第45話「師匠と弟子」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
「受ける」
オレが答えると、赤い扉の前に机が出た。
教室の机に似ている。
傷一つない白い天板。
二脚の椅子。
中央には、まだ何も書かれていない請求書。
「座りたまえ」
「授業か?」
「条件確認だよ。前回、君は理解しないまま賭けたわけではない。今回も、知らなかったとは言わせない」
「おまえもな」
椅子を引く。
座る前に、座面を一度見る。
「罠はないよ」
「おまえの授業は、試験範囲が広すぎる」
「中高大すべてを担当する教師なのでね」
「そういうところだけ教師に戻るな」
向かいへ座る。
教授も座った。
四十七の青い扉は見えなくなっている。
ハヨンたちの声も、道具の音も届かない。
藍羽とおっさんが巡らせる気が、オレの身体を強くしてくれるわけでもない。
返却路が存在する。
その規則だけが、机の下を青い細線になって通っている。
オレの足元には、二つの影。
本物の月が作る女の影と、赤い扉へ閉じ込められた男の影。
「請求を書く前に、証人記録を再生する」
教授が机の端へ触れる。
小さな水鏡が出た。
キャリーの姿が映る。
アトランティス側で応答している自律観測像じゃない。
腰を越す髪は同じ黒でも、輪郭が古い記録特有の青い点でできていた。
《記録時刻:都市固定前・第四避難鐘》
《記録対象:弟子識別鍵・照合済み》
《再生条件:四十七基幹頁の返却監査到達》
「ずっと前に残したのか」
「私も、いま初めて見る」
教授の声が少しだけ低くなる。
「キャリー先生は、私に見つからない層へ隠していたようだ」
水鏡の中で、キャリーがこちらを見る。
でも、オレたちは見えていない。
過去の教授だけへ向けた記録だ。
『ソウジ・カイ。この声が届く時、あなたは私の返却規約まで破ったのでしょうね』
聞き慣れた名の後ろに、知らない音が続いた。
「ソウジ・カイ?」
「生まれた時の名だ。目黒総司は、この国で教師をするために作った。ソウジの音だけ残した」
「最初から厳しいな」
『弟子の失敗を予測するのも、師の仕事よ。ただし予測は命令ではない。あなたが別の道を選び、この記録が一度も開かれない可能性も保存しておく』
『アイは観測する者。カイは作り変える者。見る師と直す弟子に分けたのは、互いの間違いを止めるためだった』
古い観測室が映る。
壁の向こうで、赤い警報が回っている。
逃げる人々の足音。
遠くで水が砕ける音。
いまのアトランティスでは止まっている崩壊が、記録の中では進んでいた。
『あの日、私は観測室へ残ると選んだ』
キャリーは静かに言う。
『都市の枝を一つでも多く保存し、弟子と市民を避難路へ送るために。あなたを第七埠頭へ押し出したのも私。扉を内側から閉じたのも私』
教授の左手が、天板の下で握られる。
『正しかった、と飾るつもりはないわ』
水鏡へ、避難路の図が重なる。
三本の道。
キャリーが閉じた扉の反対側にも、人影があった。
『観測室へ力を回したせいで、南の避難門は早く閉じた。間に合わなかった市民がいる。私と一緒に残りたいと言った助手へ、私は外へ出ろと命じた。選ぶ時間さえ十分ではなかった』
「犠牲だったんじゃないのか」
オレは教授ではなく、記録へ聞く。
返事はない。
キャリーは前に決めた言葉を続ける。
『私は、自分をきれいな犠牲として記録しない。恐れていた。ほかに請求を払える方法を見つけられなかった。残ることで救った命と、残ったため救えなかった命の両方がある』
記録のキャリーは、観測室の扉へ手を置いた。
『それでも、残ると選んだのは私よ』
教授が顔を上げる。
『あなたが私を救いたいと思うことを、私は笑わない。救われたいと願った時もあった。観測室で、誰か来てと叫んだ夜もある』
水鏡の像が一度乱れる。
『でも、私の《助けて》は、世界中の次を奪ってよいという署名ではない』
教授のサングラスへ、古い師の姿が映っている。
『私を救うことと、私の選択を消すことは同じではない』
「先生は、結果を知らなかった」
教授が記録へ言う。
キャリーは答えない。
『あなたが何を失ったか、私には代わって数えられない。あなたが何をしたかも、私の教育だけを原因にはできない。私は方法を教えた。目的を選んだのは、ソウジ、あなた自身』
最後に、キャリーは少し笑った。
『次に会う時、私を救った英雄の顔ではなく、間違えた弟子の顔で来なさい。私も、間違えた師の顔で会う』
記録が終わった。
水鏡は暗くなる。
こちらの問いへ返事をしない。
キャリー本人が、前室へ来たわけじゃない。
再生条件で開いた、自動記録。
いま動いているのは、オレと教授だけだ。
「返事を聞かないのか」
オレが尋ねる。
「記録へ話しても、私の満足にしかならない」
教授は水鏡を閉じなかった。
黒い面へ映る自分を見ている。
「キャリー先生は、いつも請求を残す。何千年経っても支払期限を延ばしてはくれない」
「払えよ」
「何をもって?」
「それを決めるのは、おまえだ」
「君は、私へ選択を返すのだね」
「最初から持ってるだろ」
教授は指を組んだ。
「自由な選択の結果、アトランティスは滅びた」
声を荒らげない。
授業で歴史を説明するみたいに、事実を一つずつ置く。
「市民は危険を知っていた。それでも便利な剪定を選び、別の者は反対を選び、議会は決定を延ばした。研究者は自分の方法を競い、避難するか都市を守るかで割れた」
「みんな違うのを選んだ」
「そして、最善を決める時を失った」
教授の左腕へ、赤い火傷が広がる。
「私は避難路で待った。キャリー先生なら、最後に正しい道を選ぶと信じた。だが先生は残り、都市を一秒へ閉じた。助かった者は、助からなかった者を思って争った。誰が間違えたかを選び続けた」
「おまえは、間違えない一個にしたかった」
「そうだ」
教授は迷わず認める。
「最初に小さな選択を管理した。危険な決闘を二人へ限定し、外の生徒を止めた。事故は減った。負けた者から請求できるものを一つに制限し、命や恋愛感情を保護した」
全部が嘘じゃない。
正式選闘では、二人以外が巻き込まれなかった。
危険な力を持った生徒が、校内で勝手に大勢を傷つけずに済んだ。
「西能寺くんの生まれつきの帯電が、成長とともに彼自身の制御を越えた時、私は乱れた気の流れを整え、地へ流す身体操作を教えた。それでも余る電気の逃げ道として雷綴を与えた。流す道を持てたから、彼は自分の力を恐れるだけで終わらずに済んだ」
先輩が教授へ感謝していたのは本当だ。
「時任くんへ時計を与えた。迷った十秒を一生繰り返す代わりに、次は間に合う方法を」
蓮が時計を嫌いきれなかった理由。
「閑崎くんには、選片の声を濾過する刻印を与えた。聞こえるすべてに心を裂かれず、眠れる夜を」
鈴華が長く頼ったもの。
「私は彼らを利用した。だが、救おうとしたことまで嘘ではない」
「知ってる」
オレは答えた。
教授の指が止まる。
「おまえは先輩たちを助けた。授業もちゃんとやった。中学の数学も、大学の海底文明論も、同じ日に教えられる変な教授だった」
「褒め言葉として受け取ろう」
「でも、それとこれは別だ」
ハヨンの薬を思い出す。
妹はオレを心配した。
トラブルを減らしたかった。本来は、恋愛対象を男に向ける効果を留学中ずっと続かせる設計だった。けれど実際に起きたのは身体相の変化で、いつ元に戻るかさえ誰にも分からなかった。あの朝、母さんはまだ海外の仕事先にいて、オレが女の子になったことさえ知らなかった。
結果として、女の身体でしか覚えられなかったこともある。
それでも、勝手に飲ませていい理由にはならない。
「心配してたからって、本人に聞かず変えていいわけじゃない。助けたからって、そのあとの全部を持っていいわけじゃない」
「君の身体のことかね」
「それも」
「ハヨンくんを許したのか」
「まだ怒ってる」
「なら、彼女の失敗も消したいとは思わないかね」
「思わない」
答えるまで、一呼吸かかった。
「起きなかったことにはできない。オレが怒ったことも、ハヨンが謝ったことも、次は聞くって決めたことも消える」
女の身体にならなければ、藍羽へ会っていないかもしれない。
先輩と選闘していない。
蓮、鈴華、紫苑、ひなた。
会った未来だけを正解にして、無断投薬を良いことにはできない。
逆も同じだ。
失敗だったからと、そこで選んだものまで消せない。
「教授。何を失ったかは分かった」
呼び方は教授のままでも、日常だった頃の意味には戻さない。
「けど、オレのを取っていい理由にはならない」
「君は、自分の選択を奪ったことがないのかね」
「ある」
先輩へ命じた昼飯。
蓮へ命じた昼飯。
紫苑へ命じた昼飯。
しょうもないと思っていた。
一食くらい、一緒に食えばいいと。
「勝ったからって、断れない昼飯へ呼んだ。軽いと思ってた」
「制度の範囲内だ」
「制度がいいかを考えてなかった」
「後悔している?」
「次は変える」
「過去を修正せず?」
「返せるものは返す。食いたいやつとは、今度は聞いて食う」
教授が、水鏡の黒い面へ触れた。
「後悔を残すことに、価値があると?」
「後悔そのものが好きなわけじゃない。残ってれば、次に違うのを選べる」
「次が、さらに悪い結果を生むとしても?」
「それでも、全部おまえに選ばせるよりはいい」
「根拠が感情的だ」
「格闘家は、触ってから決めるんだよ」
「君だけの理屈だね」
「世界中をオレに合わせろとは言ってない」
机の中央で、請求書が光った。
《挑戦者請求を提示》
教授の声が、少し教師から管理者へ戻る。
「私が勝利した場合、君の《世界固定を拒否する一回の選択》を請求する」
「一回だけ?」
「世界を固定する決定の瞬間、君が拒否できなければ足りる。その後に拒否する時は来ない」
赤い文字が出る。
《目黒総司勝利請求》
《ハミンは、「世界固定を拒否する一回の選択」を目黒総司へ移譲する。移譲は本選闘終了直後の零頁最終決定にのみ適用する》
「範囲は一回。拡大解釈はできない」とオレ。
「その一回で十分だ」
「分かった」
請求を理解した印がつく。
まだ受諾じゃない。
「君の請求は?」
「全員のを返せ」
《請求不成立》
赤い文字がすぐ出た。
《返却監査中の四十七基幹頁は、勝者請求の対象外》
「分かってるよ」
オレは文字を指で払う。
四十七頁は、仲間が既存の規則を戻した結果だ。
オレが勝って奪うものじゃない。
帰還枝も、同じ二人の再戦なら返還条件へ入る。
「じゃあ、昼飯」
「またかね」
「まただ」
「私一人へ、一食?」
「違う。奪ったやつ全員に、おまえが一食出せ」
教授の眉がわずかに上がる。
「元所有者は、生徒だけではない」
「知ってる」
「四十七基幹頁の選片は、試作を含めて相当数になる」
「全員分だ」
「世界を賭けた請求としては、軽すぎる」
「昼飯を勝手に軽くするな」
腹が減っているか、自分で決める。
何を食うか選ぶ。
誰の隣へ座るか。
途中で帰るか。
一食には、しょうもない選択がたくさんある。
「それに、おまえが一人ずつ会え」
「謝罪を強制する請求かね」
「謝るかは、おまえが決めろ。来るか、食うかは相手が決める。飯を用意するところまでは、おまえがやれ」
請求書が内容を確かめ、青い文字を出した。
《ハミン勝利請求》
《目黒総司は、保管中および返却監査対象となる全選片の元所有者それぞれへ、昼食一食を提供する》
《提供は参加を強制しない。元所有者は、会食、別席、持ち帰り、辞退を自ら選べる》
「これで釣り合うのか」
《単独では不均衡》
「だろうね」
教授は驚かなかった。
「ゆえに、挑戦者である私が差額担保を置く」
左手を天板へ置く。
火傷から赤い線が伸び、請求書へ入る。
四十七扉を閉じている管理印が、教授の手首へ集まった。
《担保提供者:目黒総司》
《担保:暫定管理者権限の全量》
《敗北時処理一:第一戦の無断燃料、承認欠落、事後校正について不正監査を確定する》
《敗北時処理二:監査済み四十七基幹頁を、各選片の元所有者側へ返却する》
《敗北時処理三:レベル3(原典級)の同一二者間再選闘成立により、《時間・循》へ保管されたハミンの帰還枝を自動返還する》
全文が止まる。
「おまえが負けたら、管理者じゃなくなる」
「暫定権限を失う。零頁は原所有者の集合署名へ戻る」
「四十七頁も、オレの勝者請求じゃなく、持ち主へ返る」
「そうだ」
「時間・循も」
「同じ二人の再戦だからね」
「途中で条件を変えられないか」
「正式選闘開始後は、管理者の私も請求と担保を校正できない。変更すれば選闘そのものが無効になり、担保は先に監査へ落ちる」
「教授が勝ったら?」
「君の一回を使い、零頁へ世界固定を選ばせる。四十七頁の返却路も、最適未来へ再分類される」
危険は分かった。
勝てば自動で全部がうまくいくわけじゃない。
負ければ、オレがあとから嫌だと言う一回がなくなる。
男へ戻れる日だけじゃない。
全員の次が閉じる。
「有効打判定は?」
「十三分。頭部、胴、四肢への明確な接触を有効打として数える。致死攻撃は禁止。場外、戦闘不能、降参、または制限時間終了時の有効打差」
「時間切れなら、多いほう」
「同数なら担保を動かさず、再戦条件だけが残る」
「前みたいに百八件を燃やして、オレの動きを消すのは?」
「四十七頁は返却路へ接続された。私はもう、他人の選片を候補消去の燃料には使えない」
「自分の気だけ」
「私の身体、技術、残る管理機能だけだ」
教授は不利な条件も隠さなかった。
それでも、前にオレへ圧勝した候補校正は残っている。
最大十二の動きを読み、あり得ないものから赤く消す。
最後に残った一つを、短杖で潰す。
「最後の確認だ、ハミンくん」
教授の前に、赤い受諾印。
オレの前に、青い受諾印。
《双方は、請求全文、担保、敗北時処理、制限時間を理解したか》
「理解した」
《選闘を自ら選ぶか》
教授が先に答えた。
「選ぶ」
オレも答える。
「選ぶ」
逆向きの鐘が、一度鳴った。
最初に、音が止まる。
水鏡の記録音も、偽物の月が出す低い震えも消えた。
次に、動きが止まる。
四十七扉の青い明滅が固まり、雲の流れが一滴の水みたいに空へ留まる。
オレと教授だけが椅子から立った。
次に、色が落ちる。
赤と青が消え、世界が白黒になる。
オレの赤い編み髪も、教授の紫のスーツも、同じ灰色へ変わった。
最後に、空間が開く。
机と椅子が輪郭ごと消える。
現れた白い床は広がらない。最初の選闘から変わらない、直径百二十メートルの円だ。外縁と、その先へ二千五百メートル級に落ちる空がはっきり見える。入口扉だけが縁へ残り、暗い膜で閉ざされた。
下に雲。
上に二つの満月。
学校の塔の屋上なのに、校舎は空の上へ逆さに浮いている。
雲上闘技場。
審判の女声が、どこにもいない場所から告げた。
『請求を確認。担保を確認。対価を数え、選びたまえ』
声はキャリーが残した安全機構と同じだった。
でも、キャリー本人じゃない。
誰も見ていない。
誰も助けに来ない。
十三分を刻む時計が、空へ浮かぶ。
《一三:〇〇》
教授が胸ポケットから、《エラッタ》の赤ペンを抜いた。
軸が伸び、黒い短杖になる。
オレは女の身体で構えた。
時計の最初の一秒が落ちる。
戦えるのは、二人だけだった。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




