


 ん――。


 誰かへ送る合図じゃない。


 先輩たちから力が届くわけでもない。


 女の身体の小さな肺へ、自分の呼吸を戻す音だ。


 教授が踏む。


 革靴の底が床へ触れる前、空気の厚さが変わる。


 聴脈。


 耳で音を聞くんじゃない。


 呼吸、気、床、時間の流れへ混じる脈を拾う。


 短杖が左から来る。


 受ける、伏せる、内へ入る。


 三候補。


 赤線が出る。


 全部消える。


 残った後退へ、教授の膝。


 腹へ触れられる一瞬前、四つ目を作る。


 後ろへ倒れる。


 背中から紅燕歩。


 肩を軸に、小さく回る。


 膝は緋天衣の赤いチャイナ風の上着をかすめた。


 床へ片手をつき、起きる。


「身体・復」


 教授が言う。


「扉の分類を覚えたのか?」


「転倒から再開する動きだ」


「勝手にオレを分類するな」


「分類は返すために必要だよ」


「殴る時にはいらない」


 低いまま踏み込む。


 候補を七つ。


 左拳。


 右掌。


 足払い。


 肩。


 頭。


 内へ回る。


 外へ回る。


 教授が一度に消せるのは三つ。


 左拳、足払い、内回りへ赤線。


 残り四つ。


 どれかを選ぶ前に、短杖が中央を横切る。


 教授は、オレが候補を増やすことも知っている。


 全部を消す必要はない。


 一本の杖で、四つが通る空間そのものを塞げばいい。


 肩へ二発目。


『有効打、目黒』


《ハミン〇―目黒二》


《一一:五七》


「十二まで増やせば勝てると思っていないね?」


「前にそれで負けた」


「なら、何を変えた?」


「触って確かめろ」


「それは教師の台詞だよ」


 教授が短杖を引く。


 左手の指先から、細い煙が出ていた。


 赤線を六本。


 二回、三つずつ引いた。


 前の戦いでは、そのたび雲の下で選片が燃えた。


 いまは燃えない。


 四十七頁は返却路へ戻った。


 誰かの《左へ行きたかった》も、先輩の昼飯を断る一回も、教授は燃料にできない。


 赤線の代価は、教授自身の気と、左腕へ残る校正火傷へ返っている。


 袖の下で赤黒い線が一段伸びる。


 それでも校正は止まらない。


「痛いだろ」


「必要経費だ」


「キャリーなら請求書に書けって言うぞ」


「もう書かれている」


 教授が左腕を見せる。


「私は読まずに使っただけだ」


「なら、今日は読め」


 正面から入る。


 十二の候補を出す。


 拳。


 掌。


 肘。


 膝。


 足払い。


 回し蹴り。


 紅燕歩、右。


 紅燕歩、左。


 跳ぶ。


 伏せる。


 進む。


 退く。


 教授のサングラスへ、十二人のオレが映る。


「校正領域、十二候補」


 左手が動く。


 三本。


 届く候補が消える。


 そこで一歩も進まない。


 教授の短杖が、残り九つを塞ぐため横へ出る。


 オレは杖へ手を伸ばした。


 握る。


 流す。


 押す。


 三つの重心応答を、同じだけ身体へ残す。


 一つを選ばない。


 杖が掌へ触れた。


 右下へ押してくる。


 触れた事実が先。


 そこから身体が決める。


 押された右下を足場にし、左肩を落とす。


 紅燕歩で杖の内側へ回る。


 教授の赤線が遅れた。


 回ると考えた時には、もう接触のあとだ。


 校正できる《選択前の候補》がない。


 掌で、教授の右脇へ触れる。


『有効打、ハミン』


《ハミン一―目黒二》


《一〇:四一》


「無選歩」


 教授が間合いを外す。


「頭を空にしたのかね」


「逆だ」


 息を整える。


「握るのも、流すのも、押すのも、全部残してた。おまえの杖が触ってから、押された方向へ動いただけだ」


「選択を遅らせた」


「触れた事実へ答えた」


「同じことだよ」


「じゃあ、消してみろ」


 教授は笑った。


「いい生徒だ」


「おまえの生徒として勝つんじゃない」


「学んだものは、教師を嫌えば消えるのかね」


「消えない。だから面倒なんだよ」


 教授の杖術も、キャリーから学んだものだ。


 師へ逆らっても残っている。


 なら、オレも教授との負けを消さない。


 負けた時に見た半拍を使う。


     *


《一〇:〇二》


『有効打、目黒』


《ハミン一―目黒三》


 短杖の先が腿へ触れた。


 足の気が散り、膝が落ちる。


 無選歩は無敵じゃない。


 触れてから動くなら、触れた時点で打撃が成立する攻撃へは遅い。


 候補を決めなければ、最短の先手も出せない。


 教授はそこを突く。


「待つだけでは、私の一打が先だ」


「分かってる」


 立ち上がる。


 腿が重い。


 紅燕歩の回転が一段遅れる。


 教授は左手で赤線を三本。


 右手で杖を縦へ落とす。


 校正と打撃の間が、前より狭くなった。


 自分の気を燃料にする方法へ慣れてきた。


 オレも、待つだけをやめる。


 候補を十二出す。


 全部へ、同じ速さで体重を移す。


 爪先は正面。


 膝は左。


 腰は右。


 肩は下。


 拳は開く。


 矛盾した運動地図を、触れる寸前まで崩さない。


 教授が届く三つを消す。


 オレの左膝、右肩、正面の掌から力が抜ける。


 残り九つを一度に動かせない。


 でも、九つ全部を技にする必要はない。


 教授の杖が、どの重心を押すかまで保留する。


 杖が右肩へ来る。


 肩を捨てる。


 膝と腰の二つをつなぐ。


 女の身体の低い回転。


 杖の外からではなく、下をくぐる。


 教授の胸へ、額。


『有効打、ハミン』


《ハミン二―目黒三》


《〇八:五八》


 後頭部へ短杖が返ってくる。


 床へ伏せる。


 その候補へ赤線。


 首を振る候補へ二本目。


 前へ倒れる候補へ三本目。


 身体が一瞬固まる。


 教授の膝が脇腹へ触れた。


『有効打、目黒』


《ハミン二―目黒四》


《〇八:二〇》


 息が抜ける。


 床を転がる。


 二点差。


 残り八分二十秒。


 十三分の外側でも、本物の月は進んでいる。


 学園の生徒と時計は管理者固定の一秒へ留まったまま。けれど天文学上の月は、止められた校舎の上を少しずつ移る。


 偽物の月だけが、最初の位置から一寸も動かない。


「どっちが本物か、分かりやすいな」


「本物は動くから?」


「止まってないから」


「動いた先に、雲がある」


「その時は見えなくなる」


「不安ではないかね」


「また出る」


「必ず?」


「必ずじゃないから、見るんだろ」


 踏む。


 教授の左側へ。


 三候補をわざと濃くする。


 顔への拳。


 脇腹への掌。


 足払い。


 赤線が三つを消す。


 狙っていたのは、どれでもない。


 教授のサングラスの左端。


 前の戦いで、オレの指がひびを入れた場所。


 修理されている。けれど薄い継ぎ目が残り、月光が斜めに入ると、左下だけ像が二重になる。


 十二候補の影を見た時、教授の赤線はそこだけ半拍遅れた。


 見えていないわけじゃない。


 見える位置を、サングラスの端でつなぎ直している。


 その間が、死角だ。


 床へ左手をつく。


 紅燕歩を手で使う。


 身体を低く回し、左下へ入る。


 短杖が追う。


 触れた瞬間、無選歩。


 押された方向へさらに沈み、石突を肩の上へ流す。


 右掌が、教授の左腕へ触れた。


『有効打、ハミン』


《ハミン三―目黒四》


《〇七:五六》


 火傷の上だった。


 教授の息が初めて乱れる。


「傷を狙うか」


「致死禁止。傷を壊すなとは書いてない」


「格闘家らしい」


「褒めるな」


「弱点を見逃す生徒では困る」


 教授は短杖を左手へ持ち替えた。


 火傷した腕で杖を握る。


 右手で赤線を引く。


「逆でもできるのか」


「教師は、左右どちらでも黒板へ書ける」


「授業の範囲が広い!」


 右から赤線。


 さっきより少し歪んでいる。


 校正機能は左腕へ根づいていた。手を替えれば、線が出るまで一拍長い。


 その代わり、左の短杖は読めない角度で来る。


 肩。


 膝。


 額。


 オレは一発を受け、一発を返す。


『有効打、目黒』


《ハミン三―目黒五》


《〇六:五九》


 七秒後。


 杖へ触れ、回る。


『有効打、ハミン』


《ハミン四―目黒五》


《〇六:五二》


 その十八秒後。


 教授の左下へ入り、肩で胸を押す。


『有効打、ハミン』


《ハミン五―目黒五》


《〇六:三四》


「追いついた」


「まだ半分だ」


 教授が杖を床へ立てる。


 十二人のオレが、闘技場を囲んだ。


 前回と同じ校正領域。


 拳。


 紅燕歩。


 聴脈。


 無選歩。


 立つ。


 伏せる。


 十二の候補が、それぞれ別の姿勢を取る。


「君の無選歩は、接触まで候補を等しく保つ」


「見て覚えたか」


「私は教師なのでね」


「だから嫌なんだよ」


「なら、接触を与えなければよい」


 短杖の間合いが変わる。


 教授は棒の中央を持ち、回転させた。


 近づけない壁を作る。


 無選歩は、触れたものを足場にする。


 杖が触れる前に、風圧で候補を絞られる。


 右へ逃げるか。


 左へ沈むか。


 後ろへ下がるか。


 三候補へ赤線。


 身体が止まる。


 杖の先が胸へ入った。


『有効打、目黒』


《ハミン五―目黒六》


《〇五:五一》


「対応が速すぎるぞ」


「君たちへ、何年教えたと思う」


「オレは一年もいない!」


「密度が高かった」


「それは認める!」


 胸が痛い。


 息を吸う。


 鼻歌が少し細くなる。


 女の身体の肺は、男相より小さい。


 十三分、聴脈を切らさず、気を纏って動けば、先に酸素が足りなくなる。


 でも、この身体は弱いんじゃない。


 この身体の終わり方を、オレが知っている。


 息を一度止める。


 聴脈を切る。


 教授の呼吸が聞こえなくなる。


「諦めたかね」


「休憩」


「決闘中だよ」


「だから短く」


 目で見る。


 杖の回転。


 床へ落ちる影。


 サングラス左下の継ぎ目。


 左腕の火傷。


 赤線を三つ引いたあとの、指が戻るまでの間。


 新しい弱点はない。


 全部、前からあった。


 オレが負けた時から見えていたものを、女の身体で勝った紫苑戦の動きへつなぐ。


 杖が回る。


 自分から掌を当てた。


「接触を与えないって言ったぞ」


「君が来るなら、打つだけだ」


 杖が掌を押す。


 握る。


 離す。


 滑らせる。


 三つを残す。


 赤線が来る。


 手へ出た候補を消すため、教授の回転が一瞬遅くなる。


 掌はもう捨てる。


 床へ肘をつき、紅燕歩。


 短い腕だから、身体が床へ近い。


 男の身体なら肩が引っかかる狭さを、回って抜ける。


 サングラスの左下へ入る。


 頭で胸へ触れた。


『有効打、ハミン』


《ハミン六―目黒六》


《〇四:三三》


 同点。


 教授の左腕から、血が一滴落ちる。


 白い床へ、小さな赤い点を作った。


「四十七頁がないだけで、ずいぶん高い請求だな」


「あれは、もともと私のものではない」


「やっと言った」


「所有権の話だ。方法の必要性は変わらない」


「勝負中に講義するな!」


 教授の杖が来る。


 避ける。


 赤線。


 流す。


 赤線。


 触れて回る。


 三本目。


 赤線の速度は落ちている。


 短杖は落ちていない。


 教授は候補校正が遅れたぶん、杖術だけで取る。


 肩へ石突。


『有効打、目黒』


《ハミン六―目黒七》


《〇三:四〇》


 すぐ追う。


 候補を十二。


 三つ消える。


 接触まで九つを残す。


 杖へ触れ、下へ押された力を、横の回転へつなぐ。


 掌が脇腹へ入る。


『有効打、ハミン』


《ハミン七―目黒七》


《〇二:五五》


 残り三分を切った。


 息が焼ける。


 右肩は上がらない。


 左腿は二度打たれ、足裏の感覚が薄い。


 教授も、左腕をほとんど曲げられない。


 サングラスへ汗が入り、左端の像がさらに曇っている。


 条件は変わらない。


 候補は最大十二。


 一度に消せるのは三つ。


 杖は短い。


 女のオレの腕も短い。


 だから、どちらも懐へ入らなければ届かない。


「面白いな」


 笑いが出た。


「世界を賭けていても?」


「だから負けられない。でも、勝負は面白い」


「君は変わらないね」


「変わったぞ」


 構える。


「勝ったあとの請求を、先に考えるようになった」


「昼食だろう」


「大事だって言ってる!」


 同時に踏む。


 教授の短杖が、初めて突きではなく打ち下ろしになる。


 候補を上へ集める罠。


 受ける。


 左右へ避ける。


 下がる。


 三つへ赤線。


 残った一つ、前へ入る。


 そこに教授の膝。


 腹へ触れる。


『有効打、目黒』


《ハミン七―目黒八》


《〇二:一〇》


「また先だ」


「あとで抜く」


 短杖の打ち下ろしを、今度は待つ。


 上、左、右、後ろ。


 四候補を同じ重さにする。


 三つが消える。


 残った後ろへは行かない。


 杖が触れるまで、消された上、左、右も重心から捨てない。


 校正は、選択になる前の候補を消す。


 筋肉そのものを永久に奪うわけじゃない。


 赤線が次の三つへ移れば、前の三つは戻る。


 杖が右肩へ触れる。


 その一瞬、最初に消された左の重心が戻った。


 押された右と、戻った左をつなぐ。


 紅燕歩。


 教授の左下へ回る。


 肘を胸へ当てた。


『有効打、ハミン』


《ハミン八―目黒八》


《〇一:三四》


 同点。


 残り九十四秒。


「赤線は、三つを消す」


 オレは言った。


「四つ目へ移ったら、最初の三つが戻る。前は戻るのが遅すぎた」


「いまは?」


「触れた拍に合わせれば、戻ったやつを使える」


「聴脈か」


「それだけじゃない」


 鼻歌。


 教授の呼吸。


 赤線の間。


 触れた圧。


 紅燕歩。


 無選歩。


 三つを別の技にしない。


 聞いて、触れて、回る。


 女の身体で覚えた、一つの運動地図だ。


 教授が間合いを切る。


 短杖を右へ戻す。


 左手へ校正機能を戻す。


 傷は深い。


 それでも、右の杖と左の赤線を同時に使うほうが速い。


「終わらせよう」


「まだ八十秒ある」


「充分だ」


 十二候補。


 三本の赤線。


 短杖が、残り九つの中央を取る。


 前と同じ完璧な配置。


 オレは正面から入った。


 杖へ触れる前に、先端が腿へ来る。


 避ける候補は消えている。


 打たれた。


『有効打、目黒』


《ハミン八―目黒九》


《〇〇:五九》


 一点差。


 残り五十九秒。


 右脚が沈む。


 教授は追わない。


 逃げ切る気でもない。


 短杖を正面へ置き、次の一打を待っている。


「ハミンくん。君は、男へ戻りたいのだろう」


「戻りたい」


「ここで焦れば、候補は一つになる」


「なるかもな」


「時間がない」


「五十九秒ある」


「選べるかね」


「選ぶ」


 でも、技は一つへしない。


 踏む。


 右脚は痛い。


 痛いまま、体重を左へ預ける候補。


 右で押し切る候補。


 床へ手をつく候補。


 教授の杖へ乗る候補。


 十二まで増やし、全部を同じ重さで運ぶ。


 赤線が三つ。


 最初の三つが戻り、さらに別の三つへ移る。


 左腕の火傷が開く。


 六本目と七本目の間に、初めて一拍以上の隙間。


 そこを聴く。


 杖へ右掌を当てる。


 無選歩。


 押された下向きを足場に、紅燕歩で低く回る。


 サングラスの左下。


 教授の視線が追いつく前に、左掌で脇腹へ触れた。


『有効打、ハミン』


《ハミン九―目黒九》


《〇〇:三五》


 同点。


 残り三十五秒。


 教授の杖が横へ返る。


 肩で受ける。


 有効打になる前に、押された力へ回る。


 離れる。


 教授も追う。


 二人の息が重なる。


《〇〇:二〇》


 候補を十二。


 三本消える。


《〇〇:一五》


 短杖が正面。


 杖へ触れるか、床へ触れるか、教授へ触れるか。


 全部を残す。


《〇〇:一〇》


 教授が左手を動かす。


 赤線。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 火傷が肘まで走る。


 四つ目を引くため、指が戻る。


 その半拍。


 サングラスの左下へ、男の影が映った。


 偽物の月が見せる、長い腕。


 教授の視線が一瞬そちらへ引かれる。


 オレは影を使わない。


 男の腕なら届く距離へ、女の腕を伸ばさない。


 もっと近くへ入る。


 短い腕が届く場所まで。


 教授の杖が胸へ触れる直前、両手で挟む。


 止める。


 流す。


 乗る。


 三つを保つ。


 杖が右へ押した。


 触れた事実から、左へ回る。


 紅燕歩。


 低い重心が、杖の下を抜ける。


 教授の左腕は赤線を引いた直後。


 右手の杖は外。


 サングラスの左下には、オレが映らない。


 掌を胸へ当てる。


 押し込まない。


 明確に触れ、気を一寸だけ通す。


『有効打、ハミン』


《ハミン一〇―目黒九》


《〇〇:〇三》


 三秒。


 教授が振り向く。


 二秒。


 短杖を返す。


 一秒。


 オレは後ろへ跳ばない。


 杖へ触れ、押された方向へ身体を流す。


 有効打になる前に、黒い先端が上着の表面を滑った。


《〇〇:〇〇》


 鐘が鳴った。


『制限時間、十三分』


 短杖が止まる。


 オレの掌は、教授の胸から離れている。


 空へ最終得点が出た。


《ハミン一〇―目黒九》


『有効打差により、勝者、ハミン』


 勝った。


 女の身体で。


 男の影は、一度も打たなかった。


 仲間の攻撃も、防御も、声も来なかった。


 紅燕歩。


 聴脈。


 無選歩。


 この身体で負け、覚え、選び直した技で、一点だけ先へ出た。


 膝から力が抜ける。


 倒れる前に、教授が短杖を床へ置いた。


 手を出そうとする。


 途中で止める。


「支えていいかね」


「いらない」


「了解した」


 自分で床へ座る。


 息が戻るまで三回かかった。


「教授」


「何かね」


「全員のを返せ」


 四十七頁の監査。


 担保処理。


 勝者請求とは別だ。


「それから、勝った分は昼飯。全員分な」


「記載どおりだ」


 教授の声は悔しそうでも、安心したようでもない。


 ただ、負けを事実として受け取った。


 空へ契約全文が開く。


《管理担保を執行》


《第一戦の不正監査、確定》


《四十七基幹頁、返却開始》


《レベル3(原典級)選闘、終了》


《時間・循、レベル3(原典級)同一二者再選闘による返還条件成立》


 赤い扉が、内側から割れた。


 男の影が光になる。


 オレの胸へ入った。


 すぐには何も変わらない。


 正式選闘の終了音が鳴る。


 最初に、待機相との重なりが戻る。


 百二十メートルの白い円は寸法を変えないまま輪郭を薄め、その向こうに四十八扉の回廊が重なって現れる。


 次に、色が戻る。


 教授の紫のスーツ。


 オレの赤い髪。


 青い返却線。


 次に、動きが戻る。


 ただし戻った先は、まだ管理者固定の内側だ。


 ハヨンたちの区画も、学校の生徒も動かない。


 最後に、音が戻る。


 自分の鼻歌。


 荒い呼吸。


 ハユンが外縁を切った空だけは、もう管理者固定の外へ戻っている。


 遠くで、本物の風が雲を押す音。


 偽物の月は、白い円のままだった。


 本物の満月から、止まっていた薄雲が外れる。


 月齢の光が、オレへ届く。


 帰還枝が応えた。


 肩の位置が広がる。


 指が伸びる。


 脚の骨が遠くなり、床へ座った目線が上がる。


 一本に編んだ長い赤い髪はほどけない。長さも変わらないまま、根元から黒に近い紫へ変わり、毛先だけに赤紫が残った。男だった頃から、オレの髪は長いし、三つ編みはこの一本だけだ。


 男の身体へ戻った。


 右肩の痛みも、左腿の鈍さも消えていない。身体相が変わっても、十三分の傷と疲労は持ち越された。


 勝つ前じゃない。


 勝ったあとだ。


 男へ戻った力で教授を倒したんじゃない。


 女の身体で勝ったから、奪われた帰路が返り、本物の満月が作用した。


 着ている緋天衣も、同じ着用者の別の身体相を読み取った。


 緋天衣のチャイナ服風の上着に金の合身紋が走り、肩、脇、袖が長くなる骨へ滑らかに広がる。女相での明るい朱赤から、男相の黒へ色が変わった。黒ズボンは色を変えず、腰と裾を自動で送り出して、長くなる脚を一度も締めつけない。


 闘技場の床でついたほこりが、黒い表面から光の粒になって落ちる。ハヨンが開いた合身紋は、男相も女相もオレと認識した。


「戻ったな、ハミンくん」


「ああ」


 長い腕を見る。


 大きな手。


 戻りたかった身体。


 嬉しい。


 その気持ちを隠さない。


 同時に、さっきまで使っていた低い重心も、短い回転も、身体の中へ残っている。


 空の本物の月が、十三分前より西へ動いていた。


 学園の時計塔は、正式選闘の間、管理固定された時刻を指していた。


 終了処理が外界時間へ追いつく。


 長針が、十三目盛りを一度に跳んだ。


 かち、ではない。


 がしゃん、と歯車が追いつく音。


 外の世界では十三分が経っている。


 それでも、生徒たちは止まったまま。


 卒業帽も、湯気も、拍手も戻らない。


「返却が始まったんだろ」


 オレは立つ。


 男の脚は長い。


 いつものつもりで立ち上がり、少し前へ出すぎる。


 女の身体の地図で重心を戻し、踏みとどまる。


「何で動かない」


 教授は答えなかった。


 零頁を見ている。


 四十七の青い返却線が、中央の白紙へ流れ込んでいた。


 白紙に、赤い文字が浮かぶ。


《返却により、最適未来が消失》


《損失を検知》


《零頁、自動補完を開始》


「止めろ、教授」


「私の管理権限は、担保として失われた」


「おまえが走らせたんだろ!」


「事前に設定した。私が敗北し、返却が始まる可能性を《誤差》として」


 赤い文字が教授の足へ巻きつく。


 短杖が赤ペンへ戻る。


 紫のスーツが、白と赤の校正線へ分かれていく。


「教授!」


 腕を掴む。


 今度は映像じゃない。


 骨も、体温もある。


 それでも赤い線が、教授を零頁の中へ引く。


 オレも離さない。


 二人の足元で、回廊が折れた。


 四十七の青い扉も、最後の赤い月も、白紙へ吸い込まれる。


 教授の身体が消える。


 代わりに、同じ顔をした巨大な校正像が、零頁の向こうで目を開けた。


 オレの腕も、白紙へ引かれる。


 長い男の指が、床を掴んだ。


 床ごと文字へ変わる。


 止まった学校から、次の一秒はまだ戻らなかった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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