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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第八章「はみんぐ・ふれあ」
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43/48

第43話「世界が選ぶのをやめた日」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 鐘は、十三回目を鳴らし終えなかった。


 ご――。


 低い音が半分だけ広がり、そこで切れた。


 卒業生が投げた帽子は、講堂の天井近くに浮いている。


 拍手をしていた手は、触れ合う一寸前で止まっている。


 舞台袖の紙コップから立つ湯気は、白い縄みたいに曲がったまま動かない。


 窓の外では、開きかけた桜のつぼみが風に押されていた。花びらになる前の薄桃色が、枝ごと一枚の絵へ貼りついている。


 音がない。


 大勢がいるのに、息をする音さえなかった。


 オレは吸った。


 同時に、床下の自然節が一度だけ脈打った。ハヨンの端末で、十三の青い輪の一つが消える。


 一節。


 胸が動く。


 隣にいた藍羽も目を見開き、息を吸った。


 二節。


 先輩が接地保持していた雷綴を床へ突く。崑崙由来の法宝へ教授が外装を加えた棒は、外布を焦がし、管理刻印を失っている。こつん、と音がした。その音だけが、広い講堂で迷子になったみたいに小さい。


 三節。


「動ける人を確認」


 ハヨンが言った。


 眼鏡の内側で、目だけが素早く動く。


「お兄ちゃん。藍羽さん。西能寺先輩。時任さん。閑崎さん。霧崎さん。キャリー博士。私。八人」


「教授もだ」


 オレは壇上を見る。


 教授は鐘の下から消えていた。


 零頁だけが、空中で開いている。


 何も書かれていなかったはずの頁へ、赤い線が一本ずつ増えていた。線は講堂の壁を越え、床を這い、生徒たちの靴の影へ刺さっている。


 四節。


「ひなた」


 前列の端にいたひなたへ駆け寄る。


 ひなたは卒業生へ渡す花を抱えていた。


 口元に、笑みが残っている。


 楽しいから笑っている顔じゃない。


 今日の式がうまくいって、椅子も証書も足りて、全員が予定どおり帰れる。それを確認した時の、小さな安心だけを切り取った顔だ。


「ひなた、聞こえるか」


 肩へ触れる。


 温かい。


 生きている。


 でも、揺れない。


 瞳の中で、オレの姿も動かなかった。


 五節。


「正式選闘じゃありません」


 蓮が壊れた時門時計の中核を握る。


 青い頁と一本の針。外装を失った針は、進もうとして、見えない壁へ何度も押し戻されていた。


「挑戦宣言がない。相互請求も、受諾の問いも、審判音声もない。これは教授の管理者権限による固定です」


「なら、何でオレたちは動ける」


 先輩が周囲を見る。


 講堂の外へ続く扉の向こうにも、止まった生徒がいる。


 一人だけじゃない。


 誰もが、同じくらい満足そうに笑っていた。


 六節。


「文化祭と、さっきの再演」


 講堂に置いた水鏡の投影が、零頁を見上げた。


 日本へ来ているのは、アトランティスの観測核に残る自律観測像を鏡面へ映したものだ。本物のキャリーじゃない。アトランティス最高の錬金術師の姿を写した、黒く長い髪の端が、水面へ落ちた光みたいに揺れている。


「自分で声を出した人だけが作った返却路。私たちはあれへ接続していた。総司が声を燃料へ変えるより先に、ほんの短い猶予が残ったのよ」


「ほんの短いって?」と藍羽。


「十三節」


 ハヨンが答えた。


「道場と選塔の自然節が脈打つ十三周期。人の一呼吸より長い。もう六」


「数えるな。短くなる気がする」


「数えなくても短くなる」


「おまえ、こういう時にも正確だな」


「こういう時だから」


 七節。


 講堂の窓が、一斉に赤く染まった。


 夕焼けじゃない。


 外の景色へ、零頁の文字が重なっている。


 校門を出ようとしていた卒業生の足。


 横断歩道の途中にいる人。


 町を走る車。


 羽ばたく途中の鳥。


 商店の鍋から昇る湯気。


 全部が止まっていた。


 車は衝突していない。鳥も落ちていない。熱い鍋へ触れた人は、火傷をする一瞬前で守られている。


 事故がない。


 喧嘩もない。


 失敗も、遅刻も、次の後悔もない。


 その代わり、信号は永遠に変わらない。


「完璧な朝の、完成形か」


 オレは言った。


 前に見た一種類のパンを思い出す。


 身体に一番いい味。


 誰も外れを引かない売り場。


 何を食うか考えなくていい朝。


「目黒教授は、世界規模の補完圧を零頁へ接続しました」


 ハヨンの端末へ、地球の形をした赤い球が出る。


 見覚えのある観測節が、順に赤へ変わった。


 海底ケーブルの近く。


 氷床の下。


 砂漠の井戸。


 使われなくなった天文台。


 母さんが一つずつ閉じていた、世界の継ぎ目だ。


 球の横へ、外縁回線の小さな窓が次々開いた。


 遠い港では、貨物を吊ったクレーンが動きの途中で止まり、固定が届く直前まで管制室へ積み上がっていた警告が、赤い一覧のまま止まっている。


 別の国の駅では、信号が安全側の赤で固まり、列車は動かない。固定が届く直前、運転士たちが入れようとした連絡を、回線は同じ一秒の送信待ちとして何百件も抱えていた。


 夜の放送局では、画面の時計だけが先に同じ時刻へそろい、話していた人の口が次の言葉へ進めなくなる。


 事故が起きていないことと、混乱がないことは違った。安全装置が機械を止めても、そのあと何をするかは人間が決めなければならない。


「まだ全域じゃない。でも星環学園を原点に、同じ一秒へ揃え始めてる」


 八節。


 床から四十八本の線が立った。


 一本一本が薄い壁になる。


 講堂の椅子も、舞台も、止まった生徒も切らない。存在と存在の間へ、最初からそこに隙間があったみたいに入り込む。


「分断が始まる」


 キャリーが言った。


「零頁は四十八基幹頁を別々の区画へ展開する。返却路に触れた者を、機能ごとに仕分ける気ね」


「仕分けられたあと、戻れるか?」と先輩。


「全頁が返却モードへ戻れば」


「戻らなかったら?」


「世界と一緒に、満足したまま止まるでしょうね」


「分かりやすい」


 先輩が笑った。


 明るい声だった。


 怖くないからじゃない。


 怖いまま立つ時の声だ。


 九節。


「担当を確認する」


 ハヨンが端末を胸の前へ持つ。


「命令はしない。私が見つけた必要条件を言う。誰がどれを選ぶかは、本人が答えて」


 前のハヨンなら、最短の配置を画面へ出していた。


 そのとおり動けば成功率が何パーセント上がるか、理由まで並べていた。


 いまは、待った。


 先輩が先に手を挙げる。


「雷綴の線はオレがやる。教授に集める線を、持ち主へ返す線に変える」


「棒を通せば、管理刻印が再起動する可能性がある」


「分かってる。だから流す。もう蓄えない」


 雷綴の管理刻印の下に現れた、キャリーが復元した法宝本来の青い文。


 流せ、蓄えるな。


 先輩は自分で選んだ。


「僕は時刻同期を取ります」


 蓮が続く。


「いまの学校と、止まった都市が別の一秒へ裂けたら、返す先を失う。壊れた中核だけで合わせる」


「外装なしの連続使用時間は未測定」とハヨン。


「だから連続使用はしない。最初の一拍だけを合わせ、あとは返却規約へ渡す。遅れるかもしれない」


「待つぞ」


 オレが言う。


「聞かれる前に答えないで、お兄ちゃん」


「悪い」


 蓮が少し笑う。


「でも、助かる」


 鈴華は腰の鈴へ指を置いた。


「わたくしは、声を通します。本人が卒業式で選んだ言葉だけを。偽物も、本人に代わって誰かが言った正解も、通しません」


「声が多すぎれば、また反動が来る」と先輩。


「聞こえたからといって、すべてへ従う必要はありません。聞き分けることを、わたくしが選びます」


 藍羽は拳を握った。


「私は気の循環。父さんが道場側を支えてくれるなら、塔側で同じ型をする。ハミンのところへは行けないんだよね」


「行けない」とキャリー。


「攻撃も防御も、渡せない」


「分かった。なら、道だけ残す」


 藍羽がオレを見る。


「勝負は自分で勝って」


「当たり前だ」


「負けたら、私が怒る」


「それは困るな」


「だから勝って」


「それ、命令じゃないか?」


「希望」


「じゃあ聞いとく」


 十節。


「私は同意鍵を調べる」


 ハヨンが自分の担当を選ぶ。


「体育祭、文化祭、星見島、卒業式。安全のための同意を、未来全体の譲渡へ変えられないと、四十八分類全部へ証明する。お母さんの回線とつなぐ」


「ハヨン博士。最短だからではなく?」


 キャリーが尋ねる。


「私が、同意を飛ばしたことがあるから」


 ハヨンはオレを見た。


「今度は、聞かれていない答えを有効にしない」


「採用」


 オレが言う。


「お兄ちゃんに採用権はない」


「じゃあ応援」


「受理する」


 紫苑が一枚の札を指の間で回した。


「俺は結果を置く」


「大きい結果は駄目」とハヨン。


「先に言うな。俺も学習してる」


 札には、まだ何も書かれていない。


「《選択が持ち主へ戻り始めた》。始めるだけだ。戻り終わるとは書かない。原因が通れる八拍も残す」


「実現可能性は?」


「こいつらが、これから作る」


 紫苑が先輩たちを顎で示す。


「俺は原因を奪わない。来るまで待つ」


「成長したな」


「ハミン、おまえに言われると腹が立つ」


 十一節。


 キャリーが赤い零頁へ手を伸ばした。


 触れた指先が、少し透ける。


「私は翻訳する。三つの法宝、同意証明、気の循環、逆因果。全部を、魔械文書が最初から持っていた返却文へ戻す」


「教授の文章を消すのか」


「消さないわ」


 キャリーは答える。


「誰かが何をしたかまで消したら、責任も学んだこともなくなる。赤い校正を残したまま、その下の原文を読めるようにする」


「七人だ」


 先輩が数えた。


「ハミンは?」


「教授のところへ行く」


 オレは壇上の鐘を見る。


 鐘の内側から、雲が流れ出していた。


 屋内なのに、白い雲は床より下へ沈んでいく。


 選塔へ続く入口だ。


「何を担当するの、お兄ちゃん」


「まだ分からん」


「分からないまま行く?」


「あいつがオレのを持ってる。それは取り返す」


 男へ戻れる満月。


 時間と循環の頁へ閉じ込められた、オレの帰還枝。


「でも、それだけじゃ足りない」


 ひなたの止まった笑顔を見る。


 先輩へ命じた昼飯。


 左へ行きたかった誰かの声。


 紫苑から落ちた名前。


 オレが勝負を面白がるたび、軽いと思っていた請求も、相手の道を一つ閉じていた。


「オレが何を選ぶかは、向こうで決める」


 十二節。


 四十八の壁が閉じ始めた。


「ハミン!」


 先輩が手を伸ばす。


 届かない。


 薄い赤い壁が、オレと先輩の間へ落ちる。


 向こうの声が急に遠くなった。


「西能寺先輩、線を!」


 ハヨンの声。


「分かってる!」


「お兄ちゃん。次に会った時、答えを――」


 壁が重なる。


 ハヨンの最後まで聞こえない。


 藍羽の青い袖。


 蓮が握る時計の針。


 鈴華の黒い和装。


 紫苑の札。


 キャリーの透けた指。


 七人の姿が、別々の赤い面へ切り取られる。


 互いの区画は見えない。


 誰も、オレのいる場所へ来られない。


 十三節。


 講堂が消えた。


     *


 足の下に、透明な階段があった。


 下を見る。


 星環学園が逆さに浮いている。


 講堂の屋根も、時計塔も、校庭も、雲の上側にぶら下がっていた。


 校庭では、卒業式のあとに外へ出た生徒たちが止まっている。


 帽子が空中に散らばり、全員の顔へ同じ薄い笑みがある。


「趣味悪いな」


 オレの声だけが、雲へ吸われる。


 返事はない。


 階段の左右には、細長い窓が並んでいた。


 一つ目の窓に、町が映る。


 自転車の前輪が水たまりへ入る直前で止まっている。乗っている子は、転ばずに済む未来を先に知ったように笑っていた。


 二つ目は、遠い国の夜。


 病院の廊下で、医者が手術室へ入る一歩前に止まっている。家族も泣いていない。失敗がまだ起きていないからだ。


 三つ目は、海。


 波頭が崩れない。


 月光を抱えたまま、銀色の山になっている。


「教授!」


 呼んでも、姿は出ない。


 階段を上がる。


 身体は女のままだ。


 月の出の十五分前から鼻歌へ混じっていた低い倍音は、もう喉の底で強く鳴っている。腕と脚の距離感も、ときどき長くなろうとして揺れる。


 なのに、変わらない。


 帰還枝がない。


 分かっていても、腹が立つ。


 四つ目の窓は、天道宗道場だった。


 おっさんが十三重円の中央に立っている。


 藍羽と同じ天道纏気の構えを取り、ゆっくり腕を回す。こちらの藍羽は見えない。それでも二人の気が、遠い場所で同じ輪を描いているのが分かった。


 庭の土へ、赤い亀裂が走る。


 おっさんは踏み込み、亀裂を消すのではなく、左右へ分けて流した。


 全部を支える力はない。


 流れが途切れないよう、道を作っている。


 五つ目の窓に、母さんがいた。


 どこの国か分からない研究施設。


 壁いっぱいの画面へ、世界各地の赤い波が出ている。


 母さんは一人で全部を消そうとしない。学校から届いた同意原文を、国ごとの通信規約へ分け、強制固定の外縁だけを一本ずつ切っていた。


 口が動く。


 声は届かない。


 画面に文字が出た。


《ハミン。外側は止める。内側の答えは、あなたが選びなさい》


「言われなくても」


 六つ目の窓。


 白いものしか映っていない。


 雪じゃない。


 父さんだ。


 白沢衣は、白熊の着ぐるみへ化けた崑崙の法宝だ。白熊の外形を人へ見せても、中の父さんを一人の存在として魔械文書に観測させない。窓には、白い布のような光と、大きな足跡だけが別々に映っていた。


 学園の地下で、地脈が持ち上がる。


 白熊の両腕が、その下へ入っているらしい。


 岩盤が一度沈み、止まった。


 父さんは崑崙の仙人で、世界最強の男だ。本気で世界を殴れば、塔ごと壊せるかもしれない。


 でも、そんなことはしない。


 中にいる人間の選択まで壊さないため、ただ落ちないよう支えている。


 白い窓の真ん中へ、紙が上がった。


【紙面:中は任せた。】


「短い」


 思わず笑う。


 窓の父さんは、笑わない。


 紙を下ろし、地脈を支え続ける。


 オレの胸元には、前にもらった空白の紙がある。


 十三番目の門へ行く前、父さんが何も書かず渡した紙。


 いまも白い。


「まだ書かねえぞ」


 何を書くかは、オレも知らない。


 階段の先に、扉があった。


 取っ手へ手をかける。


 開かない。


 赤い文字が浮かぶ。


《返却担当者の相互移動を禁止》


「担当じゃない。オレだ」


《未分類》


「それ、答えになってないぞ」


 蹴る。


 扉は揺れなかった。


 藍羽たちの区画へ抜ける道じゃない。ここで扉を壊しても、誰かのところへ行けるわけじゃない。


 攻撃も、防御も、届かない。


 オレは取っ手から手を離した。


 扉の横に、もう一つ入口が開く。


 雲上闘技場の前室。


 白い床と白い壁。


 正面だけが、空へ抜けている。


 そこに教授が立っていた。


 薄い色の髪。


 サングラス。


 紫のスーツには、卒業式の時と同じ皺一つない。


 左腕だけ、袖口の下に赤黒い火傷が透けている。


「十三節を、よく使ったね。ハミンくん」


「みんなを戻せ」


「戻す、とはどの時点へかね」


 教授は、止まった世界の窓を見る。


「事故の前か。喧嘩の前か。選んだ進路を後悔する前か。人は《戻りたい》と言いながら、戻る場所を一つに決められない」


「だからおまえが決めたのか」


「決める必要がなくなる地点を選んだ」


 窓が一つ増える。


 講堂のひなた。


 止まった卒業生。


 みんな、満足そうに笑っている。


「苦しんでいる者はいない」


「喜んでもいない」


「喜びを失う恐怖もない」


「次の昼飯も食えないぞ」


「君らしい反論だ」


「大事だろ」


 腹が減る。


 何を食うか迷う。


 頼んだものが外れる。


 藍羽におかずを取られる。


 そういう次が、全部ない。


「正式な選闘じゃないなら、オレはおまえを殴って止める」


 踏み込む。


 教授へ拳を出す。


 拳は胸を抜けた。


 映像だ。


 教授の身体が赤い文字へほどけ、オレの背後で組み直される。


「管理者固定の内部では、管理者へ届く経路も私が定める」


「なら、その経路を出せ」


「四十八頁の監査が終われば、拒む理由はない」


「先輩たちが何をしてるか、見えてるのか」


「いいや」


 教授は穏やかに答えた。


「私にも見えない。零頁が分離した区画は、互いを観測できない。彼らが私を攻撃することも、君を守ることもできない。できるのは、既存の規則を本来の向きへ戻すことだけだ」


「それで十分だ」


「信じるのかね」


「信じる」


 即答した。


 教授は一度だけ黙った。


「委員資格を失い、道具を壊し、名前さえ不安定な者たちだよ」


「だから何だ」


「失敗するかもしれない」


「するかもな」


「君は、成功する唯一の配置を知りたくないのかね」


「知っても、自分でやるって言ったやつを動かさない」


 先輩は線を選んだ。


 蓮は時刻を選んだ。


 鈴華は声を選んだ。


 藍羽は循環を選んだ。


 ハヨンは同意を選んだ。


 紫苑は始まりだけの結果を選んだ。


 キャリーは消さずに読むことを選んだ。


「失敗したら、次に別のを選ぶ」


「次が残れば、だ」


 教授が空を指す。


 闘技場の上に、月が二つあった。


 一つは、雲の奥。


 少し黄ばんだ本物の満月。表面の海がまだらに見え、薄い雲が前をゆっくり横切ろうとして、固定の端で止まっている。


 雲上闘技場は空の方角を折り、講堂東側の高窓から見えていた月を頭上へ置いている。位置だけが位相空間の投影で、月齢と光は外の本物だ。


 もう一つは、零頁の真上。


 傷一つない白い円。雲より手前にあり、どこから見ても同じ大きさで、光の影さえ作らない。


 偽物の月。


 オレの足元から、影が二つ伸びる。


 本物の月が作る影は、いまの女の身体。


 短い腕。


 低い重心。


 一本に編んだ長い赤い髪。


 偽物の月の下には、男の影が立っていた。


 いまのオレより長い手足。


 教授に奪われた、満月の姿。


 低い倍音が喉の奥で鳴る。


 変化の時刻は来ている。


 それでも、肩も、腕も、脚も変わらない。


 女の身体のままだ。


「選びたまえ、ハミンくん」


 教授のサングラスへ、二つの月が映った。


「四十八の扉が開くまでに、君がどちらの影を本物と呼ぶか」


「先に決めつけるな」


 オレは二つの影の間へ立った。


「本物は月じゃない。オレが、これから選ぶほうだ」


 前室の奥で、最初の扉が鳴った。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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