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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第一章「赤い三つ編みは止まった空を蹴る」
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第4話「勝ったら昼飯」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g


 棒の先が、オレの左肩へ迫った。


 速い。


 だが見える。


 オレは半身になり、外側から手を添えて流そうとした。


 いつもなら、棒の中ほどへ手のひらが触れる。


 今の腕では三センチ足りなかった。


 硬い音が肩で鳴った。


「ぐっ!」


 身体が横へ飛ぶ。


 床へ手をつき、回転して立つ。追ってきた棒が足首を払った。跳んで避けたつもりが、以前より跳躍が軽い。予想より高く浮き、着地の瞬間を狙われる。


 棒の石突が腹へ来た。


 両腕を交差して受ける。


 衝撃が小さな胸郭を抜け、肺を揺らした。息が短く切れる。


 先輩は踏み込んでこなかった。十二歩の開始位置から、ちょうど六歩。棒の間合いを保っている。


「本当に身体が変わったばかりなんだな」


「だから何だ」


「いや。言い訳にしないのが気に入った」


「負けたあとなら言い訳するかもな!」


 床を蹴った。


 低く入る。棒の先が下がるより早く懐へ――入れない。


 先輩は大振りだけの使い手じゃなかった。棒を短く持ち替え、中央を押さえたまま、反対側の端を肘のように使う。


 こめかみへ来る。


 首を沈めた。髪の先が持っていかれる。赤い三つ編みが一本、肩越しに跳ねた。


 脇腹へ拳。


 今度は届く。


 当たる直前、先輩の棒が縦に落ちて道を塞いだ。拳が硬い金属へぶつかり、指の骨がしびれる。


 棒へ薄く巻かれた黒い帯。その隙間に、紙のような白いものが見えた。下端には小さな数字が刻まれている。


 十七。


 読み切る前に、棒が回った。


 顎を引く。風が鼻先を切る。


「見てるな」


 先輩は楽しそうだった。


「見るための目だ」


「オレの顔じゃなく棒ばっかりなのは、少し残念だ」


「顔を殴ればよく見える」


「やってみろ!」


 連打が来た。


 右、左、下、突き。


 棒の両端が、二人の相手みたいに襲ってくる。オレは受けずに避けた。受ける距離が信用できないなら、身体ごと線から外す。


 一撃目は耳をかすめた。


 二撃目は前髪を揺らした。


 三撃目を跳ぶ。


 四撃目の突きが、着地前の胸元へ伸びる。


 空中では逃げられない。


 以前の身体なら、爪先がもう床へ届いていた。


 今は届かない。


 棒の先が迫る。


 オレは両膝を抱えるように身体を縮めた。


 回転半径が小さい。


 自分でも驚くほど速く一回転し、棒の上へ片手をついた。体重を一瞬だけ預け、横へ飛ぶ。


 棒が胸の下を抜けた。


 着地。今度は足が合った。


 そのまま前へ出る。


 先輩の腕は伸び切っている。棒の先はオレの背後。戻る前に懐へ入れば、拳の距離だ。


 右足を踏み、顎へ打ち上げる。


 先輩は棒を戻さなかった。


 前へ滑らせた。


 オレの背後を抜けていた先端が床へ突き立ち、棒が一本の柱になる。先輩はそれを軸に身体を浮かせ、両脚をオレの肩へ絡めた。


「なっ――」


 視界が反転した。


 肩車の形から前へ投げられる。受け身を取るより先に、背中が白い床へ叩きつけられた。


 息が全部出た。


「一」


 空から女の声。


 起きようとしても、胸郭が縮んだまま空気を吸えない。


「二。三」


 先輩は追撃せず、十二歩ほど離れて棒を構え直した。勝敗の数を、まっすぐ待っている。


「四」


 床の向こうに、止まった学校が見えた。


 校庭の女子が笑った姿で固まっている。蹴られたボールは、その足から十センチ先で止まったままだ。窓辺の紙飛行機も落ちない。


 時任も閑崎も、ここにはいない。


 助言も、声援も、時間を知らせる声もない。


 先輩とオレだけだ。


「五」


 怖いと、その時初めて思った。


 負けることじゃない。


 世界全部がオレたちを残して止まり、この男を倒すか、倒されるまで、誰も入ってこないことが。


 その怖さを吐く息へ混ぜた。


 父さんに教わったとおり、吐いたぶんだけ新しい空気を入れる。


「六」


 指を床へつく。


「七」


 立った。


 膝は揺れたが、拳を上げる。


 先輩が笑った。


「もう少し寝ててもよかったんだぞ」


「昼寝は飛行機で済ませた」


「なら続きだ!」


 棒が床を離れる。


 今度は、受けようとしなかった。


 届かない腕へ昔の正解を押しつけるのをやめる。棒の軌道から小さく外れ、足元の感触を一歩ずつ確かめる。


 呼吸が戻る。


 怖さは消えない。


 でも、怖いまま立てるなら、戦える。


「それだ」


 先輩が言った。


「男の身体の動きを小さくしただけじゃない。今のは、今のおまえにしかできない」


「戦いながら教えるなよ」


「先輩だからな」


「高等部ってだけだろ」


 言いながら、身体の中では別のことを考えていた。


 今の回転。


 軽さは押し負ける原因になる。だが、回るには使える。


 腕は短い。なら、拳の距離で戦わなければいい。


 先輩の棒が届くところは、先輩が棒へ力を渡し切るところだ。そこへ正面から入る必要はない。


 オレは円を描いて走った。


「逃げるのか?」


「追えるなら追え」


 白い床の外縁は見えている。中心から半径約六十メートル。縁へ近づくほど足元の線が増え、その先は二千五百メートル級の空へ切れ落ちている。


 先輩は一定の距離を守ってついてきた。


 急に止まり、振り向く。


 棒が来る。


 オレは外へかわす。さらに走る。


 二度。三度。


「何を探してる?」


「端までの歩数」


「見えてるだろ」


「距離と、仕掛けは別だ」


 四度目に踏んだ床の感触が違った。


 固い板じゃない。雲を踏んだように、足裏が少し沈む。


 境界だ。


 止まった学校は、はるか下にある。場外の仕組みはまだ分からない。だから、いきなり全身を外へ出すのはなしだ。まず境界へ追い込み、警告を確かめる。そこで止めて、仕組みを知っている相手に聞く。


 オレは境界ぎりぎりで構えた。


「見つけた顔だな」


「さあな」


「顔に出るぞ、ハミン」


 先輩が棒を両手で持った。


 大振りを誘うつもりだった。


 だが、来たのは最短の突きだ。


 胸の中央へまっすぐ。


 読まれている。


 後ろは場外。横へ逃げれば、棒の薙ぎへつながる。


 だったら前だ。


 棒を避けず、身体をひねる。先端が朱赤の上着をこすり、胸郭の横へ抜けた。緋天衣の布には傷も汚れも残らないが、中の身体まで守ってくれるわけじゃない。


 右脇で棒を挟む。


 前の身体なら肩幅が邪魔をした位置へ、今の細い身体が入った。


 先輩が棒を引く。


 引かれるまま一歩前へ出る。


「捕まえた!」


「こっちの台詞だ!」


 先輩が棒を軸にオレを投げようとする。


 その力へ逆らわない。


 足を床から離し、棒の周りを小さく一回転した。視界の中で空と雲が入れ替わる。着地したのは先輩の外側。


 背中が目の前にある。


 拳じゃ届かない。


 だから両手で押した。


 先輩の前足は、さっきオレが見つけた境界を越えていた。


 床の縁が白い光へほどける。


「うおっ?」


 先輩の身体が沈んだ。腰から下が空へ出て、残った手が境界をつかむ。


 外縁から、低い警告音が一度鳴った。


 鏡の女が鳴らした警告だろうか。


「全身が出たらどうなる」


「入口へ戻される。そこから十三数えたら場外だ!」


 警告が鳴るなら、ここはただの崖じゃない。塔はこの線を勝敗の境界として見ている。しかも、先輩自身が入口へ戻ると言った。なら、ここからは勝負だ。


 先輩が腕だけで身体を引き上げようとする。すごい力だ。


 オレは棒の先へ足を置いた。


 警告音が二度目を刻む。


「悪いな」


「勝負で謝るな!」


 先輩が笑った。


 警告音が三度目を刻む。


 棒を捨てれば片手が空く。それでも先輩は棒を離さなかった。武器を大事にしている。それが分かるから、棒ではなく手首を蹴るふりをした。


 先輩が防ぐ。


 その拍子に、つかんでいた縁から手が外れた。


 全身が白い外縁の外へ落ちる。


 次の瞬間、暗い膜の向こう――入口扉の階段側に先輩の姿が現れた。落ちた距離を飛ばして、扉の前へ転送されたのだ。


『場外。確定計数を開始します』


「一。二。三。四」


 先輩はすぐ取っ手を引いた。


「五。六。七。八」


 選闘中の扉は開かない。落下を続けさせず、扉の外で十三拍を数えて場外を確定する仕組みだった。


「九。十。十一。十二。十三」


 青い環が消えた。


「場外。ハミンの勝利を確定します」


「対価を数え、請求を一つ」


 床下の低音が止んだ。


 急に、世界がうるさくなった。


 チャイムが正しい向きへ一音鳴る。風が動き、色が戻る。百二十メートルの白い円も、はるか下の雲も、そのままだ。選闘が空間を作ったのではなく、最初からここにあったのだ。


 入口扉を覆っていた膜が消え、先輩が階段側から転がり込んだ。ほとんど同時に、姿を消していた時任と閑崎が扉の脇へ再び現れる。立っていた位置も姿勢も、開始前と同じ。ただし時任の時計だけが十三分先へ跳び、閑崎の鈴が遅れて一度鳴った。


「終わったのか」


 時任が委員章を開く。そこへ断片的な映像が流れたらしい。


「場外……西能寺先輩が?」


 映像の隅で、空欄だった一つ目の枠だけが白く埋まった。時任は結果より先にその枠を確かめ、閑崎へうなずく。二人のあいだでは、勝敗とは別の何かが予定どおりだったらしい。


「見事でした」


 閑崎はオレの肩の腫れと、先輩の制服の汚れを見た。


「お二人とも、致命的な損傷はなし。選択権の確定へ移ります」


 先輩が立ち上がった。


「負けた。きれいに負けた」


 悔しそうなのに、笑っていた。


「やるじゃないか、ハミン」


「おまえも強かった」


「初めての身体であれなら、慣れたらもっと強いな」


「次もやろうぜ」


「もちろん。その前に命令だ。何をさせる?」


 空中へ、薄い赤の文字が浮かんだ。


『軽微選択。一回。確定期限、二十四時間』


 壮大な文字だ。


 考えるまでもない。


「じゃあ、明日の昼飯を一食、奢れ」


 三人が黙った。


 時任が時計を確認した。


「聞き間違いかな」


「明日の昼飯。学食で一食。大盛りにできるなら大盛り」


「もっと、こう……あるだろ」と先輩。


「何が?」


「委員会の秘密を話せとか、塔への出入りを認めろとか」


「それはおまえが自分で話したくなってから聞く。今は腹が減った」


 赤い文字が形を変える。


『明日の昼、西能寺京一はハミンへ学食一食を提供する。選択封鎖、成立』


 細い赤い印が、先輩の手首へ巻きついた。


「ずいぶん、しょうもない使い方をなさるのですね」


 閑崎の口元が少し緩んだ。


「しょうもなくない。昼飯は大事だ」


「褒め言葉です」


「そうか?」


 先輩は自分の手首を見たあと、急にオレの顔をじっと見た。


「なんだ」


「いや」


「顔に何かついてるか?」


「汗」


「おまえもだろ」


 袖で額を拭い、オレは笑った。


 先輩が一歩引いた。


 棒で殴られても引かなかった男がだ。


「ハミン」


「ん?」


「オレ、おまえに惚れたみたいだ」


「頭を打ったか?」


 時任が額を押さえた。


 閑崎は小さく鈴を鳴らした。


「京一。決闘直後は興奮状態です。診断は二十四時間後をお勧めします」


「これは分かる。戦いより分かる」


「悪い。オレは女の子が好きだ」


「知ってから考える!」


「何を?」


「そこからか……」


 先輩はなぜか楽しそうだった。


 オレにはさっぱり分からなかった。


「それより、鏡の女を見たか?」


 時任と閑崎へ聞く。


「決闘前に言ってた人?」


 時任は委員章の記録を巻き戻した。空中へ、さっきの戦いが途切れ途切れに映る。棒を受け損ねた場面。投げられた場面。境界で先輩を落とした場面。


 鏡が映るはずの時刻だけ、映像が白く抜けていた。


「記録欠落、十三秒」


「また十三か」


「塔では珍しくない数字だよ」


「珍しくないほうが変だろ」


 閑崎が自分の鈴を耳元へ上げた。


「決闘開始時、わたくしの鈴へ一音だけ記録があります。わたくしは鳴らしておりません」


「何て音だ?」


「言葉になる直前の音です」


「もっと分からない」


「わたくしにも」


 閑崎はごまかさなかった。


 先輩が棒を布袋へ収める。


「塔の安全音声じゃないのか。数えてた女の声もあっただろ」


「同じ人に見えた」


「次に会ったら名前を聞け」


「止まった鏡の中へどうやって?」


「ハミンなら殴って割りそうだ」


「人がいるなら割らない」


「いなければ?」


「割って確かめる」


 時任が予定表へ何かを書いた。


「旧天文塔の鏡面保護、優先度を上げておくよ」


「おい」


「君が本当にやりそうだから」


 床へ置かれた棒の底には、見慣れない頁番号が刻まれていた。


 閑崎は救護箱から冷却材を出し、オレの肩へ差し出した。


「戦闘後の処置です。これも委員会の仕事ですので」


「敵に治療するのか」


「次も安全に戦えるように」


「ならもらう」


 冷たさを腫れた肩へ当てる。


 敵にしては親切で、親切にしてはオレの道を決めたがる。


 三人とも、まだよく分からない。


 それでも、分からないものは見ればいい。


「先輩。次は場外じゃなく倒す」


「望むところだ」


 拳を出すと、先輩は迷わず自分の拳を合わせた。


     *


 塔を出ると、放課後の廊下は何事もなく動いていた。


 窓から落ちかけていた紙飛行機が床へ着く。校庭のボールがゴールへ転がる。生徒たちは十三分なくなったことに気づかず、次の話を続けている。


 オレだけが汗だくで、肩を腫らしていた。


「ハミン!」


 階段の下から藍羽が走ってきた。


「どこ行ってたの! 教室を出てから急に見失って――その肩どうしたの?」


「塔で戦った」


「は?」


「先輩に勝った。明日の昼飯を奢ってもらう」


「説明の途中が全部ない!」


 藍羽は怒ったが、傷を見てすぐ保健室へ進路を変えた。


 帰り道、オレは塔を振り返った。


 西から見ると、窓は七段だった。


     *


 翌日の昼、先輩は約束どおり食堂へ現れた。


 両腕に盆を三枚ずつ載せていた。


「多すぎるだろ」


「大盛りが希望だったろ」


「一食って言ったぞ」


「これは一回の食事だ」


 唐揚げ丼、焼き魚定食、カレー、麺、サラダ、デザート。食堂の人が後ろから追加の盆を運んでくる。


 藍羽とひなたも席にいた。二人とも言葉を失っている。


「高等部の西能寺先輩だよね?」と、ひなたが小声で聞いた。


「知ってるのか」


「運動部で知らない人いないよ。剣道も棒術も全国級。揉め事の仲裁もする委員会の先輩」


「昨日負けたけどな」とオレ。


「言い方!」


 先輩は気にせず正面へ座った。


 手首にはまだ赤い印がある。昨日の棒は布袋に入れ、椅子へ立てかけていた。握りの近くから、古い火傷が手の甲まで伸びている。


「先輩」


「なんだ?」


「本当に嫌なら、奢らなくていいぞ」


 言った瞬間、赤い印が細く光った。


「昨日決めたことを今さら――」


「仕組みを見たい。断ってみろ」


 先輩の表情から笑いが消えた。


 右手を盆から離す。


「分かった。今日は、奢ら――」


 声が止まった。


 喉は動いている。嫌だと思っている顔でもない。ただ、「奢らない」という最後の音だけが、最初から言葉に存在しないみたいに出てこない。


 席を立とうとした足も床へ縫いついた。


 赤い印が手首へ食い込む。


 食堂の音は変わらない。隣の生徒は笑い、食器が鳴り、誰も異常を見ない。


「もういい」


 オレが言うと、先輩は息を吐いた。


 赤い印は薄くなったが、消えない。


「これが選択封鎖だ」


「気持ちまで変えるんじゃないんだな」


「ああ。嫌なら嫌なまま、断る道だけなくなる」


「おまえは嫌なのか?」


「まさか」


 先輩は今度は自分から財布を出し、食堂の人へ追加分を払った。


「負けた相手へ飯を奢るのは、オレもやりたい。これは封鎖されてなくても選ぶ」


 赤い印が消えた。


 約束が履行されたのだ。


「じゃあ食う」


「切り替え早っ」とひなた。


「冷めたら飯がかわいそうだろ」


 藍羽が唐揚げを一つ取った。


「昨日、私との再戦をすっぽかした罰」


「また取った!」


「西能寺先輩」


 藍羽は唐揚げを箸で示した。


「ハミンに惚れたって本当ですか」


「ああ」


「なら、まず私に勝ってから話を進めてください」


「なんで如月に?」


「ライバルの管理です」


「オレの話なのに、オレが入ってないぞ」


 ひなたが笑い出した。


 先輩も笑った。藍羽は真剣だった。


 オレは唐揚げを頬張った。


 飯はうまい。


 勝負も楽しかった。


 なのに、声の出なかった先輩の顔だけが、喉の奥へ小さな骨みたいに残った。


 たった一食でも、断れない道は本当に消える。


 あの塔で勝つというのは、そういうことだった。


 食堂を出たあと、藍羽が廊下の窓辺で立ち止まった。


「後悔してる?」


「勝ったことはしてない」


「昼食を命じたこと」


「少し」


 正直に答えた。


「昨日は、嫌なら断ればいいと思ってた。断れないって説明も聞いたのに、言葉の意味しか分かってなかった」


「なら、返せばよかったんじゃない?」


「先輩が自分でも奢りたいって言った。約束を全部なかったことにするのも、あいつの選んだ分まで消す気がした」


 藍羽は窓の外を見た。旧天文塔が、中庭の向こうに細く立っている。


「難しいね」


「だから面白い、とは今は言えないな」


 後ろからひなたが追いついた。


「二人とも、先に戻らないでよ」


「悪い」


「あの赤い印、本当に命令だったんだね」


 ひなたにも、声が止まった先輩は見えていた。


「怖かったか?」


「うん。だって西能寺先輩、笑ってたし、奢るのも嫌じゃなかったんでしょ。それでも一回断ろうとしただけで声が出ない。嫌な人に負けたら、もっと怖い」


 ひなたは自分の喉へ触れた。


「ハミンが来る前、昼休みに心配するのは、焼きそばパンが売り切れるかくらいだったの」


「オレが来てから?」


「高等部の先輩が、笑ったまま声をなくすようになった」


「オレのせいか?」


「分からない。分からないけど、前と同じじゃない」


 格闘も気も知らないひなたの言葉は、塔の説明より分かりやすかった。


「次にやる時は、勝ったら何を頼むか先に言う」


「またやるんだ」とひなた。


「戦うのは好きだ」


「そこは変わらないんだね」


「変える必要はない。ただ、勝ったあとを考える」


 藍羽がうなずいた。


「じゃあ私に勝ったら?」


「昼飯」


「結局それ?」


「嫌か?」


「嫌じゃないけど、自分で行く」


「なら、命令はいらないな」


 口にしてみると、それは思ったより簡単だった。


 塔を使わなくても、同じ卓にはつける。


 問題は、あの白い屋上が、どうして勝負のあとにわざわざ道を一つ消したがるのかだった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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