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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第八章「はみんぐ・ふれあ」
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44/51

第44話「雲上闘技場、四十八の扉」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 扉の向こうに、扉があった。


 その向こうにも、扉。


 前室の白い壁が左右へ割れ、円い回廊が現れる。


 回廊の外側には、六段、八列の扉が並んでいた。


 どれも人が通れるくらいの大きさなのに、遠くから見れば、開いた本へ刻まれた小さな升目に見える。


 六段の名が浮かぶ。


《身体》


《関係》


《所属》


《行動》


《記憶》


《時間》


 八列にも名があった。


《起》


《継》


《断》


《延》


《促》


《復》


《還》


《循》


「六掛ける八」


 オレは声に出した。


「四十八」


 崑崙の観測室で見た、零頁の四十八空欄。


 四十八人の魂じゃない。


 誰かが選ぶものの種類が六つ。


 それを始める、続ける、やめる、遅らせる、早める、再開する、元へ返す、周期ごとに選び直す。その向きが八つ。


 人の全部を四十八個に割ったんじゃない。


 奪った選択を、どの持ち主の、どの時点へ返すか。


 四十八の住所だ。


「説明は正確だ」


 教授が回廊の中央に立つ。


「分類されなければ、返還はできない。誰の何を、いつへ戻すか分からないからね」


「だからって、おまえのものになるわけじゃない」


「保管者は必要だよ」


「預けた覚えがない」


 四十八扉は、全部赤い。


 委員会を解散した議決で青へ戻した《所属・断》《関係・継》《行動・起》まで、管理固定の赤で閉じ直されていた。ただし三つの扉の縁には、先輩、蓮、鈴華の署名が青い傷として残っている。消されたのではない。上から封じられただけだ。


 それぞれの中央に、小さな目の印がある。


 オレが近づくと、四十八の目が同時にこちらを向いた。


 気味が悪い。


 扉の中には、先輩たちがいるのか。


 耳を当てても何も聞こえない。


 叩いても返事はない。


「無駄だよ、ハミンくん。区画は相互不可視だ」


「知ってる。念のためだ」


「君の声も届かない」


「それでも呼ぶくらいはいいだろ」


 拳で扉を二度叩く。


「先輩。蓮。鈴華。藍羽。ハヨン。紫苑。キャリー」


 返事はない。


「オレはここにいる」


 教授が首を傾けた。


「安心させたいのかね」


「オレが言いたかっただけだ」


 扉の目が一斉に細くなる。


 赤い線が、四十八区画へ流れ込んだ。


     *


幕間・先輩


 先輩が落ちた区画には、床がなかった。


 上下もない暗がりへ、数え切れない赤い糸が走っている。


 糸の中を、小さな光が流れていた。


 体育祭で止めた足。


 文化祭で断れなかった声。


 昼食へ座る以外を選べなかった一回。


 光は持ち主から離れ、選塔の奥へ吸い上げられている。


「これが収集線か」


 先輩は雷綴を握る。


 管理刻印を焼いた棒の底には、青い文字が残っていた。


《流せ、蓄えるな》


 逆手に持ち、先端を赤い糸へ当てる。


 電撃で焼けば、糸ごと選片が消える。


 攻撃には使わない。


 先輩は棒を振らず、導線として置いた。


「オレは、おまえらを燃やさない」


 右手の古い火傷が疼く。


 生まれつきの超帯電体質が、年齢と身体・気の成長に伴って制御を越え、稽古相手を軽く傷つけた日の印。


 教授に偏った気の流れを整え、地面へ流す身体操作を教えてもらった。それでも余る電気の逃げ道として、雷綴を与えられた。


 その感謝は、なくならない。


「でも、教授へ集めもしない」


 雷綴へ気を一発分だけ通す。


 青い電気は糸を切らず、流れの向きを押し返した。


 赤い光が止まる。


 一つずつ、来た方角へ戻り始める。


 先輩は棒を両手で支えた。


 腕へ痺れが走る。


「道は返す。進むかどうかは、持ち主が決めろ」


     *


 回廊の一番下で、赤い線が震えた。


 最初に変わったのは《身体・継》の扉だった。


 表面へ、知らない卒業生の声が文字になる。


〈明日も、治療を続ける。嫌になった日は、その日にまた決める〉


 同じ内容を誰かに言わされた声じゃない。


 卒業式で本人が口にし、鈴華の鈴と文化祭の装置へ残した声だ。


 扉の目が閉じる。


 赤が端から青へ変わった。


 一つ目。


「先輩だな」


「根拠は?」と教授。


「あいつは流すって言った」


「違う人物かもしれない」


「それでもいい。誰かが選んだ」


 扉が開く。


 中には誰もいなかった。


 青い風だけが、持ち主のいる世界へ流れていく。


 先輩の姿は見えない。


 助けにも来ない。


 それでいい。


     *


幕間・蓮


 時任蓮の区画には、二つの町があった。


 右は現在の星環学園。


 左は一秒前に沈んだアトランティス。


 片方の時計は止まり、片方の時計は同じ一秒を何度もやり直している。


 二つの時刻がずれるたび、間にある選片が薄くなった。


 蓮は壊れた時門時計の中核を両手で持つ。


 外装はない。


 正確な目盛りも、教授がくれた安心もない。


 ひびの入った透明板と、ためらう針だけだ。


「現在側、進行率ゼロ。都市側、循環一秒。差を消すのでなく、同じ《いま》へ合わせる」


 誰も聞いていない。それでも手順を口にする。


 針が三度、進みかけて戻る。


 四度目を押せば、法力が尽きる。


 区画のどこかから、ばらばらの鼻歌が届いた。


 文化祭で、生徒たちが自分の音を選んだ記録。


 揃っていない。


 そのうち一音だけが、針を一拍遅らせる。


 体育祭の前、ハミンの鼻歌で秒針が遅れた時と同じ波形。


「遅れは、誤差じゃない」


 蓮は四度目を急がない。


 遅れた一拍へ、都市側の一秒を重ねる。


「待てば、同じ時へ来られる」


 針が、自分から進んだ。


 同期は一拍で返却規約へ渡った。蓮が加速や遅延を続けているわけではない。


     *


 二つ目の代表扉は、《時間・復》だった。


〈途中でやめた手紙を、明日もう一度書く〉


 卒業生の声が通る。


 書き始める時刻を巻き戻すんじゃない。


 中断したものを、いまから再開する。


 扉が青くなった。


 その隣の《時間・循》だけが、さっきより濃い赤になる。


 男の影が内側から扉を叩いた。


 音はしない。


 影はオレと同じ動きをしていない。


 長い腕を上げ、扉の向こうへ手をついている。


 帰還枝。


 満月ごとに男へ戻る、周期の選択。


「もう少し待て」


 オレは影へ言った。


「おまえは、オレの一部だ。でも先に、ほかのを返す」


 影の手が下りる。


 教授は何も言わない。


     *


幕間・鈴華


 閑崎鈴華の区画には、顔のない人々が立っていた。


 口だけが動く。


〈右へ行きたい〉


〈左へ行きたい〉


〈残りたい〉


〈消えたい〉


 互いに逆の声が、同じ調子で重なる。


 教授が混ぜた、最適な偽物。


 かつてなら、鈴華は全部を聞こうとした。


 会計として、流れ込む声を一件も落とさず数え、どれが本物か確かめようとした。


 鈴を胸元へ持ち上げる。


「わたくしは、あなたがたの心へ入りません」


 心響鈴を一度だけ鳴らす。


 幻を見せない。


 卒業式で本人が自分から出した声と、文化祭で命令なしに光った音。その二つの署名が一致するものへ、一人ずつ帰路を開く。


 顔のない人々が、一人ずつ消えていく。


 最後に、一つの声が残った。


〈本当は、左へ行きたかった〉


 春、選片倉庫で初めて聞いてから、ずっと耳に残っていた声。


 鈴華は返事をしない。


 代わりに、左側の道を開ける。


 声は自分でそちらへ進んだ。


「どうぞ、お帰りください」


     *


 三つ目は《行動・還》。


 扉へ赤い曲がり角が描かれる。


 右と左。


 どちらか一方が正解と表示されていた線が消えた。


〈あの時の左は、もう選べない。でも、左へ行きたかった私の選択は、私へ返して〉


「返すのは過去じゃない」


 オレは扉の文字を読む。


「選んだのが自分だってことか」


「過去の結果は変わらないよ」と教授。


「分かってる」


「彼女は、右へ行って安全だったかもしれない」


「それでも、左を考えたことまでおまえのものじゃない」


 扉が青になる。


 その向こうで、止まっていた誰かの指が、ほんの少し左へ動いた気がした。


     *


幕間・藍羽


 如月藍羽の区画は、道場の床に似ていた。


 十三重円。


 ただし線の半分が赤く、円ではなく行き止まりになっている。


 藍羽は中央へ立つ。


 闘技場のハミンは見えない。


 道場の父も見えない。


 それでも裸足の裏へ、遠くの床が鳴る拍だけは届いた。


 一拍。


 天道王が道場で踏む。


 それは崑崙の法術ではない。父がインドで修業し、身体の内と外を巡る気(オーラ)を学び取って編み上げた型だ。


 一拍遅れて、藍羽も踏む。


 足から受けた気を、腰、背、肩、腕へ通し、また地へ返す。


 天道纏気は、身体を強くするためだけの型じゃない。


 力を溜め込まない循環だ。


 一周目。


 父と同じ順番で十三の円を踏んだ。


 正しい爪先。


 正しい膝。


 正しい呼吸。


 幼い頃から、何度も繰り返した天道宗の型。


 それでも赤い行き止まりは残った。


 流れがそこで折れ、自分の脚へ戻ってくる。


 二周目は、もっと正確に踏んだ。


 呼吸が浅くなっただけだった。


 力比べなら、ハミンにも父にもまだ届かない。ここで必要なのは量じゃなく、帰ってこられる道を一周させることだった。


 量を足して押し切れば、赤い線へ溜め込むだけだ。


「父さん、聞こえてる?」


 返事はない。


 相互不可視の区画だからだ。


「聞こえなくても、同じ型なら分かる」


 そう言ってから、藍羽は足を止めた。


 同じ型。


 父と同じ答え。


 それでは、父の天道宗を正確に残すだけだ。


 父だって、誰かから完成した宗派を渡されたわけではない。


 土地の音を聞いた。


 自分で足を置いた。


 毎日掃除し、子どもへ受け身を教え、ここを天道宗にした。


「私、父さんの天道宗をそのまま継ぐだけじゃ嫌」


 満月の夜、包帯を巻きながら言った言葉を、もう一度口にする。


「私の動き、私の教え方、私が選んだ人たちで、自分の天道宗を作る」


 聞こえない父へ向かって構える。


「いま、続きを作るから」


 父の大きな歩幅を追うのをやめた。


 最初の呼吸だけを受け取る。


 次は、ハミンへ教えた半歩。


 相手の肩を軸にせず、自分の足の下へ軸を置く。


 その次は、受け身を怖がる子どもでも踏める短い一歩。


 最後は、相手の動きへ触れてから、自分で進む先を変える一歩。


 父から習った呼吸。


 ハミンと作った動き。


 子どもたちへ教えて分かった歩幅。


 どれか一つへ揃えない。


 赤い行き止まりへ入り、その先で小さく回る。


 行き止まりを消すのではなく、別の円へ帰れる道へ変える。


 遠くの拍が止まった。


 一瞬、失敗したと思った。


 次の一拍。


 父の踏み込みが来た。


 今度は前からではない。


 藍羽が置いた新しい拍の、一拍あとへ重なった。


 父が、藍羽の型へついてきた。


 初めてだった。


 脚は震えている。


 気の量が増えたわけでも、父の力を受け取ったわけでもない。


 それでも流れは止まらない。


「私の天道宗は、全員を同じ歩幅へ揃えない」


 腕を大きく回す。


「自分の足で入って、自分の足で帰ってこられる輪にする」


 父と違う足を置いても、父の拍は消えなかった。


「勝負は次にする。だから今は、帰ってこられる道を残す」


 赤い行き止まりが、一本ずつ違う曲線になり、十三の輪へ戻った。


     *


 四つ目の代表扉、《関係・断》が開いた。


〈今日は一人で帰る。嫌いになったからじゃなく、一人で考えたいから〉


 誰かとの縁を切る声じゃない。


 いったん離れることを、自分で選ぶ声だ。


 関係は続けることだけが正解じゃない。


 断る向きも、返すべき選択に入っている。


 扉の赤が青へ変わる。


「離れれば、孤独になる者もいる」


 教授が言った。


「残れば苦しいやつもいる」


「どちらが最適か、本人には分からないことがある」


「おまえにも分からないだろ」


 教授のサングラスへ、青い扉が四つ映った。


「だから聞けよ」


     *


幕間・ハヨン


 ハヨンの区画には、机が一つだけあった。


 上へ四枚の同意書が並ぶ。


 体育祭。


 文化祭。


 秋季校外研修(星見島)。


 卒業式。


 原文は、危険が迫った時の必要最小限の停止と避難経路変更に同意するものだ。


 赤い校正は、未来の全選択を管理者へ譲渡すると書き換えている。


 ハヨンは画面の向こうのハユンを見る。


「お母さん。私は原文照合を担当する。地域ごとの補完圧を切る方法は?」


『候補を三つ送るわ。選ぶのはあなた』


「成功率をつけて」


『つける。でも一位を命令にはしない』


 三つの手順が表示される。


 ハヨンは計算し、一つを選ぶ。


「署名時の適用範囲を固定して、後日の目的変更を無効化する」


『理由は?』


「六分類全部へ同じ論理を使える。身体の安全へ同意しても、関係を譲っていない。所属行事へ参加しても、記憶を渡していない。行動停止へ同意しても、人生の時間を渡していない」


 四十八の校正欄へ、一つずつ証明を送る。


 赤い文字が反論する。


《保護者署名あり》


「保護者は本人の全未来を所有しない」


《緊急性あり》


「必要最小限を超えた固定は緊急避難じゃない」


《利益が損失を上回る》


「利益があっても、聞いていない同意は作れない」


 ハヨンの指が一度止まる。


 兄へ飲ませた薬の瓶を思い出す。


 心配していた。


 兄がトラブルを起こさない利益があると思った。


 それでも、同意はなかった。


「本人が断れる前に答えを使わない」


『その証明でいい』


 ハユンは解答を足さなかった。


 ハヨンが自分で実行キーを押す。


     *


 五つ目の代表扉は、《所属・復》だった。


〈辞めた部へ戻るかは、まだ決めていない。でも見学へ行くことは、自分で決めた〉


 戻ることを強制する声ではない。


 戻る可能性を、もう一度持つ声。


 扉が青くなる。


 その瞬間、ほかの扉にも細い青線が走った。


 身体の起、断、延、促、復、還、循。


 関係の起、継、延、促、復、還、循。


 所属、行動、記憶、時間。


 オレは一枚ずつ詳しく見ようとした。


 でも、声が先に来た。


〈進学先は決めた。でも途中で変えるかもしれない〉


〈明日、友達に謝る。許してもらえるとは決めない〉


〈家業を継ぐか、もう一度話す〉


〈今日は休む〉


〈一年遅れて始める〉


〈忘れたくない。でも忘れたことを責めない〉


 卒業式で、一人ずつ残した余白。


 同じ歌詞じゃない。


 同じ音程でもない。


 命令されていない声だけが、青い線になって走る。


 代表の六扉以外を、一枚ずつ開く必要はなかった。


 誰かの声が、自分の住所を選び、自分の扉を開けていく。


 六。


 九。


 十三。


 二十一。


 三十四。


 青い扉が増える。


「一人ずつ戦わせると思ったかね」


 教授が尋ねる。


「ちょっとだけ」


「人の選択を、試練の数へ変換するのは君も好きではないようだ」


「四十八回もやったら昼飯に遅れる」


「まだ昼食の心配をするのか」


「止まったままだと、ひなたの作った予定が全部ずれるだろ」


「予定外を喜ぶ者たちではなかったかね」


「ずらされるのと、自分でずらすのは違う」


 教授は答えなかった。


     *


幕間・紫苑


 霧崎紫苑の区画には、白い床しかなかった。


 立っているはずの自分の足さえ、時々消える。


 名札を見ても、《霧崎紫苑》の文字が薄い。


 紫苑は札へ結果を書く。


《選択が、持ち主へ戻り始めた》


 戻り終わった、とは書かない。


 全員が自分を思い出した、とも書かない。


 いま起こり得る、小さな結果だけ。


 破る。


 札の文字が先に薄れた。


 いつもなら、結果へ現実を引きずるため、すぐ次の札を出す。


 今日は出さない。


「一」


 原因を待つ。


「二」


 先輩の返却線。


「三」


 蓮の同期。


「四」


 鈴華の声。


「五」


 藍羽と天道王の循環。


「六」


 ハヨンとハユンの証明。


「七」


 キャリーの翻訳は、まだ来ない。


 紫苑の右手が震える。


 結果を先に固定した代価が、肩から指へ溜まる。


 八拍目を待てば、間に合わないかもしれない。


 結果だけを取れば、簡単だ。


「八」


 待った。


 床の下から、一人の声がした。


〈霧崎、なのか〉


 紫苑は息を止める。


 二年前、同じ教室にいた声。


 顔は思い出せる。相手は、紫苑の名をずっと思い出せなかった。


〈俺は、誰を忘れたんだ〉


 声はまだ曖昧だった。


 完全に記憶が戻ったわけじゃない。


 それでも、卒業式で残した本人の言葉が続く。


〈知らないままにしない〉


 紫苑は新しい札を出さなかった。


「遅いんだよ」


 笑いながら、声が自分へ届く原因を待った。


     *


 六つ目の代表扉、《記憶・継》へ文字が出た。


〈忘れたことを、知らないままにしない〉


 扉の内側に、紫苑の影が見えた気がした。


 すぐ消える。


 名前も聞こえない。


 でも、青くなった。


「紫苑」


 オレは扉へ手を当てる。


「まだ戻ってないだろうけど、いるな」


 返事はない。


 青い扉が四十六まで増えた。


 残り二つ。


 《記憶・循》と《時間・循》。


 記憶の扉は赤と青の間で明滅している。


 時間の扉には、男の影。


     *


幕間・キャリー


 アトランティス最高の錬金術師、キャリー・アイの区画は、古い研究室だった。


 正確には、零頁が自律観測像を返却翻訳者として切り分け、アトランティス側の観測核へ重ねた区画だ。本物のキャリーが日本へ移ったわけではない。


 アトランティスの観測室。


 壁に書かれた文字の上から、教授の赤い校正が何重にも走っている。


《保持》の上に《固定》。


《観測》の上に《選別》。


《返却》の上に《収奪》。


 赤い文字を消せば、教授が何をしたかも消える。


 黒く長い髪を背に流したキャリーは、赤い校正を消さない。


 錬金留め具を一本ずつ外し、下の青い原文を露出させる。


「雷綴。流せ、蓄えるな」


 先輩の線へ、原文がつながる。


「時門時計。止めるな、異なる現在を合わせなさい」


 蓮の針へ、原文がつながる。


「心響鈴。声を与えるな、選ばれた声へ帰路を与えなさい」


 鈴華の音へ、原文がつながる。


 気の循環。


 同意の証明。


 八拍を待った結果。


 別々の方法を、一つの命令へまとめない。


 それぞれが選んだまま、魔械文書の返却規約へ翻訳する。


「奇跡には請求書を」


 キャリーは最後の留め具へ触れる。


「返却には、持ち主の署名を」


 留め具が外れた。


 赤い校正の下から、本来の一文が現れる。


《保存された選択は、選択者の現在へ返す》


     *


ハミン


 《記憶・循》の扉が青くなった。


 四十七。


 回廊を埋めた赤が消え、青い扉の光が雲へ反射する。


 戻っていないのは、一つだけ。


《時間・循》


 その扉だけが、血みたいに赤い。


 中の男の影が、オレと同じ姿勢になる。


 拳を下げる。


 足を開く。


 女の身体のオレと、男の影が、扉を挟んで向き合った。


 四十七の返却路はできた。


 でも、扉はまだ開かない。


 赤い文字が出る。


《原所有者:ハミン》


《保管者:目黒総司》


《取得形式:同一二者間・レベル3(原典級)選闘》


《返還条件:レベル3(原典級)・同一二者間の再選闘、または保管者の自発返還》


 レベル1は、全校へ公開された軽い約束の選闘。レベル2は、期間や役割を条件ごと移す厳しい選闘で、最初は委員会と教授だけが隠していた。オレが鈴華との勝負でその存在を知った時にも、まだその上があった。


 レベル3(原典級)。才能、人生、運命の幹へ触れる固有選択。委員会の三人が知っていたのは存在と承認規約までで、本当の実装と起動権限は教授が隠していた。目の前の記録が、その隠された権限でオレの《男に戻れる日》を奪ったと示している。


 軽い約束から条件へ。条件から人生そのものへ。段を一つ上がるたび、勝者が持っていくものは、持ち主へ返しにくくなっていた。


「おまえが返すなら、いま終わるぞ」


 教授へ言う。


「四十七頁は、監査の開始条件を満たした」


 教授は青い扉を見回す。


「彼らは、私が与えた道具を壊さず、用途だけを変えた。見事だよ」


「褒めて終わりか」


「いいや。監査が正しいか、最後の一頁で確かめる」


 教授が右手を上げた。


 偽物の月が、赤い扉の真上へ降りる。


 本物の満月は雲の向こうにある。


 どちらの光を浴びても、オレの身体は変わらない。


 回廊の床へ、挑戦文が刻まれた。


《選闘挑戦者:目黒総司》


《選闘被挑戦者:ハミン》


《形式:レベル3(原典級)・同一二者再選闘》


《対象:運命・人生の幹に属する固有選択》


「ハミンくん」


 教授の声は、授業で問題を出す時と変わらない。


「君へ、正式な再選闘を申し込む」


 四十七の青い扉が閉じた。


 仲間の気配はない。


 攻撃も、防御も、声も来ない。


 残ったのは、オレと教授。


 それから、扉の向こうにいる男の影だけだった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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