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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第七章「絶対運命を補完しない」
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40/52

第40話「鈴華が本当の声を鳴らす」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

幕間・鈴華


 幼い鈴華は、世界でいちばん静かな部屋に立っていた。


 サイレンスエレクトロニクスの無響室。


 壁も床も、細い楔のような吸音材で覆われている。雑音を打ち消すノイズキャンセリング機器、防音材、音を立てない静音機構。父の会社は、世界中へ静けさを売っていた。


 扉が閉まる。


 空調の音が消えた。父の靴音も、自分の呼吸さえ遠くなった。


 それでも、声は消えなかった。


〈早く終わってほしい〉


〈結果が出なければ困る〉


〈この子には、何が聞こえている〉


 廊下にいる技術者。扉の外の社員。隣に立つ父。


 口は、誰も動かしていない。


「まだ聞こえるのか」


 父が尋ねた。


「はい」


「よく頑張ったね。疲れているだけだ。一度、検査を受けよう」


 穏やかな声だった。


 その奥で、一語だけが落ちた。


〈バケモノ〉


 鈴華は、聞こえなかったふりをした。


     *


 星環学園大学部の検査室で、目黒教授は鈴華の前へ何枚も測定板を並べた。


 机の端には、細い金の鈴が置かれていた。


 誰も触れていない。


 それが、鳴った。


 ちりん。


 近くの人の断片だけだった声が、学園全体と、保管されていた選片へ一度に開いた。


 校舎の教室。廊下。運動場。まだ会ったことのない生徒たち。


 答えたくなかった。帰りたかった。右ではなく左へ行きたかった。


 選べなかった瞬間の感情まで流れ込む。


 鈴華は耳を塞いだ。


 音ではないから、止まらない。


「これは鈴が君を選んだのではない。君が先に、同じ周波数だった」


 教授の声だけが、同じ高さで届いた。


 教授は鈴華の前へ膝をつく。


「全部を消すことはできない。だが、量を分けることはできる。君が君の声を選べる程度まで、濾過する印を付けてもいいかね」


 鈴華はうなずいた。


 教授は赤いペンで、金の鈴へ管理印を刻んだ。


 声が一件ずつ遠のく。


 鈴華は、残った声を一件ずつ数えた。


 恐れ、三十七件。


 期待、二十一件。


 帰属不明、九件。


 父は声の中身を尋ねなかった。


 数字を見て、初めて鈴華へまっすぐ顔を向けた。


「よく整理できたね」


 父が娘を評価できる単位は、点数と件数と収支だった。


 だから鈴華は、聞こえてしまう声を数えた。


 一件も落とさず帳簿へ置けば、初めて父に見せられるものになった。


     *


ハミン


 鈴華は、黒い和装の襟を直した。


 戦いへ行く時も、会計報告を読む時も、同じ仕草をする。


 乱れたものを整え、黒い袖へ手を隠し、音を立てずに立つ。


「一人で行くつもりか」


 先輩が聞く。


「いいえ」


 鈴華はすぐ答えた。


「一人でなければ扱えない道具と、一人では確かめられない声は、別です」


 帯から心響鈴を外す。


 細い金の鈴。黒い組紐。表面には、教授の管理印が薄く浮いている。


「皆さんに、放送室の前まで来ていただきます」


「前まで?」とひなた。


「中へ入る方は、わたくしが選びません。声を聞いた上で、ご自分で入ってください」


「ややこしいな」


「ハミンさんに言われたくはありません」


「先輩と同じこと言ったぞ」


「帳簿へ二件、記録しておきます」


 鈴華の口元が少しだけ上がる。


 それから、誰より先に講堂を出た。


 廊下の生徒たちは、授業へ戻っていた。


 固定が弱まった生徒は、歩幅が揃わない。友達へ何が起きたか尋ね、椅子を運んだ理由が分からず困っている。


 まだ固定された生徒は、同じ方向だけを見る。


 鈴華はその間を歩く。


 誰にも鈴を鳴らさない。


 廊下の角で、女子生徒が二人向かい合っていた。


 一人がプリントを差し出す。


「一緒に委員をやってください」


「はい。喜んで」


 受け取った生徒は、笑っている。


 その手首に赤い選択印がある。


 鈴華が通り過ぎた瞬間、心響鈴が袖の中で震えた。


〈本当は、断りたかった〉


 放送室から聞こえた声と同じだった。


 鈴華は足を止める。


 けれど振り返らない。


 勝手に答えを渡さない。


 女子生徒はプリントを抱え、決められた教室へ歩いていく。


「いまの声、あの子か?」


 オレが聞く。


「分かりません」


「鈴に入ってるんだろ」


「声の持ち主を、わたくしが読めるわけではありません。選片と近づいた時、響きが重なっただけです」


「なら、どうやって返す?」


「鈴に尋ねます」


「鈴は喋らないぞ」


「人も、尋ねたから必ず答えるものではありません」


 鈴華は前を向いたまま言う。


「待つことも、尋ね方の一つです」


     *


 放送室の扉には、赤い封印があった。


《卒業式終了まで、全校進行設備として封鎖》


 鍵穴はない。


 取っ手へ触れると、校歌が流れた。


 音程も速さも正しい。


 同じ一節が、何度も繰り返される。


「命令された歌だ」


 文化祭の舞台で、光らなかった歌声と同じだ。


 上手でも、全員が揃っていても、歌えと言われたから出した声を零頁は燃料にできる。返却路は開かない。


「壊す?」


 藍羽が拳を作る。


「放送設備ごと止まる」とハヨン。


「では、封印が認識していない者に開けてもらいます」


 鈴華が紫苑を見る。


「俺?」


「封印からは、霧崎さんの所属と氏名が欠けています」


「便利に使うな」


「お願いしています」


 紫苑は扉の前へ立った。


 赤い封印は、そこに人がいると判断しない。


 紫苑が取っ手を押す。


 扉は普通に開いた。


「教授の穴は、だいたい俺の穴だな」


「自慢するところじゃないぞ」


「してない」


 放送室の中は暗かった。


 機材の小さな光だけが、床へ並んでいる。


 壁の時計は十三時十三分十三秒。


 秒針は動いているのに、十三秒へ戻り続ける。


 マイクが一本。


 その前に、鈴と同じ形のくぼみがある。


「三法宝の認識座標」


 ハヨンが端末を向ける。


「心響鈴を置けば、全校の選択印と接続する」


「置いたあと、教授の管理印が鈴を取る可能性は?」と蓮。


 壊れた時計の中核頁と針を、透明な仮枠へ入れて持っている。秒を読むたび針が少し震える。


「高い。八一パーセント」


「高いですね」


 鈴華は中へ入った。


 オレも続く。


 藍羽、ひなた、ハヨン、蓮、先輩、紫苑。


 結局、全員が自分で扉を越えた。


「前までと言ったのでは?」と鈴華。


「聞いた上で入った」と先輩。


「オレは最初から入るつもりだった」


「それは聞いたことにならないでしょ」


 藍羽がオレの一本の編み髪を引く。


「痛い」


「現実確認」


「まだ幻は始まってないぞ」


「予行演習」


 鈴華は鈴のくぼみを見た。


「ハミンさん。以前、わたくしと選闘した時、鈴の幻をどのように見分けましたか」


「呼吸。床。痛み」


 鼻歌の長さを自分で決める。


 足の裏で床の冷たさを測る。


 掌へ爪を当て、痛みが自分の身体から来ると確かめる。


「三つを同時に、か」


「はい。一つの感覚は幻でずらせます。三つ全てを同じ瞬間へ合わせ続ければ、違いを見つけやすい」


「手を傷つけない方法にして」とハヨン。


「先輩につねってもらう」


「腕が動かない」


「藍羽は痛すぎる」


「注文が多い!」


 ひなたが、オレへ洗濯ばさみを渡した。


「これなら?」


「何で持ってる」


「卒業式の飾りを留める予定だったから」


 指へ挟む。


「痛い」


「ちょうどよさそう」


「あとでおまえもやれよ」


「必要ならね」


 鈴華は全員を見回した。


「幻が混じった時、ハミンさんは三つの基準。藍羽さん――」


 言葉が止まる。


 これまで鈴華は、ずっと《如月さん》と呼んでいた。


 道場の娘。


 ハミンの居候先。


 体育祭の協力者。


 委員会の台帳に書く時も、家名と役割で数えてきた。


「いま、何て呼んだ?」


 藍羽が聞く。


「藍羽さん、と」


「もう一回」


「藍羽さん」


 鈴華は、今度は迷わなかった。


「あなたには、わたくしたちが一緒に過ごした日常を言葉にしてください。記録された大事件ではなく、教授が価値をつけなかった小さなことを」


「分かった」


「ただし、いまはまだ言わないでください」


 鈴華が鈴を両手へ乗せる。


「わたくしは心を読みません。先に答えを探しません。あなたが何を言うか、ご自分で選び、声にするまで待ちます」


 藍羽が息を吸う。


 すぐには話さない。


 オレたちも急かさなかった。


 十三秒へ戻る時計だけが、同じ音を繰り返す。


「文化祭の朝」


 藍羽が言った。


「ハミンは、飾りつけ用のお菓子を半分食べた」


「半分じゃない」


「黙って」


「はい」


「西能寺先輩は予算外のボールを持ち込んで、閑崎先輩に没収された。時任先輩の予定表には休憩がなかったから、ひなたが勝手にお茶の時間を書き込んだ。ハヨンちゃんはお兄ちゃんの肩を測りたいのに、使っていいって聞くのがまだ下手だった」


 藍羽は鈴華を見る。


「閑崎先輩は、黒い着物の袖へ値引き券を入れてた。会計担当だからじゃなくて、駅前のお店の団子が好きだから」


「なぜ、それを」


「落としたのを拾ったから」


「記憶から削除を希望します」


「駄目。日常確認でしょ」


 鈴華の頬が少し赤くなる。


 作り物ではない顔だった。


「水守さん」


「私は、今日のあとにやることを言います」


 ひなたは自分のノートを開いた。


「図書室へ本を返す。卒業式の飾りに使う糸を買う。道場へ行けたら、朝の粥をもう一回作ってもらう。明日の昼は、全粒粉パンじゃなくて好きなものを食べる」


「何を?」とオレ。


「まだ決めてない」


「いい予定だ」


「予定なのに決まってない」と蓮。


「決める時間も予定のうち」


 蓮は少し考え、うなずいた。


「使えそうです」


 鈴華が心響鈴を、放送卓のくぼみへ置いた。


 ちりん。


 最初の一音が、校内へ広がった。


     *


 鈴華の袖が、風と逆へ揺れた。


 放送室には風がない。


 鈴の中から、黒い糸が何百本も伸びる。


 全校の手首へある赤い選択印。その奥に保管された、言えなかった声へつながっている。


「接続数、三百十二、四百八十、七百――」


 ハヨンの画面が数字で埋まる。


「増加中。上限不明」


 鈴華が息を詰めた。


「まだ、管理印は外していません」


 なのに、声が流れ込む。


〈帰りたかった〉


〈右を選びたかった〉


〈やっぱりやめたいと言いたかった〉


〈誰にも渡したくなかった〉


〈助けてほしかった〉


 オレにも聞こえる。


 言葉だけじゃない。


 帰れなかった焦り。右へ行けなかった悔しさ。断ったら嫌われるという怖さ。自分の声を聞いてもらえなかった怒り。


 鈴華は全部を正面から受けていた。


 膝が落ちる。


「鈴華!」


「触らないでください!」


 伸ばした手を止める。


 鈴華は自分で放送卓を掴んだ。


「管理印が、声を濾しています」


 息の間から言う。


「わたくしには、生まれつき、近くにいる方が強く意識した感情や短い言葉が、不意に流れ込むことがありました。この鈴へ適合した時、範囲が学園中と、選片に残る感情まで広がりました。教授がこの印を付け、わたくしが声を数字へ置き換えていた方法を、濾過の規則にしてくださいました」


「外したら、全部来る?」とひなた。


「はい」


「外さなくていい」


 先輩が言った。


「別の方法を探す」


「京一。別の方法を決めるのは、どなたですか」


 先輩が口を閉じる。


「鈴華」


「ハミンさんも、止めないでください」


「止めない。でも、倒れたら支える」


「それは助かります」


 鈴華は帯留めへ指をかけたまま、少しだけ動きを止めた。


「わたくしの家は、静けさを売る会社です」


 唐突だった。


「知ってる。うちの掃除機もそこのだ」と先輩。


「よい製品です」


「褒め方が会計だな」


 鈴華は笑わなかった。


「父は、世界中へ静かな夜を届けました。娘へは、届きませんでした」


 誰も何も言わない。


「一度だけ、父の声を聞きました。口から出た言葉ではなく」


「……何を」と先輩。


「言わないほうがよいでしょう。父は、口にはしませんでしたから」


 鈴華は、放送卓の鈴へ手を重ねた。


「口にしなかった人を、責める方法がないのです。ずっと」


 鈴華は帯留めの細い針を抜いた。


 鈴の内側へ差し込む。


 赤い管理印の中心に、小さな濾過の文字がある。


《不適合感情を遮断》


《管理者承認声を優先》


「二行目」と蓮。


「教授の声なら、本人のものではなくても通せる」


「だから、混ざる」


 鈴華が針を押した。


 赤い文字が割れた。


 声が、洪水になった。


     *


 道場の庭にいた。


 満月が出ている。


 オレは男の身体へ戻っていた。


「戻ったな、ハミン」


 先輩が笑う。


「これで全部、元どおりだ」


「違う」


 口では言える。


 でも、足元の土は冷たい。月の光は目へ入る。男の腕の長さも、肩の広さも、何度も使った感覚そのものだ。


「女の身体でいた時間は、事故だったの」


 藍羽が言う。


「戻ったなら、もういらないでしょ」


 学校へ出した身体相の説明も、研修館で一人部屋を選んだ夜も、「赤いお兄ちゃん」と呼ばれた声も、男の身体の後ろへ沈んでいく。


 戻ったなら、もう誰にも説明しなくていい。


 一瞬、それは楽だと思った。


 その楽さが一番危ない。面倒が消える代わりに、そこで選んだオレまで消される。


「藍羽はそんな言い方をしない」


「どうして分かるの?」


 正しい声。


 正しい顔。


 オレが一瞬でも怖いと思った言葉。


 教授は鈴へ偽の声を混ぜている。


 指を見る。


 洗濯ばさみがない。


 でも、指は痛い。


 床。


 土だ。


 放送室は硬い灰色の床だった。


 呼吸。


 吸う。長く吐く。


 ん――。


 鼻歌が月を揺らす。


 痛みはある。


 床が違う。


 呼吸へ、月が合わせてくる。


 三つのうち二つが、幻に作られている。


「床を返せ」


 足を踏む。


 土が割れ、灰色の床が出た。


「ハミンは文化祭のお菓子を半分じゃなく、三分の二食べた!」


 遠くで藍羽の声がした。


「余計な訂正をするな!」


「返事できるなら聞こえてる!」


「今朝は焼きそばパンを私に押しつけて、断られた!」


「押しつけてない。勧めた」


「髪が跳ねてるのを、最初に教えなかった!」


「似合ってたぞ」


「固定されたひなたみたいなこと言わないで!」


 日常が、偽の満月へ穴を開ける。


 ひなたの声もする。


「図書室へ本を返す。糸を買う。朝の粥を食べる。明日の昼はまだ決めない」


 同じ順番で、ゆっくり繰り返す。


 命令じゃない。


 次に自分で選ぶための、普通の予定。


 満月が消えた。


 放送室へ戻る。


 鈴華が床に両手をついている。


 黒い袖の周りへ、別の景色が何層も重なっていた。


 誰かの教室。


 知らない家の食卓。


 選闘で負けた白い床。


 空の上の雲。


「鈴華、床!」


「灰色……放送室の、床」


「呼吸!」


 鈴華が吸う。


 声の洪水に押され、吐けない。


 藍羽が隣へ膝をつく。


「団子の値引き券!」


「その記憶は、基準にしないでください」


 鈴華が息を吐いた。


「喋れた!」


「ほかに、ありませんの?」


「夏祭りで、黒い着物なのに金魚柄の巾着を持ってた」


「水守さんから借りたものです」


「昼食会で、ハミンの追加注文を三回断った」


「四回です」


「戻ってきた!」


 鈴華は顔を上げた。


 目に涙が浮かんでいる。


 それが誰の悲しみなのか、すぐには分からない。


〈あなたは冷たい〉


 声が言う。


〈全部、数字にした〉


〈返せないのに数えた〉


〈教授へ従った〉


「事実です」


 鈴華が答える。


〈あなたの怒りも、誰かから流れたものだ〉


 教授の声だった。


『閑崎くん。君は自分と他人を分けられない。だから私が濾過した。印を失えば、君の感情には根拠がなくなる』


 鈴華の手が止まる。


 怒り。


 悲しみ。


 恐怖。


 何百人分も流れ込んでいる。


 どれが自分か証明する方法はない。


「あります」


 鈴華が言った。


『何がね』


「わたくしは、いま、あなたへ返事をすると選びました」


 ゆっくり立ち上がる。


「数字へ直したのは、わたくしです。数えれば失わずに済むと思った。返せないのに記録する苦しさから、目を逸らすためでもありました」


 鈴を持つ。


「助けていただいたことへ感謝しています。それでも」


 笑みが消える。


「わたくしは、怒っています」


 大声ではない。


 何百人の声より、小さい。


「誰かの怒りを預かった会計担当としてではありません。あなたに従い、疑い、数え、それでも返せなかった、一人の閑崎鈴華として」


 鈴華は自分の胸へ手を置いた。


「この怒りは、わたくしが選びます」


 教授の声が消えた。


 洪水は止まらない。


 でも、鈴華の立つ場所ができた。


     *


「管理印の除去を確認」


 ハヨンが言う。


「ただし全声片が無差別接続。いま鳴らせば、全校へ全部の声が流れる」


「それは返すことになりません」


 鈴華が鈴を裏返した。


 これまでは、外側の音を相手の認識へ重ねていた。


 鈴口を上に向け、放送卓のくぼみへ逆向きに置く。


 内側の声を、持ち主へ返す形。


「識別できる?」と蓮。


「声の内容は識別しません。選片に残る帰属線だけを通します」


「誰が何を考えたかは?」


「読みません。読めません」


「偽物はどうする」と先輩。


「管理者承認しか持たない声には、本人への帰属線がありません。返す相手がいません」


 鈴華は藍羽を見る。


「最初の一声を、お願いします」


 鈴を鳴らす前に、目を閉じた。


 心へ触れない。


 表情も見ない。


 藍羽が自分で選び、声にするまで待つ。


 誰も数えない沈黙が過ぎた。


「私は、ここにいる」


 藍羽が言った。


「自分で言った声だけ、返して」


 鈴華は目を開けた。


「承知しました、藍羽さん」


 鈴を逆向きに鳴らした。


 ちりん。


 音は、放送室から外へ広がらなかった。


 一度、鈴の内側へ沈む。


 それから何百本もの細い道を、一本ずつ順に進んだ。


 一人に、一つ。


 一度だけ。


 一つ返すたび、鈴の印が次の持ち主へ移る。次の印が定まるまで、次の声は通さない。


 言えなかった本人の声を、同じ本人へ。


 鈴華は内容を聞かない。


 オレたちにも聞こえない。


 校舎のあちこちで、生徒が足を止めた。


 さっき委員のプリントを受け取った女子生徒が、廊下の端で振り返る。


「ごめん」


 自分の口で言った。


「私、本当は断りたかった」


 相手は驚く。


「いま言うの?」


「いま言いたくなった」


「じゃあ、代わりを探さないと」


「一緒に探す」


 すぐ仲直りはしない。


 相手は困った顔のまま、プリントを持ち直す。


 それでも二人は、同じ方向へ決められて歩かなかった。


 階段で、男子生徒が右へ行きかけ、止まる。


「左へ行きたかった」


 小さく口にする。


 春、選片倉庫で聞いた声。


 男子生徒は左の廊下を見る。


 行くかどうか考える。


 その場へ立ったまま、まだ決めない。


 それも戻った選択だった。


 ハヨンの端末が光る。


 画面の鏡面へ、キャリーが映った。


 腰を越す黒く長い髪。青緑の瞳。隔離を外れた自律観測像は都市観測圏を離れられない。それでも、鈴の細い帰属線は一秒の手前まで届いていた。


『聞こえたわ』


「何が?」


『昔の私が、自分で残した声。《本を閉じて》。ずっと警告として切り離されていた声よ』


 文化祭の鏡で、何度も届いた言葉。


『いまの私へ、やっと返ってきた』


「鈴華がやった」


『ええ。閑崎、見事な返却路ね』


「ありがとうございます、キャリー博士」


『ただし、一度返した声を複製しないこと。それはもう記録ではなく、持ち主の今へ渡ったものだから』


「承知しています」


 鈴華は、戻ってくる声を受け取らない。


 相手が返事をしなければ、それで終わり。


 返事をした者だけ、その声が新しい今として聞こえる。


 心響鈴は、幻を押し込む道具から、本人が選んだ声を一度だけ返す道へ変わった。


 放送卓の表示が暗くなる。


 校舎中の赤い選択印が、端から順に一度ずつ点滅した。


 消えない。


 まだ返っていない選択は残っている。


 けれど、四十八枚の赤い旗が、風のない屋上で一度だけ揺れた。


 裏返りはしない。まだ全部、赤い。


 雷綴の中核。


 時門時計の頁と針。


 逆向きの心響鈴。


 三つの法宝から伸びた青い線が、空の委員会室へ集まっていた。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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