第46話「奪われた満月を取り返す」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
《一二:五九》
教授の短杖が消えた。
そう見えた。
次の瞬間には、黒い先端がオレの胸へ来ている。
右へ避ける。
左へ払う。
下へ潜る。
三つの動きが、床へ影になった。
教授の左手が空中へ三本の赤線を引く。
右足から力が抜ける。
左腕が遅れる。
膝が曲がらない。
残ったのは、後ろへ下がる道。
短杖は、もうそこへ回っていた。
石突が肩へ触れる。
強く打っていない。
それでも気の流れを正確に切られ、腕が落ちた。
『有効打、目黒』
《ハミン〇―目黒一》
《一二:四八》
「十一秒か」
「前回より遅いよ、ハミンくん」
「最初の一発を取るのに?」
「初めての授業では、三秒だった」
「覚えてろ。あとで抜く」
肩を回す。
痛い。
骨に異常はない。
女の身体でも、オレは崑崙の道士。人界の呼び方なら仙人だ。人間相手なら、体育の授業でも普通の格闘でも圧倒できる。けれどオレ自身の基準では、男だった頃の半分どころか、出力も間合いもまるで足りない。
「これで半分も出てないんだぞ」
「体育の授業で言う台詞ではないね」
「教授との選闘は授業じゃないだろ」
短杖は、キャリー仕込みの型だ。
教授は規則を使わなくても強い。
おっさんのように気で身体を覆わない。先輩のように間合いを棒で埋めない。必要な場所へ、必要な角度で、短い距離だけを動く。
そこへ、候補校正が重なる。
オレが考えた動きを最大十二まで読み、届く三つを赤く消す。
残った一つを、杖術で潰す。
前は、それで何もできなくなった。
「同じ授業なら、復習してきたぞ」
鼻歌を鳴らす。
ん――。
誰かへ送る合図じゃない。
先輩たちから力が届くわけでもない。
女の身体の小さな肺へ、自分の呼吸を戻す音だ。
教授が踏む。
革靴の底が床へ触れる前、空気の厚さが変わる。
聴脈。
耳で音を聞くんじゃない。
呼吸、気、床、時間の流れへ混じる脈を拾う。
短杖が左から来る。
受ける、伏せる、内へ入る。
三候補。
赤線が出る。
全部消える。
残った後退へ、教授の膝。
腹へ触れられる一瞬前、四つ目を作る。
後ろへ倒れる。
背中から紅燕歩。
肩を軸に、小さく回る。
膝は緋天衣の赤いチャイナ風の上着をかすめた。
床へ片手をつき、起きる。
「身体・復」
教授が言う。
「扉の分類を覚えたのか?」
「転倒から再開する動きだ」
「勝手にオレを分類するな」
「分類は返すために必要だよ」
「殴る時にはいらない」
低いまま踏み込む。
候補を七つ。
左拳。
右掌。
足払い。
肩。
頭。
内へ回る。
外へ回る。
教授が一度に消せるのは三つ。
左拳、足払い、内回りへ赤線。
残り四つ。
どれかを選ぶ前に、短杖が中央を横切る。
教授は、オレが候補を増やすことも知っている。
全部を消す必要はない。
一本の杖で、四つが通る空間そのものを塞げばいい。
肩へ二発目。
『有効打、目黒』
《ハミン〇―目黒二》
《一一:五七》
「十二まで増やせば勝てると思っていないね?」
「前にそれで負けた」
「なら、何を変えた?」
「触って確かめろ」
「それは教師の台詞だよ」
教授が短杖を引く。
左手の指先から、細い煙が出ていた。
赤線を六本。
二回、三つずつ引いた。
前の戦いでは、そのたび雲の下で選片が燃えた。
いまは燃えない。
四十七頁は返却路へ戻った。
誰かの《左へ行きたかった》も、先輩の昼飯を断る一回も、教授は燃料にできない。
赤線の代価は、教授自身の気と、左腕へ残る校正火傷へ返っている。
袖の下で赤黒い線が一段伸びる。
それでも校正は止まらない。
「痛いだろ」
「必要経費だ」
「キャリーなら請求書に書けって言うぞ」
「もう書かれている」
教授が左腕を見せる。
「私は読まずに使っただけだ」
「なら、今日は読め」
正面から入る。
十二の候補を出す。
拳。
掌。
肘。
膝。
足払い。
回し蹴り。
紅燕歩、右。
紅燕歩、左。
跳ぶ。
伏せる。
進む。
退く。
教授のサングラスへ、十二人のオレが映る。
「校正領域、十二候補」
左手が動く。
三本。
届く候補が消える。
そこで一歩も進まない。
教授の短杖が、残り九つを塞ぐため横へ出る。
オレは杖へ手を伸ばした。
握る。
流す。
押す。
三つの重心応答を、同じだけ身体へ残す。
一つを選ばない。
杖が掌へ触れた。
右下へ押してくる。
触れた事実が先。
そこから身体が決める。
押された右下を足場にし、左肩を落とす。
紅燕歩で杖の内側へ回る。
教授の赤線が遅れた。
回ると考えた時には、もう接触のあとだ。
校正できる《選択前の候補》がない。
掌で、教授の右脇へ触れる。
『有効打、ハミン』
《ハミン一―目黒二》
《一〇:四一》
「無選歩」
教授が間合いを外す。
「頭を空にしたのかね」
「逆だ」
息を整える。
「握るのも、流すのも、押すのも、全部残してた。おまえの杖が触ってから、押された方向へ動いただけだ」
「選択を遅らせた」
「触れた事実へ答えた」
「同じことだよ」
「じゃあ、消してみろ」
教授は笑った。
「いい生徒だ」
「おまえの生徒として勝つんじゃない」
「学んだものは、教師を嫌えば消えるのかね」
「消えない。だから面倒なんだよ」
教授の杖術も、キャリーから学んだものだ。
師へ逆らっても残っている。
なら、オレも教授との負けを消さない。
負けた時に見た半拍を使う。
*
《一〇:〇二》
『有効打、目黒』
《ハミン一―目黒三》
短杖の先が腿へ触れた。
足の気が散り、膝が落ちる。
無選歩は無敵じゃない。
触れてから動くなら、触れた時点で打撃が成立する攻撃へは遅い。
候補を決めなければ、最短の先手も出せない。
教授はそこを突く。
「待つだけでは、私の一打が先だ」
「分かってる」
立ち上がる。
腿が重い。
紅燕歩の回転が一段遅れる。
教授は左手で赤線を三本。
右手で杖を縦へ落とす。
校正と打撃の間が、前より狭くなった。
自分の気を燃料にする方法へ慣れてきた。
オレも、待つだけをやめる。
候補を十二出す。
全部へ、同じ速さで体重を移す。
爪先は正面。
膝は左。
腰は右。
肩は下。
拳は開く。
矛盾した運動地図を、触れる寸前まで崩さない。
教授が届く三つを消す。
オレの左膝、右肩、正面の掌から力が抜ける。
残り九つを一度に動かせない。
でも、九つ全部を技にする必要はない。
教授の杖が、どの重心を押すかまで保留する。
杖が右肩へ来る。
肩を捨てる。
膝と腰の二つをつなぐ。
女の身体の低い回転。
杖の外からではなく、下をくぐる。
教授の胸へ、額。
『有効打、ハミン』
《ハミン二―目黒三》
《〇八:五八》
後頭部へ短杖が返ってくる。
床へ伏せる。
その候補へ赤線。
首を振る候補へ二本目。
前へ倒れる候補へ三本目。
身体が一瞬固まる。
教授の膝が脇腹へ触れた。
『有効打、目黒』
《ハミン二―目黒四》
《〇八:二〇》
息が抜ける。
床を転がる。
二点差。
残り八分二十秒。
十三分の外側でも、本物の月は進んでいる。
学園の生徒と時計は管理者固定の一秒へ留まったまま。けれど天文学上の月は、止められた校舎の上を少しずつ移る。
偽物の月だけが、最初の位置から一寸も動かない。
「どっちが本物か、分かりやすいな」
「本物は動くから?」
「止まってないから」
「動いた先に、雲がある」
「その時は見えなくなる」
「不安ではないかね」
「また出る」
「必ず?」
「必ずじゃないから、見るんだろ」
踏む。
教授の左側へ。
三候補をわざと濃くする。
顔への拳。
脇腹への掌。
足払い。
赤線が三つを消す。
狙っていたのは、どれでもない。
教授のサングラスの左端。
前の戦いで、オレの指がひびを入れた場所。
修理されている。けれど薄い継ぎ目が残り、月光が斜めに入ると、左下だけ像が二重になる。
十二候補の影を見た時、教授の赤線はそこだけ半拍遅れた。
見えていないわけじゃない。
見える位置を、サングラスの端でつなぎ直している。
その間が、死角だ。
床へ左手をつく。
紅燕歩を手で使う。
身体を低く回し、左下へ入る。
短杖が追う。
触れた瞬間、無選歩。
押された方向へさらに沈み、石突を肩の上へ流す。
右掌が、教授の左腕へ触れた。
『有効打、ハミン』
《ハミン三―目黒四》
《〇七:五六》
火傷の上だった。
教授の息が初めて乱れる。
「傷を狙うか」
「致死禁止。傷を壊すなとは書いてない」
「格闘家らしい」
「褒めるな」
「弱点を見逃す生徒では困る」
教授は短杖を左手へ持ち替えた。
火傷した腕で杖を握る。
右手で赤線を引く。
「逆でもできるのか」
「教師は、左右どちらでも黒板へ書ける」
「授業の範囲が広い!」
右から赤線。
さっきより少し歪んでいる。
校正機能は左腕へ根づいていた。手を替えれば、線が出るまで一拍長い。
その代わり、左の短杖は読めない角度で来る。
肩。
膝。
額。
オレは一発を受け、一発を返す。
『有効打、目黒』
《ハミン三―目黒五》
《〇六:五九》
七秒後。
杖へ触れ、回る。
『有効打、ハミン』
《ハミン四―目黒五》
《〇六:五二》
その十八秒後。
教授の左下へ入り、肩で胸を押す。
『有効打、ハミン』
《ハミン五―目黒五》
《〇六:三四》
「追いついた」
「まだ半分だ」
教授が杖を床へ立てる。
十二人のオレが、闘技場を囲んだ。
前回と同じ校正領域。
拳。
紅燕歩。
聴脈。
無選歩。
立つ。
伏せる。
十二の候補が、それぞれ別の姿勢を取る。
「君の無選歩は、接触まで候補を等しく保つ」
「見て覚えたか」
「私は教師なのでね」
「だから嫌なんだよ」
「なら、接触を与えなければよい」
短杖の間合いが変わる。
教授は棒の中央を持ち、回転させた。
近づけない壁を作る。
無選歩は、触れたものを足場にする。
杖が触れる前に、風圧で候補を絞られる。
右へ逃げるか。
左へ沈むか。
後ろへ下がるか。
三候補へ赤線。
身体が止まる。
杖の先が胸へ入った。
『有効打、目黒』
《ハミン五―目黒六》
《〇五:五一》
「対応が速すぎるぞ」
「君たちへ、何年教えたと思う」
「オレは一年もいない!」
「密度が高かった」
「それは認める!」
胸が痛い。
息を吸う。
鼻歌が少し細くなる。
女の身体の肺は、男相より小さい。
十三分、聴脈を切らさず、気を纏って動けば、先に酸素が足りなくなる。
でも、この身体は弱いんじゃない。
この身体の終わり方を、オレが知っている。
息を一度止める。
聴脈を切る。
教授の呼吸が聞こえなくなる。
「諦めたかね」
「休憩」
「決闘中だよ」
「だから短く」
目で見る。
杖の回転。
床へ落ちる影。
サングラス左下の継ぎ目。
左腕の火傷。
赤線を三つ引いたあとの、指が戻るまでの間。
新しい弱点はない。
全部、前からあった。
オレが負けた時から見えていたものを、女の身体で勝った紫苑戦の動きへつなぐ。
杖が回る。
自分から掌を当てた。
「接触を与えないって言ったぞ」
「君が来るなら、打つだけだ」
杖が掌を押す。
握る。
離す。
滑らせる。
三つを残す。
赤線が来る。
手へ出た候補を消すため、教授の回転が一瞬遅くなる。
掌はもう捨てる。
床へ肘をつき、紅燕歩。
短い腕だから、身体が床へ近い。
男の身体なら肩が引っかかる狭さを、回って抜ける。
サングラスの左下へ入る。
頭で胸へ触れた。
『有効打、ハミン』
《ハミン六―目黒六》
《〇四:三三》
同点。
教授の左腕から、血が一滴落ちる。
白い床へ、小さな赤い点を作った。
「四十七頁がないだけで、ずいぶん高い請求だな」
「あれは、もともと私のものではない」
「やっと言った」
「所有権の話だ。方法の必要性は変わらない」
「勝負中に講義するな!」
教授の杖が来る。
避ける。
赤線。
流す。
赤線。
触れて回る。
三本目。
赤線の速度は落ちている。
短杖は落ちていない。
教授は候補校正が遅れたぶん、杖術だけで取る。
肩へ石突。
『有効打、目黒』
《ハミン六―目黒七》
《〇三:四〇》
すぐ追う。
候補を十二。
三つ消える。
接触まで九つを残す。
杖へ触れ、下へ押された力を、横の回転へつなぐ。
掌が脇腹へ入る。
『有効打、ハミン』
《ハミン七―目黒七》
《〇二:五五》
残り三分を切った。
息が焼ける。
右肩は上がらない。
左腿は二度打たれ、足裏の感覚が薄い。
教授も、左腕をほとんど曲げられない。
サングラスへ汗が入り、左端の像がさらに曇っている。
条件は変わらない。
候補は最大十二。
一度に消せるのは三つ。
杖は短い。
女のオレの腕も短い。
だから、どちらも懐へ入らなければ届かない。
「面白いな」
笑いが出た。
「世界を賭けていても?」
「だから負けられない。でも、勝負は面白い」
「君は変わらないね」
「変わったぞ」
構える。
「勝ったあとの請求を、先に考えるようになった」
「昼食だろう」
「大事だって言ってる!」
同時に踏む。
教授の短杖が、初めて突きではなく打ち下ろしになる。
候補を上へ集める罠。
受ける。
左右へ避ける。
下がる。
三つへ赤線。
残った一つ、前へ入る。
そこに教授の膝。
腹へ触れる。
『有効打、目黒』
《ハミン七―目黒八》
《〇二:一〇》
「また先だ」
「あとで抜く」
短杖の打ち下ろしを、今度は待つ。
上、左、右、後ろ。
四候補を同じ重さにする。
三つが消える。
残った後ろへは行かない。
杖が触れるまで、消された上、左、右も重心から捨てない。
校正は、選択になる前の候補を消す。
筋肉そのものを永久に奪うわけじゃない。
赤線が次の三つへ移れば、前の三つは戻る。
杖が右肩へ触れる。
その一瞬、最初に消された左の重心が戻った。
押された右と、戻った左をつなぐ。
紅燕歩。
教授の左下へ回る。
肘を胸へ当てた。
『有効打、ハミン』
《ハミン八―目黒八》
《〇一:三四》
同点。
残り九十四秒。
「赤線は、三つを消す」
オレは言った。
「四つ目へ移ったら、最初の三つが戻る。前は戻るのが遅すぎた」
「いまは?」
「触れた拍に合わせれば、戻ったやつを使える」
「聴脈か」
「それだけじゃない」
鼻歌。
教授の呼吸。
赤線の間。
触れた圧。
紅燕歩。
無選歩。
三つを別の技にしない。
聞いて、触れて、回る。
女の身体で覚えた、一つの運動地図だ。
教授が間合いを切る。
短杖を右へ戻す。
左手へ校正機能を戻す。
傷は深い。
それでも、右の杖と左の赤線を同時に使うほうが速い。
「終わらせよう」
「まだ八十秒ある」
「充分だ」
十二候補。
三本の赤線。
短杖が、残り九つの中央を取る。
前と同じ完璧な配置。
オレは正面から入った。
杖へ触れる前に、先端が腿へ来る。
避ける候補は消えている。
打たれた。
『有効打、目黒』
《ハミン八―目黒九》
《〇〇:五九》
一点差。
残り五十九秒。
右脚が沈む。
教授は追わない。
逃げ切る気でもない。
短杖を正面へ置き、次の一打を待っている。
「ハミンくん。君は、男へ戻りたいのだろう」
「戻りたい」
「ここで焦れば、候補は一つになる」
「なるかもな」
「時間がない」
「五十九秒ある」
「選べるかね」
「選ぶ」
でも、技は一つへしない。
踏む。
右脚は痛い。
痛いまま、体重を左へ預ける候補。
右で押し切る候補。
床へ手をつく候補。
教授の杖へ乗る候補。
十二まで増やし、全部を同じ重さで運ぶ。
赤線が三つ。
最初の三つが戻り、さらに別の三つへ移る。
左腕の火傷が開く。
六本目と七本目の間に、初めて一拍以上の隙間。
そこを聴く。
杖へ右掌を当てる。
無選歩。
押された下向きを足場に、紅燕歩で低く回る。
サングラスの左下。
教授の視線が追いつく前に、左掌で脇腹へ触れた。
『有効打、ハミン』
《ハミン九―目黒九》
《〇〇:三五》
同点。
残り三十五秒。
教授の杖が横へ返る。
肩で受ける。
有効打になる前に、押された力へ回る。
離れる。
教授も追う。
二人の息が重なる。
《〇〇:二〇》
候補を十二。
三本消える。
《〇〇:一五》
短杖が正面。
杖へ触れるか、床へ触れるか、教授へ触れるか。
全部を残す。
《〇〇:一〇》
教授が左手を動かす。
赤線。
一つ。
二つ。
三つ。
火傷が肘まで走る。
四つ目を引くため、指が戻る。
その半拍。
サングラスの左下へ、男の影が映った。
偽物の月が見せる、長い腕。
教授の視線が一瞬そちらへ引かれる。
オレは影を使わない。
男の腕なら届く距離へ、女の腕を伸ばさない。
もっと近くへ入る。
短い腕が届く場所まで。
教授の杖が胸へ触れる直前、両手で挟む。
止める。
流す。
乗る。
三つを保つ。
杖が右へ押した。
触れた事実から、左へ回る。
紅燕歩。
低い重心が、杖の下を抜ける。
教授の左腕は赤線を引いた直後。
右手の杖は外。
サングラスの左下には、オレが映らない。
掌を胸へ当てる。
押し込まない。
明確に触れ、気を一寸だけ通す。
『有効打、ハミン』
《ハミン一〇―目黒九》
《〇〇:〇三》
三秒。
教授が振り向く。
二秒。
短杖を返す。
一秒。
オレは後ろへ跳ばない。
杖へ触れ、押された方向へ身体を流す。
有効打になる前に、黒い先端が上着の表面を滑った。
《〇〇:〇〇》
鐘が鳴った。
『制限時間、十三分』
短杖が止まる。
オレの掌は、教授の胸から離れている。
空へ最終得点が出た。
《ハミン一〇―目黒九》
『有効打差により、勝者、ハミン』
勝った。
女の身体で。
男の影は、一度も打たなかった。
仲間の攻撃も、防御も、声も来なかった。
紅燕歩。
聴脈。
無選歩。
この身体で負け、覚え、選び直した技で、一点だけ先へ出た。
膝から力が抜ける。
倒れる前に、教授が短杖を床へ置いた。
手を出そうとする。
途中で止める。
「支えていいかね」
「いらない」
「了解した」
自分で床へ座る。
息が戻るまで三回かかった。
「教授」
「何かね」
「全員のを返せ」
四十七頁の監査。
担保処理。
勝者請求とは別だ。
「それから、勝った分は昼飯。全員分な」
「記載どおりだ」
教授の声は悔しそうでも、安心したようでもない。
ただ、負けを事実として受け取った。
空へ契約全文が開く。
《管理担保を執行》
《第一戦の不正監査、確定》
《四十七基幹頁、返却開始》
《レベル3(原典級)選闘、終了》
《時間・循、レベル3(原典級)同一二者再選闘による返還条件成立》
赤い扉が、内側から割れた。
男の影が光になる。
オレの胸へ入った。
すぐには何も変わらない。
正式選闘の終了音が鳴る。
最初に、待機相との重なりが戻る。
百二十メートルの白い円は寸法を変えないまま輪郭を薄め、その向こうに四十八扉の回廊が重なって現れる。
次に、色が戻る。
教授の紫のスーツ。
オレの赤い髪。
青い返却線。
次に、動きが戻る。
ただし戻った先は、まだ管理者固定の内側だ。
ハヨンたちの区画も、学校の生徒も動かない。
最後に、音が戻る。
自分の鼻歌。
荒い呼吸。
ハユンが外縁を切った空だけは、もう管理者固定の外へ戻っている。
遠くで、本物の風が雲を押す音。
偽物の月は、白い円のままだった。
本物の満月から、止まっていた薄雲が外れる。
月齢の光が、オレへ届く。
帰還枝が応えた。
肩の位置が広がる。
指が伸びる。
脚の骨が遠くなり、床へ座った目線が上がる。
一本に編んだ長い赤い髪はほどけない。長さも変わらないまま、根元から黒に近い紫へ変わり、毛先だけに赤紫が残った。男だった頃から、オレの髪は長いし、三つ編みはこの一本だけだ。
男の身体へ戻った。
右肩の痛みも、左腿の鈍さも消えていない。身体相が変わっても、十三分の傷と疲労は持ち越された。
勝つ前じゃない。
勝ったあとだ。
男へ戻った力で教授を倒したんじゃない。
女の身体で勝ったから、奪われた帰路が返り、本物の満月が作用した。
着ている緋天衣も、同じ着用者の別の身体相を読み取った。
緋天衣のチャイナ服風の上着に金の合身紋が走り、肩、脇、袖が長くなる骨へ滑らかに広がる。女相での明るい朱赤から、男相の黒へ色が変わった。黒ズボンは色を変えず、腰と裾を自動で送り出して、長くなる脚を一度も締めつけない。
闘技場の床でついたほこりが、黒い表面から光の粒になって落ちる。ハヨンが開いた合身紋は、男相も女相もオレと認識した。
「戻ったな、ハミンくん」
「ああ」
長い腕を見る。
大きな手。
戻りたかった身体。
嬉しい。
その気持ちを隠さない。
同時に、さっきまで使っていた低い重心も、短い回転も、身体の中へ残っている。
空の本物の月が、十三分前より西へ動いていた。
学園の時計塔は、正式選闘の間、管理固定された時刻を指していた。
終了処理が外界時間へ追いつく。
長針が、十三目盛りを一度に跳んだ。
かち、ではない。
がしゃん、と歯車が追いつく音。
外の世界では十三分が経っている。
それでも、生徒たちは止まったまま。
卒業帽も、湯気も、拍手も戻らない。
「返却が始まったんだろ」
オレは立つ。
男の脚は長い。
いつものつもりで立ち上がり、少し前へ出すぎる。
女の身体の地図で重心を戻し、踏みとどまる。
「何で動かない」
教授は答えなかった。
零頁を見ている。
四十七の青い返却線が、中央の白紙へ流れ込んでいた。
白紙に、赤い文字が浮かぶ。
《返却により、最適未来が消失》
《損失を検知》
《零頁、自動補完を開始》
「止めろ、教授」
「私の管理権限は、担保として失われた」
「おまえが走らせたんだろ!」
「事前に設定した。私が敗北し、返却が始まる可能性を《誤差》として」
赤い文字が教授の足へ巻きつく。
短杖が赤ペンへ戻る。
紫のスーツが、白と赤の校正線へ分かれていく。
「教授!」
腕を掴む。
今度は映像じゃない。
骨も、体温もある。
それでも赤い線が、教授を零頁の中へ引く。
オレも離さない。
二人の足元で、回廊が折れた。
四十七の青い扉も、最後の赤い月も、白紙へ吸い込まれる。
教授の身体が消える。
代わりに、同じ顔をした巨大な校正像が、零頁の向こうで目を開けた。
オレの腕も、白紙へ引かれる。
長い男の指が、床を掴んだ。
床ごと文字へ変わる。
止まった学校から、次の一秒はまだ戻らなかった。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




